二章 葛西臨海公園の案内

「成海さんと言いましたか。ほんとうに、最初に来たときは見ていないんですね?」

「ええ。見ていません。二十分ほどまえに、駅前におりたときは、モニュメントに、おかしなところはありませんでした」

「十時まえですね。ほんとうに、なにもなかったと言い切れますか? とおりすぎただけならば、見落としたことだって考えられるでしょう?」

「いいえ。まちがいありません。風とともにをしばらく見ていました。羽がまわっているのをながめていたのです。右腕がむすばれていたら、すぐに、気がついたと思います」

「でしたら、工藤葵さん。貴方はどうですか?」

「……わたしは成海くんより、はやく来ました。九時半だったと思います。葛西駅におりました。ですが、わたしは『風とともに』があるバスロータリーをとおらなかったので、見ていないのです。とくに怪しい人物も見かけませんでした」

「わかりました。成海さんの証言が正しければ、午前十時から十時二十分ごろに、右腕がモニュメントの羽にむすばれた。そういうことですね」

 成海と葵は事情聴取を受けていた。ふたりの警察官が立っていた。先輩と後輩のようだった。後輩の警察官は目配せを受けていた。


「しかし、人間の右腕があの羽につけられていたなんて、信じられませんね。しかも、飛ばされてきた」

 後輩の警察官は図ったように、声を鋭くした。

「いちばん簡単な方法は、どちらかが、かばんのなかから右腕をとり出して、置いたということなんですがね」

「こらこら、無闇に疑ってはいけない。おふたりは、協力してくれているのだからね」

 先輩の警察官は乾いた声で笑った。

「ですが、念のためにかばんを見てもよろしいですか?」

 ふたりはうなずいた。かばんをひらいた。血痕の有無をたしかめているようだった。ノートにペンを走らせていた。

「だいじょうぶのようですね。申し訳ないです。後輩が疑うようなことを言ってしまって。ほかの目撃者も右腕が飛んでいたところを見ていたときいています。貴方の証言は信用できるものだとわかっていたのですが……。われわれも、仕事なもので」

 和やかな雰囲気のなかで、不穏な会話がつづけられていた。ときおり、無線を耳にあてていた。ふたりの警察官は自分たちの役割を果たそうとしていた。

 犯人を見つけるということではなく、第一発見者の成海と葵を現場にとどめることだった。すでに、ちかくの交番、警察署から制服警察官が六人、集まっていた。四人の警察官は現場に人がはいらないように、ブルーシートやポールを準備していた。

 やがて、バスロータリーに日産のスカイラインが二台、とまった。私服の男性たちが出てきた。警察署からも所轄の刑事が駆けつけたらしい。一気に、大所帯にかわった。ふたりの警察官は背筋をのばしていた。


「車からおりてきた方々は、機動捜査隊ですね」成海は言った。

「ええ。よく知っていますね」

 殺人事件が発生したあとの捜査には、順番があった。多くの場合、機動捜査隊、鑑識班、所轄の刑事課が殺害現場にあらわれる。第一陣だ。この初動捜査で、解決しなかった場合、所轄内に捜査本部が敷かれ、第二陣の捜査がはじまるのだ。

「以前に、仕事で、ごいっしょしたことがあるのです」

「刑事部の機動捜査隊と仕事を?」

 後輩の警察官は思うところがあったらしい。成海与一の名前を復唱していた。

「すみませんが、機動捜査隊のいちばんうしろにいる男性を交番に呼んでもらえませんか?」

 成海は申し訳なさそうにたのんだ。

「えっ……あの顔は……」葵は目を丸くしていた。

「……先輩、彼は警察四一の著者じゃありませんか? 警察四一の成海与一ですよ」

「……成海与一。ほんとうですか?」

「ああ、はい。そうです」

 成海は正直に答えた。

「警察四層と一市民による治安という本を書いたときに、仕事をさせていただきました」

 略して、警察四一と呼ばれていた。藤堂局長から依頼を受けて、刑事部四つのインタビューをまとめた本だった。警察四一はただの職業解説の本ではない。成海が取材時に起きた事件を小説にした派生作品があった。このシリーズが世間に広く受けいれられていた。

