二十三章 表裏完遂
「多目的研究センターのみなさんは、ご存じないかもしれませんが、警察本部は、一連の事件を、葛西周辺の四肢連続遺棄事件、および、天井裏の散歩者による絞殺事件と呼んでいました」
成海のことばによって、採用された戒名だった。
「ただし、被害者は二名だけではありません。葛西周辺では、さらに、五年まえ、ひとりの若者が殺害されています。流血の金魚祭りという事件です。また、この事件にかかわっていた白い蠍の現リーダーは、きのう、死体として、発見されています」
成海は一呼吸、置いた。
「つまり、寺崎恭吾さん、三浦真さん、大石陽介さん、桜井三津留さん、四人の殺人事件がかかわっているのです。寺崎さんの死体は、五回にわけて、部位ごとに発見されました。よって、すべて合わせれば、九回の死体確認が行われたことになります」
成海はあらためて、回数を告げた。
女性陣の悲鳴がわずかに漏れた。
「前代未聞の大事件と呼んでいいでしょう。四人のうち、ふたりが多目的研究センターで殺されています。そして、施設内で、最初に殺害されたのは、寺崎さんでした」
「なんだ。三浦が最初じゃなかったのか?」
質問を投げかえしたのは、話したがりの加古だった。
容疑者のひとりだ。
「はい。ただし、寺崎さん――ばらばら死体の正体は、二日目の夕方まで、判明しませんでした。ぼくと藤堂の捜査のすえ、判明したのです」
水族園の発見劇だ。新聞紙を回収したあとにわかった。成海たちは隠された暗号を解き、白い蠍が多目的研究センターで、なにをしていたのかを突きとめた。
ゴミ袋に死体がはいっていたという真相に繋がったのだ。
「ぼくが最初に、彼の死体と出会ったのは、右腕の投棄からです」
成海はセントラルを見た。スケジュールの裏側に、示唆が二十、書いてあった。ペンをもった。先頭の数字を見た。
「葛西駅のそばです。連続遺棄事件のはじまりでした。のちに、寺崎さんの身体の一部だと判明するのですが、そのあいだに、彼の四肢は、江戸川区内に捨てられつづけることになります」
報復行為だと勘違いした桜井の指示によって、安藤に捨てられたのだ。
成海は示唆一回目を消した。
「知っている。きのう、ニュースになっていた」
宇田川が顔をしかめた。
すでに、周知の事実だ。広く知られていた。
「……ほんとうに、寺崎だったのですか?」
小百合の声はふるえていた。いっしょに働いていた部下だ。表情に苦悩がみちていた。彼女の心境は推し量れないほどだ。
「はい。人相、骨格、指紋、血液型、治療痕、すべて、寺崎さんと一致しています。まちがいないでしょう」
彼女は肩を落とした。
「寺崎さんが犯人のターゲットになった理由は、流血の金魚祭りという事件にあります。沼田さん、お願いできますか?」
「ああ」
沼田は壁際を離れた。成海にちかよった。
「わたしは葛西署の刑事課の沼田です。五年まえ、流血の金魚祭りの捜査を担当していました」
ていねいに、頭をさげた。
「当時、江戸川区内には、白い蠍という半グレ集団と相川会という広域指定暴力団が対立していました。両者は行船公園の金魚祭りというイベントの最中に衝突しました」
宇田川、武部、小百合の年長者たちは、うなずいていた。長く江戸川区で働いている三人だ。とくに、小百合は寺崎の話に引きつづいて、表情を暗くしていた。
「ご存じのかたもいるようですね。公園のまわりでは、盗難事件も相次ぎました。報道されているとおり、人的被害も出ています。大石陽介という苦学生が殺害されたのです。今岡さんは知っていますね」
「はい。……彼も緑川大学の生徒です。わたしといっしょに働くことになっていました。利発な学生でした。よくおぼえています」
「ニュースや週刊誌で知ることができるのは、ここまでかと思います。この流血の金魚祭りには、裏がありました。白い蠍の企みです。相川会に罪をなすりつけ、幹部を逮捕させるという狙いがあったのです」
「白い蠍って……記者会見で言っていた……」
亜紀の声に、以前の快活さは、消えていた。
「はい。その白い蠍です。寺崎恭吾と三浦真のふたりは、白い蠍の構成員でした。彼らの身体には、一員であることを示す、白いタトゥーが掘られていました」
沼田のことばに同意するように、成海は十四回目を消した。
「寺崎はみずからの私欲のために、三浦の協力のもと、大石を殺害しました。それが流血の金魚祭りの発端です」
桜井が証言していた。最初の殺人だ。
彼らの弱みになった。
「ふたりは白い蠍に脅迫されることになったのです。彼らは命じられるまま、横流しをつづけていました。今岡さんがかつて、指摘した欠品は、彼らが内通していたからです」
「なんと……」
「ふたりは断れませんでした。彼らには犬飼という監視がついていたからです。公園内の清掃をしていた男です」
五人は目を丸くしていた。
物資の横流しにはゴミ袋が使われていた。
犬飼はゴミ袋の運び手だった。
成海は十回目を消した。
いままでの示唆がつぎつぎとむすばれている。
だれよりも驚愕していた桐生に目線を向けた。
「同僚の渡辺さんが、犬飼さんの走り書きを目撃していましたね」
「そういえば、おととい、そんな話を……」
「新聞紙には、なにも色はついていなかった。これは目に見えない発光塗料を使われていたからです。ふたりへの指示が書かれていました」
成海が話しはじめたところを見て、沼田はさがった。
「新聞紙は寺崎さんと三浦さんにわたされました。この事実も、ふたりが白い蠍の構成員だったことを意味しています」
二回目の示唆に、×がつけられた。
「ぼくが葛西臨海公園に来たとき、じっさいに、目撃しています」
パークトレインにのっていたときだ。
彼らの怒鳴り声をきいた。
「三浦さんと犬飼さんが、はげしい口論をしていたのです。寺崎さんが失踪した件についてでした。この事実も、三人の関係性をあらわしています。三浦さんは、ぼくたちとわかれたあと、新聞をもって、水族園に向かいました」
「暗号を解くためにな」
藤堂は言った。成海はうなずいた。
「その新聞をぼくたちが回収したのです。ブラックライトによって、白い蠍からの命令を読むことができました」
八回目を消した。
「新聞と暗号、この行為は何度もつづけられていました。ブラックライトは水族園の水槽だけではなく、橋口さんの指摘した懐中電灯、加古さんのとがめた衛生実習室にも備えてありました」
机のうえにのっている証拠品に人差し指を向けた。
衛生実習室の紫外線スタンドと廃工場から回収した紫外線電灯が置いてあった。
「だからこそ、寺崎さんは、情緒不安定、かつ、奇妙とも思える行動をとっていたのです」
「ああ! あのときの!」
「それでか……。新聞を読んでいたのは……」
ふたりは、喉につまっていた魚の骨がとれたかのようだった。
「白い蠍は、寺崎さんと三浦さんに、金銭を要求していました。やがて、負担のおおきかった寺崎さんが反抗をはじめます。こうして、多目的研究センターで働く者、構成員同士のいざこざが生じたのです」
成海の声が深刻になる。
「彼らのうしろに、聞き耳を立てている者がいるとは知らずに……」
「異様な雰囲気で、言い合っていたからな。だれでも、きくことができただろう」
自分の経験から加古が言った。
「それをきいて、犯人が……?」
宇田川はたずねた。
「はい。殺すことを決断したのでしょう。流血の金魚祭りの被害者である大石さんは、殺害される直前まで、身内と連絡をとっていました。その相手は、当時の話をきいていたはずです」
「だったら、寺崎と三浦が殺されたのは……」
「そう、復讐です。犯人は大石さんの血縁者です」
五人はお互いの顔を見つめ合った。
「大石さんの友人だった寺崎さんを探っていたところ、真実をきいてしまったのでしょう。つまり、犯人はもともと、殺意を孕んだまま、多目的研究センターにやってきたのです」
「なんということだ」
「ちょっと、待ってください」
右手をあげたのは秋田だった。
「どうぞ」
「三浦さんが殺害されたあと、ぼくたちは、そこにいる刑事さん、藤堂さんと話しました。アリバイがあるとわかったから、解放されたのです。みなさん、そうでしょう?」
語気を強めた。
「五人のなかに、犯人はいないはずです」
「たしかに、五人の犯行は不可能だったように見えます。密室内に死体があり、全員、アリバイもあった。しかし、いままでの話から、犯人には、べつの前提が立ちます。それが問題になるのです」
「な、なんでしょうか?」
亜紀がたずねた。
「計画的な犯行だったということです」
そのとき、藤堂が一歩まえに出た。
秋田、宇田川、加古の三人が立ちあがっている。両手で制した。
「三人とも、すわっていただけますか?」
藤堂は内容とは裏腹に、落ち着いた声で言った。
「刑事たちが身構えてしまいます」
あわてて、ふかくすわった。この場に三人を殺した犯人がいる。
疑心暗鬼の目が泳いでいた。
一瞬の沈黙のあと、宇田川が言った。
「成海くんは、犯人がなんらかの仕掛けを準備していたと言いたいのかね?」
「ええ。ただし、すべてが上手くいったわけではありません。犯人の計画に、白い蠍の暗躍が混じってしまったからです」
「暗躍……」
