十三章 右脚の行方

「一致した」

 藤堂の声には、困惑が混じっていた。

「成海の言うとおりだった」

 電話が終わり、堰きとめていた疑問があふれかえった。

「だが、どうなっている!」


 成海は長椅子にすわったままだった。両手を眉間と顎のあいだに置き、一点を見つめていた。藤堂はクロマグロと同じように、アクアシアターを歩きまわっていた。

「ありえない。ありえないことなんだ。四肢が遺棄された死体と天井裏の指紋が一致する。これは起きては、いけないことだ!」

 藤堂の気持ちは、十分にわかった。

 しかし、成海はなにも言わなかった。仲良し三人組のもうひとり、三郷算利がいれば、冗談でも飛ばしただろうが、いまは実直な性格のふたりしかいなかった。

 不可解ゆえの恐怖を、等しく、分かち合っていた。

「どうして、両者の指紋が一致してはいけないことなのか。その答えは、いたって、簡単だ」

 藤堂は水槽のまえで、ふりかえった。オーディエンスがいるかのような仕草だが、じっさいには、自分自身に言いきかせていた。

「三浦が殺害されたのは、きのうだ。何者かが天井裏に侵入して、三浦を殺した。現場の状況からして、まちがいない」


 三浦の上衣は天井裏に引きずりこまれ、その顔は袋につつまれていた。密室が解けていない以上、出入り口は天井裏だけである。

「つまり、天井裏の指紋は犯人のものになる。しかし、その指紋が一致したばらばら死体は、きのうの発見の時点で、死後、二日は経過していた。時系列が合わない。矛盾しているんだ!」

 藤堂は急に調子をさげた。成海の横にすわった。

 成海は深刻そうな横顔を見た。

「……成海は排気ダクトのまえで、言っていたな。犯人像は透明のままだ。透明の犯人が天井裏から忍びよっている姿が見えるって……。まだ、透明なままなのか」

「うん。ぼくは、いまでも幽霊だと思っている。天井裏の散歩者は幽霊だ」

 幽霊、死んだあとに行動された。それは藤堂が思っているよりも、ふかい意味があった。壁の頂上は見えはじめていた。

「幽霊か……。ありえると思うか? その、あれだよ……」


 成海は手のひらを見せた。

 藤堂のことばをうながした。彼は肝心なことばを口にしていなかった。刑事の立場がリアリスティックな言動をとらせているのだ。

 しかし、いくら、荒唐無稽でも、ならび立てなければ、はじまりもしなかった。

 藤堂は意をけっして、本心を述べた。

「おれには矛盾しない方法が、ひとつしか思い浮かばない。ばらばら死体が午後二時から午後三時のあいだに、多目的研究センターにやってきて、三浦を殺害したということだ。そのあと、警察に見つからないように、逃げまわっている。腐敗した身体を引きずってな」

