第二話 差し出された手

 三


 禁忌は犯せず、掟は破れるとは如何なることか。というのも、俺はトゥーを殺すことなく壁の外へ返したのだ。掟には、墓地に足を踏み入れたら最後、何人たりとも壁の外へ戻ることは許されないとある。さらに、唯一墓地の中で息をすることを許されるのは、墓の守り人と、契りの務めを持つ墓の守り人の配偶者のみともあった。それは、墓地というのは死者のためのものであるからで、侵入者は即刻殺す必要がある。しかし、俺はその少女の息の根を止めることなく壁の外へ返した。俺の運命が良くも悪くも狂いだしたのは、間違いなくこの時であった。

 あれから数日が経った頃、トゥーはまたスガタカクシに扮してやってきた。俺がフアになんの報告もせず、そのまま家に帰してしまったことに味を占めたのだろう。彼女は妹しか家族がおらず、その妹が墓の下に眠った今、家に帰っても誰もいないそうだ。妹を失ったことによる自暴自棄もあったのだろう。ともかくその時の俺は、彼女をまた家に帰してやったのだが、トゥーはその後も何度も俺に会いに来たと言っては墓地にやってきた。

 彼女の存在がフアに知られてしまったときは、フアがトゥーを殺してしまうのではないかと思い、本当に肝が冷えた。しかし俺の予想とは異なりフアもまたトゥーを気に入った。村人に怪しまれぬようトゥーは村で暮らしながらも、決してその存在を忘れさせぬと言いたげに、彼女は事あるごとに墓地に顔を出した。俺とフアは彼女を受け入れ、食事を振る舞い、共に時を過ごし、そしてまた彼女の家に帰すことを続けた。俺もフアも掟破りの愚か者だ。けれど俺はトゥーが俺に会いに来ることを楽しみにしていたし、フアも、俺とトゥーが共に遊んでいるのを嬉しそうに見ていた。フアが言うには、自分と同じように俺も愛する人と結ばれて欲しいのだそうだ。俺がトゥーを愛しているかは甚だ疑問であったが、彼女と共に過ごす時間に幸福を覚えていたのは確かである。彼女が愛しいか、愛しくないかと、もし誰かに問われでもしたら、間違いなく俺は愛しいと答えるだろう。ならばフアの言っていることはあながち間違いではないのかもしれない。


 四


 俺は掟こそ破ったが、それでも禁忌は犯していない。決して生者に花を摘ませてはならぬ。決して生者に花を渡してはならぬ。なにより、決して生者に花を口にさせてはならぬ。これを禁忌としているため、俺とフア、そしてトゥーは大切な人を失った。それは、ある者にとっては父であり、夫であり、そして妹であった。

 それでもなお、俺は己がこの禁忌を犯していないことを、さらに言えば、己が墓の守り人であることに誇りを持っている。だからこそ未だにトゥーが俺に会いに来てくれることに、俺はわずかながらも罪悪感を抱いていたのだ。

 このようなことを言われれば、なおさら。


「イエン、私と外へ行ってみない?」


 今日もスガタカクシに扮して、仮面を被って墓地にやってきたトゥーが、俺の目の前で言う。俺は思わず顔をしかめてしまった。何故なら、それは掟破りになってしまうからだ。既にトゥーという生者と友人になってしまっているので本当に今更なのだが、墓の守り人が墓地の外へ行くことは禁じられている。俺がそう説明すれば、トゥーは無邪気に笑った。


「いやだ、イエン。その掟は、墓の守り人が大切な人を作ってしまわないためのものでしょう? 墓の守り人は死者に咲く花のそばにいて、唯一、手を伸ばすだけで花を摘み取ることが出来てしまう存在。それはあらゆる病と傷も治す、至上の薬。……だからこそ、墓の守り人が生者に花を渡したくなってしまわないために、墓の守り人は生者と関わらず生涯を終えなければならない。ねぇ、そうでしょう?」

「そうだ。それは昔、俺が君に説明したことじゃあないか」

「私は貴方を生者と関わらせたくて外に連れ出したいのではないの。だから、ちっとも問題ないわ。それに、もうすぐ貴方も妻を娶るでしょう?」


 トゥーに指摘されて気がついたが、俺の年は十の後半になったので、墓の守り人の慣習に従い、そろそろ女を娶り、子を残さねばならない頃合いだろう。


「すでに村では、俺の妻を選び始めているのか?」

「私は村にちっとも馴染めていないから知らないけれど、イエンが言ったのよ、墓の守り人は年が十の後半になったら婚姻を結ぶって。ねぇ、イエン。考えてごらんなさい。貴方が妻を娶ったら、私がこうしてここに出入りすることをきっと貴方の妻は許さないわ。だから今のうちに貴方と出来ることをしておきたいの」

