十四章 隠し缶蹴り作戦
「もう、電車もバスも走っていない」
成海は物音を気にせずに、ドアをひらいた。
「葛西臨海公園駅まで行けば、タクシーがとまっているはずだ」
右手の肩掛け鞄をかかげた。肩にかけた。
左手の携帯電話と財布を両ポケットにいれた。
自由になった両手をふって、廊下を走った。エレベーターは一階で、とまっていた。ボタンを押した。ここは三階だ。
「階段のほうがはやい」
成海は落ちるように、段差をくだっていった。窓ガラスの外は、暗闇につつまれていた。ひとつ、またひとつと、文明の光が消えはじめていた。カウントダウンのようだった。
成海の気持ちをいっそう、逸らせた。
階段をときに踏み外しながら、一階に着いた。着地と同時に、うしろのエレベーターのひらく音がした。エントランスのアトリウム広場を進めば、外への出入り口だ。
爪先に力がはいった。
しかし、ロビーを駆け抜けるまえに、成海の服がつかまれた。足をとめた。ふり向いた。勢いそのままに、女性が成海の胸に飛びこんできた。
成海の鼻先は、彼女の頭頂部に埋もれた。
アルガンオイルとセサミオイルの配合された、ホテル用シャンプーのにおいが鼻孔をくすぐった。瑞々しい黒髪は、放射状に舞いあがり、一本一本が、波打っていた。あまりの美しさに、成海の息はとまった。
羽化したばかりの蝶々のような羽ばたきだった。成海は思わず、右手で、後ろ髪をうなじへと押しつけた。柔らかくて、細い首だ。人差し指の爪跡が心配になるほど、青白い肌に食いこんだ。
成海の力が加わり、女性の身体が流れた。このままでは転倒すると思い、左手を脇のしたにいれた。くびれた腰を五指でつかみ、ようやく、動きがとまった。
きのうの夜にも抱きとめた。成海の知っている身体付きだった。
「……工藤さん?」
成海の両手に支えられ、工藤葵は顔をあげた。
成海を心配して、追いかけてきたようだ。
「どうしたの? こんなおそくに……」葵はたずねた。
「もしかしたら、つぎに、死体を遺棄する場所を突きとめたかもしれないんだ」
「ひとりじゃ、危険よ。犯人かもしれないんでしょう?」
「見に行くだけだよ。なにもなかったら、最寄りの交番に事情を説明する」
「だったら、わたしも行きます」
葵は胸のまえに手を置き、固く握り締めた。
「こんどこそ、後悔したくない……。見て見ぬふりはできない」
心に期するものがあるようだ。
「それに、相手がふたりだったら、犯人も、抵抗しないかもしれないでしょう?」
一理、あった。
「わかった。いっしょに行こう」
成海たちはホテルを出て、駅前へと向かった。葛西臨海公園駅に人の気配はなかった。二手にわかれる。葵がタクシーを見つけた。
「首都高速7号小松川線と新荒川葛西堤防線の交差する場所まで、お願いします。小松川インターチェンジの手前です」
タクシーは京葉線に沿って走り、葛西ジャンクションを右に曲がった。窓から、土手と荒川が見えていた。人工水路の新左近川をこえる。中川にかわった。真っ直ぐ進めば、首都高速道路に突きあたる。
成海たちは首都高の高架下で、おろしてもらった。
歩道に出た。
「だれもいないね」
「いまは、出歩く時間帯じゃない。だからこそ、死体を遺棄するとき、だれにも目撃されないで済む。ただ、彼らの目的は、一般人に発見されることだ。ぼくが遺棄する立場なら、運転席から見つけられる場所にする」
うしろは、中川と荒川だ。道はない。成海は正面を見据えた。葵の目を見た。彼女は察するように、うなずいた。遠慮なく、走りはじめる。首都高速道路は徐々に、地上へとくだっていた。
高架下の駐車場、広場、工事現場、成海は順々に注視したが、異変は見つからない。
「ここが出入り口だ」
300メートルは走ったにちがいない。首都高速道路の案内標識を見送った。本線の乗り場から離れていく。
しかし、車の数はふえていた。交通量のピークは終わっていなかった。
首都高速道路をおりる車とのぼる車が同じ道に集まっているのだ。
気を張りつめる。まだ、可能性はのこっていた。
二つ目の十字路に差しかかったときだ。
