十章 秋田のアリバイと被害者のゴミ出し

「いや、たいへんなことになったな」

「はい。すぐそばで、殺しが起きるとは思いませんでした」

「わたしも疑われているのかもしれないな」

「どうでしょうか? オートロックドアのカギをもっている人にかぎられていると思いますよ」


「そう言われると、安心するよ。しかし、だったら、秋田くんは含まれてしまうな」

「ぼくは同じ建物の二階にいましたからね。怪しまれるでしょう。物音をきいていないかと、何度も質問されました」

「じっさい、なにかきいたのか?」


「いいえ。なにも……。事務員さんの悲鳴で、気がついたくらいです。それまで、二階の準備室で作業をしていました」

「わたしがたのんだ試料の確認か」

「ええ。先週から大量にとどいています。三日ごとにおくっているから、なかなか終わらない」

「休んでもいいんだぞ。ここ数日、学生寮にも、もどっていないときいている。夜通し、作業しているんじゃないのか」

「そもそも、ぼくは大学を卒業していますからね。学生寮にまだ、住んでいることがおかしいんですよ」

「まァ、研究員は住まいを気にしないところがあるからな。割りあてられている個室に、とじこもる者もいる」

「先生も篠崎の研究室に泊まりっぱなしじゃないですか?」


「わたしはさいきん、家にかえっているよ。流石に、この年齢になると、ベッドが恋しくなる。宇田川くんもそう言っていたよ。夜は家で休むのがいちばんだってね」

 室長の名前が出ていた。

「秋田くんはもう少し、休んだほうがいいね。確認を終えた試料だって、郵送すればいい。ひとりで受けとって、ひとりでおくってまでしていたら、身体がもたないぞ」

「車を使えば、さほど、とおくないんですよ。昼食をとるついでに、運ぶくらいがちょうどいいんです」


 成海と藤堂は廊下でとまり、聞き耳を立てていた。

「だれだ?」

「わからない。見たことがない」


 秋田はスーツ姿の男性に話しつづけていた。

「多目的研究センターで、死人が出たことは、篠崎の本部でも、話題になっているのですか?」

「いいや。まだ、だれも知らないようだ。わたしも事件のことをきいたのは、きょうの朝でね」

「あれ? たしか、きのうのシンポジウムに、参加していましたよね」

「ああ。だが、はやめにかえったから、事件が起きたときにはいなかったんだ」

「だったら、どうして、呼ばれたのでしょうか?」

「宇田川くんの話をききたいらしい。今岡さんも呼ばれている。わたしたち三人は、発表側の控え室にいたからな」

 藤堂は男の正体を理解したようで、廊下の角から出た。


「失礼します。水質環境研究所の所長、武部秀さんですね」

「ああ、そうだ」

「予定より、はやく来られたようですね」

「貴方は?」

「申しおくれました。刑事部の藤堂と言います。彼は成海与一です」

 武部に今後の予定を説明した。「いまから、秋田さんの証言をきくところです。宇田川さんについての話は、四十分ほどあとになります」

 秋田は不安そうな面持ちで、藤堂を見おろした。

「もう一度、呼ばれるということは、ぼくが疑われているのでしょうか。二階の部屋で作業していたことは、きのう、お話したのですが……」

「いえいえ。全員にきいています。貴方で四人目です。特別ではありませんよ」

 藤堂は老獪な刑事を思わせる雰囲気で、ゆったりと言った。成海と話すときとは、まるで態度がことなっていた。

「現場検証で、あたらしくわかった事実もありますので、再度の確認になります」

「だったら、わたしは邪魔になるかな」


 武部は反対側の出口に足を向けようとした。廊下のさきは、展示ホールに繋がっている。藤堂は手をあげた。長い銛で魚と貝を両取りするように、とおくの武部を引きとめた。

「廊下で、偶然、ふたりのお話をききました。秋田さんが二階で行っていた作業は、貴方からの依頼だったそうですね」

「ええ。試料の結果を再確認してもらっていました。単純作業ですが、非常に時間がかかります」

「再確認……。すでに、一度、確認されたのですか?」

「ええ。最初に試料の確認をしたのは、わたしです。まちがいがあってはならないので、二度、三度、チェックします。若手の研究員に経験を積ませる意味もあって、こんかいは秋田くんにお願いしているのです」

