十一章 宇田川のアリバイとシンポジウム

 多目的研究センターの裏口を真っ直ぐ、進むと、トンネルを抜けたあとの、山脈のように、展示ホールがあらわれた。展示ホールは、仮設病棟を再利用したのではなく、時間をかけて、一から建てられたものだった。

 重症化した患者の受けいれを見こんでいたが、幸いにも、利用されることはなく、現在では、展示ホールとして使われていた。

「まるで、難攻不落の城だな」


 一目、見た藤堂がぼやいた。

 たしかに、成海も城壁にちかい印象をおぼえた。外廊下の床にはすべて、ホワイトバーチのタイルが張られていた。足を踏みこむたびに、小気味よい音が鳴り、異国にいる気分になった。

 玄関口はカバードポーチのように、長細い屋根におおわれていた。目を凝らすと、四隅の柱には、展示ホールの名称と施工日が刻印されていた。

 完成日は三年まえだった。建てられてから日があさかった。

 白いモルタルの壁に、傷ひとつないことも、うなずけた。

 展示ホールの全高は、多目的研究センターとかわらなかったが、その印象は、まるでことなっていた。屋上がない分、軒がのびているからだ。

 菱形の大屋根は、太陽を完全に隠していた。見る者に、圧迫感を与えていた。一階部分には窓ひとつなく、点在する配水管も相まって、狭間のある石垣に見えた。

 やはり、城塞のようだ。


 ただし、攻めいるための城ではなく、抜け出すための城だ。藤堂の気がめいるのもとうぜんだった。この時点で、宇田川が気軽に出ることが、むずかしいとわかったからだ。

「お疲れ様です」

 ふたりの制服警官が両開きのドアを押した。

「すでに、反対側にある控え室Bに、全員、集まっています」

「どうやって、行けばいい?」

「このまま進むと、受付があります。左右の大扉をあけると、大ホールに出ます。大ホールの正面に一段、高い舞台があって、東側の袖が控え室Bへとつづいています」

「わかった。ありがとう」

「迷わずにいけるかな」

「成海は、中学の修学旅行でも迷子になったからな。地図を見ていたのに、もとの道にもどっていたな」

「ルートが書いていないのがいけない。いま、三郷とつくっている観光本は、地図上に、ルートをのせている。もう迷うことはない。ぼくは観光本には地図とルートがセットだと思っている」

「アルカディアだったか。東京都の公式ページにのっている、六エリアの観光地を四等分して、順番につくるときいた。たいへんだぞ」

「やりがいはある。東京はぼくたちの育った場所だからね。都内の観光地を盛りあげたいんだ。この葛西は東京東部編にのる。三日間で取材したルートをそのまま、のせるつもりだよ」

「こんかい、成海が見た場所か。殺人事件の現場は上手く、省いてくれよ」

「わかっている」

「ただ、これだけの事件に巻きこまれたんだ。親父殿はまた、警察四一のときみたいに、この事件をモデルにした小説を出すように、せがむだろうな。場所と人物名をかえるだけの小説だ」

「市民と刑事の協力していく姿を見せるために?」

「ああ。そして、警察関係者を集めて、スピーチする羽目になる。警察官にだけはノンフィクションだと教えるんだ。刑事と市民との協力は不可欠だ。そう伝えるためのやり口だな」


 成海はふと、シャーロックホームズのホームズとワトソン、エラリー・クイーンのエラリーとマックの関係性と同じだなと思った。彼らの作品も、じっさいの事件とは、ことなるという体裁のなか、他者を経由して、世に出されている。

