一章 斬りとられた右腕
「へえ、ここが葛西か」
成海は改札口を出た。東西線の葛西駅は、東京の最東端の駅だ。
すぐとなりは、千葉県の浦安だった。
「なんて、美しい街なんだ」
成海は感嘆の声を漏らした。真っ直ぐにのびている環七通りと真横に長いバスロータリーが交差し、十字架のような清廉な美しさがつづいていた。
成海は感動そのままに、歩道橋の階段をおりていった。高架下に出た。左側に地下鉄博物館、右側に大手の銀行が見えていた。正面には活気のあるバス乗り場が等間隔にならんでいた。二十ちかい停留所があった。
バス乗り場の中央には、葛西駅を象徴するモニュメント、『風とともに』が立っていた。風力発電の風車だ。いまもゆっくりと羽がまわり、住民を温かく見守っていた。風車のしたでは、待ち合わせをしているのか、黒ずくめの男が腕を組んでいた。
せわしなく、視線を動かしていた。
成海は横断歩道を探した。ガードレールに沿って歩いた。
葛西の街を味わうように、息を吸った。
「海のにおいがする。懐かしいな」
葛西駅から二キロほど進めば、東京湾だった。いまは八月上旬だ。海風が気持ちよかった。携帯電話をとり出した。同僚の三郷算利から、とどいた文面を読んだ。待ち合わせの場所が書かれていた。中葛西五丁目と東葛西六丁目のあいだにあるカフェだ。
これから会う相手は三郷ではなかった。
彼女だ。その事実が成海の鼓動をはやくした。
葛西駅のまえは、往来がはげしかった。目のまえで、通行人同士がぶつかっていた。紙袋から四個の桃が落ちた。
「どうぞ」
成海は桃をわたした。道をきいた。待ち合わせのカフェは、環七通りのさきにあるとわかった。横断歩道へと急いだ。信号のまえでは、年配の女性が立ち往生していた。目をほそめていた。信号の色がわからないようだった。
「いっしょにわたりましょう」
手をあげて、バスをとめた。ゆっくりとわたった。会釈して、わかれた。
都道318号、環七通りに出た。
歩道には定食屋、飲み屋、ファーストフード店、コンビニ、レンタルショップが順々にならんでいた。両目で店先を楽しんでいると、つぎの横断歩道があらわれた。
カフェの看板が見えていた。
成海はゆっくりと深呼吸した。三郷算利から来た連絡をもう一度、確認した。
「こんど、出す観光本、アルカディアのコラムライターを引き受けてくれる人がきまった。有明第三小学校の同級生だ。観光本の購買層に合わせて、女性にたのんだ。名前は……」
成海はカフェのドアをあけた。店員が来る。
「待ち合わせなんですが」
若い店員は、身体を外にひらいた。
もう来ているらしい。
正面のテーブルが視界に飛びこんできた。
窓から陽光が差しこんでいる。日溜まりの裏だった。
「……工藤さん」
暗い影のなかだった。黒いブラウスとかさなっている。見えにくいが、ひとりの女性が成海へと顔を向けていた。工藤葵だった。テーブルのうしろに立っている。
――まるで、……思い出と逆だ。
目が合った。彼女は成海のほうに頭をさげはじめた。
背中をくの字に曲げていた。長い髪は身体の動きで、素早く、ゆれている。ふたりの緊張から来る脈動で、動きつづけていた。彼女の薄墨色の髪は、日影に吸いこまれ、夜の海のようだった。大人の女性になっていた。
異性の色があまりにも濃く、成海の理性など構いもせず、いまにも恋心という渦のなかに、呑まれていきそうだった。教室で見ていたときとすべてが逆だった。成海を見て、両胸を向け、さきに待っている。肩の長さほどの髪だけがかわらなかった。
美しくなった、そのことばを口にすることはなく、混濁した意識のなかに沈んでいった。身体の奥で、密かに、発熱するだけだった。彼女のぎこちないふるえもまた、成海と同じ症状を引き起こしていることをあらわしていた。
