三章 多目的研究センター

「12、6、9。あしただ」

「わかったよ。犬飼くん」

「白い蠍が黙っていないよ、三浦先生。恩恵は十分に受けたはずだ」

「あ、ああ。もう、あともどりはできない。わかっている」


 成海たちがもどってくるときには、口論は終わっていた。犬飼と呼ばれた青年は、成海たちに気がつかなかったようだ。ふてぶてしく、事務所へと歩いていった。

 成海は三浦の背後から声をかけた。彼は飛びあがるように、驚いた。


「だいじょうぶですか?」

 葵は三浦の顔をのぞきこんだ。

 三浦は手にもっていた新聞をそそくさと、かばんにいれた。

「おや、きみは……」

「多目的研究センターで事務をやっていた工藤です。揉めていたところを見ました。心配になって……」

 三浦は顔をしかめていた。なんと答えるのか、悩んでいるようだった。

 細身の長身を苦しげに曲げていた。

「さきほどの青年はお知り合いですか? 年齢は随分と離れているようですが……」

 成海はたずねた。三浦は成海の顔を見た。両目を白黒させていた。記憶のすみを探しているとわかった。

「いいえ。ぼくは初対面です。有明単探社という出版社の者で、成海与一と言います。工藤さんには仕事を手伝ってもらっています。きょうは葛西臨海公園に取材に来たのです」

「ああ、きょうだったのか。橋口さんからきいているよ。トラベルライターだね。わたしは三浦真だ。多目的研究センターに勤めている」

 警察四一のことは知らないようだった。平静をとりもどした三浦は、すでに見えなくなった男のほうに手を向けた。

「彼は犬飼洋太といってね。事務室で働いている青年なんだ。広場で清掃の仕事をしているところを見つけてね。わたしが彼に注意していたんだ……」

「貴方が……彼に?」成海の印象とはことなっていた。

「ああ。いま、多目的研究センターを清掃しているのだが、彼はそれを知らずに、室内にはいってしまってね。立ち入り禁止の立て札が見えなかったようだ」

「三浦さんが彼を追いかけて、注意したということですか?」

「ああ、犬飼くんも謝罪していた。今後は気をつけると言っていたよ」

「はやとちりだったのですね。もっと深刻な事態かと思っていました。三浦さんは休憩をとっているのですか?」

「ああ。昼休み中だ。いまならば、事務員の橋口さんも暇しているはずだよ。きみとは親しかったね」

「ほんとうですか。だったら、多目的研究センターに顔を出してみようかな」

「そうするといい。宇田川室長も歓迎するはずだよ。橋口さんから、きみが葛西周辺の本を出すときいて、興味をもっていた。多目的研究センターの宣伝をしたいと言っていたからね」

「わかりました。よってみます」

 三浦はまるで、成海たちをとおざけたいようだった。彼は昼食に行くつもりらしい。背中を向けた。小走りで去っていった。

「昼食に行くって言っていたね」

 成海は首をかしげた。葛西臨海公園の園内マップを見た。昼食のとれる場所はかぎられている。クリスタルビュー内、もしくは中央遠路にあるカフェしかない。

 しかし、三浦の足はどちらにも向いていなかった。


 成海はマップ上で人差し指を動かした。彼の足は水族園に向かっているとわかった。

「水族園の施設内にもレストランはある?」

「ええ。あったはずよ。観光客で多いと思うけど」

「ありえなくはないか」

 成海は三浦の態度が気になっていた。三浦のほうから犬飼に注意していたという説明も納得できなかったが、なによりも、パークトレインから見たときは、犬飼のほうが新聞をもっていた。かえるとき、犬飼は手ぶらだった。三浦にわたされていた。