「だったら、どこからどこまでが、計画だったのでしょうか? なにが犯人にとって、誤算だったのでしょうか? それらを削ぎ落としていくうちに、犯人が浮かんでくるはずです」
一 密室
「まず、みなさんが殺人事件の発生を最初に、認識したのは、三浦さんの死体が発見されたときでしょう。三日まえの夕方、多目的研究センターの一室でした」
成海は亜紀に身体を向けた。彼女の表情は凍った。ただの確認だったが、死刑宣告を受けたように、衝撃を受けていた。
刑事たちの目が光る。
彼女は首元に大量の汗を溜めている。冷房の真下にもかかわらず、常に発汗していた。首を背もたれのうえに、のせている。
豊満な腰は、見る影もなく、椅子の奥へと追いやられていた。腰が抜けているようだ。両脚は力なく、だらりと落ちていた。
授業中に退屈した子どものような姿勢だった。
「容疑者のなかでは、橋口さんが、最初に三浦さんの部屋に、はいりました」
成海は語気を強めた。参考人の注意が一気に向いた。
「ひっ!」
声にもならない声が出る。椅子にすわっていなかったら、倒れていたにちがいない。亜紀は、緊張のあまり、身体が笑っていた。さらに、奇異の目に晒される。
容疑者たちまでも、疑いの目を向けた。
彼女は椅子のふかくにすわり、横たわるように全身をのばしている。だれより弛緩し、リラックスしているように見えた。
しかし、じっさいは、容疑者のなかのだれよりも、緊張と恐怖の真っ只中にいたのである。
この世の終わりすら、感じていたのである。刑事たちの目には、亜紀の演技というよりも、罪悪感の吐露に映っていた。吹けば消える声すらも、怪しかった。
「この事実に、まちがいないですね」
成海は優しい口調を意識した。
亜紀の身体の硬直は、ゆっくりと溶けていった。
「は、はい」
まだ、悪寒がのこっているにちがいない。亜紀の口唇はふるえっぱなしだった。
「橋口さん、貴方は三浦さんの死体に気がつかず、ドアのうしろにまわりこみました。理由を含めて、そのときの状況を話してもらっていいですか?」
「……わ、わたしは成海さんからカギを受けとり、ドアをあけようとしました。と、途中で、異常に気がつきました。ガ、ガラスの割れる音がしたのです。破片が床に散らばっていくところが目にはいりました。だから、床ばかり、見ていたのです」
「正面は見なかったのですね」
「……はい。わたしはドアの反対側に向かいました。ガラス窓は割れていて……。ゆ、床には、脚立と書棚が倒れていました」
「ぼくは、目にできませんでした。正面にいた橋口さんの姿が消えて、やっと、視界がひらけました。そして、彼を見つけたのです」
三浦を発見した。天井裏から吊されていた。
ふたつの足が、ちょうど、目にはいる高さだった。
「わたしは、ほうきやちりとりをとろうと、引きかえしました。そのとき……三浦さんを……」
「それが、ぼくたちのきいた悲鳴になるんですね」
うなずいた。
「やがて、外で電話していた藤堂刑事が追いつきます。警察への通報となりました」
「われわれ警察は、まず、被害者の部屋を調べました」
藤堂が成海の横に立った。
「室内と室外に、いくつかの痕跡を見つけました。とくに、天井裏をとおった痕跡は、この事件の重要な手掛かりになっています」
長机のうえには、天井の板が置かれていた。
成海が確認したあと、三浦の部屋から運んでいた。
「五指の痕跡がのこっていました。天井裏はけっして、広くはありません。小柄な者にかぎり、とおり抜けることができました」
160センチ前後の痩躯のみである。成海は休憩室の天井を見た。部屋はちがうが、高さは同じである。
「三浦さんは奇妙な殺され方をしていました。首を一周させたロープは、室内ではなく、天井裏の梁に、むすばれていたのです」
首吊り死体は、高い位置にあった。白衣までむすばれ、彼の頭は袋のようにつつまれていた。
「天井裏へと繋がっていた排気ダクトは、あらかじめ、外されていたようです」
亜紀は死体を思い出したようだ。口元を押さえた。
「みなさんの証言によって、三浦さんが天井裏にはいったコチドリを捕まえようと考えていたことがわかっています。事件の起きるまえでした」
成海は五回目を消した。シンポジウム開催よりまえである。
「外から侵入できることを、全員に認知させた証言でもあります」
「休憩室でのコチドリの話をきいて、犯人が思いついたということですか?」
「可能性はあります」
「われわれの知るかぎり、天井裏の話は、ほかの場所で、話題にされていないようですからね」
藤堂がつけ加えた。
「つまり、コチドリの話をきいていたのは、六人になります。みなさん五人と寺崎さんです」
「……犯人は、外から天井裏にはいって、ひそんでいた。三浦さんがコチドリを捕まえようと顔を出したところを狙って……殺害した」
成海は答えなかった。藤堂は証拠品に手を向けた。
「現場の痕跡は、仮説より雄弁です。天井裏には、埃が積もっていました。五指のあと以外に目立った痕跡は見つかりませんでした」
「ほかの痕跡が見つからないという事実は、重要です。なぜなら……」
成海はそらに円を描いた。力をいれる仕草を見せた。
「窓の隙間にロープをとおし、外から密室内へと三浦さんの死体を引っ張るといった方法は、不可能だとわかるからです」
身体を引っ張れば、埃がごっそりと消えるからである。
「天井裏のなかで、手をつくにしても、条件があった。そうですよね、佐久間さん」
「はい」
恰幅のいい男が声を出した。
「わたしは鑑識課の佐久間と言います。遺留物の分析調査を担当しています」
佐久間はクリップファイルをめくった。
天井裏の手に、佐久間の手をちかづけた。
「人間の手首の可動範囲は、おおよそ、手首側に90度、甲側に70度です。左右に動かす場合は、さらに、せまく、30度ほどになります。手首は自由には曲がりません」
生物上の限界である。
「五指の痕跡は、見てのとおり、開閉口の前後についています。その向きは、すべて、三浦さんの部屋へとつづいています」
「何者かが脚立にのって、室内から、このような痕跡をのこすことはできますか?」
成海はきいた。
「不可能です」
「なぜでしょう?」
「人間の構造上、曲がり切れないからです」
成海は佐久間の否定的なことばに、満足そうな笑みを向けた。
待っていたと言わんばかりだった。
佐久間は話をつづけた。
「室内から腕をいれた場合、逆側まで肩がはいりません。よって、手首だけで、内旋と外旋をしなければなりません。しかし、さきほど、説明したとおり、自由に動けないなか、手首を曲げていくには限界があります。見たほうがわかりやすいでしょう」
佐久間は身体を動かさないまま、両腕だけを動かした。
途中でとまった。
佐久間の手首は、天井裏の手形の縦に対して、真横になっていた。
成海は六回目を消した。
「このとおりです」
「なるほど、わかりました」
礼を言った。
「こうして、警察は、犯人が室内ではなく、室外からじっさいに天井裏をとおったと考えた。そうですね。藤堂刑事?」
「……まァ、天井裏へと強引にはいったことを考慮すれば、殺害に使ったのだろう。そういった意見が多かったのは事実です」
「もちろん、警察は五指の指紋も採取しました。しかし、不明瞭なものばかりだったようです。この場にいるだれの指紋とも一致しませんでした。しかし、二日目になって、この指紋鑑定は急展開を見せます」
藤堂は苦笑いで言った。
「この成海与一がありえない指摘をしたのです。半信半疑で調べたところ、天井裏の指紋と寺崎さんの指紋が一致したのです」
「なんだって!」
「だったら、寺崎くんが天井裏にはいり、三浦くんを……」宇田川は言った。
「いいえ。これがありえないのです」
警察はばらばら死体の指紋と照合した。
そのあと、寺崎の指紋だとわかったからである。
「わからないじゃないか。なにがありえないんだ?」
ニュースの情報しか知らない加古がきいた。
「簡単な話です。三浦さんは、その日の昼間までは、ご存命でした。秋田さんや宇田川さんと話しています」
「直前まで、ぼくと三人で、彼の部屋にいましたので……」
「そして、ばらばらにされた寺崎さんの身体は、その日の午前中に発見されています。つまり、寺崎さんは、三浦さんよりさきに、殺されているのです」
「現場が密室である以上、自己抹殺を試みてまで、三浦を殺害したという推理も成り立たない」
藤堂はかつての自分の推理を自分の口で否定した。
「ええ。寺崎さんの場合、多目的研究センターに自由に出入りできたわけですからね。無理をする必要がないというわけです。死亡推定時刻にかんしては、佐久間さんのほうがくわしいでしょう」
「はい。斬り落とされた部位だけで、判定するのはむずかしいのですが、死後二日は、まちがいなく、経過しています」
「つまり、天井裏の散歩者は、幽霊だったという結論以外は出せなくなってしまったのです」
「……おかしい。なにもかも、おかしい!」
亜紀は耐えきれず、金切り声で言った。
「死人が三浦さんを殺したなんて結論、おかしいじゃない!」
「そうでしょう? それこそが犯人の誤算だったのです」
成海は平然と言いはなった。