成海の感覚が、さらに研ぎ澄まされた。耳朶に違和感が這いずりまわる。肌がひりついていた。空気の変わり目を感じた。人の気配があった。音が反響して、場所がわからない。
成海は走る速度をゆるめた。
首を左右にふった。足音や息遣いを逃さないように、耳に意識をかたむける。正面は自動車の駐車場だった。小松川自転車置き場と隣接している。高架下の空間を利用した駐車場だ。高い壁とフェンスにかこまれている。歩いている通行人の視界には、はいりにくい。
いっぽう、車を運転する者にとっては、ちょうどいい高さだ。首都高速道路の側壁には、はしご、ネット、パイプがかけられていた。
手をのばせば、とどく場所である。とくに怪しい場所だ。
成海の目は一点を捉えた。
電灯が駐車場を淡く照らしている。側壁に、黒い身体が映し出されていた。
「……だれか、いる」
うごめく影は、踊っているようだった。両手をあげては、さげている。土台を確認しているようだ。フードのなかに手をいれた。ビニール袋をとり出した。
慎重に破っている。つかんだ。高くかかげられた。長細い。ビニール袋の中身だ。
はしごの踏み場に置いていた。電灯との距離もあって、その禍々しい影は、側壁におおきく映し出されている。くの字の折れ線、骨の飛び出した断面、くぼんだ膝頭、五本の指、思わず、口元に手をあてた。
「……右脚だ」
フードをかぶった男の両手から右脚が離れる。はしごをおりる。
地面に着地した。ふりかえる。
フェンスごしに、成海と目が合った。
気づかれた。反対側のフェンスに飛びついた。逃げる気だ。
「ま、待て」
ちょうど、葵が追いついた。息を切らしている。
「工藤さん、警察に電話!」
成海は手前のフェンスをよじのぼった。
「ここに呼ぶんだ。避難はしごのうえを見てもらえば、わかる!」
「う、うん」
すでに、フードをかぶった男は、二つ目のフェンスをこえている。成海もつづいた。中川方面へと走っていった。人気の少ない場所だ。まだ、背中が見えている。
成海は携帯電話をとった。藤堂の番号を押した。数コールで、電話に出た。
「藤堂、パトロール中か!」
「ああ。いまから交代するところだが、どうした? なにがあった?」
「例の男だ。右脚の遺棄しているところを見つけた」
「なんだと!」
「いま、追いかけている」
「どこだ!」
「小松川インターチェンジの高架下だ! 今井街道を走っている。はァはァ。このまま、行けば、中川だ!」
藤堂は、ほかの警察官に無線連絡をいれる。
「ちかくのパトカーを、はァはァ、呼んでくれ!」
水族園につづいて、二度目の全力疾走だった。身体中に疲れが溜まっている。心臓をやすりで削られているようだった。
肺が酸素を求めている。どれだけ、呼吸しても、楽にならない。少しでも、気を抜いたら、地面に腰をおろしそうだった。
「わかった。ちょうど、警邏中のパトカーがある。数分で着くはずだ。無理はするんじゃない」
「はァはァ。ぼくが望んでも、対峙できそうにないよ。距離をあけられてしまった。それに……」
白い蠍の手下の男も必死だった。フードはさがっている。顔を隠す余力はないようだ。成海とはことなり、体力を温存する必要はなかった。
彼には終着地点が見えていたのだ。
「やっぱり、用意していたか」
路上駐車されている車にのりこんだ。スモークガラスが張られている。運転席にのったところを見ると、ひとりしかいないようだ。
アクセルを一気に踏み、スピードをあげる。
「はァはァ、車にのった。もう追いつけない」
「車種とカラーは?」
「黒色の……大型バン。ヴェルファイアだ」
距離がとおすぎた。ナンバープレートまでは視認できなかった。
「ヴェルファイアは都道450号に出た。新小岩方面だ。かなりの速度を出している。エンジンやマフラーも改造されている。パトカーをさきまわりさせれば、嫌でも目につくはずだ」
「わかった。ちょうどいい。成海はそのまま、小松川警察署まで来てくれ。迎えに行く」
「工藤さんを高架下にのこしてきた。右脚もいっしょだ」
「連絡を受けている。すでに、合流済みだ」
「そうか。心配はなさそうだね。はァはァ、警察署が見えてきた。藤堂はいま、どこにいる?」