 この事実が頭から離れなかった。

 成海はスケジュール帳の裏側に書きいれた。


「――三浦さんは、どうして、犬飼という青年と口論になったあと、彼から新聞を受けとったのだろうか?」

 この疑問に答えは出なかった。いまはまだ、謎につつまれていた。成海たちはせっかくだからと、三浦が勧めたとおり、多目的研究センターに顔を出すことにした。

 葵の同僚だった事務員の橋口がすぐに気がついてくれた。彼女は短い髪の毛を黒茶色に染めていた。スーツ姿だ。小柄な女性だった。身長は150センチに足りないくらいだ。

 常に笑顔だった。全身から愛嬌があふれ出ている。


「久しぶりです。橋口さん」

「ええ。ほんとうに! あした、顔を出すって言っていたのに、どうしたの? 予定がかわったの?」

「ええ。外で三浦さんと会って、いま、休憩しているときいたのです。それで、よってみたのですが……。お邪魔でしたか?」

「いいえ。ちょうど、昼食をとろうと思っていたところよ! いっしょにいいでしょう?」

「もちろんです」葵は成海のほうにふり向いた。

「成海くん、彼女が橋口亜希さんです」頭をさげる。「橋口さん、彼が……」

「知っている。きいている。成海与一くんでしょう! 葵が異性の話をするなんて、珍しいから、よくおぼえている。同級生のトラベルライター。そっか。なるほどねえ」

 亜希は値踏みするように、成海のまわりを歩いた。

「うん。きいたとおりね!」

 いったい、どういう説明を受けているのだろうか。こんどは、身体をべたべたとさわってきた。亜紀の突拍子のない言動に、葵があわてふためいていると、おおきくて低い声が廊下に響いた。

「ほう! 食事をいっしょに?」

 白髪の男性があらわれた。彼もまた小柄だった。亜紀よりも額ひとつ分、高いだけだ。

「だったら、わたしもごいっしょして、よろしいかな?」

 彼は事務室のとなりにある休憩室にいたらしい。

「失礼、わたしは宇田川信哉。多目的研究センターの室長をやっている。室長と言っても、ただのお飾りだがね。第一生物系産業機構・理化学部門の部門長と兼任している」

「室長! だったら、この施設は宇田川さんの所属している第一生物系産業機構が使っているのですか?」

「いいや。わたしの機関は四分の一だけだ。将来的にはふやしたいがね」

 おおらかに笑った。

「この多目的研究センターは一階と二階にわかれていてね。宇田川さんの機関は、一階西の八室分を使っているのよ」


「理化学部門の正面に緑川大学農業食品イノベーション室がはいっている。中央側には事務室と休憩室、東側にはウォッチングセンターの倉庫部屋、病院のカルテ室がつづいている」

 葵と亜紀は交互に話した。

「倉庫部屋のとなりは、水質環境研究所ね。こちらも八室、使っているのよ。水槽がずらっとならんでいる部屋ね」

「二階も同じ間取りだ。東側には病院だったときの名残で、衛生実習室がある。いまも研修生が来ることもある。あとは水族園の備品室かな。西側には水質環境研究所の実験部屋がある。若い研究員が使っている。屋上もあるけど、いまは荷物置きだ」

