第19話 果てにある別れ


 異世界サーヴァニアの果ても果て、秘境とも呼べるような静かにせせらぐ清流の側で、その男は竿から水面に糸を垂らして釣りをしていた。


「……本当に、お前が魔王ランゼウスなのか?」

 俺はもう一度問い直す。魔王という言葉の印象と目の前の男が上手く一致しなかったからだ。


「ん? 誰だお前は。我は今釣りを楽しんでいるところなのだが」

 俺の声かけを意に介することさえなく、男は振り向きもしない。


「邪魔をしたのなら悪かった。だけど俺はお前に聞きたいことがある。お前が本当に魔王なら、この世界の人たちを苦しめるのをやめて欲しい…………そして、俺が元の世界に戻る方法も教えて欲しい」

 男は、俺が『元の世界』と口にした時、ピクリと反応した。


「ほう、元の世界に、か。なるほどな、我が力を与えた生餌がことごとく喰われていったが、異世界からの勇者が呼び出されていたからか。うむ、ちゃんと竿に当たりが出たな」

 黒衣の男は釣り糸を水面から引きあげて竿をどこかにかしまい込む。俺の前に立ち上がった男は、はるかに見上げなければいけないほどに大きかった。


「いかにも、我が名はランゼウス。いくつもの世界を渡り、勇者の力を喰らう魔王である」

 ランゼウスがただ言葉を発しただけで暴風が吹き、空は瞬く間に黒雲に包まれていった。その異様さに、思わずフィンは俺の腕にしがみつく。


「勇者の力を、喰らう?」


「そうだ、我は美食を旨とするが最近はどうも口に合わぬモノが増えてきた。人々の恐怖も悲嘆も苦しみも良い味がするのは間違いないが、流石に幾千回も同じ食事ではいくらスパイスを利かせようとも飽きがくる。その点、勇者は良い。彼らの激情と力は、どれだけ口にしようと我を至福の時に導いてくれるのだからな」

 ランゼウスは本当に楽しそうに哄笑をあげる。なんて、身勝手な言葉。


「それじゃあお前がこの世界の人たちを苦しめていたのは……」


「もちろん、勇者という当たりを引くための撒き餌に過ぎぬ。その世界から勇者が生まれるもよし。異世界から勇者を引き寄せるもよし。なんであれ勇者とは美味いものだからな」

 自分の欲を満たすためだけに、世界そのものを弄んでいるのか。


「ふざけるなよ。お前のその蛮行のためにこの世界の人は俺をここに呼びつけた。そんなことのためにこの子の母親は殺されたんだっ!!」


「おお、やはりお前が異世界より現れた勇者だったか。ようやく釣れてくれて安心したぞ。ここが奴隷世界と知って訪れてみたはいいものの、あいにく勇者が生まれる土壌ではなかったようでな。そろそろ別の釣り場にでも行こうかと悩んでおったところだったのだ」

 

