第32話 この世界で

「私もね、たまに不安で苦しくなる時があるんだ。それはリアラインさんの事ももちろんあるんだけど、でもそれだけじゃない」

 アリスさんは慎重にゆっくりと話してくれた。

「一つはソフィアさんのこと。ノアルくんも音楽部のメンバーだって事は知ってると思うけど、私には家が近所で幼い頃からずっと一緒にいるソフィアさんっていう幼なじみの親友がいるんだ」

 前にヒロたちから聞いた方の事だ。

「ソフィアさんはとても真面目で優しい人で、私もソフィアさんも半年前くらいまでは周りの人との関係も良かったんだ。でも私が学校のある一部の人から嫌がらせを受けるようになって全てが変わったの。その時はずっと苦しくて、悲しくて、独りのような気がして怖かった。それで周りの人達も自分が標的にされるのが怖くて私から離れていった。でもソフィアさんは私を見捨てないでかばって助けてくれたんだ」

 そうか、最初にちょっかいをかけられたのはソフィアさんではなく、アリスさんの方だったのか。

 もしかしたらヒロから聞いた話にはおそらく他の人から聞いた話も含まれているだろうからアリスさんの話と少し違いがあるのかもしれない。

「それが私には本当にありがたくて、嬉しかった。でもそれからソフィアさんが嫌がらせを受けるようになって、その嫌がらせは日に日にひどくなっていって、もうそれはイジメだった」

 いつも明るくて前向きなアリスさんの声が苦しそうで、僕も苦しかった。

「私はソフィアさんを支えてるつもりで、ソフィアさんも大丈夫、大丈夫だよって言ってたんだけど、全然大丈夫じゃなくて。ある日を堺にソフィアさんは学校に来なくなってしまった。……そしてまた私が標的になった」

 アリスさんには笑顔でいてほしい、幸せでいてほしいのに。

「私は考えてたの。どうしてあの人達は私達をいじめるのかって。もしかしたら彼女らに対して、私やソフィアさんも嫌になることを傷つくことを気づかないうちにしていたからかもしれないと思って。それでもソフィアさんの事は許せないけど、それでも聞いてみたいと思った。だから私はあの人達に絡まれた時に聞いてみたの」

 どんな答えが返ってくるのか。大体想像できるような気がする。

「でもやっぱり違った。あいつらの答えはただ、ただうざくて気に食わないから。なんとなくいじめたってだけだった。そしてあいつらは「「誰かをいじめるもいじめないも私達の自由でしょ」」って言ったんだ。それが私には許せなくて、あいつらと言い争いになって暴力を振るわれそうになった」

 人を傷つける自由なんて真の自由じゃない。

 そうか、あの時アリスさんとあいつらが言い争っていたのはそんな経緯があったからなのか。

「そんな時、ノアル君達が私を助けてくれて。ありがとう」

 アリスさんはお礼を言ってくれたけど、本当に僕は特に何もしていない。

「えっと、うん。でもほとんどレアンとレイラさんのおかげだ」

「助けてくれただけでありがたいよ」

 顔は見えないけどアリスさんはふふっと少し微笑んでくれたようだった。でも今度はアリスさんは自分を責めるように言った。

「ソフィアさんの心の傷を癒すのは時間がかかると思うし、もしかしたら治らないかもしれない。私はソフィアさんに助けてもらったのに、私は助けられなかった。何も出来なかった」

 アリスさんのせいじゃないのに。これ以上自分を責めないでほしい。

「私は彼女の大丈夫って言葉に甘えてたのかもしれない。もっと、もっと出来ることがあったかも知れないのに。そもそも私がいじめられなければソフィアさんはいじめられなかったかもしれないのに」