「ほとんど、倉庫なんですね」

「ああ。研究機関は三つだけだな。一応、なにかあったときのために、年長者のわたしが多目的研究センターの室長になっている。まァ、届け出に名前を書くだけの役職だがな」

「立派ですよ」

 成海は正面にあるドアに視線を向けた。

 新環境をつくるためのシンポジウム第二部と書かれていた。

「展示ホールもある多目的研究センターの室長、簡単にまかされるものでもないです」

「まァ、おかげで悩まされているよ。多目的と言うだけあって、問題もあってな」

 宇田川はことばを濁した。

「積もる話もあるだろう。立ち話はいかん。腰に悪い。食事をしながら、語り合おうではないか」

 宇田川は三人を引っ張るように、外へと出て行った。

 葵と亜紀は笑いながらつづいた。宇田川のペースに付き合わされていた。


 成海与一、工藤葵、橋口亜紀、宇田川信哉の四人は、クリスタルビューにあるレストランで食事することになった。成海と葵は窓際の席にすわった。

 亜紀と宇田川は通路側にすわった。

「ほう。ふたりは同級生なのか!」

「はい。小学校の三年生のとき、同じクラスでした。共通の友人の紹介で、案内してもらうことになったのです」

「成海くんは葛西周辺の観光記事を書いているんだってね。葛西臨海公園のほかには、江戸川区のどこをまわるんだ?」

 成海はセントラルスケジュール帳をとり出した。日めくりカレンダーを手帳にしたものである。友人の出版物のひとつだった。

 成海が二十歳のころ、同人誌即売会評論部門に参加したとき、その友人とはとなりの席だった。同年代ということもあり、現在にいたるまで親しくしている。

 セントラルには三日分のスケジュールが簡単に列挙されていた。

「ポニーランドや菖蒲園にも行くつもりです」

「南葛西と小岩だね」

「はい。どこも楽しみですが、いちばんの目玉はタワーホール船堀です。花火大会はタワーの展望台からで見るつもりです。取材の時期がちかければ、行船公園の金魚祭りにも行きたかったのですが……」

 金魚祭りは七月の開催だった。すでに、終わっている。

「うん。うん。どれも定番だ」

 宇田川はコーヒーで口を隠した。

「記事は多いにこしたことはない。そこで、ものは相談だ。うちの多目的研究センターのことも記事にしてもらえないか?」

「えっ? 多目的研究センターの記事ですか?」

「ああ、なにも水族園や鳥類園ほどじゃなくてもいい。葛西臨海公園の設備環境をよくするために、日々、研究がつづけられているという一文だけで、構わないのだ」

「ぼくとしては大歓迎です。しかし、いいのですか? 観光本ですよ」

 多目的研究センターに注目が集まっていいのか。不安になった。

「もちろんだよ」

「室長、正直に言ったほうがいいですよ」

 亜紀は溜め息をついた。

「説得材料にしたいのでしょう?」

「う、うむ」

「どういうことですか?」

 宇田川は観念したようにコーヒーを置いた。

「成海くんは、多目的研究センターの成り立ちをきいているかね?」


「はい。もとは病院だったそうですね。病室の数を一時的にふやすために、公園の敷地内を借りたときいています」

「そうだ。のちに大学病院が撤退したあと、施設を有効活用するために、多目的研究センターにかえた。この公園は江戸川区の公共のものだ。ゆえに、三つの研究機関は、どれも葛西臨海公園に貢献することが求められている」

「……ですが、実験や研究は、目に見える成果がすぐに出るものではないですよね」

「そうなのだ!」

 宇田川は成海の同意に、よろこびを露わにした。

「多目的研究センターの成果は着実に出ている。だが、地味でな。小難しい論文上のデータでは、効き目がない。区のうえの者はよく思っていないらしい。しかも、タイミングが悪いことに、公園内の数カ所で、改装工事がきまっていてね」

 宇田川はガラスドームのほうを見た。

「とくに水族園の工事だ。ガラスドームの大型工事がはじまったら、しばらく水族園が使えなくなる。代理で、多目的研究センターを使おうという話があがっているみたいなのだ」

 工事の進捗によっては、水槽ごと魚たちを移動しなければならない。

 ほかの水族園に協力してもらうだろうが、敷地内に移せるならば、手間も省ける。

 成海は多目的研究センターの運営が瀬戸際にあることを理解した。

「存続の危機ということですか」

「そうなんだ。われわれは部屋を借りている立場だ。どうにも、肩身がせまくてね。名目上、わたしは室長だ。研究室の存続させることが仕事だ。だから、なんとかしたくね」

「室長は成海くんの記事を牽制に使おうと考えているのよ」

「いやいや。それだけではない」

 宇田川は学生に講義するかのように、両手を広げた。

「上手くいったら、多目的研究センターの成果を観光客に見せられるようにするさ。展示ホールを開放するつもりだ。あたらしいスポットになる可能性だってあるではないか!」

 大仰だった。いつもの調子なのだろう。

 亜紀と葵は苦笑いを浮かべていた。

 しかし、成海は興味をもった。多目的研究センターの記事を書き、室長に協力することもやぶさかではなかった。

「おもしろいですね。具体的にどういった研究をしているのですか?」

「きいてくれるか! うむ。われわれが公園内に貢献できる内容を研究しているというのを話したね。おととい、展示ホールでシンポジウムをひらいたのだが」

「シンポジウム……。研究発表会ですね」

「ああ。ほかの研究機関、大学付属、農研、推進機構なども来る。注目の集まる意見交換の場だ。せっかくだから、ふだんの研究に加えて、多目的研究センターにある三つの機関の合同研究を発表した」