「どういった試料で、なにを調べているか、おききしてもよろしいですか?」

「水道水です」

 成海はぴんと来た。

「鉛濃度を調べているんですね」

「よくご存じですね」

「ていねいに調べるわけです。住民の健康に影響しますからね」


「成海、鉛濃度とはなんだ?」

「水道水の水質基準のことだよ。ちょっとまえまで、水道管は鉛製だったんだ。錆びにくくて、加工も簡単だった。現在はプラスチック樹脂か、ポリエチレンだけど、まだ、地方部には鉛管がのこっている。交換がむずかしい場所もあるからね」

「はじめて知ったよ」

「有明第三小学校でも、水道管の交換をしていたよ」

 忘れもしない。小学三年生のころだ。葵に会いたい一心で、教室へと行ったときだ。校内で水道管の工事が行われていた。水道水は使えなかった。だから、彼女は水槽内に水をあたらしくしようと、海に向かったのである。

「水道水の試料はすべて、他県の町、村落から採取したものです。自治体は順次、鉛管を交換するつもりだったのですが……」

「予算が足りなかった?」

「ええ。そして、人の手も足りなかった。すべての水道管に手をいれるのはむずかしいということで、われわれに依頼が来たのです」

「英断ですね。水質環境研究所で調べてもらえれば、鉛濃度の高い場所がわかる。鉛製の水道管は耐用年数も長い。一気に交換する必要もないでしょう」

「ええ。鉛管の内側が腐食していると、水道水に溶けます。ですので、濃度を調べれば、優先するべき番地がわかるということです」

「水道水の試料は何本ほど、あるのですか?」

「三千本です」

 成海の想像より、ずっと多かった。

「水質環境研究所のみなで手分けして、検査しています。一時間で十本ほど、確認できる。二、三週間あれば、終わるペースですね。秋田くんには、一日、三十箱をたのんでいました。いまは手がとまっていますが……」

「殺人事件が起きてから、立ち入り禁止になりましたからね」

 秋田は苦々しく、顔をあげた。

「あれから部屋にもどっていません。定温の運搬容器にはいっているから、試料に問題はないでしょうが」

「……水道水の試料は一度、武部さんが見ている。つまり、貴方ならば、秋田さんがの作業状況が、わかるということですね」

 藤堂がきいた。彼はなにも答えなかった。肯定だと判断した。

「武部さんも、二階まで、ごいっしょできますか?」

「えっ……」

「そのほうがはやく終わると思います。まだ、宇田川さんと今岡さんのふたりは来ていませんからね」

 時間潰しにもなる。しかし、彼にとって、刑事といることは好ましくないだろう。武部はちらっと秋田の顔を見た。困惑した表情をすぐにもどした。

 秋田の不安を和らげたいと思ったにちがいない。

「いいですよ」

 快活に答える。武部と秋田の関係は良好らしい。成海たちは二階への階段をのぼる。

 学校によくあるタイプの折り返し階段だった。

 二階の廊下に出る。上り階段のうえは、屋上の塔屋に繋がっている。二階の基本的な配置は一階とかわらなかった。

 正面のドアには、水質環境研究所のドアプレートがかかっている。

 ふと、反対側の廊下を見た。衛生実習室のドアプレートが見えた。加古と寺崎が口論していた部屋だ。後ろ髪を引かれる思いが消えなかった。のぞいてみようか。

 足を踏み出そうとしたとき、ドアのカギをあける音がした。

 成海は、あわてて、追いかけた。


「きのう、秋田さんの確認のもと、室内を調べています。とくに、殺人事件と関係性のある物品は見つかりませんでした。武部さんの目から見て、どうですか? 気になる点はありますか?」

 武部は目を皿にする。首を横にふった。

「わたしは二週間ほどまえに、多目的研究センターにある水質環境研究所の部屋をのぞいています。運搬容器とダンボールが置いている以外、そのときとかわりないようですね」

「そうですか。じっさいに、秋田さんが作業していたのはとなりです。こちらも見てもらえますか?」

 藤堂、武部、秋田の三人はとなりの部屋へと向かった。三浦の部屋と同じように、仕切りの壁を削り、大部屋にかえている。


 成海はひとり、のこった。服のなかに風をおくった。室内は暑い。

 エアコンのリモコンを押した。二十度に設定されていた。秋田は暑がりのようだ。カーテンといっしょに窓をあけた。正面には照明ポールが見えている。フェンス、木々、地面、順番に見おろしていった。外壁には、室外機がついている。

