八章 亜紀と加古のアリバイ
しかし、藤堂の質問は、成海の予想とはことなっていた。
「木野誠二という男を知っていますね」
朝に話していたように、警察の捜査は、はるかに進展していたのだ。
亜紀は尋常ではない驚きようだった。
「貴方が知っていることは、わかりました」
藤堂は成海に目配せした。いまから説明するという仕草だった。
「まず、この写真を見てください」
テーブルのうえに、三十枚ほどの写真がならべられた。
「外の監視カメラの映像を静止画にしたものです」
ポールのうえにあった監視カメラだ。ダクトを見に行くときに、目にしていた。
「被害者の部屋にちかい場所です。割れた窓のさきにあります。貴方と成海が部屋にはいった時刻、夜の六時ごろ、監視カメラの映像に変化がありました。こちらの写真です」
連続写真だった。白い破片が山なりに飛んでいた。
「鑑識が回収しました。ガラスの破片です。フェンスのあいだを抜けたのでしょう。復元したガラスとも一致しました。つまり、貴方がはいったとき、六時すぎに、窓が割れたという証拠になります」
成海は、ほかの写真にも目を向けた。
正午まえの十一時に、清掃員の桐生が映っていた。白いネットをもっていた。殺しとは関係のない時刻だ。藤堂も指摘しなかった。
「橋口さん、もう一度、貴方が被害者の部屋に、はいったときの行動を証言してくれますか? ガラス窓を割ったときです」
「……わたしは成海さんからスペアキーを受けとり、ドアのカギをあけました。四十センチほど、ドアをあけたとき、金属音がしました。いま、思えば、よりかかっていた脚立を押した音かもしれません。すぐあとに、ガラスの割れた音が響きました」
「成海は橋口さんの一メートルから二メートル、後方にいた。いまの証言に相違はあるか?」
「いいや。ない。まったく同じだ。ドアをひらき終わったとき、破片の散らばる音がした。三秒ほどの出来事だった」
「脚立は二キロありました。いつもより、ドアがおもたいとは思いませんでしたか?」
「……多目的研究センターは仮設ということもあって、建付に問題がありました。開け閉めに苦労することがあったのです。ここで働いている人の共通認識だと思います。ですので……」
「気にしなかった?」
「はい。……いつものことだと……」
亜紀は力加減に悩んでいたときいていた。殺しの起きるまえからだ。ドアを強くひらくこともあった。多目的研究センターの建付に一因があったという釈明には、納得できた。
「ドアをひらき、首を吊るときに使った脚立が倒れ、ガラス窓が割れた。監視カメラに破片が映っている以上、この一連の流れに相違はないでしょう」
室外機の水漏れが割れた窓をとおっていた。室内をあたらしく濡らしていた。この事実も補強材料だった。亜紀は、割れた音をきいて、単身、室内にはいった。
「ご存じのとおり、三浦真の殺害された部屋は密室でした。カギがかかっていた事実にまちがいありません。つまり、殺害時、窓は割れていなかったことになる。この事実によって、だれにも、犯行は不可能に思える」
藤堂はスーツの胸ポケットから一枚の写真をとり出した。
「しかし――」
横向きの男性が映っていた。亜紀の顔がまた、引きつった。
「貴方にだけは、ほかの方法がありました」
「わ、わたしは……」
「もちろん、貴方ひとりでは不可能です。部屋にはいったとき、すでに、死体には、死後三時間の経過があった」
成海にようやく、藤堂の意図がわかってきた。
「ただし、共犯者がいたら、話はべつです」目線を横に向けた。「成海は、ドアをあけたあと、室内の奥まで、はいらなかったな。どうしてだ?」
「正面で、三浦さんが首を吊っていたからだ」
「成海は気がついたのに、貴方は気がつかなかったのですね」
「……はい」
「足をとめることはなかった。すぐに、ドアのうしろへとまわった。まちがいないですね」
亜紀は首を縦にふった。
「被害者は天井裏に顔を突っこんでいた。少し高い位置に両足が浮かんでいた」
成海が指摘した。成海も顔をあげて、ようやく、死体の全貌を確認できた。男女では身長差がある。目線がことなる。見落としてもおかしくない。