「理化学部門、水質環境、農業食品でしたね」

「わたしが注目したのは衛生面だ。公園内にある設備、川と池、草花、すべての衛生面を向上したい。そして、貢献できると考えたのだ。手すりに子どもがふれることもある。水面は藻やプランクトンの影響で汚れるだろう。広場にある花や田畑には……」

「虫がついてしまいます」

 成海は顎に手を置いた。

「強い洗浄剤は、子どもに影響が出るでしょう。農薬を撒いてしまうと、草花や野菜にのこってしまう。池にいる生物が死に絶えることもあります」

「そこでだ。われわれは、生物に影響を与えにくいものとして、電解水に目をつけた。こんかいの共同研究のテーマだ。生成設備もイノベーション室にあったからな。実験するのは簡単だった。成果も上々だった。電解水は海水からもつくれるからね」

「葛西臨海公園の目のまえは海です。材料を現地で調達できる。電解水は、生成できる量が少ないときいたことがあります。しかし、葛西臨海公園ならば、その心配がない」


「室長……。室長……」

「くわしいね。ますます、気にいったよ! そう、電解水は濃度によって、量も質もことなるのだ。ゆえに、使用方法も多岐にわたる。わたしは公園内の設備に対しては、中性から弱アルカリ性の電解水で、いっぽうの……」