数十秒間の沈黙のあと、成海は、ようやく、向かいの席にすわった。
少年少女ではなく、ひとりの男性とひとりの女性としてのはじめての邂逅だった。
「よ、よろしくお願いします。工藤葵です」
「はい。こちらこそ、成海与一です。おひさしぶりで……」
最初こそ、ぎこちない敬語からはじまった。しかし、十五分ほどで、緊張も解けていた。ふたりは小学校の六年間で、三年生のころしか、同級生ではなかったが、共通の知り合いも多く、話題には恵まれていた。
「三郷くんからきいたけど、いまは警察のお手伝いを?」
葵も『警察四一』を知っているようだった。
「いやいや、ちがうよ。誤解だ。知っているかもしれないけど、三郷が有明単探という出版社を立ちあげたんだ。ぼくも、そこで働いている。それで、こんどは、東京の観光本を出すことになってね」
「出版社を……。すごいのね」
「いやいや、ふたりだけじゃ、どうにもならなくて……。だから、三郷が手伝ってくれる人を探したんだ。工藤さんも、三郷にアンケートを出してくれたんだよね」
「ええ。でも、わたしが出したんじゃなくて、友人が記入して、アンケートをわたしていたみたいで……」
葵は去年まで、葛西臨海公園の敷地内にある施設で、事務の仕事をしていたらしい。その縁もあって、観光本のコラムと葛西周辺の案内をしてくれることになった。
小学校の同級生である三郷算利は、知り合いによくアンケートをたのんでいた。アンケートには出身地や職場の備考欄もあった。そのアンケートを利用し、取材の必要があるたびに、協力者を見つけていたのだ。
「三郷には、ほんとうに助かっている。ぼくとは正反対の性格だ。有明単探社が成り立っているのは、彼の人脈があったからだ」
成海は二十歳からビッグサイトで開催している同人誌即売会に参加していた。その活動の延長が有明単探社である。ビッグサイトは有明第三小学校のまえにあった。
毎月、学校のかえりに、イベントの行列を見ていた。やがて、成海自身、興味をもち、みずから参加しはじめるのは、自然の流れだった。
「小学校から付き合いがあるのは、三郷くんだけなの?」彼女は上目遣いでたずねた。
「あとは藤堂平助だね。しょっちゅう、会っている」
葵も藤堂の仕事を知っているようだ。
「だから、警察四一を出すことになったのね」
「うん。まさか、警察四一があれほど、読まれるとは思わなかったけどね。有明単探社の最初の仕事だったのにさ」
成海は苦笑いを浮かべた。
「藤堂の親父さんの慧眼には、恐ろしいものがあるよ」
藤堂家は警察官の一家だった。有明では有名人である。藤堂親子の依頼で、警察にかんする本を出したのである。それが警察四一だった。当初は、ただのインタビュー本のつもりだったが、藤堂平助の父親にはべつの企みがあったようだ。
その画策もあって、警察四一はベストセラーになった。
成海の目に痛みが走る。
ふたりのテーブルに、さきほどまでの影はなかった。陽光が跳ねている。
「そろそろ、時間だね」
葛西臨海公園へと取材に行く予定になっていた。ふたりいっしょの取材である。
成海の鼓動がはやくなった。
「葛西臨海公園まで徒歩で行けない距離ではないけれど?」
葵は葛西駅の周辺にもくわしいらしい。十五分ほどで着くようだ。
「いいや。やめておこう。いまは真夏だからね。きょうだけの取材でもない。三泊もある。葛西駅にもどって、バスを使おう」
「葛西駅と言えば、ちかくに地下鉄博物館があるのを知っている?」
「さっき、のぞいたよ。三郷は列車とダイヤが好きだから、行きたがっていたね。あした、観光する予定だ」
いままで、まったく話さなかった異性とは思えないほどに、葵との会話は弾んだ。ことばが出すぎるくらいだった。お互い、話しつづけていた。葵の感情はつかめない。