 そう思うと、悪くない気がした。

 アリストテレスから文学性を倣うように、黄金期のミステリー作家からスタイルを倣う。それは赤い炎を受け継ぎ、ほんの少し歩いたあと、後世へとわたしていく行為と言える。


「すべては、無事に事件を解決できればの話だが」

「そうだね」

「そういえば、警察四一のとき、成海は三日間、捜査して……。四日目で解決したな」

 現在は二日目の夕方である。

 藤堂は急に鋭い眼光にかわった。成海をじっと見つめる。

 まるで、取り調べにあっているような気分になった。解決の見込みはまだ見えていない。成海はそう伝えるように両手をあげた。

 ふたりで話しているうちに、エントランスに出る。

 受付の横には、ガラス製の間取り図が置いてあった。成海は藤堂に柔らかい笑みを向けた。これで迷うことはない。ほっとした。

 しかし、一瞬で真顔にもどることになった。

 控え室のうしろに、外へのドアがある。

 藤堂も気がついたようだ。人差し指で外の多目的研究センターまで辿った。裏から出られる。宇田川への疑いは、よりふかまった。

 成海は教えてもらったとおり、両脇にあるドアのひとつをあけた。眼前に立派な大ホールが広がっていた。プロセニアム・アーチだ。客席と舞台のあいだに段差がある。

 赤いカーペット、足掛け台のついた座席、行きとどいた空調、巨大な映写スクリーン、どれも、シンポジウムを開催するのにふさわしいホールだった。

 成海はステージ階段をのぼり、舞台袖へとはいった。プロジェクター、ホワイトボード、水槽、ダンボール、台車、撮影カメラがならべられていた。きのうのシンポジウムの名残だ。なにもふれないようにとおり抜けた。控え室の正面でとまる。見張りに頭をさげる。

 ふたりで目線を合わせた。ノックをにかい、する。

「藤堂です。失礼します」


 はいった。正面には、三人の重鎮がすわっていた。江戸川区にある研究所のトップ、ビッグ3だ。先頭のふたり、多目的研究センターの室長である宇田川と水質環境研究所の所長である武部秀が立ちあがった。そのうしろに、壮年の女性がいる。

「貴方とは、はじめましてですね。こんかいの事件を担当している藤堂です」

「よろしくお願いします。今岡小百合と言います。緑川大学で教授をしています」

 緑川大学は流血の金魚祭りの被害者がかよっていた大学である。

「イノベーション室の責任者と言ったほうがわかりやすいかしら。こちらでは、寺崎が働いていました」

「寺崎……。そうだ。彼とコンタクトをとれていないのですが、大学のほうにいますか?」

「いいえ。数日まえから来ていませんね。自宅で論文をまとめているのかもしれませんね」

「そうですか。見かけたら、連絡するように言ってくれますか? 被害者のことで、話がききたい」

「わかりました。きょう、メールしてみます」

 成海は三人の背後を見た。間取り図のとおりだ。裏口があった。

 ドアのとなりに、長机が置かれている。

 見知った顔がすわっていた。ひとりは鑑識の佐久間、もうひとりは……。

「生活安全部の……吉田さん?」

 吉田はノートパソコンのキーボードを鳴らしていた。ふだん、ハイテク犯罪対策をしている男だ。詐欺事件に合わせて、二課と協力することは多いが、一課の捜査に出張っているのは珍しい。