「こちらから見えた。とまっていい」
成海は姿勢を保てなかった。両膝に手をついた。スカイラインが横付けされる。
藤堂は助手席のドアをあけた。身体ごと、なだれこんだ。
藤堂は無線をとった。報告を受けたあと、アクセルを踏む。
「ヴェルファイアは新小岩で、網にかかったらしい。ユーターンして、仲井堀通りを南下している。上手くいけば、合流できるだろう。少しでも、手がいる。……おりられなくなるぞ。準備はいいか?」
声が出ない。右手をあげる。了解の合図を出した。
ほどなくして、藤堂の目論見は成功した。
「サイレンの音がする。ちかいぞ」
さきほど見たヴェルファイアをパトカーが追っていた。
「どちらも、はやすぎるな。危険だ」
いまは深夜だ。車の数はへっている。衝突の心配は少ない。
しかし、ハンドルを切りまちがえれば、大事故に繋がる。
ヴェルファイアは速度をゆるめはじめた。
「まずい」
パトカーと併走になった瞬間、車体ごと体当たりしたのである。パトカーのドアミラー、フレーム、バンバーが弾け飛んだ。
「なんてやつだ」
パトカーはブレーキの悲鳴音をあげながら、横回転していった。大杉橋の柱に、叩きつけられる。運転席の警察官がおりた。ガソリンは漏れていないが、フレームは変形し、タイヤは両輪ともパンクしている。走れそうにない。
現時点で、ヴェルファイアを追いかけているのは、藤堂のスカイラインだけだった。
藤堂はパトランプをとった。スカイラインの屋根につけて、緊急行動を知らせようとした。左手は無線にのびている。
「……藤堂!」
成海は制止した。藤堂は目線だけを向けた。
「隠し缶蹴りだ」
無線をもった左手がとまる。半日まえに、このスカイラインのなかで話した。小学生のころに流行った遊びである。藤堂は後方の中破したパトカーを見る。静かにうなずいた。パトランプをもどした。
「名案だ」
すでに、ナンバープレートの確認を終わっている。もっとも最悪なケースは、逃げられることではない。大事故が起きて、遺棄した男の証言がとれないことである。
平気でヴェルファイアの最高速度を出し、車体をぶつけてくる相手だ。複数のパトカーで追いまわし、車道を封鎖すれば、結果は目に見えている。大破だ。
だったら、ガソリンが切れるまで、追いかけまわしたほうがいい。あわよくば、白い蠍のアジトまで見つけられるかもしれない。
藤堂は江戸川区に集結しつつある、すべての警察車両に、隠し缶蹴り作戦を伝えた。あからさまなパトカーを使わない。警察車両をすべて覆面にする。車種もクラウン、キザシ、レガシィ、セドリックなど、複数台を使用し、拿捕ではなく、尾行に切りかえる。
ヴェルファイアから離れる車両と加わる車両を交互に循環させることで、犯人に気がつかせないようにする。だが、ひたすら、追いかけつづける作戦だ。
すでに、運転者の危険性は伝わっていたらしい。藤堂の作戦はすぐに採用された。続々と、覆面車両が集まっている。
「目に見えている車がすべて、私服警官の運転だとは思わないだろうね」
経験者の成海は言った。
「小学校で遊んでいた、隠し缶蹴りの経験が、ここで活きてくるとはな。わからないものだ」
「ぼくは、まんまとかかった。彼はどうか……」
堪え忍ぶ時間になった。藤堂は、ばらばら死体の身元が寺崎だと確認できたことを話し、成海は遺棄する場所を特定した方法を語った。
二時間の穏やかなドライブのすえ、ヴェルファイアは江戸川区に、もどってくる。撒いたと考えたのだろう。
人気の少ない場所へと向かっていた。
鬱そうな森のなかにある、廃工場への道だった。
覆面車両は一旦、散り散りになった。私有地にまで、ついていったら、流石におかしいとわかる。運転者はいっかいもおりていなかった。死体遺棄の現行犯逮捕の名目で、廃工場に踏みこむことは可能だ。
隠し缶蹴り作戦は成功したのである。
刑事たちを集めた。準備をととのえる。
藤堂の車とワゴンを二台、入り口にとめた。ヴェルファイアを使っても、外に出られないようにした。十数人の強面が横並びになる。
時間が経てば、もっと集まってくるだろう。
「話し声はしないね」
