二十四章 カサイ袋の最愛・後日談

 連続殺人事件を解決してから、ひとつの季節がかわっていた。

 有明の風はときおり、冬の白色を纏っていた。

 直射日光は弱かった。セミの声はしなかった。テニスの森公園に緑葉はなかった。


 風が吹くたびに、成海の身体はふるえた。寒かった。鳥肌が立っていた。上着のボタンをとめた。頭上には、赤トンボの群れが飛んでいた。

 ケヤキの葉は、赤みがかっていた。秋だ。

 もう十月だった。

 成海はペットボトルの水を飲んだ。喉が渇いているのは、乾燥のせいではなかった。彼女を待っているのだ。

 大一番のまえだ。頭のなかで、何度もシミュレーションしていた。しかし、成功するイメージは、まるで湧かなかった。

 独特な緊張感が、動悸をはげしくしていた。成海は利口にも、現実逃避をはじめていた。

 べつの記憶を思い出していた。けさの電話だ。沼田からだった。

 事件の事後報告だった。


 沼田は、葛西署の地下にある資料室に、三つのファイルが置かれたことを話してくれた。『葛西周辺の四肢連続遺棄事件』、『天井裏の散歩者による絞殺事件』、『白い蠍リーダー刺殺事件』の三つだ。


 ――資料ファイルの場所は、流血の金魚祭りのとなりだよ。ようやく、五年まえの未解決事件に決着がついた。

 ――ファイルのなかには、それぞれの事件の写真がはいっていてな。章題の『袋』ごと、区切られている。そうだ。袋だ。

 ――ほら、三浦の絞殺死体は、顔が白衣の袋につつまれていただろう。寺崎のばらばら死体はゴミ袋にいれられていた。桜井は胃袋をもっていると思われたことで、刺殺されている。

 ――どれも袋が関係しているじゃないか。

 ――署内では、総称して、カサイ袋の事件と呼んでいる。成海くんが、そう呼んでいるときいてね。

 ――ああ、知っている。わたしの名前か。いいや。本名でいいよ。戒めもこめてね。こんかいの事件、思うところも多かった。自分のふがいなさを痛感したよ……。

 ――いいや。彼の言うとおりだ。

 ――ああ、秋田かい。正直に証言しているよ。武部も面会に来ていたみたいだ。

 ――そうそう、木村早苗も来ていたな。大石の元婚約者だ。ニュースを見て、駆けつけたらしい。居合わせたが、……泣いていたよ。兄のことを、いまでも、想っている人がいて、うれしかったらしい。ふたりが、もっとはやく……。

 ――駄目だな。年をとると、愚痴っぽくなる。

 ――また、会う機会があることを望むよ。こんどは、ゆっくりと話したいものだ。それじゃ……。


 沼田の最後の声は、晴れ晴れとしていた。

 電話のうしろでは、あたらしい事件の話がきこえていた。もう、べつの事件を担当しているのだ。たった二ヶ月で、凄惨な事件は、忘れ去ろうとしていた。

 江戸川区の住民にとっては、望ましいことだ。

 数日で、終息した点が功を奏したにちがいなかった。


 成海も、もとの仕事に、すんなり、もどることができた。東京アルカディアの出版作業だ。

 三日間、歩きまわった観光スポットをひとつにまとめている。

 まだ、四つの東部エリアのうち、ひとつだが、有明単探社では、ひとつ終わるごとに、外部の雑誌に掲載されることになっており、その打ちあげが、きょう、行われていた。


 会議室に重役たちがそろっていた。三郷がお世話になった出版関係者を有明単探社に呼んだのだ。なぜか、藤堂も来ていた。

 警視庁の現役刑事という変わり種は、話題の中心になっていた。ベストセラーになった警察四一のモデルでもある。ききたいことも多いようだ。注目の的になっていた。

 三郷自身、藤堂と会うのがひさしぶりだったらしく、交友をふかめていた。子どものころのように、軽口を叩き合っていた。

 ふたりの周囲が盛りあがっているところを見て、成海はするすると、抜け出してきた。

 予定通りだ。

 成海は葵と十一時に、待ち合わせしていた。

 彼女ひとりを呼び出していたのである。

 有明第三小学校の通学路をいっしょに見るという名目だった。葵は地方で暮らしている。地元は懐かしいにちがいない。

「あと、五分だ」

 ふたたび、水を飲んだ。さらに、気持ちが逸っていた。落ち着かない。口内は砂漠だった。オアシスはどこにもない。喉奥にはいった水は、緊張という熱気によって、茹だっていた。