「白い蠍の暗躍によって、超常的な状況が成り立ってしまった。しかし、ほんとうは、地に足のついた事件になったはずなんです。足のない幽霊の犯行ではなくてね。藤堂刑事、説明をお願いできますか?」
藤堂は首を縦にふった。話しはじめた。
「白い蠍の暗躍とは、簡単にいえば、盗みです。三浦と寺崎の両名は、多目的研究センターの備品や金銭をゴミ袋にいれて、犬飼に回収させていました。みなさんも目にしたことがあるでしょう。彼らがはやめに、ゴミを出しているところを」
「そういえば……」
「犯人はこのきまりを知らずに、被害者の死体をゴミ袋にいれた。収集日より、はやく、出してしまったのです」
犬飼は、そのゴミ袋をアジトにとどけた。
「彼らは中身を見て、白い蠍のタトゥーを確認します。五年まえの報復行為だときめつけた。後日、相川会の拠点のちかくに、死体をおくりかえしたというのが、四肢連続遺棄事件の顛末です」
成海は、からのゴミ袋をとった。
「このゴミ袋は、外から見えません。においも漏れないでしょう。土地柄、江戸川区周辺は、ゴミ処理場の火力も高い。犯人にとって、最善策だったにちがいありません」
成海は首を横にふった。
「しかし、不運にも衆目に晒されてしまった」
江戸川区の各方角に指を向けた。
「右腕は葛西駅、左脚は左近川親水緑道、左腕は葛西橋教習所、右脚は小松川インターチェンジに遺棄されました」
ほかの部位は、廃工場から回収された。
「もしも、内通者が存在せず、寺崎さんの身体が有耶無耶になっていたら、彼は失踪という扱いになったでしょう。それこそが、犯人のほんらいの目的だったのです!」
成海はおおきな声で言った。
「そうすれば、三浦さんの事件は、おおきくかわりました。密室のなかで殺しが起きて、天井裏には犯人のものらしき痕跡が見つかる。指紋は寺崎さんと一致します。寺崎さんは小柄です。外から天井裏にもはいることができた。ふたりは、ふだんから口論が多かった」
「寺崎が三浦を殺して、逃げたということになるはずだった」
「しかし、三浦さんを殺すまえに、死体が見つかってしまい、現場の状況は現実離れしてしまった。ほんらいは、ただ、殺しの罪をなすりつけるだけだったのです」
成海は三本指を立てた。
「犯人は手間をかけて、寺崎さんの身体を分解しました。非常にたいへんな作業だったでしょう。しかし、犯人がそうせざるをえない理由が三点、ありました。ひとつは、ゴミ袋にいれるためです」
成海はゴミ袋を自分の足にくっつけた。
太ももまでの高さだった。全身は、はいらない。
「もうひとつは、密室を誤認させるためです」
成海は机の裏にある紙袋をあけた。人体模型だった。
「わたしが警察にたのんで、もってきてもらいました。寺崎さんの当時の身体と考えてください」
成海は手首のパーツをとった。
「佐久間さんは、さきほど、人間の身体には、不可能だと言いましたね。ぼくも同意見です。ただし、死んだあとの身体ならば、可能です。なぜならば、可動域を斬り落とすことで、自由に動かすことができるからです!」
押し殺した歓声が漏れた。理解した者がいるらしい。
様子を伺っていた刑事たちの声だった。
成海は手首の模型を痕跡にあてはめた。
「このように、犯人は寺崎さんの手首だけをもち、回転させたのです。室内から痕跡をのこすことのできる唯一の方法です。三浦さんを殺害するまえに、あらかじめ、彼の手首で、痕跡をのこしておいたのでしょう」
人間の身体に不可能ならば、人間の規格をこえればいい。
「これが寺崎さんの身体を分解した二つ目の理由です。当初、検出された指紋が不明瞭だったのは、死後の五指を使ったからです。状態が悪かったのです」
埃のうえでも、寺崎の指紋はくっきりと、のこっていなかった。
凝固した血液がガスにかわり、皮膚を押しあげたからだと考えられる。
指紋の皺がへっていたのである。
「じっさい、彼の身体が部位ごとに見つからなければ、ばらばら死体の利用に気がつくことは、たいへん、むずかしかったはずです」
藤堂があわてた声で、たずねた。
「だったら、犯人は天井裏を出入りしていない?」
「はい。犯人の偽装工作です。犯人の身体は透明ではない。そもそも、天井裏に、一度もはいっていないのです」
藤堂は真相を知ったにもかかわらず、眉をしかめた。
天井裏は唯一の侵入口だと思われていた場所だ。ほかの侵入口は否定されている。
困惑の色が濃くなっていた。
「三浦さんの部屋が密室だと判断されたのは、カギだけではなく、ガラス窓の状態にもあります」
成海は休憩室のガラス窓へとちかよった。
「橋口さんがはいるときに、ガラス窓が割れました。三浦さんが使ったと思われる脚立が倒れたからです。しかし、じかに割れるところは見ていません。割れる音とガラスの破片が散らばったところだけです。事後でした」
成海は藤堂に目線をおくった。藤堂は懐から封筒をとった。
三枚の写真を出した。一枚を成海にわたした。
二枚の写真を藤堂がもった。表側にした。
「ガラス窓の割れた時刻は、この写真が判断材料となっています。藤堂刑事のもっている二枚の写真は、ぼくたちが踏みいったあとに、公用の携帯電話で撮ったものです」
写真に注目が集まった。室内の壁際にちいさな水たまりができていた。
「エアコンの水が室内にはいってきています。二階の壁を伝ってきたのです。時間を経過するごとに、広がっていました」
「……もしも、犯行のあった時刻、午後二時から午後三時のあいだに、ガラス窓が割れていたのならば、もっと、おおきな、水たまりになっていたはずだ」
「しかし、写真を見れば、わかるように、じっさいには、わずかな水しか、はいってきていません。ゆえに、たったいま、ガラス窓が割れたという解釈になるのです。それでは、となりの写真を見てください」
藤堂の左手がつかんでいる写真は、窓の外、濡れた地面が映っていた。
「五十センチ範囲で、濡れています。エアコンの水が垂れつづけていたことをあらわしています。窓が割られていなければ、室内ではなく、この地面へと落ちていたのでしょう」
成海は窓をあけた。
「……はっきり、言って、ここまでは完璧でした。疑わしいだけでは、罰することはできない。犯人がなんらかの仕掛けを施したとしても、それが作為であると証明することは、きわめて、むずかしいのです」
成海は三枚目の写真を表側にした。
「そして、もっとも密室を決定的にしたと考えられる写真がこちらです。監視カメラの映像を写真にしたものです。照明ポールについている監視カメラが捉えました」
ガラスの破片である。そらを飛んでいた。
「監視カメラは、夕方の時刻を記録しています。橋口さんがドアをあけたときと同時刻です。ガラス窓が割れて、敷地外へと破片が飛んでいったという証拠になります」
成海は、ひらいた窓に半身をいれた。
休憩室にいた全員が成海の行動に注視している。
「三浦さんの部屋と休憩室は、位置関係が似通っています。窓の外には中低木がある。木々の茂みは風でゆれて、時折、フェンスが見えます。顔をあげれば、照明ポールが立っている」
成海はふり向いた。
藤堂は封筒からもう一枚、写真をとった。成海にわたした。
四枚目である。
「作為とは表裏一体のものです。とくに、犯罪を隠蔽する作為は、表と裏、相反するふたつが、密接関係にあると言えるでしょう」
ゆっくりと、写真をひっくりかえした。
「決定的な肯定は、決定的な否定を抱えてしまうものです。まさに、この写真と同じようにね」
そこには、とある男が映っていた。
「桐生さん、貴方が映っています」
室内に緊張が走った。
桐生とちかい距離にいた亜紀が飛びのいた。無数の視線が桐生を、針のむしろにした。
刑事たちが警戒の色を強める。
前傾姿勢になっている。
なにがあっても、対処できるように……。
「そんな……桐生さんが……」
「まさか」
「わ、わたしじゃない!」
周囲は騒然となった。
成海のことばだけが、全員の感情を指揮していた。成海は写真を斜めにふった。
彼らの目線が引きずられた。
ふたたび、成海の手元に注目が集まった。
「この写真は事件の起きるまえ、昼頃のことです。桐生さんは、なにかをもっていますね。貴方はだれにたのまれて、多目的研究センターに来たのですか?」
「か、加古さんです」
成海の質問によって、矛先がかわった。
こんどは加古へと疑いの目が向けられた。
「な、なにを言っている。わたしは、ただ、虫がはいってくることを報告しただけだ。対策してくれって……」
「そうか……。そういうことか……」
ひとりだけ、成海の真意に気がつくものがいた。藤堂だ。
藤堂は成海が桐生の写真を気にかけていたことを知っていた。中低木の茂みに手をいれていたことを知っていた。二階から見ていたことも知っていた。
藤堂は成海のつぎに、真相に気がついたのだった。
成海は紙袋に手をいれた。人体模型ではなく、ガラスの破片をつかんだ。手のうえに、ならべている。両手いっぱいになった。
「桐生さん、この写真のあと、貴方がなにをしたのか、みなさんのまえで、お話しすることはできますか?」
「もちろんです。やましいことは、なにもありません。わたしは防虫ネットをもってきました」
写真のなかの桐生は、目の細かい網を抱えている。
玄関口へと向かっていた。