「ひさしぶりですね。成海さん」

「きょうはどうして、ここに?」

「われわれが呼んだ」本庁のことだ。「シンポジウムで使用したパソコン機器を見させてもらうことになってね。仮に削除されていても、吉田ならば、復元できる」

「物理的に破壊されていない。だいじょうぶでしょう」

「流石です。たよりになりますね」

「宇田川は午後二時以降、シンポジウムで発表中だったみたいだ。彼から申し出を受けて、パソコンを借りている。協力的すぎるのは気になるが、まァ、問題はアリバイだ」

 藤堂は成海に耳打ちしたあと、三人に身体を向けた。


「武部さんと今岡さんのおふたりは、午後一時三十分すぎから宇田川さんと控え室にいたのですよね」

「はい」

「最後にわかれたのは何時ですか?」

「午後一時五十分ほどでしょうか。わたしたち、ふたりとも、この控え室から出ました」

「いっしょにステージにいたわけではないのですね」

「ええ。第二部は、スクリーンにプレゼンを映すだけでしたので、座席のほうにいました」

「そのあいだ、宇田川さんの姿は見ていないのですよね?」

 ふたりはうなずいた。被害者の死亡推定時刻は午後二時から午後三時だ。午後二時、プレゼンのあいだ、展示ホールにずっと宇田川がいたのならば、犯行は不可能である。

 藤堂は佐久間に指示を与える。佐久間は葛西署のラベルが貼られたノートパソコンを成海たちに向けた。ディスプレイを見る。

 フォルダのなかに、ふたつの動画データがはいっていた。

「展示ホールには、撮影カメラが置いてありました。座席のあいだから、正面をとらえています。先週の第一部ときのうの第二部の映像がのこっていました」


 クリックされる。動画が立ちあがった。

 先週のシンポジウムだ。舞台上に宇田川の姿があった。中央に水槽が置かれている。ステップ階段の両脇に、関係者がならんでいた。

「ぼくたちの知っている参加者は、三浦さん、秋田さん、それと……」

 壁にもたれかかっている男が目についた。

「加古さんだ。先週のシンポジウムに、加古さんも来ていたんですね」

 成海はそれとなく、宇田川にきいた。

「あ、ああ。なんか興味をもったらしくてね。しかし、一時間もしないうちに退出したよ。土産話にならないと思ったのだろうね。懲りたのか。きのうのシンポジウムには来なかった」

「目に浮かびます」


 ――衛生を高い状態で保つことは、すべての生物にとって、重要なことです。疎かにすると、痛い目を合う。


 パソコンのスピーカーから宇田川の声が流れている。

 成海は黙って、動画に耳をかたむけた。


 ――われわれにとっては、周知の事実でしょう。ともすれば、未来の子どもたちのために、いま、なにができるのかを、考えなくてはなりません。


 ――除菌、抗菌、殺菌、滅菌、アルコールスプレーから洗剤まで、多様な衛生確保がとられてきました。しかし、ときに強力すぎる化学洗浄は、生物に害を与えてしまいます。そして、そのおおきな害は、やがて、ウイルスの突然異変として、人間に牙を剥くでしょう。

 ――そこでわれわれは、生物、環境への影響が少なく、衛生面の向上に繋がる電解水に着目しました。電解水は直流電圧で食塩水などを電解処理した水溶液のことです。

 ――すでに、電解水は農業分野において、広く、採用されています。電解水を農作物に撒くことで、病害菌の防除に用いるのです。電解水は優れた殺菌力があるうえに、残留性・浸透性も少ない。種苗時期から収穫直前まで、長期間、使用できます。

 ――化学農薬いらずの効果は、国からも認められています。しかし、電解水の効果はそれだけではありません。その可能性は、もっと幅広いものではないでしょうか。

 ――われわれは、今岡さんのご厚意で、多目的研究センターのイノベーション室にある、研究業務用の電解水生成装置を使わせていただきました。

 ――ここさいきん、葛西臨海公園にある池で、緑黒い藻が大量発生していました。水槽のなかに浮いているのが見えるでしょう。このサンプルには、すでに電解水が散布されています。


 ――スクリーンに出ている写真が、以前のサンプルです。いま、目のまえに置かれている水槽は、一日以上、経ったものです。どうでしょうか。色素が薄くなっているのがおわかりでしょう。

 ――電解水は水中にも効果を発揮します。工場排水に加えることで、殺菌している例も多々あります。しかし、湖川の環境維持に、電解水を利用する例はまだ、確認されていません。

 ――多目的研究センターでは、葛西臨海公園という場所を踏まえて、この電解水の研究に、着手したいと考えました。電解水は除草剤とはことなり、生物を死滅させるほど、刺激は強くありません。

 ――この水槽には、ふだんから芦ヶ池のサンプルをいれています。電解水を加えても、見た目、におい、すべてにかわりありませんでした。一見では、電解水を投与した事実は、わからないでしょう。しかし、このとおり、いま、手をいれても、おおきく汚れません。

 ――電解水は水中においても浸透をつづけます。その時間の経過で、プランクトンやバクテリアが少しずつ抑制されます。結果として、大量の藻が自然数にもどるのです。

 ――とうぜん、湖川の流れにより、薄まる電解水は、やがて、その効果を失い、自然内には一切、のこりません。一週間ほどで、検出もできなくなる。理想的な衛生面の向上と言えるでしょう。

 ――こんごは、湖川に対する、適切な電解水の水素イオン濃度を確認し、より正確なデータをまとめることで……。


 藤堂は動画の再生をとめさせた。

「ご覧のとおり、先週のシンポジウムでは、宇田川さんが舞台のまえに立っていました。マイクをもち、身ぶり手ぶりをしながら、講演していました」

 合図を出す。佐久間は、もうひとつの動画を再生した。

 きのうのシンポジウムである。あきらかなちがいがあった。


 ――電解水は、水素イオン濃度によって、効果や用途がかわります。水素イオンの濃度が高ければ、酸性になり、水酸化物イオンの濃度が高ければ、アルカリ性にかわります。

 ――そのペーハーをグラフにしました。つぎページです。ペーハーの3.0から12.0のあいだを、順番に酸性、弱酸性、中性、弱アルカリ性、アルカリ性に区分しています。その用途は、清掃、漂白、脱臭、除菌、洗浄など、様々です。