 思考内に、蒸気が溜まっている。冷静な判断ができない。成海は、また、水を飲んだ。いっこうに、みたされない。

「ぼくは彼女のことを、これほどまでに……」

 永劫とも思われる渇きは、逆に、求めている対象のおおきさを意味していた。

 成海の気持ちをあらわすように、些細な切っ掛けで、恵みの雨がふりはじめる。

 横断歩道を見たときだ。

 視界の端に、女性の影を捉えた。見知った輪郭線だった。砂漠に潤いがみちた。大水だった。一瞬で、森林が生えていった。葵を目視した途端だった。

 成海の全身は、よろこびで総毛立っていた。


 考えるよりさきに、手足が動いた。

 心の逸りよりも、はるかに、身体がはやかったのである。成海は彼女が向かってきているにもかかわらず、横断歩道をわたった。中央分離帯で合流した。

 ふたりは有明単探社に背を向けた。

 いっしょに国際展示場駅のほうに歩き出した。


「少し、待たせちゃったね」

 葵は肩で息をしていた。走ってきたとわかった。

「いいや。ぼくが、はやめに出たんだ。ああいう場が苦手でね。外の空気を吸いたかった」

 成海は平静を装った。葵の目からは、冷静な性格に見えているにちがいない。

「成海くんのあとに、すぐ、出るつもりだったんだけど……」

「だれかに捕まった?」

「そうじゃないんだけど」

 有明コロシアムの横をとおりすぎた。頭上のゆりかもめが、有明駅へと向かっていた。

「ふたりが成海くんの話をしていて……」

「いい予感がしないね」

 成海の笑顔が引きつった。

「藤堂くんがね、成海くんを辞めさせたほうがいいって」

「藤堂のやつ、なんていう話をしているんだ」

 成海のぶっきらぼうな言い方をきいて、葵はいっそう、笑顔になった。

「わたし、出るに出られなくて、きいていたら……。専門職員の枠がある。有明単探社じゃなくて、藤堂くんの部署に途中採用させたいって」

「また、その話か。警察四一を出したあともしていたよ」

「あ、そうなんだ。三郷くんは笑っていた。成海くんの意向を知っていたからなのね」

「藤堂もわかって、言っているよ。お互いに相手を困らせるのが好きなんだ。つづきもわかる。どうせ、三郷もいっしょにどうだって、きいたんじゃないか?」

 葵は目を丸くした。

「そうしたら、三郷のほうが、言いかえすんだ。それなら、藤堂が警察を辞めるほうが簡単だ。有明単探社の営業部門の枠があいているぞってね」

 ほんとうは、営業部門などはない。

 藤堂のために、新設すると言っているのだ。

「まるで、その場にいたみたい。そっくり、そのまま。流石、仲良しの三人組ね」

「まァ、三郷は、本心だろうね。昔から自分の人脈、ぼくの作品、藤堂の営業力を合わせたら、なんでも上手くいくって言っていた」

「そうなんだ」

 葵は小声だった。顔に影が差している。


 成海はふと、観覧車のことを思い出していた。彼女は、成海が孤立した原因は自分にあると考えていたようだ。きちんと口にしたほうがいいかもしれない。

「ぼくは、藤堂と三郷のおかげで、楽しくすごしている」

 葵の気掛かりを楽にするつもりで言った。

「ほんの少しでも、切っ掛けがちがえば、ふたりと仲良くなれなかったかもしれない。内気なぼくからは話しかけられなかった。ぼくがひとりで教室にいたから、仲良くなれたんだ」