コオロギとスズムシの鳴き声しか、きこえてこない。左右の林で輪唱していた。右側の林の奥に、ちいさい屋根が見えた。物置だろうか。
「深夜だからな。白い蠍のアジトだったとしても、そう、数はいないだろう」
廃工場のハンガードアは、わずかにひらいている。
入り口だ。電気はついていない。
刑事たちは懐中電灯をつけた。藤堂が先頭を切る。
廃工場のなかにはいっていった。四人の刑事のあとに、成海もはいった。
「作業場のようだな」
長細い机が等間隔にならんでいた。やっとこばさみ、ポジショナー、コンベヤ、カーゴがころがっている。稼働していたころは、自動車の整備をしていたのかもしれない。いまは廃墟とかわりない。
「……大量のゴミ袋が集められているな」
「全部、白い蠍の内通者が集めたんだろうね」
「ああ。各地の施設に、もぐりこませて、金品を巻きあげている。……だとしたら、そうとうの構成員を抱えている」
「開封済みのゴミ袋が多い。集めたばかりのゴミ袋は、ほかの場所に置いているのかもしれない」
刑事たちは四方に懐中電灯を向けた。
殺人事件にかかわる証拠品を探しまわった。
しかし、見つからない。
サーチライトは廃工場を駆けまわる。なかなか、成果はあがらない。
次第に、刑事たちは中央に集まった。一瞬、悪寒が走った。
視界のすみに、違和感をおぼえたからだ。
成海は、二度見した。
しかし、暗闇にもどっている。だれかと目が合ったような気がしたのだ。
「――みなさん、あそこを照らしてくれませんか? 部屋の真ん中、白い壁の少しうえです」
全員の持ち手が動いた。
懐中電灯の照明が徐々にあがっていった。壁掛け棚が三段、釘打ちされている。
――えっ……。
――な、なに!
刑事を含めた六人は、いっせいに口元を押さえた。口内の水分が急速に奪われる。不意にあらわれた衝撃がおおきすぎた。驚きの声がこぼれ出るところだった。
正体を知りたいようで、知りたくない。全容を見たいが、見たくはない。相反する感情があふれ出て、懐中電灯がゆれている。
暗闇のなかで、ゴミ袋だけがわずかに見えている。三つ、戸棚に置かれていた。縦一列にならんでいる。薄いビニール袋だ。
いまは懐中電灯しか、光源はない。とおくから、目視はむずかしい。
じっくりと確認しなければならない。
刑事たちはお互いに合図をおくる。
ちかづいた。懐中電灯をもつ手に力がはいった。
床の一点に集中させる。
ゆれる。あがった。
薄茶色の肌に、股関節を思わせるくぼみがふたつ、沈んでいる。
――臀部だ。
腰回りと付け根が切断されていた。
両脚に接合する骨頭と大転子だけがのこっている。
お尻を戸棚にのせていた。すわりこんでいた。
成海の頬に、恐怖のにじんだ冷や汗が浮かぶ。
また、ゆれる。
また、あがった。赤茶色の肌に、肋骨の横線が刻まれている。
――胴体だ。
頸部と腰回りが切断されていた。臓器と血液が抜けている。両胸に死斑が転々とのこっていた。裸体なのに、まだら模様の洋服を着ているようだった。背中を壁につけて、脊椎を垂らしていた。成海の首筋を大粒の恐怖が落ちていった。
もう、とまらない。ゆれつづけた。あがりつづけた。
焦茶色の肌に、目と鼻と口がくっついていた。
――頭部だ。
喉仏が切断されていた。
穏やかな表情だ。微笑んでいる。幸せそう顔で、転た寝していた。
戸棚は彼にとっては、ベッドのようだった。
しかし、顔だけしかない。
首よりしたは、隔たりがあった。この差異が全身に怖気を走らせるのだ。成海の汗水は、とうとう、身体から離れた。落ちていった。床に衝突した。
恐怖が四方に弾け飛んだ。
声にもならない声が空気をふるわしていた。
懐中電灯の光は、複数の円を描いている。全員、動転していた。声を出さずとも、手のふるえが、光源に伝わっている。
まるでヘイロウだ。最大級のゆれを引き起こしていた。
全身にもかかわらず、全身ではない姿が照らされている。
「……まるで達磨だ」
頭部、胴体、臀部、三つのゴミ袋は一直線に置かれている。
右腕、左腕、右脚、左脚だけがない。四つとも遺棄されたからだ。
四つとも警察に回収されているからだ。