 ――われわれの用途では、電解水を湖、池、川の水表に、散布します。湖川の水底には塩類イオンが、沈殿しており、水素イオン濃度があがりやすい傾向にあります。ペーハーが高ければ、藍藻類、緑藻類が繁茂しやすい状態になります。それを避けるために、水素イオン濃度を8.0以下に抑える必要があるでしょう。


 さきほどとは、打ってかわって、専門用語と化学式が頻出していた。そして、なによりも宇田川の姿が見えない。おおきなちがいだった。藤堂は成海に説明する。

 小声で言った。

「先週のシンポジウムは質疑応答の時間があった。人前に出る必要があったんだ」

「うん」


「しかし、きのうのシンポジウムは、あくまでも、データの提示だけだった。宇田川は操作だけをしていた」

 リラックスした雰囲気で、成海たちと昼食をとったわけである。パソコンの操作以外に、仕事はなかったのだ。

 藤堂は宇田川へと顔を向けた。

「貴方は舞台袖で、ノートパソコンを操作して、その研究内容をスクリーンに映していたのですね」

「ああ」

「目撃者はいますか?」


「わたしの知るかぎりは、いない」

「警察の調べでも、いらっしゃらないようです。しかし、とうぜんかもしれません」

 藤堂は長机の横から立て札をもってきた。

 立ち入り禁止と書かれていた。

「この立て札は、舞台袖と控え室につうじる廊下に置かれていたときいています。その指示を出したのは、ほかでもない」

「……わたしだ」

 宇田川は正直に答えた。

「ええ。宇田川さんが対面しないように食いとめたと言えるわけです。さきほど、確認しました。控え室の裏から、外に出られるようですね。したがって、シンポジウム中に、抜け出せば、犯行は可能になるでしょう」

「だが、プレゼンはどうなる。わたしは無事に終えている」


「もちろん、ほんとうに操作していたのならば、展示ホールにいたことになります。しかし、さきほど、見たとおり、貴方の声はスクリーン横のスピーカーから出ています。画面上には、マウスポインターの移動だけです。だれも、貴方の姿を見た人はいない」

 それで、ハイテク犯罪対策の吉田を呼んだわけである。

「つまり、きまった動きをプログラムすれば、ノートパソコンから離れることもできたわけです。むずかしいバッチではないでしょう。プログラムの打ちこみにおぼえがなくても、マクロ操作を指定できるソフトは、簡単に手にはいります」

「わ、わたしはやっていない。ほんとうに、舞台袖にいたんだ」

 宇田川の声がうわずった。

「安心してください。すべてが不利な状況というわけではないですよ。貴方が立ち入りを禁じていたこと、直後に殺人事件が発覚したこと、午後三時以降は座席にいたこと、これらの前提は、ノートパソコンを外に運び出せなかったことを意味しています」

「パソコン内に痕跡がなければ、作為はなかったことになる」

 成海の指摘に、藤堂はうなずいた。

「数十分ほどで結果が出るでしょう。たとえ、完全に削除したとしても、システム上に、ログがのこります。時間をかければ、削除済みのデータからも復元できるはずです」

 宇田川は自信があるのだろう。椅子にふかぶかとすわった。長く息を吐いた。

「しかし、気になるのは、立ち入り禁止の看板を置いたことです。貴方は一回目のシンポジウムでは、その指示を出していなかったそうですね」藤堂は語気を強めた。

「こんかい、はじめて、立ち入りを禁じた。それはシンポジウムの一回目と二回目で、心境の変化があったことを示しています。われわれは、知っていますよ。休憩室での出来事を。影響しているのでしょう。お話をきいても、よろしいですね?」