「……うん、そうよね。ただ、うらやましい」

 葵は寂しそうな顔をした。

 有明中央橋をのぼる。真っ直ぐ進めば、ビッグサイトと有明第三小学校がある。

 だが、あえて、国際展示場駅への道を曲がった。

 もっとも景観のいい道だからだ。ビッグサイト正面の道だ。

 イーストプロムナードである。

 葵も知っているからこそ、成海のそばを離れなかった。

「うらやましい?」

 成海はたずねた。

「わたし、小学校から付き合いのある人、ひとりもいないから……」

 ――ぼくがいるじゃないか。

 そう間髪をいれずにいえばよかったが、機会を逸してしまった。彼女は駅前のマンションを見て、べつの話にかえてしまった。

「ああ、懐かしい」

「工藤さんは、あそこの五階に、住んでいたんだよね」

 マンションへと人差し指を向けた。

「えっ?」

 とうぜん、おとずれたことはない。

「工藤さんがベランダに出ているところを見たこともあったんだ」

 成海はあわてて、釈明した。

「そうなんだ。成海くんは大橋のほうよね。いつも、わたしのマンションのまえをとおりすぎていたから……」

「うん。青梅展示棟のまえだった。生徒のなかでは、珍しいほうだね。みんな、この遊歩道のそばに、住んでいた」

「センタープロムナードの遊歩道ね。両脇にマンションも多い。テレコムセンターまでつづいている。お台場をとおるから、子どもだけじゃなくて、観光客もよく歩いていたな」

 葵の声は童心にかえっていた。

「ぼくはイベントの参加で、国際展示場駅をまわって、ビッグサイトに来ていた。この正面の道には、たくさん、思い出がある。通学路ってだけじゃなくてね」


 ビッグサイトでは、多くのイベントがひらかれる、もっとも規模のおおきい同人誌即売会では、四日間のうちに、七十万人以上の人がおとずれる。一度も参加したことのない人には、想像を絶するほどの大人数がやってくる。超大型イベントである。

 同人誌即売会は、ただ、自作品をならべるだけではない。マイノリティなジャンルの作品を、思いのままに披露できる、数少ない場所であった。

 アニメ、ゲーム、漫画、音楽といったメジャージャンルはもちろん、クイーンタイプミステリー、軍事サイエンスフィクション、B級グルメ本、フォントデザイン、日本史勉強、各種評論など、ありとあらゆるサブジャンルを網羅していると言える。

 ゆえに、多種多様なファンが集まるのだ。


「このイーストプロムナード、石と光の広場、やぐら橋、ビッグサイト正門に――」

 順々に見た。

「ずらっと参加者がならぶんだ。そのそばに設けられた道を、創作者が歩いていく。このメインストリートは、京都の哲学の道に、ちなんで、東京の創作の道と呼ぶ人もいるね」

 成海はノスタルジアにひたりながら、やぐら橋のエスカレーターにのった。

 ビッグサイトの真下に立った。

 三郷と有明単探社を立ちあげる切っ掛けになった場所だ。


「子どものころから見ていると、一度は、イベントに参加してみたいと思う。わたしだって、そう思った」

「ビッグサイトは、レストランフロアも充実している。家族で食事する機会も多い。有明に住む人には、身近な場所だね」

 成海はあらためて、ビッグサイトを見あげた。

「やっぱり、おおきいな」

 東京ビッグサイトは、大規模(ビッグ)な祭都(サイト)が由来である。名前は体をあらわしている。毎月、祭りのようなイベントで、賑わう場所となった。見た目も独特だ。

 逆向きに尖った三角形の塔が四つ、ならんでいる。

 大尖塔だ。

 遠目でも、わかりやすい。


 成海たちのかよった有明第三小学校は、ビッグサイトの裏手にあった。有明の南側に小学校はなかった。人口増加に伴い、工場の跡地につくられた。比較的、あたらしい小学校である。教室の窓から、ビッグサイトの屋根が見えていた。

「わたしは、いつも、目のまえをとおっていた。案内板の手前を曲がって、ほら! あそこの広場をとおるの」

「ビッグサイト庭園だね。いちばんの近道だ。ぼくも同じだよ」

 ふたりは膝元にある階段をおりていった。

 ビッグサイトの東側だ。


「ああ、小学校のころとかわらない」

 成海たちは、庭園内をゆっくりと歩いた。

 葵はとまった。

「……もう終わりなのね」突然、言った。

「えっ」

「東京アルカディアの仕事」

 葵は笑顔だった。

「いろいろなことがあったけど、楽しかった。二ヶ月まえなのに、きのうのように思い出せる。楽しい時間は、あっというま、いまならわかる。きょうで、終わりなんだって」


 彼女は終わりということばを強調した。気持ちを整理しているようだった。両手を、ひらいたりとじたりをくりかえしている。成海と同じくらい緊張している。ことばが出ない。なにか、考えているらしい。

