九章 桐生のアリバイと犬飼の行方
「桐生さん、お呼び立てして、すみません」
「いいえ」
「なにがあったかは、ご存じですか?」
桐生邦夫は殺人が発覚したとき、多目的研究センターにはいなかった。殺人事件そのものを知らなくても、おかしくなかった。
桐生は警察官にかこまれて、緊張しているようだった。辿々しく、ことばを紡いだ。
「……きのうの夜、警察官がおとずれたときに、ある程度は説明されました」
桐生は清掃用の作業服を着ていた。
成海は頭のさきから足下まで、じっくりと見つめた。白髪交じりの黒髪、無精髭、灰色のブルゾン、カーゴパンツ、泥だらけの安全靴。身長は177センチといったところだ。
成海と背の高さはかわらないが、肩幅はずっと広かった。中肉中背だ。
「……ですので、三浦さんが亡くなったことは知っています」
低い声だった。
ゆっくりとした口調は、大人の落ち着きが感じられた。
「ただ、多目的研究センターで、事件が起きたということ以外はきいていません」
「桐生さんとは、はじめましてになりますね」
藤堂は頭をさげた。警察手帳を見せた。
「わたしは本庁の刑事部に所属している藤堂平助です。きのうの現場に居合わせたこともあって、わたしが現場の捜査を担当しています。となりの彼は、成海与一と言います。民間人ですが、ゆえあって、協力してもらっています」
桐生は両目を見開いた。
成海与一の名前を知っているようだ。表情が和らいだように見えた。しかし、警察四一の名前は出さなかった。さきほどの加古とは正反対で、ことばを選ぶ男のようだ。
「きょうは、よろしくお願いします」
「はい。多目的研究センターの部外者である桐生さんをお呼びしたのは、現場の状況に理由があります。曖昧な説明になって、申し訳ないのですが……」
「いいえ。構いません」
桐生は成海の顔をちらりと見た。
「一市民として、できるだけ、警察に協力したいと思います」
「助かります。ご存じのとおり、多目的研究センターの一室で、三浦さんの死体が見つかりました。殺しの可能性があります。そして、現場の天井裏には、正体不明の五指の痕跡がのこっていました」
「五指の痕跡……」
天井裏を進んだ証拠だと考えられている。
この天井裏の散歩者は、被害者、第三者、犯人、三つの可能性がのこされていた。
ただし、一つ目の可能性、被害者である三浦は天井裏を進むことができる条件をみたしていなかった。身長が高すぎるのだ。
二つ目の可能性、第三者は、木野の名前があがっていた。
しかし、まだ、木野は発見されていなかった。おそらく、身長の条件にもそぐわないはずだ。つまり、現時点では、三つ目、犯人の痕跡という可能性がもっとも高いのだ。
ただし、この痕跡には作為も含まれていた。
「天井裏の痕跡は、休憩室の話をきいていないと、成立しないものです。桐生さんが休憩室に顔を出していたとき、被害者はコチドリの話をしていましたね。天井裏で巣作りしていると言っていたそうです。貴方が彼の話を否定した」
藤堂は語気を強めた。「彼が休憩室に来なくなった原因になったとききました」
「お、おぼえています。わたしも、まさか、あれほど、むきになるとは思わなかったのです。彼を怒らせるつもりはなかったのです」
「わかっています。ほかのみなさんも、過剰な反応だったと言っています。貴方には非がないでしょう。ただ、被害者は天井裏に顔をいれていた状態で、絞殺されていました」
桐生の息を呑む音がきこえた。
「コチドリを捕まえようと思って、三浦さんが、のぼったと考えられます」
ここで問題が出る。容疑者のなかで、天井裏から侵入できる人物は亜紀、加古、宇田川の三人だけだった。この三人は身長が低い。這うように進めば、密室を打破できる。
逆にいえば、身長の高い桐生と秋田は、不可能にちかい。
ふたりは天井裏の侵入以外の方法で、密室を打破しなければならない。天井裏を使わなかったのならば、彼らは、なんらかの方法で偽の手掛かりをのこさなくてはならないのだ。
藤堂はこの問題を早々に、解決した。
「貴方は事務室の清掃員になるまえ、ほかの職種に就いていましたね」
「はい」
「おききしても?」