「なんだったかな」宇田川は茶化した。

「ああ、桐生くんが大木を小屋の裏に運んだ話だったかな」

「……」

「怖い顔をしないでくれ」

 宇田川はうしろのふたりに目を向けた。

 ほんとうは、きかせたくなかったにちがいない。


「……三浦くんが余所のデータを盗んだという話だね」

 武部と小百合が顔を見あわせた。初耳だったらしい。余所は、水質環境研究所とイノベーション室のことである。

 ふたりは、すぐに察した。

「刑事さんの言うとおりだ。前回のシンポジウムのあとに、秋田くんからきかされた」

「確認はとったのですか?」

「ああ。だが、三浦くんは否定したよ。わたしはそれを信じた。だから、シンポジウムを決行した。しかし、部外者がはいって、データをさわることができる状態は、よくないと思った。だから、立ち入り禁止にしたのだ」

「隠蔽の意図はなかったと言いたいのですね」

「ああ、少なくとも、わたしは関与していない」

「真偽はともかく、問題はとうの訴えを出した寺崎さんです。彼の言い分はきいたのですか?」

「その日の夜に連絡をした。しかし、返信はなかった。大学の研究員は遠出することが多いから仕方ない。その時点では、三浦くんのことばを飲みこむしかなかった」

「信じる根拠はあったんですか?」

「いいや。しかし、彼にしては、珍しく、強く言い切ったのだ。寺崎が自分を責めるわけがない。裏切ることはしないと……。だから、安心してくださいと言った」

「気になる言い方ですね」

「そうだな。少し、様子はおかしかった」


 宇田川の顔は曇った。不穏な空気につつまれる。

 成海は、彼の心境が理解できた。その言い方は盗用の事実がないというよりも、ふたりの共犯を感じさせるものだった。

 三浦は寺崎の了承のうちに、イノベーション室のデータを受けとったのかもしれない。だとしたら、盗用、共著、どちらにもとれる。

 しかし、上司の小百合に伝わっているかどうかは、別問題だ。

 その証拠に、彼女は眉間にしわをよせていた。すぐさま、口火を切る。さらなる波乱を巻き起こすのだった。


「多目的研究センターでは、以前にも、騒動がありましたよね。盗用ではなく、盗難騒ぎです」

 藤堂は目の色をかえた。

「どれくらいまえのことですか?」

「一年ほどまえでしょうか」

「……そういえば、三浦さんの死体を発見して、廊下に出たあと、加古さんが盗難でもあったのかときいてきた。あれは、以前に、盗難の騒ぎがあったから、たずねたんだ」

 成海は思い出していた。

「わたしが多目的研究センターにおとずれて、じかに、きいてまわりましたからね。知っている人もいるでしょう」

「じっさいに、なにか、盗まれたのですか?」

「いやいや、それはないよ。盗んだ者はいなかった。だから、警察にも連絡していない」

 宇田川があわてて、否定する。

「でしたら、どうして、盗まれたと考えたのですか?」

「欠品があまりにも多かったからです。イノベーション室は、ほかのふたつの機関とことなり、緑川大学に付置した研究所です。予算や費用も大学から出ています。欠品が出たら、報告の義務がある。補充の手続きがありますからね」

「そのチェックしているのは、今岡さんなんですか?」

「はい。とくに、高価なものが欠品リストにのっていました。故障も含まれていましたが、修理の話は来ていませんでした。わたしは寺崎に問いつめました」

「彼はなんて?」

「故障品は捨ててしまったようです。盗難とは言いませんでした。多目的研究センターはなにかと建付が悪く、机にぶつかり、床に落としてしまう研究員があとを絶たないとききました」

 小百合は納得していないようだった。亜紀もよく花瓶などを壊すと言っていた。

 けっして、いままでの話とは矛盾していない。

 しかし、成海は気になった。……欠品が多い。その理由はなにが考えられるのか。


「ほかの部署でも、同じことは起きていたのですか?」

「うーん。わたしのところは、本部の事務員が欠品補充の処理をしているので、よく知らないですね」

 武部が答えた。宇田川も同じらしい。どうやら、盗難を問題視していたのは、把握できる立場にある小百合だけのようだ。

「そのあとは、へりましたが、まだまだ、わたしの試算より多いと言えるでしょう」

 水質環境研究所と生物系産業機構の欠品の量も調べるべきかもしれない。顕微鏡、遠心分離機、水質分析計、流量計……どれも十万円そうとうはするはずだ。

「藤堂さん、チェックが終わりました」

「どうだった?」

「マクロ操作の痕跡はありませんでした。プレゼンに使ったと思われるアプリケーションは見つかりました。午後二時から起動しており、午後三時まえに正常終了しています。そのアプリケーション内にも、記録機能はないため、不正はないでしょう」