「木のあいだにむすんで、端から端まで、張ったのです。信じてください。それだけです。十二時ごろからはじめて、数十分ほどで、作業を終えました」
「では、桐生さんが真実を語っているかどうか、確認してみましょう。窓の外を見てください」
「ど、どこでしょうか? 防虫ネットは……」
「ほんとうに、張ってあるのか?」
制服警官までもが、身をのり出していた。
成海はガラスの破片を投げつけた。
高めの放物線を描いた。葉っぱのあいだを通過する。
しかし、フェンスの手前で、弾かれてくる。
ガラスの破片は、敷地内にもどってきた。
成海はつぎつぎと投げた。はやく、おそく、縦回転、横回転、強く、弱く、ありとあらゆる向きに投げても、敷地外へと出なかった。
「ご覧のとおりです」
地面には、大量のガラスの破片が転がっていた。
「密室を決定的にしたのが、監視カメラに映った、この写真です」
成海は窓を離れた。休憩室の中央へともどってきた。
「しかし、密室を決定的にありえないものにしたのも、この写真なのです。午後には、防虫ネットが張られていました。われわれは、夕方五時すぎに三浦さんの部屋にはいっています。張られたあとです。それならば、破片が敷地外に飛び出すなんて、ありえないのです!」
さきほど、実践したように、弾かれるからである。
成海は十九回目を消してから言った。
「だったら、この監視カメラはなにを捉えていたのか。そう、犯人の偽装工作です! そして、だれだったら、可能なのか?」
成海は五人の顔を見た。橋口亜希、加古勝巳、桐生邦夫、秋田進太郎、宇田川信哉の五人が顔をあげた。
「それは容疑者のなかで、ひとりしかいません」
成海は口をとざした。だれも動かない。なにも話さない。
無音だ。
しかし、果てしない轟音が全員の耳に鳴り響いていた。
犯人だと名指しされる重圧は、みなの身体の自由を奪っていた。
殺人鬼への戦慄は、喉を絞めていた。
幾層に切迫した空気は、等しく幻聴を引き起こしていた。
いまか、いまかと、呼気の解放を待っている。
成海は左腕にセントラルをもっていた。いつのまにか、右腕をふりあげている。
すぐに加速した。たった十秒の沈黙だった。許可が出る。
成海の鋭い声は、陰鬱な空気を切り裂き、ひとりの顔を指した。
「貴方だけです。秋田さん、貴方が犯人です」
一気に騒音がのぼりつめた。
声にもならない声が前方へと押しあげている。
秋田は溜まらず、立ちあがった。
ほかの四人もつづいた。容疑者たちは、秋田をかこむように、丸く広い円となっていた。
刑事たちも、とめなかった。
五人にすわるように指示できなかった。
張りつめた緊張をまえに、ただ、黙って、見ているだけだった。
「なにを言っているのか、わかりませんね」
ていねいな口調だったが、秋田の表情は強張っている。
「成海さん、なんの冗談ですか?」
「秋田さん、貴方の部屋は、三浦さんの部屋の真上です。貴方ならば、二階から破片を投げいれることができるのです。防虫ネットにあたることもない」
中低木のうえを通過するからだ。
「そして、部屋の真下は、割れた窓です。水漏れを起こしていたのは、秋田さんの部屋の室外機、貴方ならば、エアコンの操作が可能でした」
成海は秋田のアリバイをきくとき、たしかめていた。エアコンのスイッチをいれると、ドレンホースから水が垂れていた。
「貴方は橋口さんの悲鳴をきいて、一階におりてきたと言っていました。とうぜん、悲鳴だけではなく、ガラス棚が割れた音もきこえたでしょう。それが作為の合図になったのです」
「……成海さん、お忘れですか?」
秋田は呆れるように、両手をあげた。
「ぼくにはアリバイがあるんですよ。三浦さんが殺害された時刻は、午後二時をすぎたころでしたよね。ぼくは現場にはいなかった。犯行は不可能。結論が出ているではありませんか?」
「いいえ。結論が出ているのは、四人だけです。五人のうち、貴方のアリバイだけは崩れます。とある方法をとることによってね」
成海は五人ではなく、三人のすわっているソファーに目線を向けた。ひとりの男の名前を呼んだ。秋田の上司である武部だ。彼は両手で顔をおおっていた。
「武部さん、以前、貴方が話していた内容について、確認したいことがあります」
「な、なにかな」
「秋田さんは、二階の自室で、試料の確認をしていました。鉛濃度のチェックです。本数を見るかぎり、彼が離れている時間はなかったのですよね」
「ああ。まちがいない。不安ならば、ほかの職員にきいてみるといい。おととい、言ったとおりだ。あてずっぽうで入力されたものはなかった。一時間どころか、二十分だって、省略できない」
力強く断言した。武部なりの擁護らしい。
しかし、成海は別段、省略したとは考えていなかった。
「秋田さんは、その試料を郵送で受けとっていました。しかし、確認済みの試料そのものは、郵送ではなく、みずからの車で、水質環境研究所まで運んでいます。廊下でふたりが話しているところをききました。この事実に、訂正する箇所はありますか?」
「いいや。ないが……」
「試料の郵送は、秋田さんが手配していたんですよね」
「あ、ああ」
「しかも、人知れず、行っていた。つまり、彼の姿は、だれにも見られていない?」
「そのとおりだ」
「水質環境研究所の研究員には、個室が割りあてられているそうですね。秋田さんは昼食時に、運んでいると言っていました。昼食時なら、十二時ごろになる」
水質環境研究所の篠崎本部は、江戸川区内にある。
三十分以内に到着できる。午後一時まえだ。
「ダンボールには、つぎの日の午前中が指定されていました。午後三時には集荷されています。配達人がはやめに来たとしても、数十分の誤差でしょう。つまり、彼は研究室の個室で、一時間以上、とじこもることができたのです。それが、どういうことか、わかりますね」
成海は秋田に身体を向けた。
「貴方は、あらかじめ、水質環境研究所で、作業を進めたあとに、多目的研究センターに郵送したのです。三浦さんを殺害する時間を捻出するためです!」
秋田の目元は、わずかに痙攣していた。口唇を噛んでいる。
「だからこそ、みずからの車で、水質環境研究所へと試料を運んでいたのでしょう。はやめに作業して、みずからの手で、おくる必要があったからです。これで、作業量によるアリバイは崩れました」
武部は顔面蒼白だった。
「ほかの状況でも、秋田さんが犯人だと絞ることができます。犯人は寺崎さんの両腕を使って、天井裏に痕跡をのこしました。小柄な人間にしかできないような抜け道を演出しています」
成海は秋田の頭の高さを見た。
「それは、自分が犯人だと怪しまれないことを逆説的に示しています。それでは、五人のなかで、だれがあてはまらないでしょうか?」
成海は数歩、歩いた。
「まず、天井裏に細工がなかった時点で、桐生さんは排除されます。宇田川さん、加古さん、橋口さんは、小柄です。160センチ前後、天井裏にとおることが可能になる。ゆえに、消去できます」
「なるほど……」藤堂は感嘆の声をあげた。
「不可能な条件である高身長は、秋田しかいない」
秋田は190センチもあった。
「ええ。藤堂刑事の言うとおりです。犯人の心理的な理由で、貴方が怪しくなるのです。さらに、貴方は、宇田川さんに、三浦さんと寺崎さんが論文の盗用で口論していたと報告していますね」
「そうだ。ここで、きいた」宇田川は言った。
「しかし、それは、ありえないのです。三浦さんと寺崎さんは、多目的研究センターで、物資の横流しをしていました。ふたりは、五年まえの殺人にも関与しています。いっぽうが捕まえれば、ふたりの最大の秘密、殺人まで公になる恐れがある」
「……たしかに、そうだ」
藤堂がつぶやいた。「犯人はゴミ袋をはやめに出すことで、白い蠍に寺崎の死体を奪われている。これもまた、共犯関係に対する無知をあらわしている」
成海はうなずいた。
「ふたりの横流しを知らなかったんだ。それで……」
「だからこそ、矛盾した作為をとってしまったのです」
「どういうことだ?」
当事者の宇田川がきいた。
「被害者のふたりは共謀していました。論文の盗用よりも、おもたい罪を背負っています」
殺人と内通である。
「盗用問題がほんとうだったとしても、いっぽうが公にするはずないのです。大犯罪の尻尾をつかませるようなものですからね。つまり、論文の盗用そのものが犯人の作為にほかならない」
「偽の動機をつくるためだな?」
「はい。そして、論文の盗用を示すものは、ふたつだけでした。現場にあった封筒と……」
ふたりが同時に見た。机のうえに封筒が置いてあった。証拠品のひとつだ。藤堂がひらいた。文章はパソコンで打たれていた。
「秋田さんの証言だけです。文章はこのとおり、だれでもつくることができます。つまり、貴方の証言だけになる。ゆえに、秋田さんがほかのだれよりも、怪しくなるのです」
成海は、あらためて、告げる。
「さて、秋田さんが疑わしい手掛かりは多くありました。それでも、やはり、アリバイがないこと、密室を誤認できることが、もっとも論理的な指摘でしょう」
成海は休憩室のドアに向かった。
「容疑者の五人のなかで、秋田さんだけが早業作業によって、殺害可能な時間をつくることができました」
ふりかえった。説明しながら、仕草をとる。
