第25話 今を、見つめる
王宮の自室で目を覚ました。
ベッドから身体を起こし、今日の自分を確認する。
自分は誰で、
アルシュと龍弥、自分と自分の境界が融けあって曖昧になっている。
今の俺は、私なのか?
もうかつての頭痛はない。きっと俺の記憶が完全に呼びおこされたせいだろう。
代わりに猛烈な吐き気がずっと付きまとう。
胃から出てくるモノなんてもう何もない。なのに気持ち悪い、きもちわるい、キモチワルイ。
俺はアルシュ・ドラグニカ・クラウンか?
私は小鳥遊龍弥か?
記憶を取り戻してからの1週間、自分の状態は日に日に悪化していった。
自分が誰なのかわからない。
いや違う、自分が誰なのかわかっているからこそ最悪だ。
自分はアルシュ・ドラグニカ・クラウンであり小鳥遊龍弥でもある。
どちらの人格に対しても確固たる自我を認識できるからこそ、気持ちが悪かった。
アルシュの良識と龍弥の良識が噛み合わない。お互いが大切にしていたモノがずれている。
アルシュはこの場所を守りたい。この国を守りたい。大切な妹が笑える世界を守りたい。
そして、龍弥は……
「帰り、たい」
ふと、自分の口からそんな音が漏れていた。
小鳥遊龍弥の記憶の根源にあった想い、元の世界に戻ること。
その願いが、今ここにいる自分を否定していく。
繰り返される自己否定と自己肯定、決着のつかない自分自身との軋轢で
洗面台の鏡まで歩き、自身の姿を見る。
心の病にでもかかったかのような、健常とはほど遠い姿。
この鏡を打ち壊せば、せめてどちらかの自分だけでも消えてくれるのではないか。
そんな妄想を思い浮かべた時、
「お兄様」
凛とした声が、自分の背中にかかった。
美しい妹、綺麗な少女、リリムという名の
「リリム、勝手に入ってくるんじゃ……、入って来てはいけないだろ」
自分が、いったい誰として会話をすればいいのかすらわからない。
「お兄、様」
あまりにも
自身の感情が整合しない、愛しいようでおぞましくもある目の前の少女。
「……大事なお話があってここへ参りました」
「はな、し?」
目の焦点がリリムに上手く合わない。今の自分が彼女の話をきちんと聞けるだろうか。
「先ほど、お父様とお母様に相談しました。─────本日をもって、アルシュ・ドラグニカ・クラウンとリリム・リア・クラウンの婚約を破棄させていただきます」
「なっ!?」
頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。同時に、目の前の少女にようやく焦点があった。
彼女は強い覚悟に満ちた、凛々しい目をしていた。
「婚約、破棄か。まあ当然、だよな」
自身すら定まらない人間に人生を預けることなんかできるわけがない。ましてや、かつての記憶に引きずられて、想い人すら揺れてしまうような相手に。
「ええ、だって今、わたくしが
リリムの瞳は、
「リリ、ム?」
「お兄様、貴方に覚悟はおありですか?」
「覚悟? 何の、覚悟だ?」
「
リリムは毅然と言い放った。
今?
「小鳥遊龍弥、彼のいた世界の現在の姿、それを貴方にお見せします。それを受け止める勇気が、ありますか?」
「な、リリム、お前」
この子は、いったい何を言っているんだ?
まさか、そんなことが、できるのか?
「それを見届けた後、何を望むかはお兄様次第です。この世界に残ることを選ばれるか、それとも別のことを望まれるのか。わたくしは何があったとしても貴方の選択を否定しません」
彼女の言葉に迷いはなかった。感じるのは強い決意だけ。
なら、
「……見せて、くれっ。俺は、私はこの場所が、リリムのいるこの世界が大切だ。だけど、それでも、知りたいんだ。大切な、俺の大切だった人たちが今どうしているのか、知りたいっ」
嗚咽のような言葉が自身の口から出ていた。知らず、涙もこぼれ落ちる。
「わかり、ました。ですが、これだけは覚悟してください。今からお見せするのは、小鳥遊龍弥が消えてから現在に至るまで正しく時間の経過した世界。つまり、小鳥遊龍弥が行方不明になってから
「っ、」
薄々覚悟していたことが、はっきりと明言されたことで心がかすかに揺らぐ。
22年、そんなに経っていたのか。だけど、
「それでも、見せてくれ。リリム」
俺はこの目で見なくては、きっと前に進めない。
「承知いたしました。ではご覧くださいアルシュ・ドラグニカ・クラウン。貴方の前世、小鳥遊龍弥のいない22年を過ごした世界の姿を」
リリムは洗面台の大きな鏡に触れる。すると鏡面がわずかにたわみ、次の瞬間にはこの世界とはまったく別の光景が映りだす。
そこには、女性がいた。
知らないはずなのにどこか懐かしさを感じる初老の女の人。
彼女は、俺の知っている家に住んでいた。
時間が経ち、古くなりながらも、かつての在り方を誠実に貫き続ける寡黙な建物。
俺が、帰りたいと願い続けた、場所。
なら、そこにいるのは。
「母、さん」
喉から、声がもれる。
今のは間違いなく、アルシュ・ドラグニカ・クラウンではなく、小鳥遊龍弥の声だった。
女性の顔に刻まれたシワ、どこか翳りのある表情に、どうしようもない時間の経過を思い知らされる。