「自動化の事実はなかった。わかった。ありがとう」

 藤堂は自然な笑みを浮かべた。

「宇田川さん、貴方がじっさいに作業していたことが証明されました」

「よかった。わたしが殺していないことは自分がいちばん、わかっている。しかし、どうなることかと思ったよ。成海くんもありがとう」

「いいえ」

「まだ、捜査はつづきます。強制ではないですが、しばらく、遠出は控えてください。犯人は捕まっていないのです。あたらしい被害者が出るかもしれない。この三人のなかから出ることも考えられるのです」

 藤堂は釘を刺した。

「もう一度、ききます。宇田川さんは、データの盗用に一切、かかわっていないのですね。ほかのふたりも同じですか?」

 三人は間髪いれずに、うなずいた。

「データの盗用も機器の盗難も、多目的研究センター内の捜査だけでは、終わらないでしょう。事実ならば、外にもち出されているかもしれない」

「室長として、協力は惜しまないつもりだ」

「場合によっては、江戸川区にある研究所、三人のいる本部にもお邪魔するかもしれませんよ」

「か、構わない。是非とも調べてくれ」

「仕方ないでしょう」

「緑川大学にも話をとおしておきます」

 三人は口をそろえた。藤堂は微笑んだ。言質をとったのである。任意の捜査で、事件現場とかかわりのない場所まで、踏みこむことはむずかしい。

 しかし、その場所のトップが同意してくれるならば、手間が省ける。所轄の刑事もはいりやすい。たしかな収穫だった。


 成海は展示ホールのエントランスで、宇田川、武部、小百合の三人を見送った。藤堂は後方で、警察官に見張りの継続をたのんでいた。少し待った。

 いっしょに外に出る。

 夕闇が赤子をあやすように、芝生を撫ではじめていた。花々は花弁を萎ませている。木々は緑葉をさげている。虫たちは声をとめている。

 みな、眠りの準備にはいっているようだ。

 邪魔する必要はあるまい。

 刺激しないように、静かに多目的研究センターにはいる。

 休憩室にもどった。

「これで全員のアリバイが確認できた」

「犯人はまだわからないままだがな」


 ことばとは裏腹に、藤堂は笑っていた。

 予想の範囲内のようだった。


「随分とおとなしく、引きさがったね」

「ほかに手がなかったのが本音だ。ノートパソコンに作為があれば、もっと、追求もしたさ。しかし、佐久間と吉田の調べで、出なかった以上、とりこぼしはない。彼らの腕は絶対だ」

「そうだね。しかし、橋口亜紀、加古勝巳、桐生邦夫、秋田進太郎、宇田川信哉」

 成海は指を折りながら、数えた。

「これで、会うことのできた容疑者、五人のアリバイを確認した。しかし、犯人の特定はおろか、殺害できた人物がひとりもいない。いままで、捜査したなかでも、とくに、むずかしい事件だね」

 藤堂は缶コーヒーをあけた。

「まだだ。アリバイ崩しを保留にしている人物を忘れているんじゃないか?」

 藤堂のなかで、犯人にちかしい人物はきまっている。

 そういう口ぶりだった。

「工藤さんには悪いが、いちばん簡単に実行できる方法は、共犯者の利用だ」


「……つまり、橋口さんか」

「ああ。彼女の場合は、木野ひとりで済む。密室、アリバイ、動機、すべてが、木野の協力で成立する。警察の捜査で、もっとも優秀な分野は、足取りの捜査だ。偽名を使っていたとしても、かならず見つかる」

 藤堂の胸ポケットから振動音が響いた。にやりと笑った。携帯電話をとる。

「夕方に報告が来ると言っていたね。木野さんの件かな」

「まちがいない。だが、そうなると、電話は長くなる」


 状況によっては、亜紀を見張っている警察官に指示を出すことになるからだ。ここにいても、役に立てない。

 成海は自分がいまできることをしようと考えた。

「二階の衛生実習室を見たいんだけど、カギはかかっている?」

「二階にいる警察官がもっているはずだ」


 成海は休憩室を出た。藤堂の話し声が背後から響いていた。

 秋田の部屋に向かうときと同じように階段をのぼる。

 ふと、屋上が気になった。

 ふだんからカギをかけていないときいている。加古は煙草を吸うとき、屋上へとあがるらしい。ほかの研究員も同じのはずだ。

 成海は屋上へと出た。

 塔屋のほかに、なにもない。四方はフェンスにかこまれていた。

「なんだろう」

 成海は一部のフェンスが歪んでいることに気がついた。ちかづいてみる。根元の固定金具が浮いていた。六十センチほどの高さのフェンスだが、十センチあたりの網がへこみ、わずかに、ちぢんでいる。強く蹴り飛ばした名残のようだ。