全員の目に、犯行時の情景がありありと映し出される。
「秋田さんは午後二時から午後三時のあいだに、三浦さんの部屋にはいりました。カギをしめます。この時点で密室です」
三浦からすれば、ただの来客だ。警戒するわけがない。
「背後から頭を殴り、気を失ったところを、絞殺しました。貴方はこの場が密室のままであり、天井裏だけが抜け道だったと思わせるために、梁に死体を吊りさげました」
ネイルハンマーを被害者の服にいれる。
天井裏の犯行だと強調させることにも抜かりない。
「そして、脚立とガラス棚が真横に倒れていくように、ドアのまえに立てかけます。ガラス棚の割れる音をガラス窓の割れた音だと勘違いさせるためです」
音の誤認である。
「秋田さんは部屋の窓を割り、外へと出ました。敷地内をまわって、二階の部屋にもどります」
そして、死体が発見される時間まで待った。
「ぼくたちが被害者の部屋にはいったとき、狙いどおり、ガラスの割れる音がしました。脚立とガラス棚が窓へと倒れています。ドアのうしろは死角、倒れる以前を確認しようがない。なによりも、外の監視カメラには、ガラス窓の破片が映っていました」
密室の誤認が完成した。
「しかし、誤算がありました。フェンスの手前には防虫ネットが張られていたのです。部屋の窓が割れたとしても、敷地外まで飛ばなかった。偽装工作だと判明しました」
成海は休憩室の窓際に、右腕を向けた。
「この偽装工作はだれならば、可能だったのか。ぼくは秋田さんだけが、二階から投げて、監視カメラの範囲内にいれることが可能だったことを突きとめました」
秋田の最大の失敗だった。
「また、密室外の濡れた地面、密室内の水たまりも、秋田さんが冷房をオンオフすることによって、作為できます」
犯行時、外の地面は濡れていなかった。足跡がつかなくて、とうぜんである。濡れた地面は、事件後、水を撒くだけで、演出できる。
「すべての条件は、二階にいる者しか実行できません。そして、秋田さん以外の容疑者は、二階にいませんでした」
成海は、順番に消去していった。
「橋口さんは一階の事務室、桐生さんは一階のカルテ整理室、宇田川さんは公園内の展示ホール、桐生さんは公園外の競技場にいました」
五人のうち、ひとりだけがのこった。
「だれも出入りしていない以上、密室の誤認を仕掛けられる人物は、二階の自室にいた貴方だけです。ゆえに、秋田進太郎さん、貴方が犯人なのです」
二 死体移動による欺瞞
だれも動かなかった。刑事が手錠をとることもない。
成海がまだ、話しつづけていたからだ。
成海の声は休憩室に行きわたっていた。
全員の関心を集めている。一声、出すたびに、魔法の刃となって、ふりそそいでいた。ありとあらゆる人の影を、縫いつけてしまったようだ。
魔法のような論理は、とまらない。
「この事件は連続殺人事件です。三浦さんがどのように殺されたのかはぼくの話したとおりですが、まだ、事件はのこっています」
二番目に判明した被害者は、寺崎恭吾である。全身の人体模型は、紙袋の外に出ていた。
成海は手首と右腕をとんとん、叩いた。
「つぎは、寺崎さんの事件に目を向ける番です。彼は最初に殺害されました。いつ、どこで、どのように、殺されたのか。ぼくは正確に把握しています」
藤堂はていねいにたずねた。
「いまから三日まえに、葛西駅のまえで、右腕が見つかりました。右腕を皮切りに、つぎつぎと遺棄されることになりました」
藤堂は成海ではなく、正面を見ていた。
事件にかかわった関係者に、きちんと説明をするためだ。
「ぼくたちは、殺害された順番のとおりに死体を発見しています。しかし、みなさんにとっては、きのう、署長の記者会見で知ったかぎりでしょう」
「……さきほど、いつ、殺されたのか、わかったと言いましたが? ほんとうですか?」
「はい。まず、二日まえ、各地に遺棄されていた、ばらばら死体が寺崎さんだと判明しました。鑑識課の報告によって、確認がとれました。そうですよね」
佐久間の顔を見た。彼は完全に傍観者にかわっていた。口をはさまない。目と耳だけを向けている。自分に質問されたことも気がついていないようだ。
成海は苦笑いを浮かべて、話をつづけた。
「死体解剖の結果、発見時点で、二日は経過していたのです。きょうから四日以上まえに、殺されたということですね。もう少し、詳細に指摘すれば、じっさいに殺害されたのは、五日まえの夜でしょう」
「……どうして、五日まえだと、わかるのですか?」
藤堂の声は自然とちいさくなった。心からの疑問だったからだ。
「五日まえの夜しか、あてはまらないからです。わかっている情報からいえば、寺崎さんの腕時計があります。ええと……どこかな」
藤堂が証拠袋をもちあげた。
「こちらですか?」
「はい。ありがとうございます。この腕時計には寺崎恭吾の刻印がはいっています。芦ヶ池のそばで見つかりました。ほかに、缶ビールも落ちていましたよね」
「ええ。被害者の指紋が検出されています」
「これらの見つかった場所は芦ヶ池です。芦ヶ池の直上にあるフェンスは壊れていました。まるで、飲み食いしているときに、誤って落ちてしまった。そういう痕跡でした。しかし、われわれは、すべて、犯人の作為だと考えています」
成海は証拠袋をつかんだ。藤堂から受けとった。
「ただし、腕時計にかんしては、作為ではなく、落下時に壊れたものでしょう」
十二時三十分でとまっていた。
「寺崎さんの遺留物は、どれも、芦ヶ池に落ちていました。仮に、屋上のフェンスにすわった際の事故であれば、敷地内に落ちるはずです」
成海は手と指を直角にした。落下をあらわした。
「しかし、そうではないので……」
「投げ捨てられたことをあらわしているのですね」
「はい。寺崎さんは、べつの場所で、殺害されたのちに運ばれたということです」
成海は腕時計を叩いた。金属音が響いた。
十一回目を消した。
「腕時計が犯行時に壊れたならば、対面している犯人にもきこえたはずです。運ぶときにも言えます。目にはいらないわけがありません。つまり、犯人は放置しても、問題がないと思ったのです」
成海は秋田を見た。
「腕時計は最初、壊れていなかった。だからこそ、装着させたままにしていた。しかし、落下時に壊れてしまった……」
「おぼえておいて欲しいのは、死体を運ぶことは危険な行為ということです。ゆえに、十二時三十分は、昼間ではなく、夜中である可能性がきわめて、高いと言えるでしょう」
セントラルの十六回目にも×がついた。
「そして、ぼくたちは、容疑者たちがそれぞれ、夜にいた場所をきいています」
「夜にいた場所? 多目的研究センターにのこっていたかどうかですか?」
「はい。宇田川さん、橋口さんは仕事を終えると、すぐに自宅へとかえっていました。加古さんは出張仕事、桐生さんは病院にいました。しかし……秋田さんはちがいますね」
「ああ、そういえば、この廊下で……」
「秋田さんは、夜通し、多目的研究センターにいたときいています。まちがいないですか?」
武部にたずねた。彼は瞬きひとつしなかった。目をおおきくしていた。事実であることが伺える。藤堂も耳にしていた。
「おわかりでしょう。容疑者のなかで、秋田さんだけが夜中、多目的研究センターにいたのです。この多目的研究センターという場所は重要です。ただの施設というだけではありません」
成海は休憩室のすみへと歩いた。
「なぜならば、ここは、もともと病棟であり、各部屋に浴槽がのこっているからです。この休憩室には、蛇口しかのこっていませんが、ほかの部屋には浴槽がのこっています」
「……浴槽があれば、寺崎の身体を分解できる。それに、左脚の状況もたしか……」
藤堂は素の口調にもどっていた。机のうえにある写真をとった。緑道で見つかった左脚、その裏側の写真である。
「藤堂刑事、沼田刑事、ぼくの三人は、寺崎さんの左脚に、ハエの卵が付着しているところを見つけました。二日以上経過しているにもかかわらず、孵化していませんでした」
セントラルの三回目を消した。
「植えつけられたあとに、熱湯にさらされたからです。ハエの卵は、二日あれば、ウジ虫にかわります。ゆえに、寺崎さんの身体は、ハエにたかられる環境、野外に放置されたあと、半日から一日半ほどのあいだに、回収され、熱湯で洗われながら、分解されたことになります」
四回目に×を書き加えた。
「芦ヶ池のちかくで、死体を分解できる場所は、多目的研究センターの各部屋しかありません。したがって、秋田さんだけが夜にのこっていたことは、重要な手掛かりとなりました」
「五日まえに、寺崎の死体が遺棄され、回収されたという結論を出したのは、被害者が目撃されていないからですか?」
「はい。六日まえ、寺崎さんは生きていました。休憩室でコチドリの話をきいています。しかし、つぎの日からは目撃されていません。一回目のシンポジウムにも参加していませんでした。この不在は、殺害されたと考えていいでしょう」
成海はノートパソコンをひらいた。
動画は停止したままだった。静止画を見せた。
宇田川、秋田、桐生の三人が映っている。
どこにも、生前の寺崎の姿はなかった。
「秋田さんは、多目的研究センター内、水質環境研究所の部屋で、寺崎さんを殺害しました。被害者の腕時計があらわしているように、真夜中のことです」