「じゃあ、あのジャンパーを着ている青年が……新設された……」


 警察官が青年を呼ぶまえに、向こうから歩いてきた。

「遊撃連携係の巡査部長、藤堂平助です。第一発見者に話をききたいのですが、となりにいる男性が……」

 藤堂は目を丸くした。

「えっ、成海……! それに、工藤葵……? どうして、ふたりがいっしょに……」

 藤堂は両手を叩いた。

「ああ、そういうこと?」

 ふたりは同時に首を横にふった。成海は事情を説明した。

 観光本の取材で葛西に来たこと、死体の第一発見者になったこと、葵が協力してくれていること、理解のはやい藤堂は、機動捜査隊の仕事をしながら話した。


「三郷にいいように使われているじゃないか。成海は押しに弱いからな。まァ、おれの親父殿がたのんだことを考えれば、他人のことは言えないが……」

「警察四一は、藤堂くんのお父さんが依頼したの?」

「ああ。まさか、警察のイメージアップを企てていたとは思わなかったけどね。おおだぬきと呼ばれているのも納得だ。親父殿は、警察が市民協力をえられないことに、頭を抱えていたからね」


 警察四一が出るまえと出たあとでは、警察への風当たりは、おおきくことなっていた。

 以前までは、大規模な事件が起きたとき、一般市民が捜査に協力してくれることは、まず、期待できなかった。警察の不祥事がたびたび、クローズアップされていたからだ。市民の信頼を失っていた時期だった。センセーショナルなニュースは視聴率を稼げる。メディアは警察の不祥事を毎日のように報道した。

「二十一歳のときに、出版社を立ちあげることを報告したとき、警察にかんする本を出さないかと、きかれたんだ」

 警察と市民のあいだで、分断化が起きていた。どうすれば、事件が起きたとき、市民が協力してくれるのか。初動捜査のとき、目撃証言をしてくれるのか。

 新聞社の路上調査によれば、警察を信頼していると答えた者は、二割を切っていた。

 全世界でも、とくに低い数値である。日本が世界でもっとも安全な国と呼ばれていることを考えれば、異常な数値と言えた。

「親父殿は刑事局長だけあって、人の能力の把握と動かし方に長けているんだ。三郷といっしょのタイプだな」

「成海くんのような一般市民の取材を受けることで、警察のイメージアップになるかもしれないと思ったのね」

「ああ。いままでの警察は、メディアや市民の協力をえられなくても、自分たちが粛々と仕事をしていればいいという考え方だった。ただ、親父殿だけは、警察と市民のあいだの信頼を、はやく、とりもどすべきだと考えていた」

