十五章 はじまりの追憶

「成海の勇ましい姿を工藤さんに見せられなくて、残念だったな」

 藤堂は茶化した。

「おれから伝えておこうか。白い蠍のリーダーを仕留めたって」

「いやいや。だれかに話すようなことじゃない」

「そうか。もったいないな」

「なにが?」

「きっと、工藤さんは見誤っているだろうね。成海のことを、消極的だと思っているんじゃないか」

「じっさい、藤堂や三郷よりはおとなしい。合っているよ」

「消極的とおとなしいはちがうさ。警察官をしているとよくわかる。おとなしくても、いざとなれば、茨の道だろうと、荒波だろうと、谷底だろうと、構わず突き進む者もいる。

 藤堂はハンドルを切った。

「危険だから損、役立つから得じゃない。モラルが、あらゆる理屈をうわまわる。その物差しは個々によって、ことなる。罪を犯す者もいれば、人を助ける者もいる。性格をあらわす基準のひとつだ」


 ビル群に光は灯っていなかった。星空のしたに、葛西臨海公園駅が見えていた。

「信号が赤だったら、横断歩道でとまるだろう?」

「そうだね。轢かれるかもしれない」

「だが、横断歩道の途中で、子どもが立ちどまっていたら、どうだ? 子どもは足を怪我している。曲がり角の横断歩道だ。死角だ。対向車が来るかもしれない。子どもを助けるために、赤信号だって、わたるだろう?」

「そりゃ、危ないからね」

「しかし、その行動も人による。世間的には、赤信号はわたらない。どんなときでも、わたらない。それがルールだ」

 藤堂の運転する車は、深夜のだれもいない道路でとまった。赤信号だったからだ。

「ただ、物事には、どんなルールよりも優先するものがある。いずれ、子どもは痛みを我慢し、立ちあがるかもしれない。手を出すのはお節介だと思い、見ている者だっている」

 信号が黄色にかわった。

「それだっていい。良い悪いじゃない。ひとり、ひとりのなかに、物差しがあるんだ」

 藤堂は、別段、信号無視の話をしているわけではない。婉曲的に、なにかを伝えようとしているのだ。

「人それぞれの決断は、どうして起きるのか。それは人のなかに、赤信号とは、べつの青信号があるからだ。規則、不安、否定、それより、もっとおおきな不等号をもっているからだ。自分のなかで青だと判断すれば、迷わず進む。手前に、赤があってもだ」

 アクセルを踏んだ。

「これはときに、対人関係において、あたらしい一歩を踏み出す、切っ掛けになる」

「信号無視のたとえは、交通安全課に怒られるよ」

「ははっ。ちがいない」


 快活に笑った。藤堂は見た目以上に柔軟な男だ。親しい友人のまえでは、フランクに話し、関係者のまえでは、ポライトに話す。

 おれとわたしを使い分けることができる。

 警察という固い仕事だからこそ、シニカルな物言いを選ぶこともある。だからこそ、信号無視という例をあげたのだ。

 経験上、藤堂がシニカルな言い方をするとき、重要な話を打ち出すことが多かった。成海は耳をかたむける。


「だが、わかっているだろう。じっさいの横断歩道の話じゃない」

 藤堂はついに話しはじめた。成海はいくつか、予想を立てていた。なにを話そうとしているのか。そのなかでも、もっとも恐れていた話題に移る。ききたくなかった名前があらわれる。