「修理屋をしていました。父親の会社です。雨漏り対策、瓦の交換、塗り替え、リフォームなどを請け負っていました」
藤堂は相槌するように頭をふった。捜査情報と合っているらしい。桐生に誤魔化しはなかった。
「その会社では、排気ダクトの交換、天井裏の掃除、外壁の修繕も行っていましたか?」
「え、ええ。いまでも、お得意様からたのまれることがあります。そのときは、比較的、自由の利くわたしが……」
ここ一週間、夜はべつの仕事をしているようだ。出張仕事で、江戸川区を離れているらしかった。藤堂の手元の書類にも書かれていた。腕はたしかのようだ。
「つまり、貴方だったら、排気管に備わっている分岐チャンバーやボックスを外すことができたわけですね」
彼は否定しなかった。
「専門的な仕事だ。研究員にはできない。貴方だけは天井裏の空間を広げることができた」
「わたしが強引に、天井裏にはいったと言いたいのですか?」
「いいえ。とおり抜けることはできませんでした。溶接された箇所もあります。手をいれようがなかった。現場検証でわかっています。ただ、部屋からふたを開閉し、空間を広げて、室内から細工を施すことは可能だったはずです」
五指の痕跡は、三つのふた付近に集まっていた。
「貴方ならば、侵入せずとも、他者に見せかけた痕跡がのこせるのです」
手掛かりを作為できた。この事実は桐生と秋田が犯人になる前提だ。桐生には可能だとわかった。しかし、そのうえで、密室という壁を、こえる必要がある。
「葛西臨海公園には、ガラス窓のストックがあるそうですね」
「はい。わたしを含めて、事務所の者が管理しています。倉庫のなかに梱包されています」
「せっかくです」
藤堂は携帯電話を見た。
連絡がないことを確認した。顔をあげる。
「倉庫まで、案内してもらえますか?」
藤堂は懐からカギを出した。倉庫のカギらしい。すでに、手にいれていた。桐生は観念したように立ちあがった。
「倉庫は芦ヶ池の裏手にあります。西なぎさの正面、カヌー・スラロームセンターのとなりです」
成海たちは多目的研究センターを出た。
がらっと風景がかわった。
前方の道は、木陰におおわれている。林のなかだ。蝉の大合唱よりも、鳥のさえずりのほうが多く、耳が心地よかった。
だが、通り沿いに出ると、様相がかわる。外気温が一気にあがった。真夏の日中だ。あっというまに汗が流れ落ちた。まだ、蒸し暑さを感じないのは、海風のおかげにちがいない。桐生は警察への恐怖があるのだろうか。
沈黙を保っていた。ほかの制服警官は、職務を全うしようと、桐生の一挙一動を見張っていた。藤堂は立場上、軽口を叩くわけにいかなった。
周囲に陰鬱な空気が立ちこめる。それを切り裂くように、パークトレインが横切った。
「桐生さん、ぼくはきのう、あのパークトレインにのっていました。午前中です。貴方が仕事しているところを見ました。池のなかで後片付けをしていたのですか?」
「後片付け? ああ。池の水があふれてしまった件を知っているのですね」
「はい」
「成海さんの言うとおりです。ふたたび、氾濫しないように、水底をさらっていました」
「池の氾濫はよくあることなんですか?」
「頻繁にはないです。ただ、いまは夏休みですからね。観光客の捨てたゴミがつまることもあります。それ以上に、さいきんは藻が大量に発生していて……。水底にゴミが溜まってしまうのです。だから、定期的に外に出す必要があるのです」
「藻の大量発生。きいています。多目的研究センターのみなさんと協力して、原因を探っていたそうですね」
「はい。しかし、速急な解決はむずかしいでしょう。季節的な問題ですからね」溜め息をついた。「ただ、あまりにも、においが強すぎる。少しでも、緩和できないものかと、相談していました」
「なるほど。それで、水底から拾いあげた泥土や大木、ゴミは、どうしているのですか?」
「物置小屋のまえに置いています。わたしひとりでは運べないので、一ヶ月にいっかい、業者に来てもらっています」
「その物置小屋をのぞいてもいいですか?」
「いいですよ。途中の道ですからね」
桐生はコンクリートの道から芝生へと逸れる。成海は彼の背中を追った。
芦ヶ池のとなりに、広さ三畳ほどの小屋が見えてきた。