 成海はしゃがみこんだ。

「支柱がわずかに浮いている。でも、隙間に汚れがない。屋上に屋根はない。小雨でもふれば、泥がはいるはずだ。綺麗なままだ。モルタルのあとしかない。さいきんの破損だ」

 成海は先週の東京の天気予報を調べた。四、五日まえに、小雨がふっているとわかった。

 セントラルをとる。めくった。十一回目である。


「――多目的研究センターの屋上フェンスは、ここ数日のあいだに、壊されている。真下は芦ヶ池だ。芦ヶ池の水面には岩場もある。落下したら、ただでは済まない」


 成海はきびすをかえした。

 反対側のフェンスをふれる。

 どこも壊れていない。真下を見た。監視カメラのついたポールが見えている。壊れたフェンスと殺害現場は、反対方向だ。


「三浦さんの殺害と関係があるように思えないな」

 屋上に排気ダクトがあるわけでもなかった。侵入口がないことを確認できた。ほんのわずかだが、成果にはちがいない。

 成海は屋上をあとにする。

 二階廊下で、スペアキーを受けとった。

 衛生実習室をあけた。


「思っていたより、広い。小学校のころの理科室みたいだな」

 暗幕カーテン、幅広い実験机、折りたたみ椅子、すべて、黒色だった。成海は腕を組む。蛇のように、机のあいだを歩きながら、鴉のように、想像を働かせた。

「寺崎さんは無断で、衛生実習室に侵入した」

 二階の廊下で、周囲を確認する研究員の姿が浮かんだ。

「彼は新聞紙をもっていた」

 寺崎は衛生実習室のプレートを注視している。

 こっそりと、だが慣れた動きで、足を踏みいれる。

「ただ、新聞紙を読むだけならば、屋上に行ったはずだ」

 屋上にはなにもない。

 しかし、衛生実習室には、なにかがある。

 ただ、休むだけではない。

「そのヒントは加古さんの話にあった。彼の目的は……」

 完全に、寺崎と自分自身の動きが合致する。

 成海が目当ての手洗い台に向かったとき、衛生実習実のドアがひらかれた。

 金属音の低い音が波打った。

 現実にもどる。藤堂だった。片手に携帯電話をもっている。


「成海……」

「どうした。はやいじゃないか?」

「木野が見つかった」

「たった半日で、居場所がわかったのか。ほんとうに優秀だね」

「むしろ、おそかったくらいだ」

「どういうこと?」


「木野は旭川にいた」

「北海道出身と言っていたね。地元にもどっていたのか」

「旭川刑務所にいたんだ」

 どうして、藤堂の電話がすぐに終わったのか。

 たった一言で、腑に落ちた。

「部下から連絡が来た。じっさいに顔も見てきたらしい。まちがいない。刑期は余罪を含めて、二年だ。すでに半年、はいっている。とうぜん、仮出所もない」

「橋口さんの容疑は、彼がいてこその犯行だったよね。さきにはいって、共犯者を逃がすことで、ようやく、密室殺人が成立する」

「ああ」

 藤堂の両目は、眼瞼痙攣をはじめていた。

 両指で押さえた。道を失った。頂上が見えない。

 疲れ切った身体が、前途多難を再確認したようだ。


「橋口亜紀の犯行は、不可能だとわかった」

 

 事務室の同僚たちは、三浦が殺害された時刻、亜紀が事務室のドアをとおって、廊下へと出ていないことを証言している。

 木野の発見は最後の砦だった。

 藤堂は両目をつぶった。

 彼の目元の痙攣は、眉尻を歪ませ、血管をとおり、脳内をゆらしている。

 頭をさげ、膝から崩れ落ちた。


 目眩に襲われたにちがいない。

 なんとか、黒い机に手を添えた。


 そして、唸り声のように漏らした。

「完全に不可能だ」

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