「そんな事、アリスさんは頑張ってるよ」

 次にかける言葉を探したがこういう時なんて言葉を掛ければ良いのか。今まで人と関わることから遠ざかっていた僕には分からなかった。

「ありがとう、ごめんね」

 余計、アリスさんに気を使わせてしまったような気がする。自分が不甲斐ない。

 少しの間沈黙が続いた。

 迷っているのか、気持ちの整理をしているのか彼女の様子は分からない。

「ごめん、待たせちゃったね。まだ話しても良い?」

「もちろん、聞いてるよ」

「ありがとう」

 アリスさんはお礼を言って、再びゆっくり話し始めた。

「もう一つは家族のことで。私の父が数年前に亡くなったの」

 アリスさんのお父さん。

「父は優しくて正義感が強い人で、仕事柄危険と隣り合わせの時も多かった。でもそんな父は職務中に亡くなった訳じゃなくて」

 アリスさんは一呼吸おいてから言った。

「ノアルくんは二年前にこの街で起こった事件を覚えてる? 私の父と母はその事件に巻き込まれて、その時に父は母を庇って亡くなったの」

 そうだったのか、アリスさんもあの事件でお父さんを失っていたのか。

 リアラインの記憶で見たシンヤ博士もあの事件で親御さんを失ったと言っていた。

 あの事件は本当に多くの人から大切な人を奪い、深い傷と悲しみを与えた。それでもアリスさんとおばあさんは僕とレアンを信じて助けてくれているんだ。

「まさか父があんな風に亡くなるなんて。その前の年には祖父が亡くなっていたから、私はいきなり二人の大切な人を失ってしまった」

 大切な人を失った時の痛みは想像を絶する。

「母は事件の時の事がトラウマになって、それからショックの症状が出るようになった。今は大分よくなったんだけど、それでも苦しんでいるの」

 それはお母さんも、その周りの人も苦しいはずだ。

 前にアリスさんから母は心配性なんだって事は聞いていたけど、そこまでの事があったなんて。気づかなかった。

「私はやるせなくなって、犯人を憎んでも憎んでも足りないくらい憎んだ。でもその犯人も壮絶な人生を歩んでいたと言う事を後からの情報で知ったら、私はもう何もかも分からなくなった。もちろん犯人のことは今でも絶対に許すことは出来ないけど、ただ、ただ悲しくてどうしたらいいか分からなくなって苦しくなった」

 アリスさんの声は震えていた。

 それが怒りからなのか、悲しみ、苦しみからなのか、それとも全てからなのか分からないけれどとても苦しんでいた。

 僕にできることはただ何か言葉をかけることぐらいだが、その言葉も見つからない。

「でも、ずっと悲しみに暮れているわけにもいかなくて。おばあちゃんはお母さんのケアと家事で忙しいし、私も少しでもお金が蓄えられるようにしてるけど全然たまらない。今使ってる隠れ家もおじいちゃんとおばあちゃんの大切な家で、私達の思い出がいっぱいあるから売りたくないけど、売らないといけないかもしれないって考えてたんだ」

 僕にはアリスさんが今にも崩れてしまいそうな気がした。

「いつ何が起こるかわからない。これから戦争が起こるかもしれない。ソフィアさんにはもう二度と会えないかもしれないし、もう私の顔も見たくないと思われているかもしれない。おばあちゃんもずっと元気でいてほしいけど無理してるかもしれない」