 藤堂は人差し指を東に向けた。

「その死体は、途中で、四肢の一部を落としていた。左近川の親水緑道に左脚……」

 人差し指を西に向けた。

「葛西橋の教習所に左腕を落とした」


 藤堂は言い切ってから、首を横にふった。

「のこりの身体は、頭、胴体、臀部、右脚だね」

 成海はつけ加えた。

「けんぱなら、江戸川区を闊歩できなくはない」


 ――犯人は、生きた死者である。


 この結論を認めるわけにはいかないから、藤堂はありえないと否定していたのである。

「藤堂なら、ほかに、なにか、思いついているんじゃないか?」

 成海はたずねた。藤堂は仕方なく、自分の考えを話しはじめた。

 生きた死者よりは、若干、現実的な方法である。

「なくはない。だが、ほぼ、ありえない」

「それでも、確認しておこうよ」


「……おれは刑事だ。凄惨な現場を多く見ていた。人間は適切な処理を施せば、右腕を落としたくらいでは、死なない。すぐにはな」

 戦時中、大怪我をしながらも、敵軍のいる島内を自力で、長距離移動した事例がのこされている。

 それに、死後二日の経過は、あくまでも、保存の意図がなかった場合だ。

「もちろん、左脚と左腕を斬り落としたとしても、同じだ。縫合さえすれば、絶大な痛みがあっても、薬の力で動けなくはない」

「――四肢の一部を警察に見せることで、みずからの死を擬装した?」


「ああ。犯人は自分が死体だ。すでに殺されている被害者だ。そう騙すために、みずからの身体を斬り落とした。そのあいだ、天井裏に侵入する。凶行にいたった」

「監視カメラには、フードをかぶった男が映っていたらしいね。ばらばら死体を遺棄した人物だと考えられている」

「しかし、全身は映っていなかった。夏場にふさわしくない格好だ。顔を見せたくなかっただけではない。服のしたの大怪我を隠すためだったのではないか」

 藤堂は黙った。


 成海のことばを待っている。

 いままでとはことなり、否定のことばを待っていた。

 成海は期待に応える。

「――犯人は部屋を密室の状態にしたまま、三浦さんを殺害している。逃げるときも密室のままにした」

「ああ」

「密室やアリバイは、ほんらい、自分が捕まらないためにする行為だ。心理的にしろ、物理的にしろ、自分への被害を抑えるのが目的と言える。安全地帯にもどる往復切符を買っている」

「それが、みずからを傷つける行為とは合わないか?」

「うん。難攻不落な場所への侵入だけことが目的だったら、まだありうる。でも、犯人の目的は、三浦さんを殺すことだ。数日の命というリスクを負ってまで、することではない」

「片道切符になるからな」

「ただ、殺害したいんだったら、三浦さんが外に出たときでいい。手足の長さから、四肢の持ち主の身長が低いこともわかっている。天井裏にはいるとき、文字どおり、身を削る必要もなかったはずだ」

「心理的な理由によって、ありえないか」


「ほかにも、物理的な理由がある」

 成海は首元と後頭部を叩いた。

「少なくとも、三浦さんが殺害された時刻には、右腕と左脚がすでに発見されていた。つまり、藤堂の仮説が正しければ、隻腕だったことになる。しかし、三浦さんは首を絞められていた」

「方法によっては、片手でも、絞められるぞ」

「でも、天井裏からはむずかしい。不可能と言ってもいい。犯人は後頭部を叩いたあと、絞殺している。天井裏からそれを行うには、服をつかんで、自分の力と被害者の身体を逃げないようにする必要がある」

 三浦には抵抗の跡がなかった。打撃によって、気絶している。

「でも、片手では、実行できない。したがって、犯人は五体、そろっていたと言える。身体を斬り落としているわけがない」

 藤堂は、どこか、ほっとしたような態度をとる。これ以上、猟奇的な要因をふやしたくないという思いがあったようだ。


「でも……。いまの話で、一区切りついたことになるね」

 成海はそっと、つぶやいた。

「なにがだ?」

「すべての容疑者を、一通り、調べたことになるんだ。犯行がじっさいに可能だったかどうかをたしかめた」


「どういう意味だ?」

「六人の容疑者を調べたという意味だよ。藤堂が疑いをかけた六人だ」

「六人……。五人のまちがいだろ?」

「いいや。コチドリの話をきいていた人物は、六人いる。休憩室にいた六人だ。ひとり、忘れている」

 藤堂は話しながら、最後の人物を考えていた。

 思い浮かんだ。目の色をかえた。

 成海は四肢の持ち主を特定したと言っていたのだ。


「まさか!」

「そう、ばらばら死体の正体は、寺崎恭吾さんだ」

 藤堂は溜まらず、成海の右肩をゆさぶった。

「あれが寺崎の一部だと!」

「行方がわからず、一度も姿をあらわしていない寺崎さんの成れの果てだったんだ。失踪の時期、遺棄された場所、白い蠍のタトゥー、すべての状況が寺崎さんを示している」

「まちがいないのか?」

「彼のロッカーから指紋を採取して、調べるといい。天井裏の指紋、四肢の指紋、寺崎さんの指紋、三つともかさなるはずだ」

 成海は断言した。声の強さが自信をにじませている。

 藤堂は事実として、受けとめた。

「……おれは最初、ばらばら死体の遺棄事件と三浦の密室殺人は、別件だと考えていた」

「ぼくもだ」

「あくまでも、白い蠍ということばを成海がきいた。その証言の裏をとるために来たにすぎない」

「ただ、話をきくまえに、三浦さんは殺されていた」

「そして、いま、ばらばら死体が寺崎だと判明した。時系列で言えば、最初に寺崎が殺され、つぎに三浦が殺された。ふたりとも、白い蠍の関係者だ、しかも、共犯関係にあったとなれば……」