「あれ……。でも、警察四一って、小説だときいていたけど……」

 藤堂は肩をすくめた。成海は答えた。

「最初はただのインタビュー本のつもりだったんだ。一課の殺人、二課の詐欺、三課の窃盗、四課の暴力団の話をきいて、刑事捜査をまとめた資料本になるはずだった」

 成海は毎日、警察署にかよっていた。ただの対談だけではなく、施設内にある剣道場や柔道場で、警察学校の教官による熱血指導まで受けていた。

 藤堂の指示だったらしい。おかげで、成海は竜頭蛇尾という護身術まで身についた。いまも、夢でうなされる鬼の稽古だ。

「あのころは、生傷が絶えなかったよ」

「現場に出たわけではないでしょう?」

 藤堂はわざとらしく、事件現場である『風とともに』を見た。

「ぼくが密着取材しているあいだに、多くの事件が起きたんだ。殺人事件もあった。偽札騒ぎもあった。盗難も起きた。暴力団に骨を折られたこともあった」

「結局、成海はすべての事件を解決したけれどな」

 おおだぬきとも呼ばれている藤堂局長は、いい機会だとよろこんだ。関係者の名前を偽名にしたうえで、警察小説として、世に出すことを提案したのである。

 市民と刑事が協力した内容だ。これが彼の狙いどおり、ベストセラーになったのである。

「刑事局長が後押ししてくれるんだ。断ることはできなかった」

「ほんとうに、上手くいったな。いま思えば、インタビューのなかで、話題にあがった事件を、のちに小説として出すという売り方がよかったのだろうな」

 同作家がべつの作品のなかで、同一の関連性を与える手法は、オリジナルミックスと呼ばれていた。メディアミックスの派生である。

「よし。これで、自由の身だ」

 藤堂は談笑しながら、ふたりへの調査と報告書を書き終えていた。父親に負けじと優秀な男である。彼は最後に、成海の肩掛けのかばんから、セントラルスケジュール帳をとり出した。


 勝手に見ていた。きょうの日付を確認する。表側には取材の予定が書かれていた。裏側をめくった。フリーメモのページだ。

 成海が右腕を発見したときに、気になった箇所が書かれていた。

「モニュメントの羽に、右腕をとりつけた理由か……。たしかに、おおきな謎のひとつだ」

 背後から機動捜査隊のひとりがあらわれる。鑑識班が到着したらしい。初動捜査は不発に終わったようだ。機動捜査隊は、べつの現場に向かうことを藤堂に伝えていた。

 一台のスカイラインが走り去っていった。

「藤堂はどうするんだ?」

「おれは所轄の刑事たちと合流するよ。捜査本部ができるまで、仲立ちをするのが仕事だからね。もしかしたら、一課だけではなく、四課からも話をきく必要があるかもしれない」

「四課? 暴力団がかかわっているのか?」

「いいや。かかわっていないはずだ。だから、おかしいんだ」

「葛西駅には広域暴力団、相川会のはいっていたビルがあった。しかし、三ヶ月まえに、手入れがあったときいている。葛西駅、葛西橋、左近通り、今井街道に根城があったのだが」

 藤堂はロータリーのさきを指差した。

「いまはない」

「だったら、暴力団がらみは、考えられないわけだ」

「ああ。しかし、普通の人間が殺したうえで、駅前の目立つ場所に、右腕だけを遺棄するだろうか。わからないことばかりだ」

 藤堂は苦々しく、モニュメントをにらんだ。

「おれは葛西署に寝泊まりすることになる。成海はしばらく、葛西にいるのか?」

「ああ。三日間、葛西臨海公園のホテルに泊まる」

「いっしょに?」

 成海と葵は、途端に顔を赤らめた。ゆっくりとうなずいた。同僚の三郷が有明単探社の経費で、予約した部屋だった。

 べつべつの部屋だが、いっしょに泊まることまで否定するのは、失礼にあたるのではないかと、成海は思い悩んだ。黙りこむ。

 成海と葵のあいだに、ぎこちない空気が流れた。くわしい部屋割りをきいていない葵は、成海と同じ部屋なのかもしれないと、べつの緊張感で、息をひそめていた。

「悪い悪い。なにかわかったら、連絡する。成海も気がついたことがあったら、教えてくれ。警察四一の成海与一がいる。それだけで住民が協力的になるんだ」

 藤堂はもう一台のスカイラインにのった。


「藤堂くんって、刑事よね」

「ああ、東京全域の捜査を担当している刑事だ。パトロール中だったところ、通報を受けて、合流したようだね。機動捜査隊の一員だよ」

「最初に来た機動捜査隊とは、べつのところに行ったみたいだけど……」

「藤堂は遊連係なんだ」

「遊連係?」

「ああ。局長が二年まえにつくった係でね。普通の機動捜査隊は初動捜査を終えると、べつの現場に行くんだ」

「最初の捜査しか参加しないということ?」

「そうだ。あとで捜査本部ができてから合流するんだ。ただ、それだと、所轄の刑事と連携がとれなかったり、情報共有におくれが出るみたいで、藤堂局長が手をいれることにした」