「何が、釣り場だ。俺は、ふざけるなって言ってんだっ」

 俺は思わず全力で踏み込んで魔王ランゼウスに殴りかかっていた。加減なしの俺の一撃はその余波で大地を割り、川の流れを変え、大気を破裂させる。

 普通の生命なら絶命間違いなしの一撃。それを、


「ほう、悪くはない。多少は待ったかいもあったというものだな」

 魔王ランゼウスは歓喜の声で迎え入れていた。


「ご主人様っ、フィンも手伝う」

 俺が魔王に殴りかかったことを戦いの合図と受け取ったのか、フィンも鋭い爪と牙でランゼウスに襲い掛かる。

 俊敏性なら俺よりも速い彼女はランゼウスの背後から奇襲を仕掛ける。だが、


「ん? こっちはサーヴァニアの現地生物か。まあこの世界の生き物としては悪くないが、味はやはり落ちるな」

 魔王ランゼウスはフィンの攻撃を意に介すこともなく、腕をふるって彼女を弾き飛ばした。


「フィンッ」

 俺は飛ばされたフィンが地面に激突する前に、瞬間移動同然の先回りをして彼女を抱きかかえる。


「おお、今のはなかなか良い反応だった。もしかするとその小娘と勇者の力に何かしらの関係性があるのかな?」

 魔王ランゼウスの黒い双眸に、嗜虐の火が灯った。


「試すとしようか。絶雷ケラウノス」

 ランゼウスの力ある言葉とともに、俺たちに向けて天上から幾条もの黒雷が降り注いだ。


「ぐがぁぁぁぁあ!!」

 全身を、街単位で消し炭にするであろうほどの雷撃が駆け抜ける。だけど、そのひとつとして、フィンまでには届かせないっ。


「ご主人様、ダメッ。フィンを守ってムリしないで!」

 轟雷が響く中で、フィンの声が聞こえる。出会った時と大して変わらない、彼女の幼い声。


 長い、旅の中で、彼女の声をうとましく思うことも、あった。


 彼女と出会わなければ、そんなもしもを思い浮かべた時もある。


 でも、だけど、


「俺がいつ、フィンのために無理したよ。俺が、お前を守るのは、無理なんかじゃなくて、ただ当たり前のことなんだよ!」

 身体の内側を、熱が駆け抜けていく。

 それは黒雷によって身が焼きこげる熱なんかじゃなくて、身体の奥の奥から湧き上がってくる源泉の熱さだった。


「そう、だよ。俺がフィンを守りたいのは、当たり前のことだったんだ」

 言葉にして自覚する。今はただ、その当たり前と向きあうことで、ごちゃごちゃしていたフィンへの想いが純化する。


 彼女との絆が、何よりも確かなモノになる。


「リアン、フォール。絆の力、か。俺はフィンを守ってたんじゃない。フィンを守ろうとすることで、この世界で独りじゃなくなった。フィンとの絆に、ずっと守られてたんだ」

 守るつもりが、守られていた。癒すつもりが、癒されていた。


 絆は、お互いが想い合うことで、本物の絆になる。


「ほう、我が絶雷を耐えきるか?」

 魔王ランゼウスの声が聞こえる。


 俺の内側を焼き焦がす臭いはしなくなった。ヤツの黒雷の熱ももう感じない。

 アストラルギフト『エンカウンター』と『リアンフォール』、2つのギフトが掛け合わさることでヤツの黒雷が与えるダメージよりも、俺が自然回復していく方が早くなったからだ。


「魔王、ランゼウスッ」

 俺は魔王の黒雷を身に纏いながら駆けだした。

 掛け値の俺の力を、そのまま拳に乗せてヤツにぶつけこむ!


「何っ!?」

 魔王ランゼウスの黒い顔面に俺の拳が直撃する。

 同時に彼の後方10kmに渡って巨大な破壊の余波が走り抜けた。


「────っ」

 俺の内側に走るのは、確実に相手の命を奪ってしまった感触と、元の世界に戻る手段を聞けなかったことへの後悔だけ。

 魔王ランゼウスの肉体は粉々に砕け散り、ようやくこの世界に平和が……、


「ご主人様うしろっ!」

 フィンの悲鳴のような警告が聞こえた。

 俺は反射的に振り向くが、


「がはっ」

 それよりも速く、黒い爪が俺の腹を抉っていた。


「おお、上下バラバラに腑分けしてやろうと思ったのに、上手くかわしたものだな」

 振り向いた先にいたのは俺が粉々に打ち砕いたはずの魔王ランゼウス。彼の爪には俺の内臓だったモノの一部がこびりついている。


「ぐぁ、かひゅっ」

 俺は息が上手くできないながらも、反射的にフィンの方へと飛び退いて彼女を背に守る。


「ご主人様、ダメッ。フィンが、フィンが守るからっ」

 背中側で彼女の暴れるような声が聞こえる。でもダメだ、もう彼女がどうこうできるようなレベルの話じゃない。俺は、選択を間違えた。


 この男は、敵対していい相手じゃなかった。


「さっき、までは。手を、抜いていたのか?」

 声を、どうにか絞り出す。同時にいくらかの血液も吐き出していた。


「なんと、もう声を出せるほどに回復したのか? 肺も肝臓も腸も、それなりに傷ついたはずだが。恐ろしいほどの回復力だな」


「そんなこと、聞いてねえ。お前、誰だよ。さっきとは段違いに、強いだろ」

 目の前のランゼウスから感じる圧力は、さっきまでの彼とは比較にならないほど圧倒的だった。


「ああ、そのことか。勇者という生き物を味わい尽くすなら、勇者の最大の一撃を喰らってこそであるからな。一応保険をかけてあっただけのことだ。今回は1体のみだが、他世界からそれなりに強いを呼び寄せておいた」