「そう、これは連続殺人だ」

 成海は腰を浮かした。服の埃を払った。


「寺崎さんと三浦さんは、多目的研究センターで働いている同僚だ。無関係と考えるほうがおかしい」

「ああ。ふたつの事件は、いま、完全に繋がった」

 わざわざ、シンポジウム中、ひとりになる時間を狙って、殺害した。

 天井裏に痕跡があった以上、休憩室で話をきいた人物になる。

 犯人は五人の容疑者のなかに、いまだ、ひそんでいることになる。


「こんどは、ぼくたちが攻勢に出る番だ」

 成海は声に力をいれる。

 殺人現場のアリバイと密室は、不可能という長城を縦横にのばしつづけていた。

 しかし、ようやく打ちどめだ。全容が見えてきた。おおきな進歩である。

 歩きつづけたからこそ、連続殺人事件の終始がわかったのだ。

 成海の目には、光が宿っていた。

 そして、ついに、はじまりの事件に、手をのばした。


「もうひとつ、わかったこと、いいや、気になることがある。犬飼さんと三浦さんと寺崎さんの上下関係だ」

「上下関係?」

「犬飼さんは、おそらく、白い蠍のリーダーのメッセンジャーだ。電話で指示を受けていた。広場の会話をきくかぎり、三浦さんに強気な態度をとっていた。年下にもかかわらずだ」

「なるほどな。犬飼の歳は二十台ときいている。普通は逆だが、リーダーのかわりとして、振る舞っていたならば、説明がつく。犬飼が連絡係にちがいない」

「犬飼さんは寺崎さんの不在を怒っていた。つまり、三浦さんは寺崎さんよりうえの立場、監督責任にあったと推測できる」

 連絡係の犬飼、三浦、寺崎の順番で地位がさがる。

「盗難の実働は、すべて寺崎さんだった。この事実も、彼が末端の手足だった裏付けになる」


「懐中電灯も衛生実習室も、騒ぎの中心は寺崎だった。ほんらいならば、寺崎が新聞を受けとっていた。寺崎が手を汚していたんだな」

「逆に言えば、きのうの時点では、寺崎さんが殺害されていたことを、白い蠍も知らなかったことになる」

 成海と藤堂と黙った。


「そうなると、犯人は白い蠍以外に絞られる。おれは、白い蠍のメンバーによる、内輪もめと考えていたが……」

「だから、容疑者の身体を調べたんだよね」

「ああ。しかし、だれにも、白い蠍のタトゥーは、はいっていなかった」

「犯人は白い蠍に所属している者をふたり、殺している。むしろ、タトゥーのない人間が怪しくなる。無関係な者ほど、犯人にあてはまるんだ」

「犬飼は白い蠍の中核メンバーのはずだ」藤堂は顔をあげた。「つまり、犬飼は犯人どころか、共犯者でもない」

「そうだね。そもそも、どうして、寺崎さんは、白い蠍に加わったのだろうか」

 成海は両腕を組んだ。ことばをつづけた。

「しかも、かなり、不利な役割を担わされている」

 藤堂は答える。

「半グレ集団や暴力団に加わる者の多くは、素行、貧困、血筋といった環境面の理由がおおきい。一般人が一時的に参加する詐欺の受け子などは、小銭稼ぎだったり……」

「弱みをにぎられて、断れない場合もある、だね」

「寺崎は研究員の主任だ。金に困っていなかったはずだ」

 したがって、白い蠍に脅迫されていた可能性が高い。

 しかし、いったい、いつから脅され、なにが、原因になったのか。

 成海は迷いなく言った。

「寺崎さんは、緑川大学の研究員だ。緑川大学と言えば、かつて、白い蠍とふかく、かかわった事件が起きている。水族園から四キロ北にある行船公園で起きた」

「流血の金魚祭りだな。寺崎が関係しているとでも?」

「ぼくは、そう、にらんでいる。藤堂、緑川大学の被害者の身元を調べてくれないか。名前、住所、家族、恋人、友人、どんな、些細なことでも構わない。こんかいの事件に繋がっているはずだ」