「窓が割れた影響で、ガラスが飛び散っていたのですよね。割れた直後ならとうぜんでしょう」
ガラスの破片を追うように、彼女は床を注視していた。身長の低い亜紀が首をしたに向けていれば、被害者の足が目にはいらなくても、おかしくない。
だが、藤堂は逆手にとったと考えるだろう。成海が逆の立場でも、同じように、つづけるにちがいなかった。
「ただし、すべてが作為されたものだとしたら、一変します。たとえば、首吊りです。天井裏の梁から吊すという行為は、一見、無意味に思えます。ほかに吊すところがあるからです。欄間、書棚、照明、樹木、室外機……」
藤堂は指折り、数えていった。
「どうして、わざわざ、脚立を使って、天井裏の梁に吊したのでしょうか?」
唯一、意味を与えられるのが、排気口からの侵入だった。
藤堂は、さらに、もう一本の線を加えようとしている。
成海は天井裏に亜紀が侵入できたかどうかという話が焦点になると踏んでいた。密室殺人という不可能性に対して、ほかの線はないように思えたからだ。
しかし、藤堂はちがっていた。
数時間の捜査からえられた手掛かりによって、べつの線を加えたのだ。
あみだくじを辿る指の方向をかえつつあった。
「あの不自然な首吊りも、貴方が犯人に協力していたとしたら、べつです。確固たる理由が生まれるのです。目にしない高さに、死体があったという釈明に使えるからです。しかも、不安因子にも対処できる」
「ぼくのことだね。……死体を見つけて、足をとめた」
「そう、同行者の足止めのために、死体を吊したと考えられる。この利点が生まれるのです」
藤堂は亜紀に厳しい目線を向ける。
「あの瞬間、室内に、もうひとり、男がいたのではないですか! 貴方はさきにはいり、ドアのうしろにまわった。割った窓から共犯者の男を逃がしたのです!」
ついに、あみたくじの横線を曲がった。
線の真下には犯人の名前が書いている。
橋口亜紀だ。人差し指は進みつづけていた。
「共犯者が逃げるときの物音は、貴方がガラスの破片を踏みしめる音で立ち消えます。あとは貴方がなにも証言しなければ、密室殺人の完成です」
藤堂は共犯者を写真に映っている男性だと考えているようだ。
「……真犯人は殺害後、三時間、室内にいた」成海はつぶやいた。「共犯者の協力により、死角の窓から逃げ出した」
破綻はない。
「貴方は室内に成海がはいってこないようにしなくてはなりません。そこで、天井裏に吊すという猟奇的な犯行を行ったのです。彼が奥まではいってきたときは、もどるだけで、食いとめられる。ほかの容疑者には実行できません。この解決には、条件があるからです」
藤堂は語気を強めた。四点をあげる。
「ひとつ、みずからカギをもつことで最初にはいること、ふたつ、窓を割った原因になること、三つ、真っ先にドアのうしろにまわりこむこと、四つ、死体に目線がとどかない低身長であること……」
容疑者のなかで、ひとりしかいなかった。
「橋口さん、貴方にかぎり、密室殺人が成立できたのです。たとえ、午後二時にアリバイがあったとしても、問題はありません。むしろ、事務室のいた事実がより怪しくなる」
「わたしは、写真に写っている木野とは関係ありません」
小声だった。負い目が感じられる。
「ほんとうに断言できますか。われわれは捜査の際、前科のある者から調べていきます。関係者だけではなく、葛西で起きた事件についても調べます。別件を担当していた所轄の刑事が貴方の顔をおぼえていました」
「わたし、ぜ、前科なんて、ありません」
「ええ。わかっています。しかし、橋口さんは、以前、事情聴取を受けたことがありますね。写真に写っている男、木野誠二の話をきくためです」
「いっかいだけです……。半年ほどまえに……」
「藤堂、彼は何者なんだ?」
「ただの小悪党だよ。窃盗、詐欺、傷害、薬物、様々な犯罪で捕まっている。半年まえ、彼女の家に転がりこんでいたらしい。所轄の刑事が突きとめたときには、行方をくらましていた」
「わたしが彼と出会ったときは、木野とは名乗っていませんでした。佐々木と言っていました。警察官からほんとうの名前をきかされたのです。知りませんでした」