「しかし、工藤さんはどんな状況でも、横断歩道をわたってはいけないと考えているようだ。とくに、成海といるときはな。たまに目が泳いでいる」

「――なにかを怖がっているとでも……?」

 工藤葵は多目的研究センターの事務員だった。すでに辞めているとはいえ、事件の関係者と言える。成海は訝しげにきいた。

「ああ。成海を信用していないみたいだな」

 藤堂は意地悪そうに笑った。

「ぼくが警察と協力しているからか……」

「ちがうと思うぞ。昔、工藤さんに、なにかしたんじゃないか?」

 思い出話をしたときに、車内にいた葵の表情が曇っていた。

 藤堂は見逃していなかった。

「それが不安の種になっているようだな」

「まわりくどい言い方をするね。……はっきり言ったら、どうだ? 工藤さんのなにが気になっているんだ?」

 藤堂は捜査陣の中心人物である。もしかしたら、あたらしい証拠をつかんだのかもしれない。捜査本部のなかで、彼女が容疑者のひとりにあがっているのだろうか。

 成海は真剣な声できいた。予想外の返答がかえってくる。

「まァ、このままなら、友達どまりだな」

 成海の声が裏返った。「なっ!」口があいたままになる。

 まったく、予期していない答えだった。


「ぼ、ぼくたちは……」

 藤堂の話は、殺人事件とは、まったく関係がなかったのである。

 信号と横断歩道も男女の進展の話だったのだ。

「そういう間柄じゃなくて、仕事上の――」


 藤堂は旧友の困惑ぶりを見て、さらに、白い歯を見せた。

「なにがあったのか知らない。だが、いまのままだと、友達以上に、進展しそうにないな。停止線をこえられない」

 そうこうしているうちに、葛西臨海公園の駐車場に着いた。

「ただ、彼女が成海の行動の真意に気がついたら、ちがうかもな。停止したままではいられなくなる。工藤さんのほうがな」

 助手席のドアをあけた。

「そのときは、小学生から溜めた分、成海がことばにするんだぞ。仕事上の間柄なんだろう? つぎの機会はないと思え」


 藤堂は予言めいたことを言って、スカイラインで去っていった。

 成海はしばらく、呆然としていた。

 頭のなかをぐるぐるまわっている。

 彼女への思いを口にする。想像しただけで、喉が渇いた。

 決断できる気がしなかった。

 いまは、まだ。


「しかし、やられたな」

 成海はホテルのロビーにはいった。エレベーターのボタンを押して、のりこんだとき、ようやく察した。

 両足をさわる。廃工場の林では、立つこともままならなかった。

 しかし、いまは、普通に歩いている。緊張が解けている。


 藤堂なりに、リラックスさせようとしたのだ。

 成海にとって、いちばん、予想外で、もっとも不得意な話題をあえて、選んだのである。

「余計な気をまわしてくれて……」

 藤堂は十年以上の長い付き合いだ。

「昔より誘導に磨きがかかっているじゃないか」

 部屋のオートロックを解除した。

「これじゃ、隠し缶蹴りの二の舞だ。小学生のときに学んだはずなのに……」

 数時間まえは、ベッドに横になっても、数分で起きてしまった。

「藤堂のやつ、ぼくの性格をプロファイリングしているんじゃないだろうな。それとも、三郷の入れ知恵か?」

 ぼやきながら、布団をかぶった。

 しかし、その愚痴のおかげで、すぐに眠ることができた。

 成海の心境が一時的に、日常にもどったからである。


 つぎの日、葵と顔を合わせるときに、多少、気恥ずかしさがのこっていた。

 寝ぼけ眼をこすり、誤魔化した。

 彼女のほうもまた、ホテルにかえってこない成海を心配し、よく眠れなかったようだ。葛西駅行きのバスのなかで、夜にわかれてからの一悶着を説明した。

 驚きもあったが、それ以上に、警察と成海がふかい協力関係にあることに関心があったようだ。

 いっしょに、犯罪集団のたむろする廃工場に踏みこむとまでは、思っていなかったらしい。


「警察四一の取材のときもそうだったの?」

「いや。もっと、たいへんだったね」

 飼い猫探しのような簡単な協力もあったが、海外マフィアへの囮捜査に加わることもあった。成海ひとりが捕まって、暴行を受けたことは、語らないほうがいいだろう。

「いつか、ききたいな。でも、いまは……」

 成海はお腹を押さえた。

「ああ。腹ごしらえが優先だ」

 まだ、なにも食べていない。未明にかえったこともあって、朝の九時には起きられなかった。ホテルの朝食は九時までだ。

 朝方、葵に電話をかけて、集合時刻をおくらせてもらった。

 午前中は東京メトロ東西線沿いにある地下鉄博物館をたずねる予定だった。葛西駅前だったら、料理店に困らない。道中で、朝食をとることにしたのである。


「ここにしよう。小松菜カレーがある。きのうは、そばだった。こんどはカレーを試したい」

「どれも、美味しそう。だったら、わたしは、小松菜パスタにしようかな」

 定食屋にはいった。まだ、はやい時間だ。客は少なかった。すぐに運ばれてきた。小松菜カレーも小松菜パスタも絶品だった。ふたりで、お皿を交換しながら、完食した。江戸川区の特産品である小松菜は、成海たちの血肉にかわった。

「ごちそうさまでした」

 引き戸をあけた。葛西駅に向かった。西改札口を曲がった。バスロータリーが見えてきた。とおくで『風とともに』がまわっていた。


 成海はおとといの惨劇を思い出した。衝撃的な目撃は、まだ、忘れられない。目ぶたの裏に焼きついていた。――右手が飛んでくる光景だ。あの経験は、二度とないと思いたい。口にしたら、ふたたび、目にするような気がして、話題にはしなかった。