「わかった。捜査本部で議題にあげよう」


 捜査本部……。

 藤堂は思い出したように、いまの時間を確認した。

 背後から断続的に足音が響いている。階段をのぼる音だ。

 ふりかえった。

 アクアシアターに、責任者の山本がはいってくる。

 水族園はとっくに、閉園時間をすぎている。

 様子を見にきたのだ。


「もう用事は終わりました。ご協力、感謝します」

 藤堂は、頭をさげた。ほかの警察官に、後処理をまかせる。

 成海と藤堂は、ガラスドームを出た。走ってきた道をもどった。

「あと一時間で、二日目の捜査本部の会議がはじまる。急いで、葛西署にもどらないと……。いままでの報告とあたらしい指示が山ほどあるからな」

「会議のあとは、休めるのか?」

「いいや。もう割りあてられている。夜は区内の見回りだ。きょうは、ばらばら死体……いいや、寺崎の身体が遺棄されていないからな」

「教習所のちかくで、警察官とフードの男が鉢合わせたらしいね。見回りの強化には、気がついているはずだ」

 したがって、つぎは夜中に遺棄されると警察は踏んでいるようだ。

「まだ、楽な時間を割りあてられているよ。深夜には交代だ。朝方まで、眠ることができる」

 藤堂の役割は、現場を動きまわり、所轄と本庁の潤滑油になることだ。連続殺人事件と判明したことで、さらに、休めなくなるにちがいない。

 労いのことばすら、思い浮かばなかった。

「成海は工藤さんとゆっくりしていればいいさ」

 藤堂は余裕のある表情を見せた。

「民間人なんだからな」

 藤堂はホテルの方向に、手をふる。

 そのまま、公園内の駐車場へと向かった。

 手をふったさきは、成海ではなく、葵だった。


 工藤葵はホテルのまえで、星空を見あげていた。

 正面玄関の支柱にもたれかかっている。ホテルと夜空のあいだには、ダイヤと花の大観覧車がそびえ立っていた。夏の大観覧車は太陽が落ちると、青色に点灯する。

 夜の葛西周辺のシンボルである。

 十五分ほどの間隔で、ライトアップ演出が行われ、大輪の花が咲くように、グラデーションが巻き起こる。いま、大観覧車の端は、ダイヤモンドの形に沿って、目映い光が波打っていた。


 ――綺麗だ。


 しかし、成海は大観覧車を見ていなかった。

 地上の花を見ていた。葵の横顔だ。

 どの花よりも美しく、どの女性よりも惹きつけられる。大輪だった。

 彼女が瞬きするたびに、喉がつまった。胸をゆらすたびに、脳がゆれた。しかし、その美しい花の観察は、長くもたなかった。彼女の視界に、成海の姿がはいってしまったのだ。葵は成海の目を見つめた。すぐに、ふんわりと、咲きこぼれた。