亜紀と木野は、恋人同士だったらしい。藤堂の話し方から察するに、異性の家にもぐりこんだあと、窃盗や詐欺を働いていたようだ。
「当時の刑事が貴方に抱いた心証をききました。まだ、木野に未練があるようだった。木野の不在を偽っているだけで、匿っているかもしれない。そう言っていましたよ」
「そんな! ただ、あのときは信じられなかっただけで……」
「はげしく抵抗し、警察官を罵ったのですか?」
亜紀は黙りこんだ。事実らしい。
「いま、わかっていることは、貴方に共犯者がいれば、殺害が可能だったという点です。容疑者のなかで、前科者とかかわっていたのは貴方だけです。言い分はありますか?」
「わたしはやっていません。ドアのうしろにはだれもいませんでした。ほんとうです。足が目にはいらなかったのです!」
「証明できますか?」
亜紀は首をちいさく、横にふった。
彼女をかばうつもりはないが、成海は率直な疑問を述べた。
「三浦さんを殺害した動機はどうなるんだ? 木野さんと三浦さんのあいだに面識はなかったはずだ。犯罪歴を考えれば、金銭がらみが怪しいけど……。室内は調べたんだろ?」
「ああ。彼の財布はのこされたままだった。金庫もない。なにも手をつけていなかった。しかし、現場は研究室だ。ほかに盗むものがあったとも考えられる」
「研究成果か。データを売るような人脈があったのか?」
「いいや。木野にはない。だが、彼女は多目的研究センターの事務員だ。ほかの研究室と繋ぎ役だった。彼女を介して、売ることができる。まァ、すべては木野が捕まれば、あきらかになるだろう」
「木野さんの所在はわからないのか?」
「ああ。まだな。捜査本部のうち、六人を木野の行方に割いて、交友関係を辿っている。三時間後には定期報告だ。夕方に、あたらしい情報がとどくはずだ」
「橋口さん」
彼女は青白い顔をゆっくりとあげた。
「なにか、木野さんの足取りがわかる手掛かりを知りませんか?」
成海はたずねた。亜紀の目は泳いでいた。
「わかりません」
彼女の動揺が不安のせいなのか、うそをついているのか、判別できなかった。
「木野が貴方に接触してくることも考えられます。貴方の身の安全にも繋がります。警備をつけて、よろしいですか?」
「お願いします。あの……」
亜紀は視線をにかい、藤堂に向けた。
「ああ。ご友人もごいっしょで、構わないですよ」
藤堂は暗に葵の同行を認めた。
善意ではなく、監視を強める意図があるのは、あきらかだった。手を向ける。
休憩室からの退室を許可した。
亜紀はふらふらと立ちあがった。
「ああ、橋口さん」
藤堂が声をかける。
「事務員のふたりの同僚は、午後二時から午後三時のあいだ、貴方が外へと出ていないことを証言しましたよ」
藤堂のことばは、彼女の気持ちを楽にはしなかった。
多目的研究センターをおとずれたときには、心から願っていた証言だ。
しかし、いまは一時間まえと状況がことなっていた。
成海は葵の待っている外まで、おくることにした。
「橋口さん、貴方が事件に無関係ならば、木野さんの居所が判明するだけで、疑いは晴れます。貴方ひとりでは、犯行が不可能だとわかっているからです」
玄関扉をあけた。とおくに葵の姿があった。手をあげている。
「むしろ、ほかの容疑者よりも、はやく、捜査対象から外れるかもしれません」
彼女はしたを向いたままだった。
「もしも、彼について、思い出したことがあれば、警察官に伝えてください。まだ、捜査の途中ですからね」
「……はい。わかりました」
成海は引きかえした。休憩室のまえでとまった。藤堂と書記係が話し合っている。邪魔しないほうがいいだろう。成海は室内にはいらなかった。
背中を向けた。白い壁によりかかった。
セントラルスケジュールをひらいた。
「たしかに、橋口さんが共犯者で、犯人が木野さんならば、密室殺人が可能になる」
ペンは動かない。
「しかし、彼女が犯人の一味だったら、天井裏にあった両手の痕跡はなんだったのか。まるで説明がつかない。木野さんがのこしたのか?」
成海は、思考の速度をあげるようにペンをまわした。