 ……足がおもたい。凄惨な記憶の砂浜が、なかなか消えない。成海の足をからめとっていた。勢いよく、顔をあげた。柱時計に目線を向けた。

「地下鉄博物館は十時から入場できる。いまは十一時だ。ちょうどいい時間になった」


「ええ。でも、わたし、行ったことなくて……。このあたりに、入り口があるらしいけど……。ごめんなさい」

「西船橋方面の改札口のしたにあったよ。入り口を見た」

 成海が先陣を切った。タクシー乗り場をおおまわりして、高架下にもどった。すぐに見つかった。タイルの壁に、地下鉄博物館の青いパネルが張られていた。葵に笑顔を向けた。


 葵は汗ばんだ身体も気にせず、成海によりそった。小学生のころは、葵のとなりを歩けなかった。身体の距離は、心の距離である。自由にふれることはできないが、離れてもいない。

 地下鉄博物館の真上を電車が通過した。青いパネルはゆれた。さざ波が起きた。ダイヤグラムが鉄の海を満ち引きしている。

 正面の自動ドアは、大口をあける準備を終えていた。

 海面に飛び出た口である。

 

 成海と葵は、進んで飲みこまれた。旧約聖書のヨナとクジラのようだった。

 ふたりのヨナは、受付で、入場料を払った。五百円で、おつりがかえってきた。こんどは、ふたり自身がクジラの血肉とかわったのである。

 しかし、よろこばしいことだった。

 地下鉄博物館は、ふだん、目にとまる機会は少ない。地元の住人もとおりすぎるばかりだ。しかし、その文化的な価値は、計り知れない。通勤車両があるからこそ、人間は各地に運ばれるのである。

 まさにクジラだった。飲みこんだ乗客を社会の血肉にかえていた。

 成海は感謝の心をもって、ゲートをくぐった。

「きょうで、三日目だ。気合いをいれないとな」

 ヨナは三日三晩、クジラの胃袋のなかにいた。祈りつづけた。四日目にクジラの外に出ることができた。困難をへて、解決にいたる隠喩でもある。三日間だ。地下鉄博物館も、それだけ長く滞在したいと思わせる場所だった。

 車両の展示。地下鉄のジオラマ。電車運転シミュレーター。図書室。食事のできる休憩室。三日間、とじこめられても、十分、すごすことができる。

 しかし……。


「……午後には、藤堂と合流する」

 寝坊した分、時間がなかった。成海はさらに、巨大なクジラに飲みこまれたあとだった。不可能犯罪というケートスに。

「長居はできない」

 葛西周辺の取材も三日目だが、殺人事件も同様に三日目だった。観光客をふやすことも大事だが、都内を平穏にもどすことは、さらに重要である。

 それこそが、ヨナの宿命だと言える。

「涼しくて、居心地がよかったのに。残念」

 葵が本音をこぼした。地下鉄博物館のほとんどは、撮影が許可されていた。ゆっくりと、まわれなかった分、写真を大量に撮った。あとで、じっくりと見ることにした。

 成海たちは地下鉄博物館のオリジナルグッズである、記念メダルを二種類、購入した。

 ふたりは外の世界に吐き出された。セントラルにある『地下鉄博物館の観光』を×で消した。まだ、のこっているリストを見た。

 つぎはボートレース江戸川だ。総武線の平井駅と都営新宿線の船堀駅から無料バスが出ているらしいが、こんかいはタクシーを使った。


 三十分ほどで到着した。都道450号沿いに、立派な競艇場が建てられていた。中川のとなりである。河川を利用していた。

 競艇場の入り口は圧巻だった。五メートルにもおよぶ巨像が客を迎えていたのだ。左側に大魔神、右側に埴輪像だ。客たちは両者のあいだをとおるのである。特撮映画に出てくる、有名な巨像だった。ボートレース江戸川のモニュメントである。

 成海たちは館内の受付に向かった。レースにも興味はあったが、きょうの目的はべつにあった。ボートレース江戸川には、競艇場には珍しく、美術館があった。江戸川アートミュージアムである。一日に少人数しか、はいれなかった。事前に予約していた成海たちは、受付に向かった。本人照会を行った。