「藤堂くんのお父さんが?」

「ひとつの事件に集中して、動く刑事だ。試験運用するにあたって、息子のほうが大雑把に使えると考えたのだろうね」

 じっさいに、フットワークの軽い藤堂の性格に合っている。

「機動捜査隊から離れて、所轄の刑事たちに合流、合同捜査の連携をうながす係だ。新設と言っても、生活安全部にある遊撃特別警ら隊の成功例をとりいれたものだから、警察にとって、お馴染みといえば、お馴染みだね」

 警ら隊はパトロール、職務質問、追跡を東京全域で行うものである。遊連係の場合は、東京の巡回、初動捜査、検挙活動を一切、離脱せずに行うものだった。

 ふと、顔をあげた。

 バスロータリーは通常営業にもどっている。

 成海と葵は、バスにのった。


 死体の発見により、ほんらいの予定に、おくれが出ていた。

 成海はセントラルのチェックリストを見た。

 葛西臨海公園に到着すると書かれていた。

 十分ほどで、目的地が見えてきた。

「おおきな公園だね」


「ええ。海面を埋め立てた公園で、都内でも有数の大規模公園なの」

 葵はあかるく、振る舞った。

「敷地内には水族園、鳥類園、観覧車、広場、レストラン、展望台がある。丸一日、遊びとおせる一大観光施設になっているのよ」

「それは楽しみだね」

 成海は表側のチェックリストを×で消した。ようやく、観光本の取材がはじまったのだ。

 成海たちが三日間、泊まるホテルも公園内にあった。

 成海たちの本拠地である。葵はバスをおりて、写真を撮った。うしろには京葉線の駅があった。前方には噴水だ。右側には駐車場があった。左側は海だ。倉庫がならんでいた。

「ぜんぶ、見てまわりたいんだけど、どういう順番がいいかな」

「まずはパークトレインにのりましょうか。人気があるのは大観覧車や水族園なんだけど、わたしがいちばん好きなのは、パークトレインなの。……子どもっぽいと思われるかもしれないけど……」

「そんなことないよ。たくさんの写真を撮りたいからね。パークトレインからも撮れる。葛西臨海公園の敷地内もゆっくりと見られるじゃないか。一石二鳥だ。いいと思う」

 葵は顔を赤らめた。よろこんでいるようだ。

 彼女の先導によって、パークトレインの乗り場へと向かった。

 丸い噴水のさきだ。中央遠路というひらけた道がつづいていた。中央遠路を一分ほど歩き、最初の十字路を右に曲がると、パークトレインの乗り場があった。


「おお、すごい。奥に見えているのは、有名な観覧車だね」

「葛西臨海公園の名物、ダイヤと花の大観覧車。117メートルもあるのよ。レインボーブリッジ、東京タワー、スカイツリー、富士山まで一望できる。夜はライトアップされていてね。ほんとうに綺麗なのよ」

 葵はライトアップされた観覧車にのることをおすすめした。成海は他意もなく、夜にいっしょにのろうと提案した。

「え、ええ」葵は恥ずかしそうにうつむいた。

 恋人同士のデートスポットだと知っていたからだ。

 ちょうど、パークトレインがやってきた。


「見た目は汽車だね」

 黄色と赤色の車両だった。様々な色合いの車両があるらしい。パークトレインは公園内を走っているバスである。大人350円だった。成海はふたり分、払った。

 運よく、先頭車両にのらせてもらった。

「どれくらいの時間で、一周することになる?」

「二十五分から三十分ね。葛西臨海公園の全長が三キロほどあって、ジョギングくらいの速度で走るのよ」

「まもなく、出発します」

 係員さんの声が響いた。進行方向は観覧車とは逆方向だった。時計まわりに走るらしい。

「葛西臨海公園は、五つのゾーンがあってね。パークトレインはそのなかの八つの停留所を目指して走るのよ。管理ゾーンでもある、この公園サービスセンターから出発して、つぎはウォッチングセンター入口に到着する」