小屋のとなりに、黒い段々が積んである。
「すべて、わたしが運んだ大木です」
成海は目を見開いた。枯れ木ならば、茶色い表皮が散見するはずだ。しかし、どれも、木炭のように黒い。黒い藻が泥土といっしょに、張りついている。
「真っ黒ですね。 なにが、なにやら、わからない」
「ひどいでしょう? 芦ヶ池に生息している魚たちも水面に出られない。困ったものですよ」
成海は物置小屋のなかにはいった。
ほうき、ちりとり、モップ、ごみばさみ、様々な清掃用具が置いてあった。
地面は土だ。ほかに部屋はない。四隅には棚がとりつけられていた。棚から白いネットが吊りさげられている。ネットの網目は細かい。一センチほどの隙間しかなかった。
「これは?」
「防虫ネットです。木々のあいだに張ります。色が薄いでしょう。遠目では見えないんです。景観を損なわないので、公園内の建物まわりに設置しています」
桐生は殺人事件があった日の午前中、多目的研究センターに立ちよったことを話しはじめる。加古に文句を言われて、防虫ネットを張りに行ったのだ。
フェンスの手前、敷地内の木々に防虫ネットを張った。
昼間には事務所にかえったらしい。
監視カメラの映像と矛盾はなかった。
成海はセントラルに書きこんだ。時系列を整理するためだった。九回目である。
「――初夏にかけて、藻の大量発生。殺人事件の三日まえに天井裏の話、二日まえに、多目的研究センター周辺まで氾濫、シンポジウム前半部の開催……」
そして、「一日まえに氾濫は解決する。つぎの日、当日の午後に殺人事件、シンポジウム後半部の開催、ぼくたちが死体を発見する。まとめると、ここ三日間、毎日、事件が起きていたようだ」
桐生は当日の午前中、この物置小屋から防虫ネットを運んでいた。
成海は地面のうえを見た。
なにも落ちていなかった。
隠し場所もない。小屋にはドアひとつなく、出入りは自由だ。
「とくに、おかしいところはないな」
藤堂が言った。成海も同意見だった。
物置小屋を離れて、ふたたび、倉庫への道にもどった。水音が真っ先にきこえた。
葛西臨海公園のとなりには、カヌーの競技場が新設されていた。二メートルの壁ひとつ向こうだ。大会のない日は、一般観光客がラフティングを楽しんでいた。
女性たちの甲高い声が葛西臨海公園までとどいていた。カヌー・スラロームセンターにあるプールコースの長さは200メートル、高低差は4メートル以上もあった。複数の急流ポイントをみなの力で、のりこえていくのが醍醐味だ。高い悲鳴と笑い声が交互に響いていた。
大波に飲みこまれる楽しさが外まで伝わってきている。
カヌー・スラロームセンターを隔てる外壁のまえに、大倉庫が四つ、つづいていた。成海は101と書かれた倉庫のまえでとまる。ふたりの警察官が待機していた。
藤堂は桐生にカギをわたした。倉庫の大扉がひらかれる。室内の左右に、大中小のガラス窓がならんでいた。入り口はひとつしかない。
天井には監視カメラが二台、据えられていた。
成海は倉庫の端まで歩いた。ガラス窓を順々に見た。ビニールで封じられている。四隅の角は白い発泡スチロールで守られていた。
コンクリートのうえに、緩衝材の一部が落ちていた。
「藤堂さん、やはり、ガラス窓の欠品はないようです」
ひとりの警察官がリストを片手に言った。
「最後の出入りは?」
「二週間まえです。写真にしてもらいました」
「桐生さん、貴方は二週間まえ、倉庫を出入りしていましたね」
「事務所で管理している倉庫ですからね。用事があれば、倉庫にはいることもあります」
「監視カメラには、カートに三つのダンボールをのせている貴方の姿が映っていました。このダンボールの中身はなんですか?」
「すべて、防虫ネットです。七月下旬から八月にかけて、虫がふえます。あたらしく張るところもふえる。足りなくなったので、いちばん奥にあるダンボールを運んだのです」
「ほんとうに、そうでしょうか?」
藤堂は写真を人差し指で叩いた。
「もちろん、じっさいに、ダンボールの中身は防虫ネットだったかもしれません。しかし、監視カメラは真上からの映像です。中身まではわからない」
「なにが言いたいのでしょうか?」