 ガイドの準備ができるまで、少し時間があるらしい。

 ふと、連続殺人事件とのかかわりを思い出した。

「……加古さんは、殺人事件があったとき、競艇にも賭けていた。この江戸川ボートレース場のことかもしれない」

 受付の中年女性にきいてみた。


「二日まえ、ここで、レースは行われていましたか?」

「ええ。スポーツ新聞社主催のレースがありました。午前十一時から午後四時までありました。どれも、波乱の着順だったようですよ」

 にこやかに言った。

「中止や延期もなかったわけですね」

「はい。問題はありませんでしたよ」

「ネット投票もあるようですが、サーバーのトラブルなどもなかったんですね?」

「はい。なにかありましたら、受付に連絡がはいります。最後の連絡は、三週間まえの天候不順だけです。おとといは、なにもなかったはずですよ」

 開催していなかった。ゆえに、賭けられるわけがない。

 そういった矛盾は、考えられないようだ。

 受付の女性があまりにも、親切だったので、ご厚意に甘えた。

「でしたら、ほかに、気になることはありませんでしたか? どんなことでも構いません」

「かわったことと言えば……」

 心当たりがあるようだ。

「ぜひ、きかせください」

 まえのめりになった。


「きのうの夜、警察のパトカーと犯人の車で、カーチェイスがあったらしんです。すぐちかくです!」

「ふふっ」うしろにいる葵が小声で漏らした。

「怖いですよね。どうして、そんなことが起きたのでしょう?」

 成海は苦笑いを浮かべるしかなかった。


 まさか、目のまえにいる男が追いかけたことで、カーチェイスがはじまったとは思うまい。

 ややあって、見学の時間になった。ガイドの紹介を受ける。奥にエレベーターが見えていた。江戸川アートミュージアムは三階だった。

 いっしょに向かった。あらためて、内装を見た。

 一見すると、映画館のようである。じっさいに使われた映画のポスターが壁一面に貼ってあった。昭和レトロをモチーフにしているようだ。

 競艇場のなかは、異空間が演出されていた。すでに、成海の満足度は高かった。

 一階ではとくに、ヤギロボットの『マッシロー』が存在感を露わにしていた。外れた舟券を食べさせることができるらしい。一階だけで、これだけ、洒落ていれば……。

 成海の期待がふくらんだ。胸を躍らせて、エレベーターにのった。ガイドの案内を受けるのは、成海と葵のふたりだけのようだ。

 ていねいな案内のもと、三階の隠し扉のような入り口をとおった。いっそう、昭和時代の雰囲気にかわった。展示物が一昔まえの時代にそろえられているからだろう。

「懐かしい」

 葵はそうそうに、尻尾をふった。

「おばあちゃんの家のちかくに、のこっていた。これも、あれも!」

「ほんとうだ。薬局や駄菓子屋に置いてあった。見たことないものもあるけど、懐かしいと思っちゃうな」

 ガイドの説明に耳をかたむけながら、順々に視線を投げた。等身大キャラクター人形、古き良き商品看板、妖怪たちの息づく木版画、折り紙による龍神、写真を絵の具にした絵画。普通の美術館には、なかなか見ることのできない、工芸品が鎮座していた。肝胆による感嘆だ。成海の期待を完全にうわまわっていた。

 アートミュージアムのツアーには、食事も含まれていた。美術鑑賞も終わり、特別席で軽めの昼食をとった。セントラルに×を書きいれた。

 ボートレース江戸川も見納めだ。

 受付で、お礼を言って、外へと出た。

 成海は後ろ髪を引かれる思いで、ふりかえった。

「楽しかった。こんどはレースの賭けもしたい」


 歓声が響いていた。

「うん。また、来たいね」

 葵も名残惜しいようだ。

「わたしの抱いていたイメージと、ぜんぜん、ちがった。喫煙ルームも完全にべつ。きちんと分煙されている。女性専用の部屋もあって、どこも綺麗。若い人も来やすい。競艇場じゃなくて、ホテルみたいだった」

 彼女の笑顔に成海もつられた。

 競艇場は一般客からは、縁遠い場所だ。

 地元民でも、一度も、おとずれたことのない人は多いはずだ。公営競技である以上、一般客と距離があるのは、とうぜんである。

 しかし、こういった場所に、美術館があり、ガイド付きのツアーが用意されているのである。あたらしい客を迎えるだけではなく、競艇場に、賭け事以外の魅力も見出すことができる。素晴らしい取り組みだった。


 成海たちは、無料バスにのりこんだ。船橋駅でおりた。

 徒歩二分、京成船橋駅の改札口があらわれた。

 京成本線の京成上野行にのり、二十分で江戸川駅に着いた。中川の反対側だ。一級河川の江戸川が見えていた。三分ほど歩くと、河川敷があらわれた。

 土手への石階段をのぼった。


「小岩菖蒲園だ」

 池のなかのスイレンがひときわ、美しい花を咲かせていた。

「ここは、わたしも好きで、何度も来たことがある」

「このへんでは、堀切菖蒲園とならんで、有名だよね」

「ええ。葛飾区の『堀切菖蒲園』と江戸川区の『小岩菖蒲園』は、どっちも京成線沿いで、電車一本で着ける。しかも、十分の距離。一日でふたつの菖蒲園をまわれることで、有名なのよ」