 その瞬間、張りつめていた緊張が一気に和らいだ。

 成海は自分でも驚くほどに、ほっとしていた。恋い焦がれていた小学生のころとは、まったく、べつの感情だった。理屈では計れない。実体のない心の動きだ。

 成海は葵の笑顔を見ながら、戸惑っていた。

 心のなかを悟られないように、ゆっくりと、時間をかけて、歩みよった。


「何度か、電話したのよ」

 彼女は祈る手で言った。

「だけど、繋がらなくて……」

「ああ、ごめん」

「なにか、あった?」

 葵は心配そうに、成海の顔をのぞきこんだ。

「だいじょうぶだよ。アリバイの確認に同席していたんだ。着信音で、中断するわけにいかないから、携帯の電源を切っていた」

「……アリバイの確認……そうよね。多目的研究センターにのこっていた人たちは、だれが犯人でもおかしくないから……」

 葵は殺害された三浦を含めて、全員、顔見知りだった。

 心情を察するに余りある。

「橋口さんの様子は?」

 たずねた。葵の声音があかるくなった。

「疑いが晴れて、安心していた」

「そっか。共犯の線は完全に消えたからね。……その件だけど、工藤さんは、木野さんという男性のことを知っていた?」

「いいえ。さっき、はじめてきいた。わたしが辞めたあとに、知り合ったみたい……」

「それで?」

「うそをついているようには見えなかった。でも……亜紀さんは、たぶん、まだ、その人のことを……」

 仲のよかった同僚とはいえ、すべてを知っているわけではない。どれだけ親しくても、どこかに、他人の一面を抱えている。

 けっして、人を殺していないと、断言できないのである。

 成海はうつむいた。ふたたび、連続殺人事件のことを考えはじめる。葵は成海の心労に気がついたようだ。両手を腰のうしろに合わせ、上目遣いで、きいてきた。

「成海くん、夕食は?」

「食べていない。しかも、一走りしたばっかりだ」

 お腹を押さえた。

「言われて、空腹を感じてきたよ」

「だったら、ご飯にしない? わたしもまだなの。だから……」

「そうだね。ホテルのレストランでいい?」

「ええ、もちろん。わたし、好きよ、ここの料理」

「ぼくも大好きだ。ディナーはコースメニューを選べるんだったね」


 ふたりはホテルにはいった。ロビーには、レストランと結婚式場の案内板があった。結婚式もできることをはじめて知った。

 しかし、いまは、結婚式場に用事はない。

「どうせ、支払いは有明の会社で、ふんぞりかえっている三郷に行くんだ。いちばん、高いコースを食べよう」

 成海は冗談めかして、笑った。レストラン内の座席にすわる。

 工藤葵は中華御膳コースを選び、成海与一はシーサイドコースを選んだ。豪勢な料理が運ばれてくる。のんびりと舌鼓を打った。

 葵は食事中、殺人事件の話をしなかった。

「亜紀さんをおくったあとね。三郷くんと連絡をとって、アルカディアの記事を手伝わせてもらっていたの。きょうの観光名所の記事も、わたしなりにつくってみて……」

「ほんとうだ。オンラインノートにあがっている」

 葵のおかげで、成海はほんらいの目的を思い出した。もともと、江戸川区には殺人事件の解決ではなく、東京観光アルカディアの取材に来たのである。


「ありがとう。記事はぼくの仕事なのに。工藤さんにまで……」

「ううん。いいのよ。余裕をもって、三日間、部屋をとっていたんでしょう。いまの執筆ペースでも十分、間に合うって、三郷くんからきいた」

「ほかに、なにか、言っていた?」

 殺人事件の捜査を協力しても、収入がふえるわけではない。

 三郷の立場ならば、反対しても、おかしくなかった。

「有明単探社が軌道にのったのは、警察のおかげだ。断るわけにもいかない。恩を売るのもいいって」

「三郷らしいな」

「早速、藤堂くんのお父さんに連絡をとることにしたみたい」

「商魂たくましい。ぼくや藤堂にはない考え方だ」


 成海はナイフとフォークを置いた。

 スープを飲み干した。

「ほんとうは、葛西周辺の取材が終わったら、のんびりと見てまわるつもりだったんだ。三日間の宿泊には、自由時間もはいっていた。しかし、その時間はなくなってしまったな」