「きょうで終わりか」

 じっさい、葵と会うのもひさしぶりだった。

 業務的な連絡を一週間に一度、おくるだけだった。

「それで、い、いつ、出るのかしら。葛西の記事は」

「ぼくもくわしくはきいていない。ただ、出版社の連載雑誌だからね。三ヶ月あとくらいかな。記事間の調整がある」

「時間がかかるのね」

「書籍だったら、四、五ヶ月はひらくよ。同人誌だったら、二週間ほどで、製本できるけど、まァ、おおきな出版社ほど、準備があるからね。完成したら、見本が郵送されてくるよ」

「そっか」

 ビッグサイトは海がちかい。たまに、強風が吹いていた。彼女は髪を押さえていた。葵の仕草は、三年生のころの、教室で見たものとかわらなかった。

 ただ、より美しくなっていた。

「亜紀さんから電話があった。わたしが東京に行くって、伝えたら、同じだねって」

 橋口亜紀はきょう、北海道まで面会に行ったらしい。自分を騙した木野と話すためだ。恨み言なのか、仲直りなのか。

 どちらにせよ、自分のなかの後悔をなくすためにちがいない。

「ぼくも、きょう、沼田さんから電話があったんだ」

「沼田さん?」

「葛西署の刑事のひとりだよ。いっしょに捜査していた」

「ああ、秋田さんに手錠をかけた人」

「沼田さんは、自分が五年まえの事件を解決できなかったら、こんかいの事件が起きたと、思っているようだ。ぼくを過剰に褒めていた」


 みずからの捜査力を卑下するように……。

「秋田さんも、ぼくが五年まえにいたら、すべて解決できたと思っていたみたいだ」

 去り際のことばが、耳にのこっていた。

 葵は黙って、きいていた。


「でも、ぼくは、万能じゃない。わからないことばかりだった。密室は、ほんとうに解ける気はしなかったし、四肢の遺棄なんて、非現実的だ。犯人だって、三日目になって、ようやく、わかったんだ」

 成海は、大凡を把握したうえで、確証がないという理由で、真相を口にしないタイプではない。犯人がわかれば、すぐに言う。

 しかし、途中で、犯人がわかったことなど、一度もなかった。

 ほんとうになにもわからず、手探りで捜査しつづけた。

 それでもと……。常に周囲に注意を巡らせて、気になった情報を書きつづけた。

 最後の最後で、やっと、すべての謎に、繋がりを見出すことができたのだ。

 セントラルに書いた二十項目は、逆にいえば、二十回、わからないことがつづいたという言い方もできる。成海自身、だれよりも、殺人事件の発生した三日間、傍観者にすぎなかったことを理解していた。