「いいや。ありえない。橋口さんが協力すれば、オートロックはあけられる。木野さんがわざわざ、排気口から天井裏にはいる必要はない。唯一の可能性は、偽の手掛かりだ。わざわざ、いっかい、とおることで、痕跡をのこした。しかし……」
現場は密室だった。部外者の犯行に見せかけるより、自殺に見せかけるほうが現実的だ。
それとも、死体に気がつかなかったことに、説得力を与えようとしたのだろうか。天井裏の散歩者という、べつの犯人を作為した。そのために、高い位置に吊りさげた。
だが、それだと、あたらしい矛盾が生まれる。両手の痕跡は、一部の容疑者に、おおきな疑いを向けさせる。
その疑いのふかまる三人に、共犯者の亜紀が含まれてしまうのだ。やはり、おかしい。
橋口亜紀と木野誠二。彼らは、あらゆる点で、天井裏を使用する利点がない。
成海は思案の海へともぐっていた。
藤堂が廊下に出てきたことにも気がつかなかった。
「なにを考えていた?」
はっと、息を吸った。
「藤堂、さっきの写真をもっている?」
「ああ、木野の写真だな」
「ここだ。木野さんのうしろに、スズキのバイク、カタナが写っているね。110センチほどの高さだ。比べて考えると、木野さんの身長は180センチになる。160センチには、ほどとおい」
天井裏にはいる条件をみたさない。
「ぼくにはこの事件、まだ、波乱が起きるように思える」
「どういうことだ?」
「橋口さんと木野さんが三浦さんを殺したとは断言できない。ほんとうに彼女が共犯者だとしたら、まだ、ぼくたちの知らないことがあるはずだ。一端しか、見えていないんだ」
「おおっ! いるじゃないか!」
ふたりの会話が中断される。
加古だった。
容疑者とは思えないほど、満面の笑みでちかづいてくる。
「警察四一の成海与一、また会えて、うれしいよ。少しはやいが、わたしの番だな」
まるで、祝い事の会場におとずれたかのような、朗らかな態度だった。花束をもっていないことに、違和感をおぼえるほどだ。
「どれくらい、捜査は進んだ? だれが怪しい?」
藤堂は眉をひそめた。
「廊下ではなんですので、室内にどうぞ」
「おお、そうだな」
加古はさきに休憩室にはいった。中央の椅子にすわった。
「わたしは何番目だ? 最後ではないだろう? やはり、寺崎が怪しまれているのか?」
加古は、きのう、被害者と寺崎が口論していたと証言していた。
彼なりに気にかけているらしい。
疑いをかけたことへの罪悪感ではなく、自分が役に立ったかどうかの確認であった。
「寺崎さんといえば……」
成海は加古にききたいことがあった。
「貴方は以前、彼ともめたそうですね。二階の衛生実習室に、彼が無断で、はいっていたところを見つけたんですよね」
はじめてきく話に、藤堂も興味をもっていた。
「どうしてはそのことを……。さては、橋口からきいたな。恩を仇でかえしおって!」
藤堂は思わず、鼻で笑った。
自分を棚にあげている。加古と橋口の仲はよくないらしい。
「恩ですか?」
「ああ、以前、橋口がえらく、寺崎に怒鳴られていることがあってな。わたしと三浦があいだに、はいって、とめたんだ。衛生実習室でもめるまえのことだ」
容疑者の寺崎だけではなく、被害者の名前まで出てきた。亜紀からはきいていない。
あるいは、わざと黙っていたのかもしれない。
「早速、知らないことが出てきた」
成海と藤堂は目を合わせた。同時にうなずいた。
「いったい、なにがあったのですか?」
「たいしたことでもない。火災報知器の点検があったんだ」
「天井についている丸い器具ですね。ランプが点灯しているかを業者さんが確認する」
「ほかに、消火器、懐中電灯、携帯ラジオ、医療品、食料、飲料水なんか確認するというのでな。ただ、多目的研究センターは、留守の部屋も多い。かといって、部外者を勝手に歩かせるわけにもいかなかった。そこで……」
「事務員の橋口さんが案内することになった?」
「そうだ。その日だけ、部屋をひらきっぱなしにしていた。橋口は業者の作業を見ていた。寺崎は知らんかったのかもな」
無断で、はいられるとは考えていなかった。
「橋口はあいつの部屋から懐中電灯を見つけたらしい。スイッチを押しても、光のつかない懐中電灯だ。電池をかえても、直らなかった」