日にちのかわった直後に殺害した。数十分かけて、屋上へと運び、芦ヶ池に投下する。そこで腕時計の針がとまった。
「秋田さんは屋上のフェンスが壊れて、落下死したと見せかけたかったのです」
「しかし、一日も経たないうちに、再回収している」
藤堂が首をかしげた。
「被害者の身体は三浦の殺人に使われています。両腕を再利用しようと思いあたったのでしょうか?」
「少しちがいますね。もっと、切羽詰まった理由です。なんにしろ、秋田さんは、ふたたび、寺崎さんの死体を部屋へと移した。しかる処置を施したあと、こんどは、ゴミ置き場へと運んだのです」
「……ちょっと、待ってください」
ひさしぶりの声だった。
犯人だと指摘されてから、はじめてだ。
秋田が一歩まえに出た。
やっと、否定のことばを打ち出した。
「ただ、ぼくが殺害時刻、現場のちかくにいたということで、寺崎さんを殺害したと言うのですか?」
少しずつ、おおきな声にかわっていった。
「言いがかりです。状況だけではないですか! ほかにだれか、いたかもしれない。別部屋にも浴槽はあったのでしょう?」
「それでは、秋田さんにおききします」
「はい」
「ハエの卵の付着は、野外に置いてあったことをあらわしています。ぼくは芦ヶ池にあったと考えています。その理由は、腕時計や屋上の痕跡だけではありません。それは……」
成海は一瞬、長机のうしろ置いてある証拠袋を見た。
容疑者たちから見えないように隠されている。
「芦ヶ池の氾濫があったからです。これをどう、説明するつもりですか?」
「ははっ。成海さん。お忘れですか?」
秋田はわざとらしく、おどけた。
「それとも、きちんと、きいていなかったのですか? ぼくは言いましたよね」
どことなく、うれしそうだった。
完璧にも見えた、成海の推理に穴を見つけたからにちがいない。
「まえにも言いましたが、備品ですよ」
休憩室は静まりかえった。
息遣いさえも、消えていた。
無だ。
物音を立てれば、死がおとずれるかのように、恐怖にみちた視線が交錯していた。
秋田だけが暗闇から顔を出している。
「備品が沈んでいたのです。だから、池の水があふれてしまったんです。死体ではありません」
「――備品とは具体的にはなんですか?」
秋田は周囲にいる四人の顔を見た。
「ふふっ、はははっ」邪な笑みを浮かべた。
秋田は同僚たちの表情を、成海への不信感だと思ったのだ。
彼らは秋田を見ていなかった。
鈍い光を宿し、じぐざぐの目線を成海に向けていた。
「成海さんは知らないんですね。だから、死体が沈んでいたと思った」
「教えてください」
「桐生さんがね。窓の外で言っていたのです」
ほんとうは、まったくの逆だった。
彼らの頭には疑問符が浮かんでいた。
……なにを言っているのだ。
その答えを求めるように、成海のことばを待っていた。
四人の両目は、しっかりと成海の口唇を捉えていた。
正解を待っていたのである。
「ぼくだけではなく、四人ともきいていましたよ。そうでしょう? 芦ヶ池に沈んでいたのは……」
秋田は知らない。
成海が全員から確認をとっていたことを知らない。
同じことを言っていた事実を知らない。
「クロマグロのぬいぐるみですよ」
四人の戸惑いは、最高潮にあった。
成海は自分のことばではなく、四人のことばで、否定することにした。
右手をゆっくりと、差しのべた。
加古が待ちきれないとばかりに、低めの声を張った。声音はふるえていた。
「なにを言っている、秋田。……大木だったはずだ」
「わ、わたしもそうききました」
亜紀と宇田川も、堪えきれなかった。
「クロマグロのぬいぐるみって、なんのことだ。いったい、なんの話をしている……!」
とうの桐生も言った。
「わたしは知りません。大木と言ったはずです。いったい、だれから……、だれから、きいたのでしょうか?」
「えっ……」
成海は十七回目を消した。
「思い出してください! 桐生さんが窓の外で話していたときのことです。秋田さんは、五人のなかで、もっとも、とおくにいました」
藤堂が誘導した五人の立ち位置は、当時の休憩室とまったく同じになっていた。
成海の指示だった。
「秋田さんは廊下側の壁際に立っていました。宇田川さんへと話しかけていました。盗用問題をうそぶいていました。犯人側にとって、重要な話です。緊張していたのでしょう」
「そうか。秋田は話しつづけていた。桐生の声がききとれなかったんだ。だから、なにが見つかったのか、頭のなかで、解釈してしまった」
藤堂の喉は乾き、声はかすれていた。
しかし、その目だけは、期待に潤い、つぎの証拠袋を見ていた。
成海は藤堂の凝視を引きつれるように、一際、おおきい証拠袋をもった。
十八回目を消した。
きのうと同じように、両手で抱えた。
「正しいのは秋田さんです。しかし、まちがっているのも秋田さんなのです!」
泥土が袋のなかに落ちている。
きのうよりも、原型をとりもどしていた。
「芦ヶ池に沈んでいたのは、大木ではありません。余水吐につまっていたのは、このクロマグロのぬいぐるみだったのです」
「どういうことですか? わかりません。いったい、どこでそれを……?」
「桐生さん、貴方は大木といっしょに、ぬいぐるみを回収していたのです。黒い藻につつまれていました。外見がちがっていた。池の水を吸って、おもかった。大木だと勘違いしたのです」
まちがった情報を伝えていたのである。
「秋田さんがぬいぐるみを備品だと呼んでいるのは、二階の備品室にあったからです」
クロマグロのぬいぐるみは水族園の飾り付けにも使われていた。
グッズ商品でもあり、備品でもある。
「ありえない。そんなこと……」
秋田は上下の歯をかちかちと鳴らしていた。
決定的な失敗だった。
「貴方は容疑者のなかで、唯一、寺崎さんが死亡した時刻、多目的研究センターにいました。寺崎さんの死体を芦ヶ池に突き落とし、つぎの日、その死体を回収して、ゴミ袋にいれています」
自分が怪しまれないように、死体を移動したのである。
「どれも、夜中の犯行です。秋田さんだけが実行できます。さらに……」
成海はクロマグロを机に置いた。
「寺崎さんの死体を芦ヶ池に放置したことによって、氾濫が起きてしまいました。その際、氾濫の原因が死体だと気がつかれないために、備品室にあったクロマグロのぬいぐるみを代替にしています。観光客が捨てたものだと思わせたかったのでしょう」
クロマグロに手のひらを向けた。
「清掃員の桐生さんは、芦ヶ池の余水吐につまっていたものを除きました。しかし、黒い藻がついていた。大木だと勘違いしてしまったのです。残念なことに、秋田さんはききとれず、ぼくに、ほんとうのものを伝えてしまったのです」
秋田は備品だと言った。
「それはさきほど、きいたとおりです。容疑者のうち、四人は大木だと答えましたが、秋田さんだけはちがいました。大木を備品だとききまちがえることは、万が一でも、ありえません」
刑事たちが唸り声をあげた。歓声にちかいものだった。
「芦ヶ池に沈んでいたのは、クロマグロのぬいぐるみです。備品と言えるでしょう。しかし、それを知っているのは、当事者の犯人以外にありえません」
成海はふたたび、彼の顔を差した。
「したがって、秋田さん、貴方が犯人となるのです! 貴方以外にありえないのです!」
秋田を犯人だと示す論理は、二つ目だった。決定的だ。
しかし、成海の攻勢は、終わらなかった。三つ目を準備していた。
成海が犯人にめっぽう強いと言われる由縁だった。
どれだけの苦難が待ち構えようとも、足掻きに足掻いて、かならず、最後には解決する。
示唆を纏った弦を張り、一の矢、二の矢、三の矢をはなつ。
不可能とも思える壁をこえ、犯人の中心を射貫く。
完膚なきまでに、勝利するのだ。
三 特徴を消された死体
「ぼくは三浦さんの事件と寺崎さんの事件、ふたつを解きあかしました。三つの殺人事件のうち、のこるはひとつです」
きのう、起きたばかりの殺人事件だった。
「三人目の被害者は、桜井さんという男性です。白い蠍のリーダーでした」
「わたしたちの知らない人ですよね?」
亜紀がたずねた。
「はい。寺崎さんや三浦さんとちがって、多目的研究センターにかかわる人ではありません」
「だったら、どうして、殺されたのだ?」
加古がきいた。宇田川が小声で言った。仮説を立てた。
「公園に偶然、居合わせたんじゃないか。夜中の行動を外から見た。芦ヶ池から死体を回収するときは、外にいたはずだからな」
ふたりは、秋田を見た。
「いいえ。犯行を見られたわけではありません。ただ、秋田さんは彼に証拠を奪われていると思ったのです」
「証拠?」
「はい。秋田さんは記者会見を見て、白い蠍のアジトへ行かなければならないと思ったのです。彼は構成員である犬飼さんのあとを追いました。追跡は功を奏し、午後三時ごろ、廃工場に到着しました。桜井さんを殺害したのです」
ゴミ袋に火をつけて、廃工場ごと燃やした。
「証拠隠滅を図ったのです。秋田さんは、警察に回収されていないゴミ袋があると考えていたからです。記者会見では、葛西署の署長さんが右腕、左脚、左腕、右脚、頭部、胸部、臀部の回収を明言していました。しかし、犯人にとって、もっとも重要な部位が出ていなかった」