つまり、ばらばら死体の身体は、すべて、そろったのである。
藤堂はその場にとどまった。
ほかの刑事は鑑識への連絡と廃工場の周辺調査に、わかれていった。
「……寺崎恭吾だ。写真で確認している。痩けているが、同じ顔だ」
「この廃工場から、死体を運んでいたんだね」
「ああ。しかし、いったい、なんのために……」
「……報復行為だよ」
「さっき、車で話していたやつか」
「そうだ。白い蠍は、相川会が葛西から撤退していることを知らなかったんだ。報道もされていないからね。彼らがわかっていたのは、さいきん、幹部たちが出所したことだけだ。ときを同じくして、彼らのもとに、死体がおくられてきた」
「寺崎のばらばら死体だな」
「おそらく、だれの死体かまでは、わかっていなかったはずだ。しかし、白い蠍のタトゥーは確認できた。とうぜん、彼らは……」
「流血の金魚祭りの報復だと考えたわけだ」
「当時の騒動は、白い蠍が狙って、起こしたにちがいない。周辺の盗難事件も彼らが行ったんだ。相川会に泥をかぶせてね」
「報復も想定済みだった。だから、すぐに動いたのか」
「白い蠍も黙っているわけにはいかなかった。自分たちの縄張りだと主張することにきめた。かえしを行った。それが相川会のアジトのちかくに、ばらばら死体を晒すことだった」
「説明がつくな。相川会に気がつかせることが目的だった。だから、人目のつく時間帯に遺棄していた。相川会の拠点、四肢の遺棄。成海は資料ファイルを見て、この共通点に気がついたのか?」
「それもあるけど、最初に、藤堂が場所を言っていたからね。すべて一致していると、すぐにわかったよ」
あとは遺棄されていない場所をたしかめるだけだった。
通り沿いの小松川インターチェンジである。
「市内への遺棄は、白い蠍にとっても、死体の処理になる。警察の捜査がはじまれば、おのずと、手をくだした相川会へと辿り着くはずだ。そう考えたんだろう」
「まァ、警察が潰したあとでなければ、まちがいなく、相川会を怪しんだだろう」
「そう、白い蠍の思惑と、警察の前提がことなっていたんだ。警察は、相川会が活動していないことを知っていたからね」
「なるほど。ふたつの事件がこじれたわけだ」
「白い蠍にとっては、抗争状態、ぼくたちにとっては、狂気的な犯行にかわった……」
成海は戸棚に人差し指を向けた。
「この三つの部位は、江戸川区の外に置くつもりだったんだろうね。近隣で確認されている相川会の拠点は合計で七つ、区内に四つだ。のこりは区外の三つになる。四肢とこの三つがあてはまる」
「まちがいない。数も合っている」
「ここで、とうぜんの疑問が出てくる。相川会の仕業じゃなければ、いったい、だれが、白い蠍に寺崎さんの死体をおくりつけたのか?」
藤堂は目を光らせた。
「おれにも、わかってきたぞ」
「そう、殺人事件の犯人だ。現場は多目的研究センターだった。そして、多目的研究センターには、秘密の犯罪があった」
「三浦と寺崎による内通行為だな。彼らは白い蠍のリーダーから指示を受けて、ゴミ袋に金品や貴重品をいれていた。横流ししていた」
「犯人はその事実を知らなかった」
「知っていることと言えば、はやめにゴミ出しをしても、問題はないということくらいか。三浦や寺崎がそうしていたように……」
「犯人の頭のなかに、ふたりの行動がのこっていたんだろうね。だから、寺崎さんの死体を細かく刻んで、ゴミ袋にいれた。彼らと同じように、回収される日よりもはやくに、ゴミ捨て場に置いたんだ。それを白い蠍の構成員である犬飼さんが回収してしまった」
「犯人はゴミ処理場で、焼却されると考えた。しかし、じっさいには、白い蠍にもとにおくられていた」
「こうして、相川会の報復という勘違いに繋がった。しかし、ぼくたちにとっては、絶好の機会だ。犯人の隠したがっていたものが、見つかるかもしれない」
「どういうことだ?」
「犯人が死体を捨てただけとはかぎらない。証拠品もいっしょに、捨てたのかもしれない。見つけることができれば、捜査は一気に進展する」
成海は戸棚のしたに、注目した。
比較的、ちいさいゴミ袋が投げ捨てられていた。中身は赤黒かった。
「……血肉に見える」