 鉄道橋のうえを電車が走っていた。

「花見と言えば、世間的にはサクラだ」

 東京のサクラだと、新宿御苑、目黒川、国立桜通りが有名である。見上げて、歩くのが楽しみ方だ。

「でも、菖蒲の花見もいいものなんだよね。足下に咲き乱れているのが美しいんだ」

 見下ろす楽しさは別物である。小岩菖蒲園は河川敷の一部を回遊式の庭園にかえたものだ。無料で出入りができた。

「二ヶ月ほど、はやかったら、満開の菖蒲が楽しめたんだけど……」

 葵はとおい目でながめた。

「もう八月、流石に咲いていないね」

 おかげで、人は少なかった。

 ふたりきり、遊歩道をゆっくりと歩きまわった。例年、六月初旬には、『小岩菖蒲園まつり』と『葛飾菖蒲まつり』が同時期に開催されていた。入り口には、のぼりが立てられ、観光客でごったがえしになり、みな、紫色の絨毯のあいだを巡るのだ。

「八月だって、ほかの花が咲いている。見応えはある」

 土のうえにはヘメロカリス、水面にはスイレンが咲いていた。黄色と赤色のグラデーションになっていた。

 ふたりはベンチにすわった。電車の通過、蝉の声、川のせせらぎ、すべての音が、成海と葵だけの世界をつくっていた。静かな時間だった。なによりも、お互いの吐息が心地よかった。耽美な時間はあっというまである。

 隣接した駐車場から、ききおぼえのある声がとどいた。


 藤堂だ。

「時間みたいだ」

 セントラルスケジュールのリストを消した。

 江戸川区の観光取材は、夜の船堀タワーだけになった。

「工藤さんはどうする?」

 成海は立ちあがった。

「わたしは、ホテルにもどって、三郷くんに連絡する。ほら、きのうみたいに、アルカディアを進めておこうかと思って」

「ありがとう。助かるよ」


 藤堂は気を遣っているのか、小岩菖蒲園におりてこなかった。成海とすれちがうと、藤堂は葵に手をあげた。

 きびすをかえし、スカイラインにのった。

 シートベルをつけて、アクセルを踏み、江戸川の陸橋を離れた。

「それで?」


 成海は気持ちを切り替えた。廃工場への襲撃から半日、経った。

 ききたいことは、山ほどあった。

 ただのドライブではないのは、後部座席を見れば、すぐにわかった。

「きょうは、沼田刑事もいっしょなんですね」

「ああ、邪魔しているよ」

 成海は自分のほうが邪魔者だという意味で、みずからの胸を叩いた。沼田はそんなことないという意味で、手をふった。

「これから。協力者と会う予定になっているんだ」

 藤堂は腕時計を見た。待ち合わせの時刻を確認しているようだった。

「心よく、証言してくれるらしい」

「沼田さんが同行している。もしかして、相手は……」

「ああ。流血の金魚祭りの関係者だ。沼田さんは、顔を合わせたことがあるようでね」

「くわしく、きかせてもらえますか?」

「もちろんだ。知ってのとおり、白い蠍の現リーダー、桜井が捕まった。桜井の取り調べは、朝方、二課にあけわたされたが……」

「二課ですか?」

 二課は特殊詐欺や集団犯罪の担当部署である。寺崎と三浦の犯罪が露見したからだろう。白い蠍は内通者を大手企業や研究機関におくっていた。物資を盗んでいた件を、知能犯による横領にあてはめたようだ。沼田の顔は険しかった。二課との一悶着が伺えた。

「まァ、とにかく、きのうの件で、五年まえの事件の洗い直しがはじまったわけだ。白い蠍のかかわっていた事件だ。あいつらが流血の金魚祭りに関与していたのは、あきらかだからな。資料室をひっくりかえして、当時の事件を調べた」

 沼田は真新しい資料ファイルを成海にわたした。

「被害者は緑川大学にかよっていた男性……」

 すでに判明済みの情報である。


「名前は大石陽介……」

 成海の知らない事実が加えられていた。

「出身地は神奈川県、174センチ、67キロ、卒業後は緑川大学イノベーション室にある開発研究機関にはいることが内定していた。なるほど、有望な若者だったようですね」

「ほかの研究機関を経由せずに、イノベーション室の研究員だ。このエリートコースは大学内でも、そうとう、せまき門らしくてな。毎年、内定者はかぎられていた。幸せの絶頂期だったようが……」沼田の表情は曇った。