休憩室に、緊張感が波を打った。
成海の告げた死体の部位が、恐怖を煽ったのである。
「ぼくは最初に、犯人が寺崎さんの身体を分解した理由は三点あると言いました」
「ゴミ袋にはいるサイズにすること、斬り離した両手を密室誤認に用いること、このふたつですね?」
「はい。しかし、まだ、そのふたつしか説明していません」
三点と言いながら、二点しか口にしていない。
藤堂も気にしていたようで、ふかく相槌を打った。
「最後のひとつこそ、死体を分解することにきめた唯一無二の理由なのです。あくまでも、ほかのふたつは、犯人があとから思いついたにすぎません」
「いったい、それは……」
成海は目線を芦ヶ池に向けた。
「ぼくは多目的研究センターの氾濫は、寺崎さんの身体が沈んでいたことによって、生じたと説明しました。しかし、そもそもの疑問がのこっています。どうして、犯人は寺崎さんの死体をたった一日のあいだに、回収したのでしょうか?」
十三回目に×がつけられる。
箇条書きのビュレットも、のこり少ない。あと五つである。
「この理由は、犯人が寺崎さんの身体を芦ヶ池に突き落としたことに示唆があります。秋田さんは水質環境研究所の一室で、犯行にいたっていますが……」
秋田はうつむき加減に成海を見ていた。前髪で彼の目は隠れている。
「それでは、寺崎さんの死因はなんだったのでしょうか? 死体は分解されてしまっている、解剖だけでは判然としません。ただし、現場の状況から推測は可能です。なぜならば、被害者は意図的に、芦ヶ池のなかへと投げられているからです」
「……落下死にするつもりだったら、手前に落としていたということですか?」
「藤堂刑事の言うとおりです。後頭部への脳挫傷が死因だったら、芦ヶ池の氾濫を避けるためにも、敷地内に落としたほうがいいでしょう」
被害者の頭を打ちつける。高所から落ちた場合と同じ傷口をつくればいい。
「しかし、じっさいには、芦ヶ池の中央に流されるほど、前方に投下されています。寺崎さんの身体を池にいれる必要があったからだと考えるのが自然です。したがって、寺崎さんの死因は、溺死だったという推理が成り立つわけです」
「室内で溺死ですか……」
顎に手を置いた。
「水質環境研究所の室内……。待てよ。たしか、そこには?」
藤堂の疑問は、背後の光点を引きよせていた。
「犯人は被害者を溺殺したあとに、芦ヶ池に落としました。逆に考えれば、殺害現場に被害者を沈められる水があったことになります。そして、水質環境研究所の部屋には、おおきな水槽がありました」
藤堂は思いあたった。ふり向いた。
日差しがはいり、ディスプレイが光っていた。
「それはシンポジウムに使った水槽と同じものです。みなさん、こちらをご覧ください」
ノートパソコンだ。ひらいたままだった。
動画のなかの宇田川は、ステージに立っている。
となりには、おおきな水槽があった。
宇田川は水槽のなかに手をいれている。
「この宇田川さんの手が、五日まえの夜では、寺崎さんの顔だったのです!」
成海は、ばらばら死体の死因すら突きとめていた。
「被害者は、この水槽内の水で殺されたのです!」
彼の身体を、一瞬で、もどしたのである。
「秋田さんは水槽内の水という凶器を選びました。それでは、桐生さん」
思案中の横顔に、声をかけた。
「は、はい!」
突然、名前を呼ばれて、桐生は背筋をのばした。
「貴方なら、その理由がわかりますね」
「……たしかに。……そうですね」
ことばが明確になる。
「お話の途中から、わかりました。わたしは多目的研究センターのなかに、はいることは滅多にありません。ただ、唯一、室内まで立ちいったことのある部屋は、水質環境研究所……秋田さんのいた部屋です」
「いったい、なんのためですか?」
「芦ヶ池の水を、この水槽のなかにいれるためです」
動画を指差した。
「もう、おわかりでしょう。秋田さんは被害者の残留物を同じにしようと考えたのです」
「くっ」
秋田は悔しさを滲ませた。
「貴方は当初、寺崎さんを事故死に見せかけるつもりでした。それは水槽の水で、殺害することが不可欠でした」
「……被害者の体内から検出されるプランクトンが芦ヶ池と同じになる。解剖されたとしても、べつの場所で、殺害されたとは思われない。そういうことですね?」
成海は首を縦にふった。
「ここで疑問が生じます。秋田さんが被害者の事故死を諦めた切っ掛けです」
「たしかにおかしいですね。表向きには上手くいっていたはずです」
「とうぜん、死体を回収しようと思い直した出来事があったはずです」
セントラルの九回目を消した。
成海の言いまわしは、休憩室にいる全員に、考えさせていた。
「さて、氾濫の起きたあとから氾濫が解決するまえ、おおよそ、四日まえですね。多目的研究センターでは、なにがあったでしょうか?」
成海はことばを切った。
「まさか」
宇田川がはっとした。
「シンポジウムか?」
成海は背を向けた。右手の動きは、正解をあらわしていた。
「それでは、シンポジウムの動画を再生しましょう。秋田さんの顔に注目してください」
映像をズームさせる。シンポジウムのスピーチ中、秋田は舞台上を見ていた。となりの加古は退屈そうに、欠伸していた。
秋田は模範的な研究員という態度だった。
宇田川の話をききながら、相槌を打っていた。
一定のリズムで、上下している。
そのときだ。
首がとまった。
口がひらいた。
汗が出ていた。
秋田の目が限界まで、剥かれている。
驚愕である。
驚きの表情をあらわにしていた。
秋田の身体が一瞬、まえに出る。
途中で、とまった。いますぐに、会場外へと飛び出そうとしたが、シンポジウムの途中だったことに気がついたようだ。
顔をしたに向けている。
動画上では、ちいさな動きだった。
ズームさせることで、あきらかな異常がわかった。
「秋田さんの様子がおかしいですね」
成海はズームをリセットした。時間をもどした。動画の音量をあげた。ノートパソコンから音割れ気味の声が響いた。
宇田川の声が休憩室のなかをみたした。
――ここさいきん、葛西臨海公園にある池で、緑黒い藻が大量発生していました。水槽のなかに浮いているのが見えるでしょう。このサンプルには、すでに【電解水】が散布されています。
――いま、目のまえに置かれている水槽は、一日以上、経ったものです。
――この水槽には、ふだんから芦ヶ池のサンプルをいれています。【電解水】を加えても……。
成海は、秋田が劇的な反応を示した瞬間、とある単語を宣言した。
「そう、電解水です!」
――見た目、におい、すべてにかわりありませんでした。……一見では、電解水を投与した事実は、わからないでしょう。……一週間ほどで、検出もできなくなる。
単なるスピーチは、成海の指摘によって、つぎつぎと重要な証言へと化けていった。
やがて、動画内の声はとまった。
「きいてのとおり、宇田川さんは、電解水を投与したあとも、池の水の見た目に変化が出ていないことを証言しています。しかも、一週間は検出ができるとも! 秋田さんは水質環境研究所の人間です。電解水が検出できるかどうかは、だれよりも、ご存じです」
秋田は被害者の体内に、電解水が残留していることを確信したのである。
「秋田は電解水の混入を知らなかった……」
藤堂の独り言と同時に、七回目を消した。
「宇田川さんはシンポジウムの直前に、急遽、芦ヶ池の水質改善をきめたそうですね。知っていた人間はかぎられている。今岡さん、武部さん、貴方たちです」
「……はい。電話で、きめました。公園内の除菌に、使途があるというので……。イノベーション室の電解水生成装置を使ってもいいと許可しました」
小百合が言った。
「室長はある程度の結果が出た。……シンポジウムで発表することになったとも言っていた」
武部がつづけた。
「わ、わたしは、シンポジウムの前日に、水質環境研究所にあった水槽に、電解水をいれた。だが、まさか、凶器に使われるとは……。ふたり以外には言っていなかった。部下たちに伝えたのは、発表後だ!」
大声を出したのは宇田川だ。
「秋田さんは、会場にいました。いつもの池の水ではなかったことに、途中で知ったのです。だから、その日の夜、寺崎さんの死体を回収しなければならなくなった」
「諦める理由が生まれた……?」
「はい。当初、秋田さんは、被害者の体内から発見されるプランクトンを利用しようと考えたのですが……」
「彼の知らないうちに電解水がいれられていた!」
「そうです。逆に、自分が犯人だと示す証拠品がのこってしまったのです! 電解水のはいった水槽は時限的です。それが判明すれば、だれがいつ、どこで、使用したのか、簡単に突きとめることができる」
被害者だけではなく、犯人も溺れた。
策士策に溺れたのである。
「秋田さんは寺崎さんの身体を分解しました。寺崎さんが三浦さんを殺害して、失踪に見せかけるためです。結果的に、その証拠すら、奪われた。貴方は下策のあと、さらなる下策を打ったのです」
十二回目にも×が加えられた。
「だったら、彼の身体をばらばらにした三つ目の理由は……」
「胃袋のなかの電解水を処分するためです!」
「そういうことだったのか」
目を丸くした。