「寺崎の臓器かもしれないな」
「心臓、肺、腸、胃袋、うん。そうだろうね。目に見えて、犯人を示す証拠品はないようだ」
「ちっ」
「ほかの部屋に、回収したゴミ袋を置いているかもしれない。すべて、見てまわらないと……」
刑事のひとりがもどってきた。
彼は作業場の奥に、通路とべつの部屋があると報告した。
「ここが工場跡だとしたら、どこかに事務室があるはずだ。となりはガレージだった。通路のさきに、事務室があるんだろう。反対側だ。この作業場にだれも、いないとしたら……」
「事務室に全員、集まっているか」
藤堂は刑事たちと相談した。
「成海は入り口にとめている車まで、さがっていてくれ。連絡はいれている。すぐに応援が来るはずだ」
「……わかった。ぼくじゃ、力不足のようだ」
「まァ、そのとおりだ。付け焼き刃の訓練じゃ、危険だからな」
「教官に習った、押さえ技を披露できなくて、残念だよ」
「あのかっこわるいやつか。竜頭蛇尾とか言っていたな。となりで倒されているのをよく見たよ」
「せめて、生存術と言ってくれよ」
藤堂は会話を切った。雄々しい背中を向け、手をふった。
成海は廃工場から出る。スカイラインの横で、立ちどまった。すぐうしろには、ひらいたままの門がある。門のさきの坂道に、刑事が立っている。廃工場の正面には、ふたり、立っていた。
合わせて、十数人ではあるが、包囲網は、できあがっている。
成海は藤堂のことばを切っ掛けに、数年前の取材を思い出していた。
警察四一の取材だ。
密着取材は各部署に同行するだけではなかった。
ほかの警察官と同じように、施設内にある道場で、散々、鍛えられた。
そのとき、竜頭蛇尾という動きを教官に教えられた。
数ヶ月の訓練だったが、身体にしっかりと、すりこまれている。成海はスカイラインに背中を預けた。畳のうえに転がされていたときの記憶が蘇る。
――成海くんは、考えて動くタイプだね。藤堂くんは身体がさきに反応するタイプだ。持ち前の身体能力と反射神経で対応する。柔道にしても、剣道にしても、最初から強かった。
「ぼくには、才能がないということですか?」
――いやいや。重心も姿勢もいい。ただ、考えすぎるきらいがあるだけだ。対峙したときに、動きのとまる癖がある。
「考えてしまうんです。相手が右に動くのか、うしろにさがるのか、向かってくるのか、足下を狙ってくるのか、襟をつかんでくるのか……。その判断をするのに、時間がかかってしまって」
――それはよくないな。道場の訓練でさえ、制止している。偶発的に襲われたとき、いっそう、待ちの姿勢になってしまうかもしれない。直したほうがいい。
「……危険ですよね」
――しかし、これは性格の問題だ。善し悪しにすぎない。成海くんは警察官じゃないからね。かならずしも、巨悪に立ち向かう必要はない。まずは、逃げる動きからはじめよう。
「わかりました」
――でも、逃げられないときもある。相手との距離がちかい。うしろに逃げ場がない。そういうときに、どうしたらいいか。その場で即断しなくてはならない。あえて、前方に進むという観点も必要だろう。
「うーん。余計に考えてしまいそうです」
――だったら、もっと考えなさい。そして、相手より、さきに選んだらいい。きっと、成海くんの性格に向いている。そうだな。四段階の判断基準をきめよう。竜頭蛇尾の動きだ。
「竜頭蛇尾? いいことばじゃないですね。最初に動きがあって、最後に勢いがなくなる。悪い意味でしょう?」
――ああ、だが……。
成海は、顔をあげた。現実に引きもどされる。
顔を横に向けた。耳立つ。廃工場のほうが騒がしくなっていた。
「うわァ!」
「なんだ、おまえたちは!」
「おとなしくしろ!」
「サツだ!」
「逃げろ」
「そっちに行ったぞ」
白い蠍の構成員の声だ。数は少ない。三人ほどしかいないようだ。成海は安堵した。藤堂たちならば、問題なく、捕縛できるにちがいない。息をついたとき、こんどは、茂みの奥から音がした。
無警戒の位置だった。
身体の四メートル正面である。
目を向けるよりもさきに、頭が動いた。
――そういえば、林のなかに屋根があったな。