「それが俺と墓地の外へ行くということなのか」

「そう、ほんの少しよ。ほんの少しだけ、貴方に見せたい景色があるの」


 トゥーはそう言って、墓地を見て目を細める。その視線の先には一面に咲き誇る死者に咲く花が広がっていた。壁に囲まれた墓地を埋め尽くすようにそれは咲いている。その花は純白で、それは幾重にも重なった花弁もそうであり、がくも、茎も、葉もそうである。つまり白以外の色を一切持たず、だからこそ、その花の色を純白と一言で表すことができるのだ。そんな混じり気のない純白の花が、あの端の方からこちらの端の方までびっしりと墓地を一色に染め上げている。そしてその下には等しく死者が眠っているのだ。老いて亡くなった者、未練を残して亡くなった者、回復を望みながらも病でそのまま死んだ者、大勢の者がここには眠っている。


「この光景を知っている人は、墓の守り人とその伴侶以外、いないのでしょうね。この私を除いたらね」

「スガタカクシならば扉を開けた時に覗き見ることが出来ると思うが」

「それでも彼等だって、この墓地の中には入れないでしょう? あの人達ったら、扉の前で荷物を貴方達に手渡すだけじゃない。あんな仮面なんかして気味が悪いと思わない? まあ、そのおかげで私も隠れてここに来ることができているのだけれど」

「村では皆、仮面を被っていないのだな」

「あんな邪魔なものをしているのは、スガタカクシと、スガタカクシに変装した私だけよ」

「墓の守り人が誰かと顔見知りになってしまわないように仮面を被っていると、知識としては理解している。村の情報はスガタカクシから定期的に受け取っているから把握しているはずなのだが、逆に言えば俺はこの壁の外を、全て知識としてしか知らない訳か」

「そうよ」


 トゥーは俺の手を取って立ち上がる。彼女は無邪気に笑った。


「実際、貴方の目で見て欲しいの。この暗い墓地から外へ出て、貴方に見て欲しいものがあるから」


 トゥーと俺は手を繋いで歩き出す。向かったのは、墓地の端の方に建てられた墓の守り人のための住まいで、そこには俺の母であるフアが待っていた。


「フアおばさん、ちょっとイエンを連れて外へ行ってくるわ!」

「待て、トゥー。本当に行くつもりなのか?」

「勿論よ」


 トゥーは力強く頷き、机の上に置いてあったスガタカクシの仮面を手に取る。その仮面は年季の入ったものと、傷一つないものの二つあった。彼女は傷が無い方の仮面を俺に手渡す。


「君は、いつのまに新しい仮面を用意していたんだ」

「トゥーは手先が器用よねえ。あらまあ、本当に貴方にぴったりじゃない」


 フアがそのようなことをのんびりと言いながら、仮面の紐を俺の頭の後ろで結び始める。俺はフアのためにじっとしながらもぼそりと呟いた。


「……母さんも、トゥーのたくらみを知っていたのか」

「私もこの墓地から出たことはないけれど、貴方のお父さんからお話を聞いていてねえ、ここよりもたくさん人がいるみたいだから、村の人達に見つからないように気をつけないと駄目よ? まあ、トゥーが一緒にいてくれるから、ちっとも心配していないけどねえ」

「任せてください、フアおばさん!」


 トゥーがフアに大きく胸を張った。


「私、ずっと昔から村と墓地を往復していますから、隠れて動くのは慣れっこです。ふふ、ちゃんとイエンを無事にここへ帰しますから安心してくださいね、フアおばさん」

「トゥー、俺は子供じゃないのだが」


 子供扱いされている気がして不機嫌になったが、そんな俺の頭をフアが優しく撫でた。仮面をつけたまま後ろを振り向くと、フアが皺の出来た目元を垂れさせ、嬉しそうに微笑んでいた。


「母さん」

「可愛い私の子供達。二人でゆっくり楽しんでおいで」


 穏やかなその台詞に、俺は素直に頷いた。幼い頃に父を亡くし、一人で俺を育てたフアには到底かなわないのだ。

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