第三話 果てなき世界

 五


 ——いってらっしゃい。……フアに言われたその言葉は、俺の人生の中で初めて言われたものであった。だからこそトゥーに教わった言葉を言うときは、年甲斐もなく緊張した。なんてことのない、たった数文字の言葉だ。


「いってきます」


 俺がフアにそう言えば、彼女は顔をくしゃっとさせて手を振った。俺はそれを仮面の下から見つめながら、トゥーに手を引かれて壁の外へ出る。それは初めて立ち上がった赤子のように頼りなく、しかし確かな一歩であった。こうして俺は生まれて初めて、墓地の外へ広がる未知なる世界へと飛び出したのだ。

 そして呆然と目を見開いた。大きく、目の前に広がる光景全てを目に映すために。

 ……空が広かった。ただ、大空が広がっていた。一面の芝生の上に、それは堂々と横たわっていた。そこは恐ろしい程明るくて、鮮やかで、とにかくありとあらゆるものが広大であった。壁の中では滅多に吹くことのない風が俺とトゥーの間を踊るように駆けて抜けて、きゃらきゃらと愉快に笑う。俺はそれに驚いて、反射的に耳を覆った。

 目の前に広がる壮大な景色に足を止める俺にトゥーはくすくす笑って、当たり前のように俺の手を引いた。


「ほら、イエン。行きましょう?」

「行くって、どこへ? この先にも、世界が広がっているのか?」

「勿論よ」


 信じられなかった。


「本当に、この先に世界が続いているのか? 壁はないのか? 突き当りはないのか? 本当に、果てなく世界が続いているのか?」

「そうよ、ずっと先まで永遠と大地が広がっているの」


 俺は自らのことを暗愚ではないと思っていた。それは生まれた時より壁の中にある本を読み漁り、スガタカクシから報告される外の情報の全てに目を通していたからだ。だから知識という観点のみで語れば、俺が愚かではないことは確かなのだ。それでも今、俺は己のことを、この世界の誰よりも無知だと思った。


「世界とは、広がっているものなのか」


 壁もなく、果てもなく——俺はそんなことすら知らなかったのだ。

 呆然と呟く俺に、トゥーは力強く頷く。


「そうよ。そして、その先に私が貴方に見せたいものがあるの」


 俺はトゥーと共に手を繋いで駆け出した。こんな風に広大な大地を走るのも、俺は生まれて初めてのことであった。

 二人で走りながら、俺は世界を見た。歩いている人を見つければ、すぐさま物陰に隠れる。人は仮面などつけておらず、トゥーはただの村人だと語った。スガタカクシは仮面で顔を隠しているから、人間という生き物の顔など母のフアと、亡くなった父、そしてトゥーのみしか知らなかった。だから新しい顔というものを目に映すことすら新鮮で、俺は全てに興奮した。


「村に降りるのか?」

「まさか。人のいないところに行くの」


 子供の様にはしゃぎながら尋ねれば、トゥーはまた俺の手を引いて先に進む。まだ世界は続いているのか。理解はしていても、駆けても一向に壁にぶつからないのが楽しくて仕方がない。

 やがてトゥーと俺はまた青空の下を走って、疲れてからはのんびりと歩いて、やがて目的の場所に辿り着く。彼女は足を止めた。


「ここへ、貴方を連れてきたかったの」


 そこは人気のない場所だったから、トゥーは仮面を取った。俺もトゥーに倣って仮面を取り、そして呼吸すら忘れて目を見開く。


「これが、本当の花よ」


 そこには見渡す限り、色鮮やかな何かが広がっていた。


 六


「花……? これが、花なのか?」

「そうよ」


 トゥーは足元にあるそれを千切って俺に手渡す。受け取ってじっくり見てみれば、確かに花弁らしきものに、がく、茎、そして葉の形をしたものが付いている。ただ見覚えがあるのは形だけだ。それは一切白くなかった。これは一体、何色と呼べばいいのだろう。


「花弁が赤、いや、中心が黄色……がくと茎が緑? それに葉も同じく緑色をしている」


 俺はその場にしゃがみ込んで、もう一つそれを摘み取った。


「こっちは、花弁が青と白の二色だ。葉の色はこれも緑……いや、さっきのものよりも色が濃い。これは、一体……なにものなんだ、なんという名前のものなんだ」

「花よ」

「いや、花は純白だ」

「普通の花はそうではないの。白いものもあるけれど」


 トゥーはそう言って、白い花弁を持ったそれに手を伸ばした。俺もそれを観察するが、しかし眉を顰める。


「白くない。これもがくと茎と葉が緑色だ」

「花弁が白いものを、私達は白い花と呼ぶの。私達にとったら一色しか持たない、死者に咲く花の方が不思議で仕方がないわ」


 俺にとっては、この白くもないそれ——トゥー曰く、花——を、白色と呼ぶ方がおかしなことだった。なにせ、それは花弁ばかりが純白で、その他の部分はどこもその色を持っていないのだ。俺がそれをトゥーに指摘すれば、「だって、いちいち白と緑色の花だなんて呼ぶのは面倒じゃあない」と返される。確かに一理あるかもしれない。というのも、ここにある花のほとんどは、花弁以外の部分は総じて緑色をしていたからだ。ただ、その濃淡はどれも少しずつ違ったから、緑という一つの言葉だけで表すことが正しいのかは分からない。この不可思議な花とやらを見ていると、死者に咲く花の方は全て等しく純白という言葉だけで片づけられてしまったことが奇跡とさえ思えた。

 俺とトゥーは二人で座り込んで花を見つめ続けた。穏やかな時間がゆっくりと過ぎて行く。


「トゥー、君はこの景色を俺に見せたかったのか」

「そうよ。貴方に、本当の花を見せたかった。純白でなく、死者がいなくとも咲く花を」

「この花の下に死者はいないのか」

「いないわ」

「なら、一体どうやってこの花は咲くというのか。死者を埋めずして、どうやって花を咲かせるというんだ」


 俺がそう尋ねると、トゥーは肩を竦めた。


「さぁ、そんなの知らないわ。種をまけば、勝手に咲くの」

「ならば、食べたらどうなるのか。どのような効能を持っているんだ?」

「なんにもないわ。たまに薬や毒になるものもあるけれど、殆どの花は、死者に咲く花と違って食べてもどうにもならないわ」

「なら、食べないのか?」

「食べたってちっとも腹が膨れないから、食べないわ」


 俺はトゥーの言葉にいちいち驚くことしかできなかった。


「ならば、何故この花は咲いているのだ」

「何の意味もなく咲いているのよ」


 そのようなものがこの世にあることを、俺はこの時初めて知ったのだった。

 死者を必要とせず、幾つもの色を持ち、薬にも毒にもならず、ただ風に揺られているだけの花という存在を、俺はこの時まで少しも知らなかった。それは死者に咲く花との類似点を持つものの、根本的に何かが異なるように感じられる。俺はトゥーと手を繋ぎ、色鮮やかな一面の花をぼんやりと眺め続けた。そこには一切の会話もなく、ただこの光景を焼き付けるためだけに、俺は今、息をしていた。

 それなりの時間が経過した頃だった。


「こうして二人で黙っていると、初めて会ったときのことを思い出すわ」

「あぁ……俺達はいつも、二人でいるとあれこれ話していたからな」


 けれど普段とは異なり、初めて出会った頃、俺とトゥーは無言で抱き合っていた。口を開かず、二人で静かに互いを離すまいと、必死に互いにしがみついていたのだ。そうしなければ崩れ落ちてしまうから。一面に広がる純白の花の中、俺達は互いに支え合う他に生きる方法を知らなかった。

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