「ウォッチングセンターということは……」

「ええ。野鳥を見られる場所よ。鳥類園ゾーンね。ふたつのおおきな池にかこまれた場所なの。淡水池の上の池、汽水池の下の池があってね。いつも、たくさんの鳥が集まっている。ほら、あそこにもいる。ええと……、ちいさくてスズメに似た鳥は……」

 成海は海風を浴びながら、身をのり出した。

「コチドリだね。千鳥足の由来で知られているコチドリだ。うしろにはヨシゴイ、アオサギもいる。サギ科はやっぱり、おおきいな。迫力がある!」

 成海は、野鳥の名前をつぎつぎと言いあてた。葵は事前に調べてきた情報が成海の知識に追いつかないと知り、よろこんで口をとざした。

 彼女は野鳥ではなく、彼の横顔を見つづけた。聞き手にまわるのだった。

「あのコチドリは上空のカラスに狙われているみたいだ。砂場から離れていく。安全に巣をつくれる場所を探しているように見える」

 コチドリはパークトレインと同じ方向に飛んでいった。


「ここからは水族園ゾーンね。右側に見えている建物が葛西臨海水族園よ」

「ああ。有名な水族園だときいている。クロマグロが泳ぎまわるドーナツ型のアクアシアター、国内最大級のペンギン展示場、世界的に珍しいガラスドーム。とくに、夏だと、水族園に行くのは楽しみになる。これだけ暑いとね」

「ええ。しかも、地下へとおりていくから、ほかの水族園よりも涼しく感じるかもしれない」

「いまから楽しみだ。ちかいうちにリニューアルオープンするというニュースを見たよ。工事がはじまるまえに見ておきたかったんだ」


 成海のまえを四人家族が歩いている。

 ふたりの子どもがおおきなクロマグロのぬいぐるみを抱えていた。


 等身大のサイズのようだ。

 水族園の話で盛りあがっている。

 成海まで笑顔になった。


「あっ! パークトレインが水辺ライン船乗り場前に着いたみたい」

 葵は人差し指を向けた。

「東京水辺ラインの駅か」

「わたしたちには馴染みがある船ね」

「うん。有明にも来ていたからね。東京ベイコースだと、国際展示場にもとまるんだよね」

「ええ。でも、わたし、のったことがないのよね。あまりにもちかすぎて……」

「わかる。ぼくものったことがないよ。藤堂や三郷もそうなんじゃないかな。この機会にのってもいいかもしれない」

 パークトレインは、なぎさ橋前という停留所にとまった。

 清掃員が立っている。ゴミ袋を両手にかかえて、中央遠路へと歩いていた。

 常に公園内が清潔に保たれているのも納得である。

「ゴミ収集車を公園のなかにいれないようにしているんだね。清掃員が徒歩で集めている。景観にも気をつけているんだ」

 成海は清掃員に、感心した。

「ますます、素晴らしい」

「成海くん、そろそろ、四つ目、汐風の広場ゾーンをとおるみたいよ。ほら、展望レストハウスが見えているでしょう。公園も目玉のひとつ、クリスタルビューと呼ばれているのよ」

 全面ガラス張りの展望台だ。存在感をはなっていた。

「透明の建物、壮観だね! 遮蔽物もない。東京湾や房総半島をながめられる。建物自体も素晴らしい。すべての壁がガラス張り! これ以上のない場所だね。最高級の展望台にちがいない。都内でも、ガラス張りは葛西だけだ。はじめて見たよ!」