 一分もしないうちに、真下に水滴がこぼれはじめた。ドレンホースから漏れている。室内と室外のあいだに温度差があると、水滴が発生する。

 余分な水は、配水管に流れるように設置されているが、ホースの接合部分がゆるいと、その隙間から垂れるのである。

 水滴は殺害現場の窓ガラスへと向かっていた。殺害現場と同じ状況になった。

 成海は、窓とカーテンをしめた。ドアの正面を這いつくばった。床板に爪を立てる。どの床板も動かない。ヤコブの梯子というわけではない。

「たしかに、藤堂の言うとおりだ。床がひらくことはない」


 成海は藤堂のもとへと向かった。となりの部屋にも、エアコンが完備されていた。ふたたび、リモコンを押した。日本の夏場に、冷房なしは厳しい。

「どうですか?」

「うーん。チェックを終えているのは、七十本ですね」

「さきほどの話によれば、七時間、作業していることになりますね。記入漏れや改ざんはありますか?」

 武部は携帯電話をとり出した。データを見ている。

「いいえ。数値にかわりありません。適当に入力したわけではないでしょう。秋田くんは正確に検査していますよ」


「しかし、まえもって、作業を進めていたら、余分な時間をつくり出せるのでは?」

 藤堂は武部に圧力を強める。

「多目的研究センターは、秋田くんしか来ていない。夜にのこっていたはずだから……できなくはないが……」

 若い研究員の顔を見る。秋田は反論した。

「べつの日だったら、可能でしょう。でも、この三十箱は、殺人事件の起きた当日にとどいたものです。事務員のかたにきけば、わかるはずです。内線電話を受けて、階下の事務室で受けとりました」

「内線電話を受けて?」

「はい。郵送されてきたのです。十時ごろでした。ぼくは一階までとりに行きました。量が多かったので、配達員の人にたのんで、いっしょに運びました。配達員の人もおぼえているはずです」