――廃工場の作業場に、トイレはなかった。ほかの場所にもなかったとしたら、夜中、外に出ることも……。
成海はゆっくりと、顔をもどした。
ひとりの男が立っていた。
長身だ。両耳にピアスをつけていた。両手が濡れている。推測はあたっていた。トイレだ。偶然、廃工場を離れていたのである。男はまだ、成海に気がついていなかった。廃工場のほうを不安そうに見つめている。状況をたしかめているようだ。構成員のひとりが、ガレージから頭を出していた。
「警察が来た! はやく逃げるんだ!」
大声は林にも、とどいていた。現在の状況に気がついたらしい。男は走り出した。林から真っ直ぐ、進んできた。途中でとまった。
成海の存在に気がついたのだ。
ふたりのあいだの空気が張りついた。
成海の背後には、スカイラインとワゴンがあった。門のあいだを塞いでいる。成海が逃げようとしても、車に阻まれ、すぐに追いつかれる。男はポケットに手をいれようとしていた。ポケットはわずかに、ふくらんでいる。
服のうえからでもわかる。
折りたたみナイフの形状だ。
成海は相手の動きがゆっくりに見えていた。襲われる直前だ。刺される。
生きるか、死ぬか……。極限状態だった。
迷えば、死ぬ。迷ったときは……。
自分から選ぶ。……竜頭蛇尾だ。張りつめた空気が割れた。
成海の足が地球を蹴った。おおきな足音が響きわたった。
――竜頭蛇尾、身を守るには、いいことばだ。どうしても、逃げられないときこそ、攻撃が最大の防御になるからな。それが竜だ。いちばんのチャンスは、相手が凶器を手にするときだ。最初に上下の牙で叩けば、状況は一変する。
――まず、思いっきり、相手の持ち手を蹴りなさい。ナイフをもち歩いているほうが、その怖さをよく知っている。ゆえに、弱みになるんだ。
成海は教官の教えのとおり、全力で男のポケットのうえを蹴った。
不安はなかった。なぜならば……。
――ナイフがまだ、ポケットのなかならば、チャンスだ。ポケット内では、完全にひらくことがない。こちらは靴を履いている。リスクがない。いっぽう、相手はナイフの刃が自分に向いてもおかしくないと思っている。うえから蹴られたら、一溜まりもない。
男は右手を急いで、離した。手のひらの無事を確認している。
――持ち手を蹴れば、ナイフが外に落ちる可能性も高い。
林の奥に、ナイフが転がっていった。男は身体をさげた。探そうとしている。真夜中の林のなかだ。すぐに見つかるわけがない。
成海は恐怖を押し殺した。足に力をこめる。
――地面が土だったら、なおさらいい。踏ん張りが利かないからな。もう一本の牙の出番だ。相手のかかと側から真上に向けて、蹴りあげる。素早く、慎重に、確実にあてるんだ。
しかし、成海の下段蹴りは、上手くあたらなかった。稽古と本番はちがう。かすっただけだった。背筋が凍る。しかし、男が中腰の姿勢だったおかげで、体勢は崩れている。
――つぎは頭だ。相手の両脇のあいだに、成海くんの両腕をとおして、地面に倒すんだ。背中裏で自分の手をにぎりなさい。これで動けない。お互いに体力を削り合うだけだ。
最初にナイフごと蹴られたことで、男は手をうえにあげていた。
組むのは簡単だった。いっしょに、地面に倒れこんだ。
――そして、蛇のように、相手の足をからませる。踏ん張れる姿勢をとられてしまえば、そのまま、立ちあがる男もいる。壁を蹴って、背中を叩きつけてくるかもしれない。反撃を防ぐためには、足を固めるのがいちばんだ。
誤算があった。成海と男に身長差があったことだ。可動部までとどかない。男は目一杯、身体を左右に動かしている。正面にのれない。ふり切られそうだった。頭突きもしてきた。
両手の力がゆるんでくる。
思い出せ。つぎの行動は……。
――最後の尾は、簡単だ。叫ぶことだ。助けを求めるんだ。成海くんは、敵を倒す必要はない。自分が攻撃されない状態にするだけでいい。あとは、まわりに気づいてもらうんだ。
竜頭蛇尾はすでに、完成していた。
成海の勝ちだった。
「成海です! ひとり、捕まえました!」
五十メートル前後に、刑事が三人、控えていることはわかっていた。