亜紀は寺崎に見せたらしい。火災になったときに困る。
懐中電灯の買い換えを勧めた。
加古の話をきくかぎり、善意である。非はない。
しかし、彼は烈火のごとく、亜紀を怒鳴りつけた。
「勝手にはいったことを怒ったのですか?」
「おそらくな。たいした話ではないだろう。べつに橋口がいなくても、業者がはいったのにな。肝のちいさい男だ。わたしと三浦が駆けつけた。寺崎をなだめた。三浦は壊れた懐中電灯など、はやく、捨てたほうがいいと、ゴミ袋にいれて、もっていったよ」
「寺崎さんじゃなくて、三浦さんが捨てたのですか?」
「三浦は神経質でな。ゴミをよく捨てるんだ」
「へえ」
「橋口は、えらく落ちこんでいた。いや、参っていたというほうが正しいな。懐中電灯の故障を伝えて、怒鳴られるなんて、意味がわからないからな」
たしかに常識的ではない。ほかに理由があったのかもしれない。
「だから、わたしは、彼女のかわりに、寺崎に活をいれてやったんだ。勝手に、実習室にはいっていれば、怒られるのはとうぜんだ。あいつほど、理不尽じゃないだろう?」
「彼女は室内まで、はいっていないと言っていました。寺崎さんが衛生実習室でなにをしていたのか、知らないようです。彼が侵入した理由をご存じですか?」
「寺崎は新聞を読んでいたみたいだな」
「なんだ、新聞か……」
藤堂がちいさく愚痴をこぼした。
事件とかかわりがないと判断したからだ。
しかし、成海にとっては、衝撃の事実だった。
……新聞! またもや新聞だ。
三浦が殺害されるまえに、広場でもっていたのも新聞だった。
加古は目線を天井に向けた。思い出すように言った。
「衛生実習室には、手洗いの確認をする場所がある。浴室を改装して、おおきな洗面所になっている。そのまえに座っていた」
意地悪な笑みを浮かべた。
「新聞を広げていた。わたしが部屋にはいったら、カエルのように飛びあがったよ」
「ほんとうに、ただの新聞だったのですか?」
藤堂は諦められないのか、念を押した。
「ああ。奪いとって、目をとおした。普通の新聞だった。記事以外に、なにも書かれていない。チラシも、はさまれていなかった」
成海はセントラルスケジュールの裏側に書きこんだ。
「――寺崎さんは不可解な行動をとっていた。懐中電灯を見られたことで激高した。衛生実習室に無断で侵入し、洗面所で新聞をひらいていた。新聞をもっていたのは、殺されるまえの三浦さんも同じだ。彼はぼくたちに新聞を隠し、水族園へと向かっていた」
彼らの行動には、どういう意味があるのか、わからない。
しかし、どこか気になる。あと一歩、足りない。もうひとつ、手掛かりがあれば、すべて、繋がりそうだ。
思いあたっていないだけで、共通点があるはずだ。成海は下唇を噛んだ。
被害者の周囲に纏わりついている、数々の秘密がもう少しでわかる……。
懐中電灯、衛生実習室、水族園……。
いったい、なにがある。成海は自分の勘の悪さを呪っていた。
「加古さんはどうして、二階へと行ったのですか?」藤堂がたずねた。
「これだよ」煙草のポーズをとった。
「屋上で吸おうと思ったんだ」
「ふだんは、一階のカルテ室にいるんですよね」
「もしくは休憩室か、廊下だな」
「だいぶ、歩きまわっているようですね。足はだいじょうぶなんですか?」
「いいや。まったく駄目だ。腰よりうえにあがらない」
しかし、屋上には、のぼれるらしい。信用できなかった。
「……わたしは緑川病院に連絡をとりました。怪我をした足も見てもらっているようですね。全治六ヶ月の複雑骨折。事故直後ならともかく、いまは歩行に問題ないと言っていましたよ」
「だれだ。言ったのは。わたしは高齢だ。治りがおそいんだ」
「貴方はきのう、午後から夕方まで、カルテ室にいたんですよね。部屋から出ましたか?」
「うーん。何時だったかな。夕方のまえは、休憩室にいた。三十分ほどだ。カルテ室を出たのは、そのいっかいだけだ」
亜紀は休憩室で、加古といれちがいになったと言っていた。午後四時よりまえだ。合っている。
「午後二時から午後三時までは、なにをしていましたか?」