「その協力者はどなたですか?」

「木村早苗という女性だ。彼の恋人だった。大石は研究員の道に就いたあと、そうそうに結婚するつもりだったらしい。婚約者と言ってもいい」

「新幹線でそろそろ、到着する時刻だ。のぞみの終点、東京駅だ」

 藤堂は車のスピードをあげた。

「いまは、都内に暮らしていないんですか?」

「東京は、大石との思い出が多すぎるらしくてな。事件があったあと、京都に引っ越したらしい。京都市内で働いていると言っていた」

「よく来てくれましたね」

「白い蠍のリーダーが捕まって、撲滅できる可能性が高いことを伝えた。三ヶ月まえに、相川会を追い出したこともな。つまり、流血の金魚祭りの当事者は、すべて、いなくなったことになる」

 ちいさい声だったが、電話先で、よろこんでいたらしい。

「きっと、気持ちの整理をつけるために、沼田さんと会おうと思ったのでしょうね」

「だが、われわれにも、きくことがある」

「そうだね」

 成海は資料内の文字を人差し指でなぞった。

「あった。証言だ。木村早苗さんは、緑川大学の同期生だ。大石さんとは、大学一年生のころに、知り合っている」

 つまり、こんかいの被害者である寺崎恭吾とも同学年のはずだ。むしろ、もっと、ふかい間柄だったかもしれない。

 少なくとも、寺崎と大石、両者の関係性を知っているにちがいなかった。


 駅前のパーキングで、スカイラインをとめた。

 三人は東京駅の赤レンガ駅舎の横を歩いた。赤レンガ駅舎は百年以上まえに、建てられた。戦争をのりこえた駅舎である。

 東京駅の象徴だった。

「太陽のように、すべての交通網へと、光をはなつ駅――」

 開業の際に、当時の総理大臣、大隈重信の述べたことばである。

「百年、経っても、色褪せない。見事に体現しているね」

 東京駅は、日本の鉄道駅の玄関口でありつづけた。偉大な駅だ。構内を見れば、その歴史は全身に伝わるはずだ。

 東京駅の南口は、まるで絢爛豪華な洋館のようだった。


 成海は三人の先頭だった。真っ先に足を踏みいれた。見上げた。有名な天井ドームが背をのばしていた。光り輝く八角形の天井である。

 干支のレリーフが方位に従って、八支、配置されていた。あまりの美しさに足だけではなく、息すら、とめる者も多いはずだ。

 これぞ、東京駅という姿だった。

 しかし、藤堂と沼田は天井を見ていなかった。ふたりとも、時間を気にしていた。早苗の待ち合わせとは、別件のようだった。

「そろそろ、はじまるな」

「ええ。署長もたいへんでしょうね」

「それが仕事だ。仕方ないさ」

「なんの話?」

「記者会見だ。流石に、隠し切れなくなってな。ばらばら死体も含めて、いまの捜査状況を話すことになっている」

 成海は罰の悪そうな顔をした。カーチェイスを思い出していた。きのう、車で追いかけた件が、住民に知れわたっているのは、競艇場で体感していた。

 記者たちに尻尾をつかまれた要因は、成海かもしれない。

「ぼくが騒ぎをおおきく……」

「気にするな。被害者の身体を、たった二日ですべて回収できたんだ。これ以上のはやさは期待できない。順調に成果は出ている」

 沼田は成海を励ました。

「もしも、寺崎の四肢だけ見つかって、ほかの部位が見つかっていなかったら、さらに住民の不安を煽ることになった。成海が追いかけたからこそ、遺棄した男を現行犯逮捕したんだ」

 藤堂は肩を叩いた。そして、話題をかえた。

「待ち合わせは、地下一階だ。もう待っているかもしれないな」

 ふたたび、足を進めた。天井ドームを通過した。改札口の手前を曲がった。地下へのエスカレーターをおりた。

 東京駅は警察官が常駐している場所だ。行き来する機会が多いのかもしれない。

 ふたりは迷わず、目的地へと歩いていた。

 成海も、向かっている場所だけは推測できていた。渋谷の待ち合わせといえば、忠犬ハチ公、池袋ならば、いけふくろう、東京駅ならば、銀の鈴だった。地下一階のさきに、シンボルが見えてきた。アルミ合金製の鈴だ。一メートルちかい鈴だった。