 藤堂は手帳をめくった。のぞき見る。事務員の証言が書かれていた。たしかに、十時十分、秋田宛ての荷物がとどいている。

「すぐに、検査をはじめました。ほぼ休憩なしで作業して、どうにか七十本、終わらせたのです」

 三浦を殺害していれば、一時間以上はおくれが出る。

 ただでさえ、想定の時間よりはやく進んでいるのだ。

 より厳しいはずだ。この時間の差異を解決しなければ、秋田の犯行は不可能だった。

 成海は部屋のすみに注目した。

「このダンボールに、はいっていたんですよね?」

「ええ。流石に、運搬容器に荷札をつけてはおくれませんので、研究室に置いてある資材を使いました」

 ダンボールには伝票が貼られたままだった。

 送り主は水質環境研究所篠崎本部になっている。宛名は多目的研究センターの水質環境研究所支部、秋田進太郎だ。すべて、同じ筆跡だった。

 前日の十五時、午後三時に集荷されている。つぎの日の午前中に、時間指定されていた。

「ぼくが三浦さんを殺害することはできないと、理解してもらえましたか?」

「もちろん、いまの条件で考えれば、部屋を長時間、留守にしていないことはわかります」

 藤堂は実験室の部屋を出た。ドアのほうへと歩いた。

「しかし、ときとして、人間は驚きの行動をとるものです。平常心からとおければ、とおいほど、なにをするか、わからない」

 ドアのまえで、ふり向いた。

「そして、三浦さんは非常に追いこまれた精神状態にあった。秋田さんはご存じですよね。彼の状況を……。殺人事件の前日には知っていたはずだ」

「な、なにを言っているのですか」

 秋田の声に動揺が走った。

「おととい、休憩室で話していた内容をおぼえていますか?」

 彼は黙りこんだ。沈黙がつづいた。息もとめているようだった。

「秋田さん?」

「お、おぼえていますよ。桐生さんが来ましたね。池の底に備品がつまって、氾濫したと橋口さんに話していました」

「いいえ。その話ではありません」

「うっ」

「誤魔化すつもりならば、いいでしょう。はっきりと言います。貴方は宇田川さんと被害者の盗用問題について、話していましたね」

 秋田の顔から血の気が引いている。190センチの長身をちぢこませている。

「三浦さんの部屋から証拠品も見つけています。しかし、わからない。どうして、黙っているのですか? 正直に話してもいいでしょう」

 眉をひそめた。「まさか……、貴方も関与を?」

「いいえ。ぼくは関係ありません。ただ……、室長に……」

「口止めされていた?」

「はい。内々で対応するから、黙っているようにたのまれていたのです」

「なるほど。しかし、ことはおとといより重大になっています。正直に話したほうがいい。不利な立場にもなりうる。わかるでしょう?」

「は、はい」


「貴方は三浦さんと話す機会も多かったようですね。午後一時ごろ、宇田川室長といっしょに、彼の部屋にいたときいています」

「昼食のあと、室長と偶然、会ったんです。水槽を使うとのことで、三浦さんの部屋に行きました。ふたりで展示ホールまで運んだあと、ぼくは二階の部屋にもどりました」

「最後に、被害者の部屋から出たのはどちらですか?」

「ぼくです。ポケットのなかにカギがなくて、室内にもどりました。なかなか、見つからず、数分ほどいました」

 成海が宇田川からきいた内容とちがいはない。

「つまり、貴方は三浦さんと対峙した、最後の目撃者になるわけですね。この事実は、ほかのかたより、むずかしい状況になる。おわかりですね」

「ぼくが彼を殺害したあと、部屋から出たと言うのですか?」

「いえいえ。時間的に無理でしょう。カギもかかっていましたからね。せいぜい、だれにもきかせたくない話をしたくらいでしょう」

 ふたりきりになることが目的だったと指摘する。宇田川にはきかれたくない話だ。ゆえに、秋田はそれとなく、部屋の外に宇田川をつれ出し、室内にもどった。

「三浦さんは、ほかの部署からデータを盗用した事実をもみ消したかった。そこで、とある方法を考えたのです」

「とある方法?」


「別事件の被害者になることです。天井裏の散歩者、われわれはそう呼んでいますが、外からの侵入者を演出し、被害者になることで、盗用問題を有耶無耶にしようと考えたのではないでしょうか」

「部外者の犯行だと主張するためですか?」

「そこまでいたらなくても、同情を買うことはできるでしょう。怪我を理由に、多目的研究センターから離れることもできる。そのためには、完全なる部外者の犯行を示さなければならない。そこで密室を選びました」

 藤堂は被害者の三浦自身が内側からカギをしめたと説明した。

「密室で外から侵入されたのならば、外部に目を向けさせることができる。同時に、間一髪で助けにはいる協力者が必要でした」

「それがぼくとでも?」

「可能性はあるでしょう。宇田川さんは被害者の部屋で、なにも見ていません。最後まで室内にのこっていた秋田さんならば、被害者と協力して、セッティングすることができた」

 藤堂は身ぶり手ぶりで、仕草を見せた。脚立を置く。天井裏のふたを開閉する。絞殺の凶器となる縄を梁にむすぶ。

「三浦さんは、直前に、犬飼という青年と会話しているところを目撃されています。彼にたのんで、天井裏に痕跡をのこしてもらったのでしょう。これで準備万端だ。三浦さんは内側からカギをかけて、密室にしました」

 秋田ならば、騒動が起きていることを二階から気がつくことができる。秋田は人を呼びながら、彼の部屋へと向かう。成海の目に浮かんだ。想像は簡単だった。

「窒息しかけていた三浦さんが発見されます。助けられるが、病院おくりになる。ここまでが彼の計画でした。しかし、貴方は三浦さんを裏切った。この特異な状況を利用したのではないですか?」

「ぼくは部屋から出ていない。さきほど、刑事さんが認めたじゃないですか?」

「ええ。しかし、室内にいながら、殺害もできるでしょう。この部屋は試料の確認以外に、用いていないようですね。半ば倉庫になっている」

「水質環境研究所の部屋は一階にもあります。一階には運搬容器の置きどころがない。だから、二階で作業していました」

「ええ。二階はなにもない部屋です。ダンボールも置ける。だからこそ、怪しい。警察の調べでは、八十キロ以上のおもりを勢いよく、地面に叩きつければ、振動が床を伝って、階下の梁がゆれることがわかっています」