「成海くん……。成海くん」


 ふたりは、ようやく、呼ばれていることに気がついた。

 同時にふたりの女性の顔を見た。

「室長、話が長すぎますよ。休憩時間はもう終わりです」

「成海くんも、そろそろ、つぎの取材に行かなくちゃ……」

「そうか。随分と引きとめてしまったね」

「いえいえ。食事の時間内ですので、気にしないでください。どれくらいの記事になるかはわかりませんが、有明単探社としても取材したいと考えています」

「ほんとうかね! だったら、きょうの夜に来てもらえるかな。夜七時まえならば、身体があいている」

「わかりました。午後には、なにか用事が?」

「ああ。シンポジウムの二部があってね。まァ、最後の挨拶くらいなものなんだが、室長のわたしだけは外せなくてね。自由な時間が夜しかないのだ」

「このあとにシンポジウムがあるのですか?」

 シンポジウムのまえで、初対面の者と談笑するなんて、肝が据わっている。

「そうだ。スペアキーをわたしておこう。多目的研究センターは、玄関口にだけカギがかかっていてね。部屋のほうのカギは、どこも、あいているはずだ。しかし、念のために」

 成海はカギを受けとった。

 シリンダーにいれて、ひねるタイプのカギだった。


「ドア上部に理化学部門・三浦真という札がかかっている」

「宇田川さんの部屋ではなくて、三浦さんの部屋にいるのですか?」

「ああ。わたしの部屋は、シンポジウムの準備で、資料だらけになっていてね。足の踏み場もない。だから、部屋を借りている。三浦くんは背が高くて、ぼさぼさの……」

「ああ。さきほど、お会いしました」

 葵はうなずいた。

「犬飼という事務所の青年と話していましたよ」

「三浦くんと犬飼くんが? 寺崎くんではなくて?」

「はい。多目的研究センターが清掃中だったらしいですね。立ちいったことで揉めていたみたいです。新聞をわたしていたように見えたかな」


 探りをいれた。

「どういうことだ。清掃なんてしていたかな。それに、三浦くんが新聞を読んでいるところを見たことないが……」

 宇田川は遠い目で海を見る。

「しかし、同じ光景を寺崎くんと犬飼くんで見たことはあるな。見まちがいではないのか?」


「いいえ。ご本人から紹介を受けました」

「室長! 時間!」

 亜紀はすでに席を立っていた。

「ああ、わかった。それでは、また、あとで!」

「台風みたいな人だったね」

「ええ」

「研究員は物静かなイメージをもっていたよ」

「室長は特別だと思います」

 ふたりは笑い合った。クリスタルビューを出ようとする。

 驚くことに、室長は昼食代を払っていったようだ。伝票が消えている。

「一本、とられてしまった。記事を書くのはまぬがれないね」

「なんだか、ごめんなさい」

 葵は親戚が迷惑をかけたような言い方をする。

 余計に断りにくい。成海は肩をすくめるのだった。


 ふたりは葛西臨海公園を出た。なぎさポニーランドの場所を確認する。二キロほどの距離だ。三つの公園が繋がっているらしい。最初の公園まで、歩いて二十分だ。

 車道をわたることはできない。歩道橋をのぼり、環七通りにもどった。バスでもとおった道だ。八月にしては、気温も湿度も低く、汗をかくこともなかった。

 小学校の思い出話をしているうちに、十字路へと出た。目のまえには、赤と白の鉄塔がそびえ立っていた。周囲は木々にかこまれている。公園の敷地内のようだった。

「総合レクリエーション公園と言うのよ。葛西駅の正面通りから旧江戸川までつづいていてね。東西で三キロもある。葛西臨海公園と遜色ない広さなんですって」

 葵は右奥にとまっている青色のバスを見た。

 正面に可愛らしい顔がついている。

「あおくんよ」

 パノラマシャトルバスだ。はなちゃんという赤いバスもあるらしい。成海はふたたび、感嘆の声を漏らした。

「おおきな公園がふたつも徒歩圏内にある。臨海公園のちかくに総合公園! 素晴らしいね。こんなところで暮らしたいものだ」

 成海はパノラマシャトルバスの発進を見送った。葵は反対向きで歩いた。

「うしろに見えているのが、スポーツ広場と野球広場ね。子どもたちが身体を動かしている。正面の噴水のうしろが……」

「フラワーガーデンだね。行きたかったんだ」

 公園の左右に花壇がつづいている。南欧風の園芸庭園のようだった。

 フラワーガーデンは、名前のとおり、花々を育てている庭園だ。とくにバラが多い。バラのシーズンである春と秋は、色とりどりのバラにかこまれ、多くの観光客でにぎわうらしい。いまは噴水のなかで、はしゃぎまわる子どもで、活気づいていた。

 成海は夏のひまわりを目で楽しみながら、つぎの公園へと向かった。


「のんびり散歩できる公園だ。子どもだけじゃくて、お年寄りにもいい。大満足だ」

「ふふっ。フラワーガーデンのとなりにある富士公園は、高学年の子どもが楽しめるアスレチックもあるのよ。ほら、バーベキュー場も見えるでしょう。懇親会に使う会社もあるみたいで、大人の声もよくきこえる」

