序章 工藤葵
初恋のはじまりは、雲だった。
みなと同じ、雲だった。
彼の恋心は、いまだ、切れ目のない雲にすぎなかった。
少しずつ、幼き時計の針が進んでいくと、雲の表情はかわるのだ。
雲の顔を思うと、雨になり、雲のことばを考えると、雷になり、雲の出会いを願うと、嵐になった。やがて、そらに晴れ間があらわれたとき、ひとりの異性が思い浮かぶのだ。
成海与一もそうだった。
みなと同じだった。雲の終わりは、初恋だった。
成実与一の目には、常に四人の少女が映っていたが、雲が切れたあと、心のそらに見た少女は、ひとりだった。
葵だ。彼の心が見つめた相手は、工藤葵だった。
葵ひとりに恋い焦がれるようになったのだ。
――工藤さんの顔が見たい。
――工藤さんの声がききたい。
――工藤さんといますぐに会いたい。
成海は有明第三小学校の三年生だった。江東区にある小学校だった。小学校は隅田川と荒川と東京湾に囲まれていた。有明は江戸時代に埋め立てられた土地だった。東京の末端に位置しており、東京にしては、人口密度は低かった。
成海のかよっている小学校は、ニクラスしかなかった。遊ぶところも少なく、放課後、子どもたちが学校にのこることもあった。
学校内のほうが安全だと考えられていたからだ。
保護者が学校へとおくりだすこともあった。成海与一もまた、ほかの子どもと同じだった。その日も一度、家にかえってから、ふたたび、学校に向かった。
遊びたかったからではない。
ときどき、工藤葵が校内にいることを知っていたからだ。足が自然と、葵のいそうな場所へと動いていった。熱に浮かされた身体が飲み水を求めているようだった。
恋心という風邪が、葵の姿を求めていた。
成海は校庭をまわった。いない。体育館を歩いた。いない。三階の教室へと向かった。いない。
……いいや。一気に心臓が高鳴った。
いた。
白いカーテンのまえだ。白いシャツとかさなっている。見えにくいが、ひとりの少女が背中を向けていた。工藤葵だ。窓のまえに立っている。
肩の長さほどの髪が目にとまった。濡れ羽色の髪は、太陽の光に反射して、輝いている。彼女の髪は海風で、なびいていた。
長い髪をたおやかな指先で、ゆっくりと、かきあげている。
彼女は背中をくの字に曲げはじめた。窓側に前のめりになっていた。
成海は教室にはいれなかった。ドアの隙間からのぞいていた。話しかけられなかった。見とれていたのだ。葵は成海の存在に気がついていないようだった。
彼女は急に動き出した。なにかを抱えているようだった。成海の反対側のドアから出ていった。成海はあわてて、追いかけた。
しかし、見失ってしまった。どこにも見つからなかった。学校内にはいないようだった。葵の姿を見たことで、成海の熱はさがっていた。我にかえりはじめている。冷静になると、こんどは勇気を出せなかったことへの後悔が顔を出していた。
「ぼくといっしょに遊ばない?」
そう声をかけることはできなかった。成海の右手は空を切った。
驚くほど、声はかすれていた。
ただ見ただけで、緊張しているのだ。喉が渇いていた。成海は水飲み場に向かった。
蛇口を捻っても、水が出なかった。水道工事の最中のようだった。
自宅にかえることにした。校門を出る。ふと、ふりかえった。
「工藤さんは教室で、なにをしていたのだろうか」
彼の左手は脈動していた。のちに、解決への示唆となる動きだった。小学三年生のときから発現していたのである。無意識のうちに、文字を描いていた。
――小学校の教室の窓際に置いてあるものはかぎられている。身をのり出して、中身をのぞきこんでいた。両手で抱えていた。子どもがひとりで、どこかへと運べるものだ。なにが考えられる?
成海の思考は、そこでとまった。
つぎの日になって、すぐに、真相がわかった。成海は、はやめに学校へと来ていた。窓際の自分の席へと向かった。立ちどまる。異変に気がついた。
「水槽内のメダカがみんな、死んでいる……」
六匹のメダカは、逆さまになっていた。お腹を水面に向けている。浮かんでいた。
腐臭はしない。
しかし、磯のにおいがした。
海水だ。海水がはいっている。三階の教室から校門が見えていた。工藤葵が必死に走っていた。顔面蒼白だった。いまにも泣き出しそうな顔をしていた。
「きのう、工藤さんは、水槽を運んでいたんだ」
水道は工事で、とめられていた。
有明第三小学校から隅田川はとおい。いっぽう、東京湾は目のまえだ。彼女は水槽内の濁った水を善意から海水にいれかえたにちがいない。メダカは塩分に強い魚である。海水をいれた直後は苦しんでいなかったのだろう。平然としていたにちがいない。
しかし、一日はもたなかった。
葵は水槽内の水をかえた。彼女はさらに、水槽内の環境をよくしようと考えたのかもしれない。メダカを調べた。そして、きょう、川に住む魚だと知ったのだ。
海水と淡水のちがいを学んだ。だから、必死に走っている。
いま、葵は惨状を目のあたりにしようとしている。
同級生がぞくぞくと教室にはいってきていた。
成海の心は、すでにきまっていた。葵が校舎内にはいったのを見とどけてから、窓をひらいた。階下にだれもいないことを確認する。
死んだメダカのはいった水槽を地面へと落とした。
教室内は瞬く間に騒然となった。
「なんの音だ!」
「わたし、見た。成海くんが水槽を落とした」
「たいへんだ……先生を呼んで……」
「急げば、まだ、メダカは助かるかもしれない!」
メダカはもう助からない。成海がよく知っていた。ドアが音を立てる。ゆっくりとひらいた。
成海は顔を向けた。
すれちがう同級生を横目に、工藤葵がはいってきた。彼女は立ち尽くしていた。顔色は極端に青い。成海が責められるごとに、彼女の肌は、冷たい水でおおわれていった。
うしろに、さがりつづけている。
成海は視線を床に向けることしかできなかった。
それからの出来事は、小学校のよくある光景となった。
成海は、みなのまえで、叱られることになった。
「メダカは絶滅の恐れもある貴重な生物だ」
「ひらいている窓のまえで、水槽を倒してしまえば、どうなるかを考えなくてはならなかった」
「階下に人がいれば、大怪我をしていたかもしれないんだぞ!」
担任の先生は、ホームルームの時間を道徳の授業にかえていた。みなに、生物の命の尊さを教えようとしていたにちがいない。
しかし、それは成海のしでかしたことを、広く知らしめることでもあった。
大人が思っているよりも、子どもは実直である。悪いことをした。その事実は、同級生から距離をとられ、長い小学校生活に暗い影を落とすことになった。
さらに、その親たちまでも……。
成海をおとなしい性格にかえた出来事でもあった。
その日の放課後、成海は教室にのこっていた。ひとりで、メダカの墓をつくることが、先生から成海への指導だった。スコップを片手に、教室から出ようとする。
黒板が目にはいった。きょうの飼育係が書かれていた。
成海与一と書かれていた。
「ああ。きょうの飼育係は、ぼくだったんだ」
だったら、水槽を壊したのが自分ではなくても、死骸を埋めることになったかもしれない。
――おかげで、海水がはいっていた事実を隠すことができる。工藤さんは傷つかない。
成海は気にすることなく、教室を出ていくのだった。
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