「また、いっしょに来ましょう? このホテルに」

 葵は何気なく、言った。

「また……?」

 ききかえした。葵は、はっとした。頬が上気した。

 成海と葵は、あくまでも、仕事でいっしょにいる。あさってになれば、離ればなれだ。

 再度の観光も、ホテルの宿泊も、まったく、べつの意味になる。

「あの……」


 成海は同意のことばを口に出そうとした。

 喉から簡単に出ない。勢いが足らない。身をのり出した。

 そのとき、声がかかってしまった。となりだ。店員だった。お皿をさげに来たのだ。追加の注文をきかれた。

 夜の七時三十分は、ラストオーダーだった。

「……そろそろ、部屋にもどろうか?」

「え、ええ。そうよね。わたしの書いた記事の手直しもあるだろうし……。もどらなきゃね」

 会話は不自然に、とまってしまった。


 成海と葵は、ぎこちない態度で、レストランを出た。蝸牛のような歩みだった。どちらが合わせたわけでもなく、ゆっくりと歩いた。

 成海と葵は、お互いの肩がふれ合ったまま、三階へともどった。息遣いをききながら、エレベーターをおりる。廊下のさきで、ようやく、肩同士が離れた。

 ふたりはドアのまえで、向かい合った。

 成海の肩は、まだ熱を発していた。磁石のように、葵の肩へと、もどりたい意志が生まれていた。なんとか、自制する。平静を保った。

「……あしたは予定どおりで、いい?」

 葵がきいた。

「うん。午前中は、事前スケジュールで、だいじょうぶだ。朝の九時にホテルを出る。それから江戸川区の北側、地下鉄博物館、江戸川競艇場、小岩菖蒲園の順番にまわる」

「午後は、藤堂くんに呼ばれているの?」

「いいや。まだ、きまっていない。藤堂も働きっぱなしだ。あしたの予定まで、頭がまわっていないようだ」

「いまも働いているんでしょう?」

「ああ。葛西署の捜査本部に参加している。いまがいちばん頭を使っているんじゃないかな。気疲れは……。藤堂にかぎって、ないか」

「ふふっ。そんなことないよ」

「きょうの夜が区切りらしい。そうとう、疲れているはずだ。なにもなければ、朝まで寝ているんじゃないかな」

「午前中は取材に使えるのね。それで、夜は……」

「ああ。江戸川花火大会を見る。いちばんの目玉と言ってもいい。船堀タワーの展望フロアを予定している」

「いちばんちかくて、いちばん高い場所ね。天気さえよければ、最高の夜景がながめられる」

「できれば、あしたの夜までに殺人事件を解決したいね。そうすれば、心置きなく、花火を楽しめる」

「駄目よ。成海くんは休まないと……。警察にお願いして……」

「そうだね」


 成海は相槌を打ったが、葵は疑念の目で見あげていた。

 じっさい、葵とわかれ、ホテルの部屋にもどった瞬間、成海は殺人事件を想起していた。思考がとめどない謎に囚われつづけている

 こめかみを押さえた。かすみがかったまま、パソコンを立ちあげた。アルカディアのオンラインノートを見た。三郷の指示が合ったにちがいない。葵の記事は、成海のつくる形式に沿って、ていねいに書かれていた。

 彼女の撮った写真もアップロードされている。簡単な補足と修正だけで、二日目の仕事は終わった。成海は風呂にはいった。身体を休める。

 浴室内にかけられているテレビをつけた。ニュースをザッピングする。無意識に事件の情報を探した。

 しかし、葛西の事件は、報じられていない。

 成海は湯船のなかで、立ちあがった。テレビを消す。タオルが落ちた。排水溝にタオルがつまった。蛇口はひらきっぱなしだった。

 浴槽からお湯があふれた。


「氾濫している」

 何気ないことばだった。


 そのとき、身体が勝手に動いた。

 完全に無意識だった。

 成海は濡れた裸のまま、部屋にもどった。かばんをとる。

 浴室にもどった。セントラルをひらいた。

 裏側に書きこむ。十三回目だった。


「――寺崎さんの死体は、一度、外に出されている。多目的研究センターで殺されたとしたら、どこに放置されていたのだろうか? どんな理由で死体を出して、どうして回収したんだ」