「三浦の殺された時刻か?」
加古は茶化した。藤堂は不機嫌そうに黙った。
「きのう、刑事たちに言ったとおりだ。緑川病院に電話しておったよ。テレビ電話だ。どうせ、裏をとっているのだろ?」
「ええ。電話の相手は、職場の部下、耳鼻咽喉科の臼井正太さんですね。二時間、電話していた。といっても、絶えず話していたわけではなく、多目的研究センターのカルテ整理室と病院の控え室、お互いの部屋を映していただけだときいています」
「わたしが休んでいるあいだ、部長になったのが臼井だ。しっかりと仕事をしているかを確認するのも、上司の勤めだ」
加古が無理にかけたらしい。
映像を繋げたままにしていた。
「貴方は夜に、緑川病院をおとずれているんですよね。ここ一週間、毎日、来ている。そう、ききました」
藤堂の言い方だと、臼井は加古を嫌がっているようだ。
「指導の一環だ。まァ、いっしょに酒を飲むついでだがな」
勝手知ったる仲と言える。知っているからこそ、利用できることもある。
「しかし、臼井さんは、貴方の姿を確認していませんでした。ただ、パソコンの画面をとおして、話し声がきこえていただけだと証言しています」
「ああ、なんだ。それが二時ごろか?」
「はい。臼井さんが控え室にいた時間帯はかぎれています。午後二時は、まちがいないでしょう」
「運がよかったな。つまり、わたしの犯行は不可能だと証明されたわけだ」
「もちろん、普通に考えれば、カルテ室を抜け出し、三浦さんを殺害することはできないでしょう。しかし、臼井さんは貴方の姿を見ていません。肉声だとは、かぎらないわけです」
「なんだと?」
「音声を流していたことで、臼井さんを騙したのかもしれません。貴方の声がきこえても、反応することはなかった。ふだんから、臼井さんが貴方に話しかけることもなかったときいています」
加古が面倒な性格だからだろう。部下の臼井は煙たがっている。会話したがらないのも、とうぜんだ。
「問題は話し声です。貴方はだれと話していたのですか。カルテ室には貴方ひとりしかいなかったはずです。電話ですか? だとしたら、内線電話ですか。携帯電話ですか?」
はじめて、加古が言い淀んだ。
「まァ、いいか」
彼は古い携帯電話を机のうえに出した。着信履歴を見せた。藤堂は登録されている名前を読みあげた。
「中央競馬、地方競馬、競輪、競艇、オートレース……。ああ、電話投票ですか……」
藤堂は呆れ顔できいた。
「パソコンと携帯電話、両方で買っている。午後は忙しくてな。カルテ整理がまったく進まないよ」
書記係が電話先を記入していた。加古は悪びれず、自分の携帯電話を出している。うその可能性は低いだろう。藤堂は加古へのききこみを終わろうとしていた。
成海は口をはさんだ。
「加古さん、きのう、宇田川さんが声をかけてくるまえに、ぼくが質問した内容をおぼえていますか?」
「ううん。なんだったかな。待て。いま、思い出す。……おお、そうだ。データの盗用がどうとか、言っていたな」
成海は肩をすくめた。藤堂は人差し指で三回、机のうえを叩いた。少し悩んだあと、現場で見つかった手掛かりを開示した。
「三浦さんの部屋に、データの盗用について、言及された書状が置いてありました。寺崎さんからでした。多目的研究センターの研究員がお互いの部屋を行き来することもあったようですが、その際、彼は三浦さんの不審な行動を目撃したそうです」
「寺崎と三浦……。そうか。成海与一は、わたしのきいた口論と殺しの動機が関与していると思ったのか」
加古は頬をゆるめた。
「三浦さんの研究発表には、余所のデータが無許可に、含まれていると書かれていました。少なくとも、イノベーション室の実験結果が勝手に引用されていると主張していたようです」
「盗用……。そういえば……」
「心当たりがあるんですか?」
「盗用という話で思い出した。数日まえ、秋田と宇田川が、休憩室のすみで話していた。三浦を部屋にいれないように注意しろと言われたらしい」
「だれからですか?」
「寺崎だ。秋田は水質環境所の研究員だ。ことのおおきさを考えて、宇田川に相談したのだろうな。きのうの宇田川の態度も怪しかった。宇田川と三浦は部署こそちがうが、生物系産業機構の者だ」