彼女は静かに、ゆっくりと時間をかけて家の中を掃除していた。もう使われてはいないはずの2階の部屋まで。
『タツヤ』と表札のかけられた部屋は、今も俺の記憶のままに残されていた。
部屋の中の配置も何一つあの頃と変わらない。ただひとつ違ったのは、俺の机の上に1枚の写真が飾ってあったことだけ。かつて高校生で行方知れずとなった、彼女の息子の写真だ。
女性は写真を少しだけ寂しそうに見つめている。するとインターホンが鳴り、彼女はゆったりとした動きで玄関へと向かった。
『お母さんただいま~』
女性が玄関に辿りつく頃には勝手に鍵を使って扉が開けられていた。そこには、俺の知らない女の人がいた。だけど、もしかして彼女は……。
『調子は大丈夫? ちゃんと水分摂らないとまた入院になっちゃうからね』
明らかに自分よりも年上のアラフォーの女の人。だけどそこには俺の妹の面影があった。彼女は重そうに飲料水の入った袋をおろす。
『大丈夫よ小鳥ちゃん。あれから毎日厳しくチェックする人がいるんだから、お母さんお水だけで太っちゃいそう。だけどお仕事は良かったの?』
『今から夜勤だから仕事前にちょっと家に寄っただけ。あれ、今お母さんひとり?』
小鳥であるらしい女性は母さん越しに家の中を軽く覗く。
『お買い物を頼んでいたとこよ。ほら、ウワサをすれば』
風を切る音とともに、ものすごいスピードで駆けてきた人物が家の前で急ブレーキをかけて静止した。
『ただいま美玖ママッ。フィン買い物してきたよ。あれ、小鳥がいる』
現れたのは白毛の犬耳と尻尾を備えた妙齢の美しい女性だった。
もしかして彼女は、フィンリルなのか? 彼女の美しく成長した姿に俺は驚く。
『お帰りフィンちゃん。私はちょっと家に寄っただけ。今から仕事だから』
『小鳥、大人になってから仕事ばっか。
フィンリルはつまらなそうな顔をして、小鳥に向けて暴言を吐いた。
『フィンちゃ~ん、軽口ひとつで戦争も起きるんだから発言には気をつけよ~ね~。私はもういいんだって前に言ったでしょ。自分一人を生かすのに精いっぱいなんだからさ』
小鳥は頬を引きつらせながら、フィンリルの柔らかい頬を両手で捻りあげる。そうか、彼女たちはこんな軽口を言い交せるだけの関係になったんだな。
『フィンちゃんこそ、いいの? 種族的にはバリバリ適齢期なんでしょ?』
小鳥は手を離し、少しだけ言いにくそうにフィンリルに問いかける。
『フィンはもう間に合ってるからいい。白狼族、たったひとりって決めた人以外愛さない』
『……そ、私が人のこととやかく言えた義理じゃないからね、フィンちゃんがそれでいいなら何も言わない。じゃ、お母さんのことよろしくね』
小鳥はフィンリルを一度ギュっと抱きしめ、それから颯爽と仕事へ向かっていった。
『あらあら、よろしくされちゃったわ。それじゃフィンちゃん、夕食の準備お願いいいかしら』
『うん、今日もすごくおいしい小鳥のから揚げ作るね!』
『
母さんは両手に荷物を持ったフィンを家の中に迎えて、反対に自身は家の門のところに出ていく。
静かに佇み、何をするわけでもなく空を見上げる。
まるで誰かを待っているかのように。
『タッちゃんは、どこまで出かけているのかしらね』
彼女の言葉が、空に吸い込まれて消えていく。
「────────かあ、さん。母さんっ」
俺の言葉が、鏡の向こうに届くことなどない。
時間は無情に過ぎ、空はオレンジ色に変わっていく。
『美玖ママ、また空見てる。寒くなってきたから風邪ひくよ。それに多分、タツヤは、もう』
『そうね、わかってるわフィンちゃん。でもね、もし帰ってきた時に、誰も待っていないってなったらあの子がかわいそうでしょ? 私くらいは、待っていてあげなくちゃね』
強がりでもなんでもなく、ただそうすることが自然であるかのように母さんは言った。
「っ、」
言葉に、ならない。この気持ちを言葉にできない。
こんなに永い年月を経てもなお、あの人はあそこで待っていてくれるのか。
なら、俺は。
「お兄様、まだ見続けますか? それとも……」
リリムが声をかけてくる。この子はこんなにも献身的に、他人の記憶、他人の世界に気をかけてくれる。これ以上彼女を付き合わせるべきじゃない、そうわかっていながらも自分は。
「頼む、リリム。あともう1人だけ、どうしているのか知りたい人がいる。視点を変えることはできるか?」
俺の言葉に、リリムは察したように頷いた。
「ええ、できますわ。ですが、つらい思いをするだけかもしれませんわよ」
俺以上に彼女の方がつらそうな顔をしている。それはきっと彼女の優しさからだ。
「でも、ちゃんと見ておきたいんだ。美奈弥が今、どうしているかを」
「……わかりました。では視点を変えます」
リリムの言葉とともに、鏡は再びたわんで次の瞬間には別の場所を映し出していた。
22年前、夕陽の屋上に取り残した彼女の、今の姿を。
数時間、見届けた。それでよかった。
俺の気持ちは、ここに決まる。
「リリム、わがままを言う。俺が、元の世界に帰ることはできないか?」
俺は、帰りたい。
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