 天井から吊されていた。


 二十台後半の女性が銀の鈴のとなりに立っていた。周囲には、女子高生か年配の老人しかいなかった。

 彼女だ。

「木村早苗さんですね」沼田がきいた。

「はい」

 早苗の顔には、不安の色が見え隠れしていた。

「おひさしぶりです」

 しかし、沼田と目が合った途端、柔らかい笑みにかわった。

 沼田も自分の顔をおぼえていたことを、よろこんでいるようだ。

「ここではなんですからね。落ち着いた場所に行きましょう」


 四人は東京駅を出た。真っ直ぐに進むと、行幸通りだ。天皇様が行幸する道である。イチョウ並木を歩くと、皇居に着くのだが、そこまでは歩かず、手前にある丸の内ビルディングへとはいった。丸ビルの愛称で、知られていた。

 成海たちは。四階にあるカフェのテーブル席にすわった。

 窓際だ。東京駅が一望できた。

「二、三、ききたいことがあると言っていましたが、いったい、なにを……?」

 藤堂と沼田は、成海に目線を向けた。質問者として、適任だと思われているようだ。簡単に自己紹介した。たずねた。

「寺崎恭吾さんをご存じですか?」

「はい。大学の同期です」

「寺崎さんは、大石さんとも親しかった。まちがいありませんね」

「そうです。その、寺崎くんがなにか……」

 いずれ知ることになるかもしれない。

 しかし、いまは、流血の金魚祭りの事後調査を体裁にして、殺人事件にふれなかった。寺崎の凄惨な死を伝えたら、ショックで、ことばにならない可能性もあったからだ。

「寺崎さんは、葛西の多目的研究センターで働いていました。緑川大学イノベーション室の所属です。ほかの研究機関は経由していないようですが、彼は在学中から、専属の研究員に選ばれていたのですか?」

「いいえ。陽介さんが亡くなって……。欠員が出たあと、次点で選ばれたときいています。本人から、そうききました」

 早苗の年、定員はひとりだけだった。

 ふたりとも、目指していたが、結局、大石が選ばれたのである。

 大石の死を切っ掛けに……賽の目はかわった。

 寺崎は利益をえたのだ。

 藤堂と沼田は、同時にメモをとった。

「貴方とふたりは、大学の同期生でした。どういった経緯で、知り合ったのですか?」

「緑川大学の講座のときです。わたしの席が寺崎くんのとなりだったんです。よく話すようになりました。寺崎くんは、わたしよりはやく、陽介さんと知り合っていて……」

 早苗は東京駅を行き交う人を目でおくった。

 恋人との出会いだ。心なしか、早苗の口調は優しかった。

「寺崎くんと話しているとき、陽介さんが一声、かけて、とおりすぎる日がつづきました。夏になって、ようやく、彼がわたしの名前をおぼえたくらいです」

 大石はよく冗談を言う青年だったらしい。苦学生にもかかわらず、みずからの不幸を恨むこともなかった。真面目で実直、前向きで稚気、早苗が惹かれるのも、とうぜんだった。

「秋頃でしょうか。三人で話すようになりました。そして、いろいろあって……。一年生の冬、わたしと陽介さんは交際をはじめました」

 おそらく、早苗のほうが恋に落ちたのだ。

 彼女の仕草、ひとつひとつに、大石への憧憬があらわれていた。

 成海は葵に対する、自分の感情を思い起こしていた。

「……早苗さんは、大石さんより、寺崎さんとさきに知り合っていたわけですね。いくら仲良しでも、男女三人の仲は、むずかしいものです。二十歳前後ならば、なおさらでしょう」

 成海は語気を強めた。

「貴方と寺崎さんとのあいだで、恋愛関係に発展する機会は、なかったのですか?」

 早苗は黙った。良識があればあるほど、過去は語りたがらないものである。

 とくに、男女の機微にかんする問題は、口の端にかけるものだ。居合わせない相手にも影響を与えることを嫌がる。ゆえに、黙る。褒められるべき考え方だ。

 しかし、いまは、早苗の口をひらかせなくてはならなかった。

 成海は赤いニシンを含みはなった。

「わたしの古い友人が多目的研究センターの事務員をしていました。寺崎さんとも、よく顔を合わせていました」

 事実である。しかし、誘導的なことばだった。

 成海はつづきを話さなかった。意図的だった。

 成海の沈黙は、早苗に誤認を与えた。

 寺崎本人が、話題にあげたのだと勘違いしたのである。

「……交際するまえには、なにもありませんでした」

 だからこそなのかもしれない。成海は思った。

「ただ、陽介さんが亡くなったあと、寺崎くんは申し出てくれました」


 ――彼のかわりに、イノベーション室にはいることになった。彼の死に報いたい。

 ――自分がすべて、大石陽介のかわりになる。意志を継ぎたいんだ。

 ――早苗さん、貴方とも……、ぼくが……。


「わたしに気を遣ったのでしょう」

「しかし、断った。交際しなかったのですね」

「はい。どうしても、思い出してしまうのです。寺崎くんを見ていると、となりで笑っている陽介さんが……。わたしには、なにより辛かった。東京にいることも……、耐えられなかったのです」