 成海がだれよりも、自分のことを卑下していたのである。

「……わたしたちは、休憩室の最後しか見ていない。成海くんがどうやって、調べたかわからない」

 成海の苦しそうな表情を見て、葵はゆっくりと話した。

「たいへんだったのね」

「……藤堂以外の人から見れば、カサイ袋の事件を簡単に解いたように見えたのかもしれない」

 過剰な期待は、成海を苦しめることにもなっていた。

「でも、じっさいには、ちがう」

 苦悩を吐露する。

 成海が警察側の人間ではなく、有明探社に身を置きつづける要因でもあった。

「五年まえ、当時のぼくが、行船公園の現場にいても、なにもかわらなかったと思う」

「ううん」


 葵の表情は柔らかい。

「それでも、秋田さんは貴方がいてくれたらって、願わずにいられなかったのよ」

 葵の手は胸のまえに、力強く握られている。

 さきほどの落ち着きのなさは消えていた。心からのことばだったからだ。

「きっと、秋田さんは解決できるというよりも……」

 葵は確信的に答えた。

「成海くんなら、全力を尽くしてくれるって思ったのよ」

「全力?」


「ええ。藤堂くんを除けば、秋田さんがいちばん、カサイ袋の事件を解決できないと思っていたはずよ」

 反論が浮かばないと言ったときの秋田の表情を思い出した。

「だれよりも、三つの事件を理解していたんだから……」

 最後の顔は、諦念ではなく、どこか、爽やかだった。

「それでも、成海くんは解決したでしょう。秋田さんは、事件をとおして、貴方の人柄を知ったのよ」

 秋田による謎の提示、成海による論理の指摘、二ヶ月まえの四日間は、ふたりの殴り合いとも言える。喧嘩後の友人のように、特別な信頼を抱いたはずだと、彼女は指摘した。

「成海くんだけじゃない」

 彼女は青いそらを見た。

「人間はみんな、万能にはなれない」

 上空ではない。


 成海の目のなかにある青い光、瞳に映ったそらを見ていた。

 ほんの少し、首をかしげる。

 自分も失敗ばかりだった。彼女の仕草と表情がそう物語っている。


「すべて、上手くいくことなんてない。みんな、口にしないだけで、挫折、否定、諦めばかり。でも……」

 葵は一歩まえに出た。

「それでも、人間はあたらしく、積みかさねることができる。ひとつひとつ、まえに……まえに……」

 成海の顔を正面から、しっかりと見ている。

「それが素晴らしいんだって、二ヶ月まえにわかった」

 この二ヶ月のあいだ、葵の心は整理されていた。

 真意を知ったことで、さらに、前方へと、すすんでいた。

 もう、停止しない。


「わたしは、成海くんから全力を尽くすことを知った」

 葵は最初のころの態度とは、まるで、ことなっていた。

 人間はかわることができる。

 いまよりも、変化できる。

 彼女が、ほかのだれよりも、示していた。


 成海は葵の表情に、強い生命力を感じた。

 いままでにない、強いことばに、胸を打たれていた。

 ふと、藤堂の予言がよぎった。

 ――ぼくからことばにする。

 こんどは、成海のほうが彼女の瞳に、青色の前進を見ていた。

 ふれたい。進みたい。愛おしい。

「全力を尽くすか」


 ――ぼくは大切なことを忘れていた。

 ――こんかいの事件、最終的に解決できた理由は、絶えず、試行錯誤しつづけたからだ。

 ――打ちのめされても、顔をあげつづけたからだ。


 ――ぼくにはそれができる。彼女がそう肯定してくれた。


 ――だが、いまのぼくは、どうだ?

 ――まだ、すべてを尽くしていないじゃないか。


 成海は最後の一押しを、葵から受けとった。

 自分の気持ちに対して、正直になるときだった。


「わたしも、一度、諦めたことがあった。あの日、成海くんに、罪をかぶせてしまったとき……」


 葵はとめどなく、話しつづけた。

 葵もまた、覚悟をきめていた。


「成海くんは、あの日、見ていた。でもね。ひとつだけ、言っていないことがあるの。わたしの心のなか……」

 ただの罪悪感だけで、引け目をおぼえていたわけではなかった。

「あのとき、わたしが水槽の水をかえた、ほんとうの理由は……」

 彼女は、きょうこそが、あの日の延長だときめていたのである。

「じつはね……」


 成海は、顔を赤らめている彼女に、少女の面影を見ていた。大人になって、押さえてきた情動が蘇ってくる。かつての嵐がふたたび、心のなかに、吹き荒れていった。

 ふいに、心を乱していた。その瞬間、きょうの日まで、思い描いていた台詞、着飾ったことばは、すべて、消え去った。成海の理性は藻屑となったのだ。

 真に迫る感情は、綺麗なことばではなかった。

 成海がいままで整形してきた文脈は、はじめて、制御不能となった。とりとめもなく、乱れに乱れていた。一言を紡ぐまでに、時間と空間をこえた想いが、巡りに巡っている。


 工藤葵、工藤葵、工藤葵!