「身内をかばおうとした?」
「ああ。わたしが見た口論は、盗用の件だったのかもしれんな。少なくとも、室長はきのうの時点では、知っていたはずだ」
「秋田さんが話していたからか。休憩室には、ほかに、だれがいました?」
「きのうと同じやつらだ。昼間に来ている連中は、かぎられている。同じ顔ぶれになる」
「だったら、清掃員の桐生さんはいなかったのですね」
「いいや。忘れていた。彼も顔を出していた。窓の外にいた。橋口と話していたよ。たしか、池の水路に、大木がつまっていたって言っていたかな。一度目のシンポジウムがあった日、多目的研究センターの外に池の水がとどいていたからな。その対処を終えたんだろう」
「橋口さんも同じことを言っていた。まちがいないと思う」
「桐生邦夫はよく来ていたようだな。窓ごしとはいえ……室内の話をきける状態にあった。彼は部外者だ。三浦のデータ盗用をきいたところで……いいや。あるいは……」
藤堂は両腕を組んだ。
「窓か」
成海はふと、たずねた。
「加古さん、多目的研究センターの窓が以前に、割れたことがありましたか?」
「ああ。そりゃ、あったさ。わたしはここが仮設病棟のころから知っている。当時から何度か、割れているよ。少し脆すぎるね」
「窓を割ったときは、どうしているのですか?」
「葛西臨海公園のなかにある事務所に、電話したはずだ」
「業者を呼んでもらうためですか?」
「いいや。ガラス窓のストックがあるんだ。事務所の管理している倉庫に置いてあるはずだ」
藤堂は目線を向けた。成海はうなずいた。
「ガラス窓のストックですか。珍しいですね」
「水族園があるからだろうな。水族園は全面、ガラスドームになっている。なにかあったときに、すぐ対応できるようになっているんだ。葛西臨海公園で使われているガラスはすべて、敷地内に置いてある」
加古は人差し指を四方に向けた。
「クリスタルビュー、大観覧車、ウォッチングセンター、ホテル、全国の大型公園でも、葛西臨海公園ほど、ガラスの使われている公園はないかもしれんな」
藤堂はドアのまえで控えていた警察官を呼んだ。指示を与えていた。
「病棟だったころに割れたと言いましたよね。患者さんが割ってしまったのですか?」
「いいや。わたしが割った」
加古は悪びれずに言った。
「室内に蛾がはいってな。叩こうと思って、ガラスを割ったんだ」
「は、はあ」
「それから、桐生には防虫対策をしろと、散々、言っている。だというのに、まったく、羽虫がへらない。どうしてだ!」
「さいきんも防虫をお願いしましたか?」
「ああ、きのうの朝、言った。ネットを張るとか言っていたかな」
「そうですか」
「しかし、飛んでいる虫が目立つ、目立つ。池が横にあるのがいけないんじゃないか」
藤堂は溜め息をついた。
「はやく、芦ヶ池を埋めたほうがいい。屋上にいるときも、真下の池から虫がうようよ……」
「加古さん、ご協力、ありがとうございました」
藤堂は立ちあがった。長くならないうちに、外へと誘導した。
「なんだ、もういいのか? 成海与一ともっと話したかったのだが」
「ぼくはこれから、仕事がありますので……」
やんわりと断った。
加古は名残惜しそうに、休憩室から出て行った。
成海はふたたび、写真を見た。監視カメラが捉えた静止映像だ。
桐生は白いネットをもっている。
「桐生さんは、午前中、多目的研究センターに、防虫ネットを張りに来たのかもしれない」
「いまの問題は、そこじゃないだろ? もっと、重要な手掛かりがえられた」
「まあね。ガラス窓のストックか。気になるね」
被害者の部屋は密室となっている。カギのかかったドア、そして、カギのかかったガラス窓である。割れた窓以外には、不審な点はなかった。
しかし、窓そのものに細工ができるのならば、その前提はくつがえされる。
「つぎの容疑者はだれになっている?」
「偶然とは恐ろしいものだ」
成海は察した。
「まさか……」
「ああ。桐生邦夫の番だ」
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