 早苗はうつむいた。

「……大石さんとは、結婚する予定だったんですよね」

「はい。卒業後に、籍をいれるつもりでした。陽介さんは、家族をもつのが夢だと言っていました。……うれしかった」

「ほかに身内はいなかったんですね?」

「はい。幼いころ、親に捨てられたと言っていました。神奈川県の施設で育ったようです。わたしもそれ以上はきけませんでした」

 早苗は顔をあげた。


「そういえば、ひとりだけ、血縁者がいると言っていました」

「ほんとうですか!」

「わたしも会ったことはないですが……」

「名前はわかりませんか?」

 細い首を左右にふった。否定だ。

「相手の年齢はどうですか?」

「きいていません」

「男性か女性かは、知りませんか。兄や妹といった話もきいていませんか?」

「事情が事情だけに、ふかく、ふれなかったのです」

 藤堂と沼田は、落胆の色を隠し切れなかった。姉妹兄弟、叔父叔母、祖父祖母……。遠縁を除けば、八通りもの可能性がのこってしまった。足取りを追うことは、むずかしかった。

「ただ、お互いの関係は良好だったようです。陽介さんは、結婚式を挙げるときには、呼びたいと言っていました」

「だったら、ふだんから連絡をとっていたことになりますね。大石さんの遺品はのこっていますか?」

 施設の出身ならば、婚約者の早苗にわたされているはずだ。

 しかし、ふたたび、真実の光は消された。


「ごめんなさい。手元にあると、引きずられてしまうので……。すべて、燃やしてしまいました」

 もう、きける話はなさそうだった。時間もかけられなかった。

 早苗は大石の墓前に花を供えに行くらしい。

 全員、立ちあがった。成海は、もうひとつの質問に思いあたった。

 藤堂と沼田は、すでに背を向けていた。

「早苗さん、大石さんは行船公園の金魚祭りで、白い蠍と相川会の抗争に巻きこまれました。ひとりで行ったとは思えません。貴方といっしょに出かけたのですか?」

「いいえ。ちがいます。わたしではありません」

 断言した。はっきりとした声色だった。

「どなたか、ご存じなのですか?」


「ええ。寺崎くんです」

 ふたりの刑事がふり向いた。藤堂は眉をしかめた。沼田は目を光らせた。

「彼が言っていたのですか?」

「はい。お葬式のときに……。それがなにか?」

「いいえ。わかりました。ご協力、ありがとうございます」

 成海たちは、お礼を言った。早苗の表情は、あかるくなっていた。京都では、大石のことを話す機会がなかったにちがいない、思いの丈を話し、踏ん切りがついたようだ。

 あとは墓前で、語るにちがいない。

 早苗の姿が見えなくなったあと、三人は沈黙を破った。


「警察には、たしか……」

 藤堂が漏らした。

「ああ、証言していない」


 沼田は当時の担当刑事である。

「流血の金魚祭りが起きたとき、同行者の目撃があったそうだ。しかし、警察官が駆けつけたときには、姿を消していたらしい」

 行船公園ちかくの交番でも、きいた話である。

「その相手は、寺崎だったわけですね。これは沼田さん……」

「ああ。出世欲、劣等感、恋敵……。大石を殺害する動機としては、十分だ」

「まちがいないでしょう」

 藤堂と沼田は、意見を合わせていた。

 成海はペンをとった。セントラルの裏側に、チェックリストがふえた。


「――寺崎さんは、五年まえ、大石陽介さんの殺害を企んだ。流血の金魚祭りだ。三浦さんも白い蠍の一員として、その場にいたにちがいない。呼び出したのは寺崎さん、刺したのは三浦さんだろう。こんかい、殺されたふたりは、当時の犯人のふたりなんだ」


「どうして、そうなる? 寺崎はともかく、三浦は被害者と面識はなかったはずだ」

 成海はアイスコーヒーを飲み干した。

 藤堂の疑問に答えた。


「いままでの証言と状況を考えれば、すぐにわかることだよ」

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