「よく、気がつきましたね」
藤堂は成海にきいた。成海は本音を漏らした。
「……偶然です。偶々、昔を思い出したんです。ぼくは、かつて、小学校の同級生が誤って、海水をいれてしまった水槽を、意図的に壊したことがあります」
葵は黙ってきいている。
「彼女はメダカのために、水槽内の汚れた水を交換したのです。メダカの生態を知らず、海水をいれてしまった。メダカは淡水魚です。翌日には死んでしまいました」
メダカ以外の魚だったら、異変に気がついたかもしれない。
メダカは河川と海のあいだにも生息する。
メダカのエラには、塩類細胞がある。
わずかならば、海水に順応できる。
メダカは教室に運んでいるあいだにかぎり、元気だったのだ。
秋田も同じである。
電解水をいれたあとの変化は乏しく、気がつかなかった。
「ぼくは当時、メダカの死因を同級生から隠そうとしました。水槽を割り、メダカを埋めました。海水という証拠を消そうとしたのです」
二十回目の示唆が役割を終える。
「秋田さんも、同じことをしたのです。被害者にのこされている特徴を消そうとしました。しかし、ぼくのように水槽を処分するわけにもいかなかった。メダカを埋めたら、足がつく。ゆえに、ばらばらにして、ゴミ処理場へと、おくることにしたのです」
しかし、運ばれた場所は、廃工場だった。白い蠍の手のうちである。
成海は十二回目を消した。
人体模型の胃袋、食道、肺のパーツをもった。
「秋田さんは、署長の記者会見によって、寺崎の身体が奪われ、区内に遺棄されたことを知ります。しかし、胃袋の発見は明言されていません。まだ、間に合うと思ったのでしょう」
「それで、桜井を殺すことになったのですね?」
「はい。桜井さんは証拠隠滅の邪魔になったのです。秋田さんのほんらいの目的は、電解水の痕跡を消すことでした」
十五回目の消去は、おおきな×になった。最後である。
秋田は顔をあげた。
沈鬱な表情が印象的だった。うしろに倒れるように、腰をおろした。ただ、ひとり、椅子にすわった。成海はまえに進んだ。
桐生、亜紀、加古、宇田川、容疑者たちの円に、はいった。
「貴方は水槽内の水によって、寺崎さんを溺殺しました。あとから電解水の残留を知り、証拠隠滅を図りました。しかし、われわれは、すでに、胃袋を回収しています。署長が口にしなかっただけなのです」
成海は、一枚の用紙をつかんでいた。
多目的研究センターの玄関で藤堂から受けとったものだ。科捜研からの報告書である。
「秋田さんの恐れたとおり、胃袋から化学的な処理の施された水が検出されました。強力な電解水です。芦ヶ池に生息する、アオミドロやケイソウが混ざり合っていました。ぼくの推理の裏付けになる、あたらしい証拠と言えるでしょう」
成海の右腕があがった。
「水槽の置かれていた場所は、多目的研究センターの水質環境研究所の部屋です。電解水が加えられたのは、シンポジウムの前日でした。殺害した時間帯は、夜中だと判明しています。この条件にあてはまる人物は、容疑者のなかで、ひとりだけです」
人差し指を立てた。
「秋田さんしかいません」
言い逃れようのない結論だった。
「したがって、犯人は秋田進太郎さんです」
成海は言い直した。
「貴方が寺崎さん、三浦さん、桜井さんを殺した――」
語りかけるように、たずねた。
「この連続殺人事件の犯人ですね?」
「……はい」
秋田は正面に顔を向けていた。
「そうです」
スーツの男たちが壁際から離れた。
「ぼくが三人を殺害しました」
秋田は、だれも見ていないようだった。
「成海さんの三つの推理、なにひとつ、まちがっていません。……反論も思い浮かびませんよ」
瑕疵がなかったことを、正直に告げた。
「ぼくはふたりの横流しを知らなかった。死体を回収されてしまった時点で、逃げ場がなかったのでしょうね」
無表情のまま、口だけが動いていた。
「ただ、首謀者の三人を殺すことができた」
秋田のことばに意志が宿る。殺してもなお、強い殺意が伺えた。
「やはり、貴方は……」
「はい。流血の金魚祭りの被害者、大石陽介は、ぼくの兄です」
成海は刑事たちを制した。彼の話をききたかったからだ。
「ぼくたちは両親に時期を置いて、捨てられたのです。ぼくが施設にはいるころ、兄は施設を出ていました。それでも、兄は、ぼくに会いにきてくれました。親切にしてくれました。兄には夢があって、努力もして……。ぼくにとって、誇りでした」
研究員の道を選んだのも、大石の影響にちがいない。
「兄は善良な人間でした。あいつらなんかに、殺されていいわけがない!」
「貴方は流血の金魚祭りが起きるまえに、大石さんから連絡を受けていたのですか?」
「はい。友人に大事な話があるときいていました。だれと会うかもきいていました。……寺崎です」
「大事な話とは?」
「寺崎が反社会的な人間といるところを見たそうです。兄は付き合いをやめるように助言していました。その話を再度、するつもりだったようです」
「白い蠍だ。寺崎は過去に補導されている。大学生になってからも、接触していたのか」
藤堂は眉間に皺をよせた。
「そうか。……白い蠍の連中は、相川会を追い出すだけではなく、大石に取引現場を見られたから、殺すことにきめたのか」
「……兄と最後に会ったのは寺崎です。寺崎が怪しいことはわかっていました。しかし、当時、ぼくは、高校生です。施設からも出ていない。なにもできませんでした」
秋田は寺崎の職場を調べた。ちかくで働くことにした。
そして、機会がおとずれる。
「ぼくはふたりの口論をきいて、三浦と寺崎が兄を殺害したことを知りました。許せなかった。報いを受けるべきだと思いました」
「どうして、警察に相談しなかったのですか?」
成海はきいた。秋田は悲哀の表情を見せた。
「警察は流血の金魚祭りで、なにをしましたか?」
沼田が顔を歪ませた。
逮捕の準備を進めていた手がとまる。
秋田のことばが、ふかく、突き刺さっているようだ。
「白い蠍の思うように、動かされたではないですか。ふたりを逮捕することもできなかった。それに、五年まえの事件です。いまさら、動いてくれるとは、思えませんでした」
秋田は立ちあがった。無抵抗の意志をあらわしていた。沼田は、手錠が肌にふれないように、ていねいにかけた。
連行されていく。
成海の横をとおりすぎる。その一瞬だった。
「警察四一の成海与一さん……」
成海の目線は秋田の両目と合わなかった。横顔だった。
秋田の声は、優しくもあり、どこか、寂しかった。
「……貴方が五年まえの時点で、行船公園にいたら……。流血の金魚祭りは……」
秋田は首をふった。足を速めた。
「いいえ。なんでも、なんでもありません」
成海は、真犯人のおおきな背中を見送った。彼は休憩室のまえで、動きをとめた。
「すみません。……お世話になりました」
秋田の声は上司に向けられていた。成海とはことなり、顔を向けている。親愛が見てとれる。
武部は、大粒の涙を流していた。
叱咤も労いも出なかった。
ことばではなく、ただ、ふかい悲しみが武部の両目を支配していた。
ふたりの関係が良好だったことが、十分に伝わってくる。
まるで、ほんとうの親子のようだった。
「終わったな」
藤堂が話しかけた。
「ああ」
成海はセントラルの三ページをめくった。セントラルはティアオフカレンダー形式のスケジュール帳だ。きょうの日付よりも、まえのページは毎日、破られる。
しかし、いま、セントラルには、余分な三ページがのこっていた。
八月の三日間だ。
殺人事件を目撃しつづけた三日間である。
三ページ分の表側には、江戸川区内の観光予定が書かれていた。すべてのビュレットは×で消されている。裏側には、殺人事件の示唆が書かれていた。二十項目だ。こちらも終わっている。あらゆる弾丸は回収されていた。
「正直、ばらばら死体の遺棄事件が起きてから、わからないことばかりだった。成海は、いつ、真相にいたったんだ?」
「すべてが繋がったのはきのうの夜だ。どれか、ひとつでも足りなかったら、解決はできなかったよ」
三ページ分の箇条書きを藤堂に見せた。
成海の推理に、余すことなく、使われていた。
「一歩一歩、積みかさねる。どれだけ、不可能と思えることでも、少しずつ、つづけるんだ。そうやって、手にいれた……」
成海は親指、人差し指、中指、薬指で、はさみこんだ。
「三つの筋道をひとつにすれば……」
抜刀するように、一気に破った。
「できないことは、なにもない」
成海は【カサイ袋の殺人事件を解決する】と書かれた、きょうのビュレットに×をつけた。
三位一体の推理を成し遂げた。
セントラルの分厚いページはまだ、のこっている。
つぎの季節へとつづいている。
これからも、全力を尽くすこと、あしたがつづき、生きていくことを比喩していた。
どれだけの不可能が道をとざしても……。
いくたびの否定が心をおおったとしても……。
試行錯誤をつづけていれば……。
報われる日はやってくる。
そう思わせる信念が、成海にはあった。
きょう、目にしてきたように。あしたのスケジュールのように。
これからの後日談のように。
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