 だめだ。

「そしたら私が何とかしなきゃ。お母さんもエリィも、みんな大好きだから。私が、わ、わた、し」

 彼女のいくつもの感情が溢れそうになる。

「アリスさん!」

 気づけば僕は考える間もなくアリスさんの前に躍り出ていた。

 彼女の瞳からはすでに一筋の涙がこぼれていた。

「あっ、ごめん。来ないでって僕が言ったのにーー」

 その刹那今度は彼女が僕の胸の中に飛び込み顔をうずめた。

 そしてアリスさんは今まで貯めていた物が隙間からあふれ出るように泣いた。

 彼女自身は何とか泣くのを我慢しようとしていたが無理なようだった。

 僕は震えているアリスさんの背中にそっと腕を回し、優しく抱きしめた。

 彼女は「ごめん、ごめんなさい」と嗚咽交じりの声でそう言った。

 そんな彼女に僕は「大丈夫だよ、全然大丈夫だから」と伝えた。

 アリスさんは僕の胸の中で泣いていた。 

 何で僕は気づかなかったんだろう。自分だけが苦しんでいるみたいに思い込んで、周りに求めて、自分は何もしていないのに。

 アリスさんは大切な人の不安もぬぐうために努力をして、それでも拭えないから苦しんでいるのに。僕なんか自分の事で手一杯だ。

「アリスさん」

 僕はアリスさんを抱きしめながら彼女に伝えた。

「僕はソフィアさんのことを詳しくは知らないけど、ソフィアさんはアリスさんの事を責めたりしてないと思うんだ。アリスさんがソフィアさんに助けてもらってありがたく感じたように、きっとソフィアさんもアリスさんがアリスさんなりに助けてくれたことをありがたく思っているはずだよ。きっとソフィアさんもアリスさんの事を大切な人だと思ってるよ」

 ソフィアさんにとってもアリスさんの存在は心の支えでもあったはずだ。

「それに僕や皆もそう思っているから。だからアリスさんも一人で抱えないで頼ってほしい。僕は頼りないと思うけどアリスさんやみんなが助けてくれたように、僕も精一杯助けるから、だから」

 アリスさんが僕を救ってくれたように。

「頼ってほしい」

 僕がそう言うと彼女は泣きながらも「ありがとう、ありがとう」と言い、僕の背中にゆっくり腕を回して体を預けるようにして泣いた。

 いつの間にか夜空に浮かんでいた雲は消え、満点の星空と月明かりが僕たちを優しく照らしてくれていた。


「ごめん、もう大丈夫。ありがとう」

 アリスさんは僕の顔下当たりを見ながらそう言った。

 僕はアリスさんから手を離した。

 するとお互い急に恥ずかしくなって来て下を向きながら半歩下がった。

 何だか勢い余って色々言ってしまった。恥ずかしい。

 でもアリスさんの苦しみを少しでも和らげる事が出来ていれば良いな。

「なんだか私の方がノアルくんに話を聞いてもらった気がする、それにみっともないとこも見せちゃって」

 全然みっともなくなんてないのに。

「あーもう私全然ダメだなぁ」

 アリスさんは涙で濡れた目元を手で拭いながらそう言った。

「そんなことないよ」

 僕は顔を上げ、アリスさんの方を見た。

「僕はアリスさんのおかげで救われたから。ようやく自分と向き合って、自分を見つめることが出来た気がするんだ。おかげで僕はこれから先の未来にも希望を見ることが出来るようになったから」

 本当に今の僕があるのはアリスさんとみんなのおかげだ。

「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しい。けど、また泣きそう」

 アリスさんは苦笑いしながらそう言った。

「ごめん」

「いいのいいの」

 僕はなんとなく謝ってしまったが、彼女は微笑みながら許してくれた。

 穏やかで暖かく居心地の良い空気が流れた。

 その時、大地が光に照らされた。

「ノアルくん! 上見て!」

 アリスさんは空を見上げていた。僕も言われるがまま上にある夜空を見た。

 そこには夜空に浮かぶ無数の星々と天に流れる色鮮やかなオーロラが僕たちを幻想的な暖かい光で照らしていた。

 確かに最近は冷えていることが多かったけど、こんな時期にオーロラを見ることが出来るなんて。

「とっても綺麗だね」

 彼女はその美しい夜空を見上げてそう呟いた。

「うん、とてもーー」

 僕も返事をしようとして彼女の方を見た時、彼女の方も僕を見て、僕達は目が合った。

 その時、アリスさんが微笑んだ。

「きれいだ」

 この奇跡的なオーロラと雄大な自然の中にあるその彼女の微笑みは、この世の何よりも美しく暗闇に包まれていた僕の心をも優しく暖かい光で照らしてくれているような気がした。

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