叫び声はとどくはずだ。
「はやく来てください!」
地面がゆれている。震動が伝わってきた。大量の足音だ。成海のもとに向かっている。成海の体力も限界だった。喉に力をいれる。
「男の両脚が自由になっています! 押さえてください! ぼくじゃ、もちそうにありません!」
成海は教官の最後のことばを思い出していた。
――成海くんがひとりのときに、凶悪犯と対峙する。うしろは袋小路で、逃げることもできない。そんな不運は、まず、起きないよ。安心しなさい。はっはは。
黒服の刑事がいっせいに、押しよせてきた。
男の腹部と両脚に体重をかける。
「よし。離していいぞ。確保した」
成海は男から手を離した。となりに、大の字で倒れる。
「はァはァ。……教官、意外と不運は起きるものでしたよ」
「成海くん、だいじょうぶか?」
肩を叩かれる。葛西署の沼田刑事だった。半身を起こした。周囲には二十人以上の警察官が立っていた。すでに、応援が到着していたのである。
「はァはァ、これじゃ、ぼくがとめなくても、よかったのかもしれないな」
冷静になると、ほかの選択肢も思い浮かぶ。林のなかに出て、茂みに横っ飛びもできた。廃工場へと逃げたほうが利口だったかもしれない。
対峙した時点で、坂道には、応援部隊が待ち構えていたからだ。
「いいや。そんなことはない」
藤堂だ。警察官の波をかき分けてきた。沼田も同意した。
「ここ一帯は、林にかこまれている。われわれに地の利はない。両脇の林に逃げられたら、捕まえられなかった可能性が高い」
藤堂は、手錠をかけられた男たちを見た。廃工場から、とぼとぼ、歩いている。
フードの男もいた。
「考えられるかぎり、最高の結果だ」藤堂が言った。
「ヴェルファイアを密かに追跡することで、交通事故も起きなかった。狙いどおり、白い蠍のアジトも突きとめられた。寺崎の死体も発見できた。死体遺棄の犯人も捕まえられた。きょうの成果は、満点にちかい」
「それだけじゃない。ふたりとも……見るんだ」
沼田は捕縛した男のシャツをめくった。背中を見せた。
「満点をこえている。成海くんの大手柄だ」
「タトゥー……。おおきいですね」
「構成員は、内股や脇下に彫っていた……。この男は背中だ。目立つところにいれているんだな」
沼田は制服警官に指示を出した。紫外線電灯がわたされる。成海の伝えた情報は、共有されているようだ。スイッチを押した。ぼんやりと光った。グロウタトゥーである。
「まちがいない。背中の大型タトゥーは、リーダーの証だ。こいつが、いまの白い蠍のリーダーだ。顔もおぼえている」
「古株ですか?」
「ああ。流血の金魚祭りのとき、副リーダーだった男だ。桜井三津留という名前だったはずだ」
「当時の事情も知っていそうですね」
「すぐに取り調べをはじめる」
桜井は弁護士を呼べと叫んでいた。
沼田は桜井をつれて、パトカーにのりこんだ。葛西署に連行される。
「よく捕まえられたな。桜井は事件の資料にも、のっていた。武闘派だと、きいている」
「竜頭蛇尾のおかげだよ。教官に感謝しないと……」
成海は起きあがった。樹木を背にする。
「廃工場で、ぼくに向けたことば、訂正してくれるか。藤堂」
「わかった。わかった。かっこわるいは、取り消しだ。たいしたものだ」
成海の足はふるえていた。腰が抜けている。いまさら、怖くなってきた。倒れそうになる。
藤堂は肩を貸した。ひとりでは歩くこともままならない。
「道場にいたほかの警察官をひとりも倒せなかったのにな。まさか、桜井を捕まえるとは……。成海は昔からそうだ」
「本番に強い?」
「いいや。むしろ、本番には弱いだろう?」
下段蹴りを外した手前、言いかえせなかった。
「……ただ、罪科のある犯人には、めっぽう、強い」
藤堂は成海を信頼し切っていた。
かならず、最後には、この連続殺人事件の犯人を捕まえられる。
成海ならば、不可能犯罪を解きあかすことができる。
絶大なる信頼のあらわれだった。
「さァ、ホテルにかえるぞ。長い長い夜の散歩はお終いだ」
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