 成海も見取り図で確認した。床板の真下が梁になっている。

「この部屋には書棚、実験机、運搬容器くらいしかない。せいぜい、十数キロの家具しか置いていません」

 藤堂は地団駄を踏んだ。

 まったく、ゆれなかった。

「わたしは六十八キロ。あと、二十キロは必要だ。人間の体重は筋肉量や脂肪以上に、身長が関係している」

 藤堂は秋田へとちかづいた。身長差がありありとあらわれる。

「そこで190センチの秋田さんだ。貴方ならば、九十キロちかくあるでしょう」

 答えるまでもない。秋田は身長だけはなく、骨格も恵まれている。

「多少、天井裏の梁がゆれたとしても、なにができますか? 殺害できるわけない」

「その手掛かりは現場にありました。被害者の上衣のなかに金槌が紛れこんでいたのです」

 ネイルハンマーだ。

「この金槌が役割を果たした。貴方は三浦さんの手伝いをするふりをして、梁のうえに金槌をむすんだのではないですか?」


 藤堂は作業机を見た。実験道具が置いてあった。計量カップのうえに、スプーンを置いた。作業机をゆらしはじめる。

「金槌は先端のほうが重い。梁の中央に置いて、左右にゆらすと、先端のほうから落ちるのです」

 スプーンが落ちた。

「同じことが天井裏で起きたのです。金槌は準備を終えていた被害者の頭に落ちました。彼は気を失い、脚立から踏み外します。弛みはすぐにもどり、縄が締まります。こうして、三浦さんは絶命したのです」

 密室、裂傷、絞殺である。


「貴方ならば、密室外から殺害できます。最後に部屋から出た貴方だけが実行できるのです」

「ぼ、ぼくは無関係です」

「たしかに、そうかもしれません」

 藤堂は秋田のまわりを歩いた。

「金槌は貴方ではなく、犬飼さんが置いたのかもしれない。ただ、まえをとおった貴方が偶然、ゆらしてしまったのかもしれない。だとしたら、貴方は巻きこまれただけとも言える」

 藤堂は彼の弁護に走った。

「われわれは真実を知りたいのです。現時点で、貴方が犬飼さんと結託していないとは断言できない」

 犬飼は行方不明のままである。証言がとれていない。

「確実に殺そうとは思っていなくても、罪になります。死んでしまっても仕方ないという意思があれば、未必の殺意となる。事情を知っているだけでも、罪に問われることはあるのです」

「ぼくが、三浦さんが死ぬことを期待して、梁をゆらしたと言うのですか?」

 藤堂は黙った。沈黙がときに、余計なことばを吐かせる。藤堂は経験値の高い刑事だった。

「……成海さんはどう思いますか?」


 秋田から話題をふられた。

 警察四一の著者であることを知っているようだ。成海は正直に答えた。

「成功するか、成功しないか、で言ったら、成功するでしょう。十回やれば、いっかいは成功する。そのいっかいがきのう、起きたのかもしれない」

「そ、そんな……成海さん……」


「しかし、現場の状況とは合いません。成功しますが、成立しないでしょう。さきほどの方法で、手をくだすのは無理だと思います」

「その根拠はあるか?」

 藤堂がきいた。

「ふたつあります」


 成海は藤堂ではなく、秋田を見た。

 秋田を不安にさせないように、ていねいに説明する。

「ひとつは被害者が負っていた頭部の裂傷です。裂傷は非常にふかいものでした。強い力でふりおろされている」

 あるいは、重さと高さが必要になる。

「上衣にはいっていた金槌はネイルハンマーと呼ばれるものです。標準サイズでした。重さは一キロか二キロでしょう。自然落下で、あれほどの裂傷ができるとは考えにくい」

「傷口と合わないわけか」

 藤堂は腕を組んだ。

「藤堂の推理は不可能ではないよ。室外だったら、十分に起こりうるはずだ」


 じっさいに、工事現場で、作業員が落下物で頭を打ち、気を失ったところを、補助ロープで絞められるという事故はある。現実味のある死に方だった。

 藤堂も見聞きしているから、思いついたのだろう。

「でも、十メートルほどの高さ、もしくは、五十キロの重りほどじゃなければ、成立しないだろうね。証拠鑑定しても、同じ結論になるはずだ。少なくとも、捜査令状が出るほどじゃない」


 金槌があまりにも軽すぎる。

 天井裏があまりにも低すぎる。


「もうひとつは首元の擦過傷だ。被害者の首まわりに防御創がなかった。縄をゆるめようと、もがいていない。天井が邪魔をして、手をいれられなかったことも考えられるけど……」