「殺害現場は密室でした。窓ガラスのクレセント錠を外した形跡はありませんでした。しかし、丸ごと交換したならば、どうでしょう。密室だと擬装することができる」
「さきほど、窓ガラスの欠品はなかったと言っていました。ひとつでも盗み出せば、総数が合わなくなるはずです」
「そのとおりです。しかし、ガラス窓を発注していたのも、貴方だったそうですね」
桐生は黙りこんだ。
「貴方は余分に、ガラス窓を用意することもできたわけです」
被害者の後頭部にはふかい傷がのこされていた。親しくなくても、抵抗されずに、後頭部を殴りつける機会はある。
「貴方は窓の外から被害者を呼び出した。彼はのぞきこむように、顔を出した。そこを襲ったのではないですか?」
ちょうど、後頭部が目のまえに差し出される。
傷口と符合する。
「気を失ったあと、彼の部屋に侵入します。そして、部外者の犯行に見せかけて、天井裏から吊した。あとは窓から外へと出て、カギのかかった窓ガラスごと交換すれば、密室の完成です」
「わたしはやっていません!」
桐生は、はじめて、声をあらげた。
「とうぜん、殺害できたこととじっさいに殺害したことはちがいます。もっとも、重要なことは現場にいなかったかどうか。現場不在証明です。午後二時ごろ、桐生さんはどこにいましたか?」
「……事務所にいました。公園内の清掃を終えて、かえってきたのです」
「貴方はきのう、同じ説明をしたようですね。ですが……」
藤堂は手をあげた。ひとりの若い女性がつれてこられる。
「お名前をどうぞ」
「……渡辺洋子です」
「見おぼえがあるでしょう。管理事務所の事務員です。渡辺さんは勤務外に、事務所をおとずれたようです」
「えっ」
「午後二時すぎ。彼女はまちがって、自宅にもちかえってしまった書類を返却しにきたそうです。しかし、貴方の姿は見なかった。渡辺さんは午後三時まで滞在していたと証言しています」
桐生は愕然としていた。絶望的な表情で、真下を向いた。
「もう一度、ききます。午後二時ごろ、どこにいましたか?」
「わたしは……」
「待ってください!」
さらに、もうひとりの男性があらわれた。
「貴方は?」
「長谷部局長……」
「局長……。事務所の責任者のかたですか?」
「はい。わたしは殺人事件のあった日、桐生くんといっしょにいました」
「ほんとうですか? 何時ごろでしたか?」
「午後に出て、もどったのは夕方の四時です」
「どうして、言わなかったのですか?」
「……わたしたちは裏手にある競技場にいたのです」
「カヌー・スラロームセンター? どういうことですか? 葛西臨海公園のとなりにありますが、運営はべつでしょう。無関係の施設です。勤務時間内におとずれる場所ではない」
「局長……わたしは……」
「もう無理だ。観念しよう。殺しが起きるとは思わなかった。いまは、正直に話したほうがいい」桐生は顔を両手でおおった。
「……刑事さん、われわれは競技場の関係者と秘密の会議を行っていたのです」
「秘密の会議?」
「葛西臨海公園に、彼らの施設を吸収する話です。一般観光客の利用機会をふやして、利益をあげることが狙いです」
「初耳ですね。ニュースにもなっていない」
「なにしろ、われわれがもちかけた話です。江戸川区は関係ありません。まだ、企画の段階です」
「公園の敷地を広げる。とくに、隠し立てするような話には思えませんが……」
長谷部は桐生に目線を向けた。
まだ、したを向いている。
長谷部は彼の肩を叩いた。
「葛西臨海公園は江戸川区の施設です。東京都の公園です。道路、公園、緑地など、大規模な建設は公共工事になります。ご存じかと思いますが、公共工事は客観的な審査を受けて、施工する業者がきまります」
複数の業者が条件を出し合い、より優れた業者が選ばれる。
「……桐生さんは、事務所で働きはじめるまえ、建設関連の会社で働いていましたね」
藤堂はつぶやいた。記憶にあたらしい。
桐生の父親の会社である。
「ええ。わたしもそうです。桐生くんとは同じ建設会社で働いていました。ただ……」
長谷部の声から力が抜けた。
「数年まえから、経営が危なくて……。従業員も多い。腕もたしかだ。大規模な受注があれば、もちなおせる。わたしは、もったいないと思いました。それで……」