「へえ! よく考えられている。全年齢が来られる公園になっているんだ。それに背の高い木々も多い。夏でも日影が多くて、涼しいね。徒歩で、正解だったな」

 緑豊かな富士公園の道が終わる。成海は横断歩道をわたった。

 成海の目的地である、なぎさ公園があらわれる。

 パノラマシャトルバスの背中を追って、公園の奥へと歩いた。馬の鳴き声がきこえてくる。なぎさポニーランドは、ポニーの餌をあげたり、乗馬ができる場所だ。

 成海たちは、早速、ポニーやヤギとふれ合った。

 子どもに交じって、にんじんをあげた。写真を撮り、施設の見学をした。葵がポニーに苦手意識をもっていることを知った。成海がポニーに好かれることを知った。

 笑い声が絶えなかった。楽しい時間はあっという間である。

 午後はとっくにすぎて、夕方にちかづきはじめていた。夜には宇田川と約束している。

 遠出できる時間帯ではなかった。

「どこかで、休める場所を探そうか?」

「ええ。公園の外にカフェがあったと思うけど……いまもあるかしら」


「へえ。こっちにも、よく来ていたんだ」

「ええ。亜紀さんがヨガ教室にかよっていてね。時間が合ったときに、ちかくで食事することもあったの。だから、食べる場所だけは知っていてね」

「ヨガ教室? へえ、身体が柔らかいんだ」

「いいえ。まったくの逆で」葵はくすくすと笑った。「身体が硬すぎることに悩んでいたのよ。仕事に差し支えが出るって、半年ほど、かよっていたはずよ」

「身体が硬くても、事務員の仕事に影響は出ないと思うけど」

「わたしもそう思うんだけどね。身体が硬すぎると、力がとまらないって、亜紀さんは言っていたわ」

「そんなことあるかな?」成海は首をかたむけた。

「彼女、ドアを強くあけしめして、周囲を驚かせていたの。机にぶつかったり、花瓶を割ったりして……」

「ただのおっちょこちょいなんじゃ……」

「本人は治したいって。仕事まえと仕事あとに、ヨガ教室やストレッチ専門店にかよっていた。関節の可動域がせまいことが原因だと思っていたのね」

「興味ぶかい話だ。結局、治ったのか?」

「いいえ。亜紀さんは、多目的研究センターにある、すべての花瓶を固定する方法を選んで、ヨガ教室はやめました」

「ははっ。それは確実だ」

 ふたりは笑い合った。

 成海たちはポニーランドの北側に出る。左近川の緑道を横切った。


 すぐに喧噪が鼓膜を突き抜けた。デパートでイベントでもあるのかもしれない。緑道のさきには、大型のショッピングモールが二軒、つづいている場所がある。イベントを見るために、歩道までならんでいるのは、よく見る光景だ。

 しかし、人の気配は、さほど、とおくない。

 成海は考えをあらためた。緑道の出口にちかづいた。

 後頭部が列になっている。

「成海くん、ほら、あそこ。みんな、なにかを見ているみたいね」

 断続的に、甲高い声が響いていた。

 成海には、歓声にきこえた。

 急いで走りまわるような足音は、歓迎をあらわしていると感じた。

「緑道のさきに、あたらしいお店でも、できたのかもしれない」

「だったら、ちょうどいいわね。あいていたら、はいりましょう?」

「ああ。すっかり喉が渇いてしまった。ペットボトルもからだ。なにか飲みたい」

「ふふっ。わたしも同じ! 喉が渇いちゃって。声が出なくなってきた」

 成海と葵はずっと話していた。堰きとめていたダムが壊れたかのように、ふたりの話は、とまらなかった。話題が湯水のようにあふれていた。喉が渇くのも、とうぜんだった。

 ダムのなかの水は、とっくに流れ去っている。

 ふたりには、あたらしい雨が必要だった。

 しかし、雲行きは、雨どころか、嵐を呼んでいた。

 いまかいまかと、雷を待っている。

「なんだ。様子がおかしいな。人集りが円になっている」

「うそでしょ」主婦が口を押さえていた。「うわ!」会社員がとまった。「ねえ、あれって……」女子高生が人差し指を向けた。

「作り物じゃないのか」老人は目を細めていた。「警察に通報を」警備員が携帯電話をもっていた。「えーん。えーん」子どもが泣いている。

 成海の意識は、葵ではなく、その異常事態へと向けられていった。

「まさか……こんなことって!」

 葵はあとずさった。成海はまえがかりになった。

「ああ……。今朝と同じだ」

 緑道の出口だった。女性の銅像が置かれている。銅像は両手を差し出している。成海は群集のまえに出た。ゆっくりと銅像にちかづいた。

 両手のうえには、長細い、異形の物体が置かれていた。

 あきらかに、メッキではなかった。


「まちがいない。死体の一部だ」

 成海の渇いた声は、雷となった。周囲の人集りは、一気に、悲鳴を張りあげる。

 阿鼻叫喚がはじまった。

 絶叫の連鎖は、成海の高ぶった感情を急速に冷やしていった。

 恐怖で四肢が麻痺をはじめる。

 成海はふるえながら、片膝をついた。目を凝らした。


「こんどは左脚だ……」

 葛西駅で見た右腕と骨の長さに相違ない。

 同じ死体にちがいない。

 死後、二、三日ほど経っている。

 同じだ。

 固まった血液以外の水分は、すでに失われている。

 成海たちの喉よりも、はるかに渇いた左脚の発見であった。

「いったい、葛西の街で、なにが起きているんだ……」


 成海は青黒い左脚をじっと見つめる。

 薄くて白いタトゥーが彫られていることに、気がついた。


「白い蠍のタトゥーだ。白い蠍……。さいきん、どこかできいたような」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る