「彼の爪には、皮膚も建材も含まれていなかった」

「首の骨も折れていなかったはずだ」

「ああ。どの骨も折れていない。……完全に気を失うにしては、金槌程度では、弱いか。意識がのこっていたのならば、防御創がないことがおかしい。どちらもないならば、ありえない……」

「じゃあ、ぼくの疑いは晴れるということに?」

 藤堂は答えなかった。現状、これ以上の手掛かりは見つかっていない。ふたたび、秋田はアリバイと密室という二重の結界につつまれていた。解除する術は、藤堂の手にない。

 成海が一歩、まえに出た。つぎは自分の番だと言わんばかりに、顔を突きつける。

 矢継ぎ早に質問を投げかける。


「秋田さんは、三浦さんと最後に会ったときに、なにも見ていないんですね。室内に不審物はなかった」

「はい。いつもとかわりはありませんした」

「ふたりきりになったとき、会話をしましたか?」

「いいえ。三浦さんは椅子にすわって、背中を向けていましたので」

「机のうえに、封筒は置いていませんでしたか? なにかを読んでいる素振りはありましたか?」

「ぼくは見ていません。でも、そういえば……」

「なにかあったのですか?」

「三浦さんからおかしな頼み事をされたのです」

「おかしな頼み事?」

「寺崎さんと自分が鉢合わせにならないようにしてくれと言われました。おそらく……」

「盗用の件で、両者が険悪になっていた?」

「ぼくはそう思いました。そもそも、データ盗用を訴えたのは、寺崎さんですからね」

「不躾ですが、盗用にあたると主張していた箇所をご存じですか?」

 秋田はことばを選ぶように、ゆっくりと話した。

「三浦さんは、室長と同じく、生物系産業機構から来ています。ぼくが水質環境研究所、寺崎さんがイノベーション室に所属しています。この三つの機関に関係しているテーマとして、衛生面の向上があります。さいきんは消毒液の活用方法を研究していたのですが……」

 アルコール、ヨウ素、塩素、アルデヒド、両性界面活性剤、酸化剤、フェノール、秋田がつぎつぎと列挙する。

 これらの実用データが各部屋のパソコン内にのこされていたらしい。

「令和初期の流行病から、時間は経っていませんからね」

 消毒液の需要が一気にあがった出来事である。

「ウイルスの除菌にかかわる内容ならば、予算がおりやすいでしょう。自分の実績として、本部にもちかえれば、評価もあがる。盗む価値はある」

「はい。イノベーション室は農薬データ、水質環境研究所は試薬データが消毒液の研究に利用できるのですが、おふたりのいる生物系産業機構にとって、手つかずの分野でして……」

「彼らはなにを?」

「高分子化合物による土壌改善をまかされていたときいています」

 藤堂が耳打ちした。

「事件当日、シンポジウムで、宇田川が発表していた内容も除菌、抗菌にかかわる内容だったらしい。秋田の話がほんとうならば、生物系産業機構が単独ではできなかった発表になる。怪しいな」

 宇田川は盗用問題の隠蔽に動いていた。

 それはまちがいない。

 シンポジウムが無事に終わるまで、盗用問題を表に出すわけにはいかなかった。おおきな騒ぎを防ぐだけではない。

 発表内容に、余所のデータがはいっていたからではないか。

 藤堂はそう判断しているようだ。盗用問題を提起しているのは寺崎だけだ。正式に発表すれば、下っ端の研究員の訴えは信用されない。少なくとも、発言の信用度は宇田川よりも低いだろう。もみ消しはむずかしくない。