 成海はお湯を見ながら、書きこんでいた。

 この示唆が目のまえの光景から発想しているとまでは、いたらなかった。

「わからない」

 疲れているのだと思った。これ以上の発想を諦めた。

「あとは眠るだけだな」

 ベッドに横になった。時計の針は、夜の十一時になろうとしていた。

 布団をかぶる。

 しかし、まったく、入眠できなかった。

 半身を起こした。資料の山に手を出した。発想の手助けが欲しかった。江戸川区の過去の事件を扱ったファイルである。

「流血の金魚祭り……。もう一度、見てみよう」

 慣れた手つきでめくる。

「あった。白い蠍と相川会が衝突した事件だ。行船公園で起きている。被害者の名前はのっていない」

 成海は葛西駅での、会話を思い出していた。


「相川会……」

 めくりつづけた。

「三ヶ月まえ、相川会の使っていたビルは潰されている」

 いちばん最初、藤堂から、あらましをきいていた。

「強制捜査が行われたんだ。彼らのアジトは、葛西駅にもあった。バスロータリーの正面だ。『風とともに』の正面でもある」

 成海は江戸川区の地図をとった。相川会が隠れ蓑にしていた場所を地図に記入していった。全部で七つ、確認されているが、江戸川区内は四つらしい。

 ふと、人間の手足と同じ数だなと思った。

 成海は葛西駅のビル群に丸を書きこんだ。一つ目である。

「一ヶ月まえ、相川会の幹部が出所している」

 ノートパソコンで検索した。

 ヒットする。

「手入れとはことなり、周知のようだ。記事になっている。警察関係者以外は、幹部たちは根城にもどったと考えるはずだ」

 成海の思考は、まとまりはじめていた。

「だとすると……」

 もう眠るつもりはなかった。完全に起きていた。


「二つ目は左近通りだ。親水緑道のさき、南葛西六丁目の信号機の手前にアジトがあった」

 丸をつける。となりには、なぎさ公園があった。

「三つ目は葛西橋のとなりだ。江戸川区と江東区のあいだにあった」

 円を描いた。「この川沿いには、教習所と神社もある。……きのうの昼間、おとずれたばかりだ。交番の警察官も相川会のアジトの話をしていた」

 ここまで符合すると、偶然では片づけられない。

「江戸川区内の相川会のアジト……。それはすべて、寺崎さんの四肢が捨てられていた場所のそばなんだ。葛西駅には右腕、左近川親水緑道には左脚、葛西橋教習所には左腕が遺棄されていた」

 これはなにを意味しているのか。

 少なくとも、相川会の仕業ではなく、敵対している者の行為になる。

 警察が潰しておらず、相川会が存続していれば、紛争にも繋がったはずだ。

 つまり……。

「白い蠍の可能性が高い」

 成海は確信をもって、人差し指を動かした。

「藤堂はきのう、最初の遺棄事件があった日、相川会のアジトがあった場所を四つ、あげていた」

 きのうの記憶が蘇る。

 成海の耳に、藤堂の声がきこえてきた。


 ――葛西駅、葛西橋、左近通り、今井街道に根城があったのだが、いまはない。


「四つ目は、今井街道だ!」

 遺棄されていない場所は、今井街道だけであった。

 地図上にペン先をあてた。

「フードをかぶった男は、見つかりやすい場所に、四肢を置いている。騒ぎになって欲しいんだ。どこだ。今井街道のなかで、相川会の縄張りのちかくのはずだ。夜でも視界にはいりやすい場所は、どこが考えられる?」

 アジトからせいぜい、数百メートル範囲の街道沿いだ。

 みずほ銀行。ちがう。松江病院。べつだ。一之江駅。とおい。

 あっ……。ここだ。

 ついに、四つ目の丸が書きこまれた。


「小松川インターチェンジだ! 寺崎さんの右脚は、小松川インターチェンジに落とされる!」

 もう十二時だ。終電はなくなる時間だ。


 しかし、高速道路上での車の移動は盛んだ。

 むしろ、電車が使えなくなるから、車を使うしかない。

 深夜の十二時すぎは、ちょうどいい時刻だった。


「さきまわりすれば、捕まえられるかもしれない!」

 成海は、あわてて、部屋を出るのだった。

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