少なくとも、成海にとっては、緊張を誤魔化すためのお喋りだった。
ふだんより口数がふえていた。
「とくに気にいったのは、『風とともに』だ。大通りを見守っているように置かれている。まさに、守り神だね」
成海は葵といっしょに、来た道をもどりはじめる。
「バスロータリーのあいだにあるから、待ち合わせにも使われている。街の象徴と言えるかもしれない」
話題の風車は海風によって、断続的にまわっていた。
「同僚は扇風機って呼んでいたわ」
その時点で、赤褐色のおもりがついていたことに、だれひとりとして、気がついていなかった。
「はははっ。扇風機か。愛称があるのは、愛されている証拠だね」
風とともには、不穏なる異物を蹴り飛ばしていた。
恐怖の知らせだ。はじまりの合図が舞った。鈍い風切り音が響いた。
日本でも類例のない殺人事件の呼び声だった。
「じっさいに、風力発電されているはずよ。地下施設に電力が使われているって」
成海の両目は異変のすべてを捉えていた。
「へえ。だったら、地元民は風のおかげで、利便性をえているんだね。まさに、風とともに生きるだ」
しかし、頭が理解していなかった。
初恋相手の葵とふたりっきりで話している。
夢の時間が、凄惨な目撃をぼやかしていたにちがいない。
目にまえには、だれもが目にしたことがあって、だれもが畏怖するものが飛んでいた。
五本の突起があり、内側に曲がっている。
肌色ではない。土色だった。
すでに、生きていない。
四十センチほどの固まりだった。
ついに、地上へと落ちる。足下に転がってきた。
まだ、現状を理解していない成海はそらを見た。
「よく見る風景だね」
笑顔すら浮かんでいた。
「海鳥が魚をとった。けれど、飛んでいる最中に、落としてしまうんだ」
「そうね。有明小学校でも起きた。校庭にアジが落ちてきて、騒ぎになったものね」
共通の話題は尽きなかった。五年生のころの話だ。べつのクラスだったが、見ていたものは同じだった。成海は楽しくなってきた。
成海の思い出は、少しずつ、白黒から桃色に色付けられていた。
「あれ……。でも。魚には見えない」
しかし、葵のことばと同時に、成海の考えがかわる。
ペンキが倒れたのだ。
一瞬で、白黒にもどった。
成海の目は鋭くなっていた。口角はさがっていた。全身は総毛立っていた。
背筋が凍っていた。息を呑んだ。
成海は彼女にさがるように合図をおくった。
「魚じゃない。これは……斬りとられた……」
片膝を立てる。
「男性の右腕だ……」
成海の思考は、一気に、赤色に染まりきった。
成海は黙って、葛西駅の南口へと指を向けた。葵は口元を押さえていた。ゆっくりとうなずく。交番へと向かった。右腕から血液は流れていない。
凝固している。
においは強い。腐っている。二、三日は経過しているようだった。
そばに紐が落ちている。『風とともに』の羽に汚れがついていた。線状の痕跡がのこっている。上部から下部に、一筋になっている。右腕は羽に縛られていたのだ。
回転しているうちに、むすんでいた紐が外れて、飛ばされてきたにちがいない。
――しかし、いったい、なぜなんだ……。
――わからない。
もっともちかいバス乗り場にいた主婦が、右腕に気がついたらしい。彼女の悲鳴を皮切りに、ロータリーは悲鳴の大合唱にかわった。
葵がもどってきている。警察官もいっしょだった。無線連絡をしている。警察署もちかい。まもなく、やってくるにちがいない。
成海はセントラルスケジュールの裏側をひらいていた。
書きこんだ。一回目である。
「――どうして、死体の一部が、葛西駅のモニュメントにくくられていたのだろうか?」
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