「なるほど。談合をもちかけたのですね」
談合とは業者同士、発注元が話し合って、不正に利益を分かち合うことである。公務員が関与するものは官製談合と呼ばれている。
ふたりは沈黙した。まちがいないとわかった。藤堂はすぐに電話をした。手のあいている刑事たちに指示を与えていた。
藤堂が電話で離れているあいだ、成海はふたりにたずねた。
「長谷部さんにおたずねします」
「はい」
「午後二時ごろ、桐生さんがひとりになる時間はありましたか?」
「ありました。敷地内を見回っているときに一度。土地の面積や地盤の固さを見たいと、単独行動をとっていました。でも、十数分ほどですよ」
「彼は荷物をもっていましたか?」
「いいえ。手ぶらでした。なにも、もっていません」
交換に用いるガラス窓は見ていないらしい。
しかし、窓際に置いていたのならば、あるいは……。
「確認がとれました。向こうも認めています」
藤堂がもどってきた。
ふたりは、ふかぶかと頭をさげた。
「まだ事業ははじまっていない。未遂ですからね。いまは厳重注意にとどめておきます。ただ、警察に情報は共有されると思ってください」
「はい。申し訳ない」
「桐生さん、いまの話で、貴方のアリバイは証明されました。しかし、捜査の進行によって、この前提がくつがえされることもあります。ふたたび、呼び出されることもあるでしょう。こんかいの談合騒ぎは、心証のいいものではありませんからね」
「わかっています。大事にならなかったことに感謝しています」
全員、倉庫を出た。
桐生たちとわかれようしたとき、成海は三人を引きとめた。声をかける。
「桐生さん、長谷部さん、渡辺さん」
順々にふり向いた。
「三人の働いている管理事務所に、犬飼さんという若い男性がいますね。ぼくは彼と被害者が話しているところを見ました。くわしい話をききたい。きょう、犬飼さんは来ていますか?」
「ああ、成海、その話だが……」
藤堂のことばが淀んだ。
「じつは、きのう、警察官に言われて、犬飼くんの履歴書をわたしたのです。住所や電話番号が書かれていますからね」
「だが、すべて、でたらめだった」藤堂がかさねた。「連絡がつかない」
「音信不通ということ?」
「ああ」
「ただ、犬飼くんは、欠席したことも遅刻したこともない。おそらく、あしたの午後に、出勤してくると思いますよ」
「信じるわけではないが、一応、管理事務所には見張りを立てている。あした、あらわれなければ、捜査網を広げるつもりだ」
「多目的研究センターの事件は、あまり報道されていない。なにも知らなければ、普通に出勤してくるかもしれないね」
「むしろ、知られないように、情報規制したほうがいいだろうな。事件と関係しているならばな」
「犬飼さんはどういう男性でしたか?」
成海はきいた。広場で三浦に怒鳴っていた。あらっぽい気質なのかもしれない。
「わたしはわからないな。口数は多くなかったが……」
「渡辺さんのほうが仕事でいっしょになることは多かったかな」
「ええ。でも、会話はそれほどしていません。おとなしい印象です。休憩時間もひとりですごしていました。あっ! でも、合間に新聞をよく読んでいましたね」
「新聞ですか?」成海の声は自然と低くなる。
「はい。新聞を片手に、電話していました」
「電話……。わたしは見たことがないな」
「局長は自分の席から離れませんからね。犬飼くんは、いつも、事務所の裏で、電話していましたからね」
洋子も話し相手まではわからないようだ。いったい、だれと電話をしていたのだろうか。こそこそと隠れて、なにをしていたのだろうか。
それに新聞だ。気にならないわけがない。
多目的研究センターでは、ことあるごとに、新聞が顔を出している。
まるで、新聞の首元に悪意から抽出された香水がかけられ、騒動というにおいを引きつれているようだった。
あちこちで、鼻につく残り香を漂わせているようである。
はじまりは、広場の口論だった。
新聞を犬飼から受けとった三浦は、その日のうちに、殺害されてしまった。……天井裏に吊されたのだ。
無断で衛星実習室に侵入した寺崎は、隠れて新聞を読んでいた。
……そして、自室にはいった亜紀に怒声を浴びせていた。