 しかも、とうの三浦が死ねば、すべて、自分の手柄になる。

 こうして、口封じを考えた。

 宇田川が三浦を殺害する動機としては、十分に考えられる。

「そろそろ、時間ですね」

 藤堂が言った。携帯電話を見ている。

 はやく、宇田川に話をききたいらしい。

 気が逸っているようだ。

「部下から連絡が来ました。宇田川さんと今岡さんが、すでに展示ホールに来ているようだ」

 武部は鉛濃度を照らし合わせていた。研究員の顔になっている。耳にとどいていないようだ。藤堂は大声で呼んだ。

「武部さん! よろしいですか?」

 ようやく、顔をあげる。

「そろそろ、行きましょう」

 武部を部屋の外へと誘導する。

「あ、待ってください」

 成海はドアのまえで、足をとめた。ふりかえった。

「三浦さんは几帳面で、よく、ゴミを捨てていたときいています。秋田さんは、その姿を見たことがありますか?」

「ええ。ありますよ。はやめに、ゴミを捨てる人でしたね。一日まえには出していたようですね」

「殺人事件があった日は、ゴミを捨てる日でしたか?」

「いいえ。可燃も不燃も回収しない日だったはずです。その一日まえ、おとといの午後が、回収の日でした。葛西臨海公園は広いですからね。回収がおそいんですよ」

「わかりました。ありがとうございます」

 成海は外の廊下に出た。制服警官が武部をつれていった。

 成海はセントラルスケジュールをとり出した。

 二日目の裏側に書きこんだ。十回目である。

 折り返し地点に来ていた。


「――三浦さんは、ほんらいのゴミの日より一日、はやく出していた。几帳面という性分以外に、ゴミを捨てる理由があったらとしたら、いったい、なにが考えられるだろうか」


「成海、さっきの話は、いったい、どういう意図だ?」

 藤堂は口をとがらせた。

 警察の捜査への疑いだと思ったのかもしれない。

「ゴミ捨て場にあったゴミ袋は、すべて、回収してある。当日はゴミを捨てる日ではなかった。数は少なかったが、中身もたしかめている不自然な点はなにもなかった」

「ぼくが気になっているのは、殺人事件の日じゃないんだ。三浦さんが殺害される数週間まえ、彼は寺崎さんのもっていた懐中電灯を、捨てに行っている」

「おかしなことなのか?」

「少し、親切すぎるかなと思ってね」

「ときどき、成海の言うことが理解できないことがある」

 藤堂は不満そうな声で、説明をうながした。

「ぼくはきのう、パークトレインにのっているとき、公園の清掃員がゴミを運んでいるところを見た」

「だから、なんだ?」

「きっと、ゴミ袋をひとつの場所に集めるんだろう。ゴミ収集車の停車地点がきまっているんだ。ぼくは清掃員の犬飼さんも同じように、ゴミ袋を運んでいたのだろうと考えた」

 藤堂は首をかしげた。前後の会話を反芻する。

 成海の性格を踏まえて、言わんとしていることを噛み砕いた。


「……壊れた懐中電灯は、ゴミに出したのではなく、三浦が犬飼にわたした。そう言いたいのか?」

「流石だね。まったく、そのとおりだ」

 藤堂は顔を崩した。どこか、うれしそうだった。

 しかし、すぐに気持ちを切り替える。

 なんの説明にもなっていないと気がついたからだ。


「ほんとうにただ、捨てただけなのかもしれない」

 成海は、三浦と犬飼の口論を気にしていた。もっとも、疑問なのは、ふたりの間柄だった。共通点がまったくないことである。

 しかし、三浦の奇異な行動から、ようやく、共通点があらわれた。

「多目的研究センターの研究員である三浦さん、公園内事務所の清掃員である犬飼さん。ふたりのあいだで、唯一、共通しているのがゴミ袋なんだ。ゴミ出しだ。この行為以外に、ないと言える」

 藤堂は溜め息を漏らした。

「そのゴミ袋が、三浦の殺された日に出されていたら、おれも疑った。なんらかの証拠がはいっているかもしれないってね」

 藤堂のことばは、決定的な意味を有していた。

「しかし、きのう、ゴミのなかに証拠品はなかったんだ。きのうの殺人とは関与していない」


 ――きのうの殺人とは関与していない。

 だったら、なにが関係している。


 江戸川区をとり巻いている奇異な事件は、葛西駅のまえ、斬り落とされた右腕の投棄からはじまった。『風とともに』の羽に、飛ばされてきたのだ。

 その衝撃的な目撃から、たった一日しか、経っていない。

 だというのに、密室殺人、天井裏の散歩者、アリバイ、瞬く間に難題がふりかかっていた。いまや、成海の頭は、パンク寸前だった。


膨大な量の謎に、思考ごと押し流されていた。おびただしい疑問は乱気流と化していた。不穏な事件は一陣の風となって、葛西臨海公園のまわりを渦巻いていた。


 成海はことの中心、多目的研究センターにいる。

 台風の目に立っていた。

 風がない。すべての手掛かりを内側から見ている。

 強風をとめる鎖が、そらで上下していた。もう少しで、成海の右手がとどく。

 簡単な切っ掛けでいい。それだけで、鎖をつかむことができる。

 すべての風がとまり、終わりへと進み出すにちがいない。


 あと少しで……。

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