「よろこんでもらえて、わたしもうれしい……」

 パークトレインは、汐風の広場前の停車駅をすぎた。

 成海はクリスタルビューが見えなくなるまで、視線を向けていた。

「そういえば、工藤さんが以前、働いていた場所も葛西臨海公園のなかだったんだよね」

 成海は前方を見た。

「ええ。右側に葛西臨海公園の事務所が見えているでしょう」

「さっき、とおりすぎた二階建ての建物だね」

 こんどは、前方の池に人差し指を向けた。芦ヶ池と呼ばれているらしい。

「その事務所と芦ヶ池のあいだに、ひらけた広場がある。背の高い木々にかこまれているから、見えないけれど……」

「ああ。だいたいの場所はわかった。コチドリがおりていったところだね。人がいるところにカラスはいない。巣があるのかもしれない。木々のあいだから、わずかに白い屋根も見えている」

 立て札が置かれていた。小道がつづいていた。

「わたしはその多目的研究センターの事務員をやっていたのよ」

「あたらしい施設だよね。どういう場所なんだ?」

「もともとは、病院だったのよ」

「病院? こんな場所に?」

「ええ。ウイルス感染症が流行ったときに、病院の数が足りなくなって、各地に、臨時の仮設医療施設を建てられたのは知っているでしょう。そのひとつが多目的研究センターだった」

「なるほど。公園のなかでも一目のつかない場所だ。自然も多い。交通の便だっていい。ちょうどいい場所だったんだね」

「ええ。二年ほど使っていたみたい。ある程度、感染症が終息して。大学病院は予定どおり、撤退した。その建物をべつの形で使うことにしたのが、多目的研究センターね」

 研究発表会の開催場所にも使われているらしい。裏側に展示ホールがあるようだ。

 葵は懐かしそうに見つめていた。

 パークトレインは芦ヶ池前を通過した。

 池の管理業者が倒木を運んでいた。掃除しているようだった。


 倒木は真っ黒だった。

 なぜか、首をかしげている。


 成海は少し、気になったが、葵の笑みのほうが魅力的だった。

「あとは芝生広場前と大観覧車入口で終わりになります。ありがとうございました」

 葵は冗談っぽく話した。

「ほんとうに楽しい旅路だった。汽車の旅もいいものだ」

 成海は汽車に扮したバスの座席を叩いた。

「ふふっ。そうね。もう一周してもいいくらい」

 ふたりの談笑に割ってはいるように、大声が響きわたる。


「いったい、どうなって、いるんだ!」

「わ、わたしは知らない」


 不穏な声色だった。怒気を孕んでいる。

「喧嘩かな?」

 公園に似つかわしくない行為だ。

 ねずみ色の作業着を着た若い男が、白い研究服を着た壮年の男を責めていた。

 広場のすみだ。二倍ほど年齢差があるにもかかわらず、地位の高そうな、年上の男が怒鳴られている。異様な光景だった。若い男は、なぜか、新聞をもっていた。

「だったら、どうして、きょうも来ていない! 金が必要なんだ!」

「わ、わたしが知りたいくらいだ」


「だったら、きょうからあんたがかわりだ。いいな! 12、6、9だ。たしかに、伝えたからな!」

「待て。それは困る!」


「多目的研究センターの三浦先生だわ。どうしたのかしら」

「知り合い?」

「ええ。事務員をしていたころに、見かけたことがある。助教授くらい、地位のある研究員だったはずよ」

「研究員か。もうひとりの男のほうは?」

「知らない。はじめて見た。でも、さっき、とおりすぎた事務所の人じゃないかしら。グレーの作業服が支給されていて、彼の着ている服と同じだった」

「多目的研究センターのとなりの建物か。なにか、敷地内で、揉め事があったのかもしれない。あれだけの剣幕だ。ただごとじゃない」

「そうね。まわりに、だれもいなかったみたいだし……。とめる人はいないかも……」

 成海は大観覧車入口で、パークトレインからおりた。

 大観覧車をながめることもなく、多目的研究センターのまえの広場へと引きかえすのだった。

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