さらに、とうの犬飼だ。彼は新聞を片手に、何者かの電話を受けていた。しかも、でたらめの経歴で、管理事務所の一員になっている。
なんらかの目的があったにちがいない。
「ああ! おかしいと思ったことが、もうひとつありました」
洋子は海辺の砂礫を見つめていた。記憶を掘り起こしていた。
「犬飼くん、電話しながら、新聞にペンで書きこんでいたのよね」
電話、新聞、ペン……。ギャンブルだろうか。
加古の証言が思い起こされるが、すぐに否定される。
「競馬新聞かと思ったけど、なんの色もついていなかったの。あれはなんだったのかしら」
競馬新聞だったら、赤ペンで書きこむが、洋子によれば、普通の新聞だったらしい。
……そらに文字を書きつける癖があったのだろうか。
思案するとき、無意識に、手が動く者は多い。書きこむ仕草、キーボードの打鍵、携帯電話のフリック操作、人によって様々だ。
個癖でもおかしくはない。しかし、やけに気になった。
成海は頭をかいた。首をふった。悔しさをあらわにした。
すでに、十分に説明できるにもかかわらず、アイディアのピントが合っていないから、わからないようだ。俯瞰すれば、ほかの手掛かりと繋がるにちがいない。
しかし、橋渡しのことばが出てこない。
成海は、必死に脳内の視点を動かしつづけていた。
いっぽう、藤堂は直接的に事件と関係しないと判断していた。話題をかえようと、何気なく、たずねる。
「……犬飼洋太の身長はどれくらいでしたか?」
成海の脳内に一瞬、白い蠍のタトゥーが映ったが、藤堂の質問に、洗い流されてしまった。
「正確な身長はわかりませんが、小柄なほうでした」
「殺人事件があった日、昼まで働くシフトだったんですよね」
「はい」
「ぼくは広場で犬飼さんを見ました。午前中だ。清掃していたらしい」
「だとすると、その午後にはかえったことになるな」
「あのあと、仕事終わりだったのか」
「まちがいありません」
仕事内容を知る桐生が言った。
「きのうは昼まで。きょうがお休み、あしたは昼から出勤です」
「つまり、午後二時から午後三時にかけてのアリバイはない」
小声で言った。
「犬飼の凶行という線も出てきたな」
「どうかな。犬飼さんと三浦さんの口論をすべて、きいたわけではないけど、天井裏の話をするような雰囲気には思えなかった」
もっと楽に殺す方法はいくつもある。
「多目的研究センターの内部にもくわしくないのに、急に天井裏にはいろうとするかな」
「秋田が誘導したとしたら、どうだ」
藤堂は三人を見送りながら言った。
「秋田は研究員のなかで、もっとも若かった。犬飼と年齢もちかい。事件の直前、宇田川といっしょに三浦の部屋にはいっていた。最後に部屋を出たのも彼だ。三浦と話す機会が秋田にだけはあった」
藤堂は多目的研究センターの見取り図を成海にわたした。
秋田のいた部屋は、三浦の部屋の直上だった。
「ぼくは一度も、二階にあがっていない。だから、二階の様子を知らないんだ」
「いたって、普通の部屋だ。多少、建付が悪いことを除けば」
「もしかして……」
「勘違いするなよ。一階と二階につうじる隙間は一切なかった。指一本、とおらない。ちゃんとした二階建ての建物だ」
しかし、藤堂は秋田を完全にシロとは思っていないようだ。秋田は容疑者のなかでもっとも若く、もっとも身長の高い男だ。
桐生のように、天井裏の構造にくわしいわけでもない。
犯人にあてはまる条件は、だれよりも厳しい。それにもかかわらず、藤堂は真っ直ぐ、多目的研究センターを見つめていた。休憩室で待っているはずの秋田を見据えている。海風がふたりの背中を後押した。歩行の速度があがる。
成海は懐かしく思った。
子どものころと同じだ。いつだって、藤堂は肩で風を切るように歩いた。逆風をものともしない。だからこそ、孤立していた成海にも平然と話しかけてくれた。
生涯の友人になったのだ。
成海はいますぐにでも、藤堂の考えをききたかったが、溜め息がちに口をとじた。
ほんの少しの辛抱だったからだ。
容疑者へのききこみも四人目だった。
「つぎは、秋田進太郎さんの番だ……」
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