 多くの思い出が、感情が、執心が、たった数秒で、閃光となっていた。

 教室にいるときの彼女。ともに会っていた。工藤葵、工藤葵。

 目が。空気が。場所が。どちらも同じ。室内にいた。話さずとも。そばにいることがよろこびだった。工藤葵、工藤葵、家にかえって、ふと、つぶやいた。彼女の名前。声に出すこと、とめられなかった。

 工藤さん、工藤さん、なにごとにもかえがたい。

 何者よりも愛おしい。

 彼女と逢いたい。ふれたい。願いたい。強い思いが。のたうちまわった。いまも。ずっと。交わして、かよって。いい。きくことが。さらに。強く。引き締めている。

 ことばが。息が。身体が。そこにいる。

 あっというまに、足りなくなった。言うんだ。望んでいること。伝えるんだ。

 彼女のいる場所、同じ空気、黒い目、優しいことば、ゆっくりの息、かわらぬ心。ずっと、いたい。工藤さん、彼女といっしょにすごしたい。

 二ヶ月まえ。偶然だった。あの身体……。

 抱きとめた。まだ。のこっている。感触が。

 もう一度……。そう心が乱される女性は、いつだって、ひとりだ。

 工藤葵だけだった。


 成海は、おおきく息を吸った。

 ようやく、大嵐はとまった。

 その瞬間、自然と、ことばが、あふれていった。


「工藤さん」

 成海は彼女のことばを遮った。


「きみが好きだ」


 途端に、静寂につつまれた。

 彼女はなにを言われているのか、理解できていないようだった。


 それも、そのはずである。


 葵が口にしようとしていことばも、成海のことばと同じだったからだ。

 ゆえに、もっとも意外なことばを、きいたことになる。


「工藤さん」

 気持ちのいい風が吹いた。

 東京湾を駆けて、ビッグサイトをまわり、庭園へと抜けていった。


 夢うつつの葵を刺激した。

「ぼくは、工藤さんといっしょにいたい。ずっとだ」


「な、成海くん……」

 ようやく、意味を理解した。


「ええと……」

 両目が泳いだ。

「あの……」

 必死に、頭をまわしている。


 葵は小声で言った。

「わたし、ずるいな」

 成海にはきこえない。


 葵は徐々に、顔をあげた。上目遣いで見た。

 こんどは、しっかりと、成海へと告げた。


「はい」

 こくりと、うなずいた。

「お願いします」

 ふたりは照れくさそうに、したを向いた。

 どちらも、最上の幸せにつつまれていた。


 頭のなかは、真っ白だ。浮き足立っている。

「もどろうか?」

「うん」


 ふたりとも、小学校を見るというほんらいの目的すら忘れていた。

 やるべきことは終わったのだ。

 有明単探社へと歩き出した。

 しかし、葵は、途中で、とまった。


 また、小声で「やっぱり、ずるい」とつぶやいた。

 成海はふりかえった。

 二メートルほど、うしろに、彼女は立っていた。

 首元まで、朱色に染まっていた。

「ほんとうはね!」


 身体をまえにのり出した。

 成海が遮った話のつづきだった。


「水槽の水をかえたのは、話しかけたかったからなの!」

 両手をうしろにまわしている。服の裾をつかんでいた。


 告白に勢いをつけているようだった。

 教室で水槽をのぞいていた、当時の彼女の姿と似ていた。


「生き物の図鑑を読んでいたのも、そうだった! その週になって、たのんだものだった」

 葵は両親に買ってもらったと言っていた。

「飼育係だったから! 水槽の水をかえたら、話しかけることができるって! そう思ったから!」

 成海はもっとも古い思い出のなかの光景を思い出した。


「ほんとうは、あのときに言うつもりだった」

 黒板のすみだった。


 成海与一という名前が書かれていた。

 飼育係の名前である。

 ――ぼくの名前だ。


 きょう、この瞬間は、メダカが死ななかったとき、『もしも』の延長だったのだ。

 悲劇と向き合ったことで手にいれた、お互いにとって、『最良の変化』だったのである。


「ずっとまえから!」

 葵は胸元に手を置いた。


 大切な気持ちをあらわすように。

 最大の感情をこめるように。

 小学生のころ、思い描いていた場面のように。

 赤面のうえに、最大の愛情が咲き誇った。


「わたしは貴方が好きです」

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