「……は? なんだよ、それ」

 意味が、理解できない。俺の頭が、理解を拒む。


 理解してしまえば、俺はもう絶望で立ち上がることができなくなるから。


「先ほどの一撃、なかなかに悪くはない良い味であったぞ。何年もここで待たされたかいがあったというもの」

 魔王ランゼウスの瞳が黒く煌めく。


「だが、そうだな。我一人が楽しむのも気が悪いな。勇者の方にもやる気を出してもらわねば。確か、元の世界に帰りたいと言っていたなっ」

 嗜虐の笑みを浮かべ、ランゼウスは黒く長い腕で瞬時に俺の頭を鷲掴みにしていた。


「ぐぁっ」

 軋むような音が、俺の頭蓋の内側から聞こえてくる。


「ご主人様っ」

 フィンはすぐさまランゼウスの腕に噛みつき、牙を立てるが、ヤツはそれを当然のように無視する。


「ほう、随分と辺境の世界から来たものだ。可愛らしい娘御と歩いておるではないか」

 ランゼウスは目を閉じながら、どこか別の世界を見ているような言葉を口にする。嫌な、予感がした。まさか、


「て、めえ。何を見てるっ。美奈弥には絶対に手を出すな!」

 反射的に、ランゼウスへ向けての憎悪が湧きあがる。


「そう怒るでない。我は紳士的に貴様と握手を交わした仲ではないか」

 魔王ランゼウスは笑ってそんなありえないことを告げた。


「ふざ、けるな。何の話だ…………っ?」

 なのに、突然俺の記憶に浮かび上がったのは、美奈弥と一緒に帰る下校途中で怪しい黒く巨大な男と言葉を交わし、手を握ったシーンだった。


「なん、だ。これはっ」


「おお、さっそく修正が入ったか? 我はな、たった今お前が転移をする前の元の世界に我自身を送ったのだ。それに基づいて勇者の記憶も書き換えられたわけだな」


「ありえ、ない。そんなの、めちゃくちゃだ」

 口にしながら、俺自身の記憶がそれを否定する。俺は確かにこの男に会ったことがあると強く実感している。


「まさかお前の世界は、時が過去・現在・未来へと順繰り流れているといまだに思っているのではないだろうな。違うぞ勇者よ、時の認識は魂の比重が重い方が常に優先される。つまりは、我が勇者の過去に赴いた時点で、それが貴様にとっての正史となったわけだ」


「魂の、比重?」

 理解できない単語が出てきた。単純に理解するなら、俺より強いこいつの記憶が世界にとって優先されるってことか?


「辺境世界出身の若者にこれ以上講義してやる義理もない。だが、貴様にとっての景品もこれで仕上がったぞ?」

 魔王ランゼウスは俺の頭から手を離し、同時に腕へ噛みついていたフィンもふるい落とした。


「きゃっ」

 俺はフィンが地面に叩きつけられる前にどうにか彼女を抱きとめ、ランゼウスを睨みつける。

 だが、俺の目にはそれ以上に驚愕の光景が映っていた。


「母、さん?」

 ランゼウスの隣には巨大な円状の輪ができていて、その向こう側には元の世界が、おそらくは俺の帰りを待っているだろう母さんの姿が映っていた。


「お気に召したかな? 一応気を利かせて、勇者が異世界に転移した日の翌日に繋げておる。さらに我を倒した暁には貴様を当時の姿にまで戻してやってもいい」

 ニヤニヤと魔王の嗜虐的な笑みは止まらない。


「どうだ、我を倒してこの転移ゲートを使えば、何事もなかったかのように元の生活に戻ることができるぞ?」

 ランゼウスは笑い続ける。

 コイツは、きっと俺の反応を見て楽しんでいるだけ。それがわかっていながら、


「────ぁ」

 俺の目からは、涙が止まることなく流れていた。



 帰りたい。


 返りたい。


 あの頃の自分に。


 あの日に自分に。


 もう一度立ち戻ることが許されるなら。


「─────ぁ、」

 声に、ならない。まともな言葉が、俺の喉から出てこない。


「喜びで言葉も出ないか? これは褒美を用意したかいがあったというもの。─────さて、始めようか勇者よ。貴様の全霊、我に味わわせてみせよ」

 魔王ランゼウスは両腕を広げ、俺をただ待ち構えている。



 帰、れる。


 俺は、帰ることが、できるんだ。


 目の前の男を倒す、それだけで。


「あ、あああぁぁぁーーーっ!!!!」

 俺は、大人に立ち向かおうとする子供のような愚鈍さで、魔王ランゼウスに全てをぶつけた。






「──────────────────、」






 10分後にもたらされた結果は、見るも無惨を超えて、なおむごたらしかった。


 空気の漏れる風船のような音が、俺の内側から聞こえる。きっと片方の肺が破裂したせいだ。


 視界が大きく欠けていた。俺の左目が潰れてるから。


 左目から流れる血を左腕で拭おうとして、もう左の肩から先がないことを思い出して右手で代わりに拭った。


「ふむ、なかなかに面白い余興であった。10年分の退屈は満たされたぞ勇者」

 魔王ランゼウスの声が、歪に聞こえる。

 これは、右耳の中身がぐちゃぐちゃに壊れてるせいだな。


「ご主人、様」

 少し離れた場所から、フィンの弱々しい声が聞こえる。

 彼女も一緒に戦ってくれたが、ランゼウスが真っ先にフィンの足を潰したことでもう動くことはできなくなっている。


「どうやらこれ以上は我を愉しませることはできぬようだな。だが、ここまで奮戦した勇者に報酬がないのもなにやら寂しい話だ。そもそも貴様はこの世界の人間ですらないのだからな」

 そう言いながら、魔王ランゼウスは俺の世界に繋がるゲートに触れて、まるでバーテンダーのようにそれをこちらへと押してきた。ゲートは空間をすべりながら、俺の目の前で静止する。


「どうだ勇者よ。お前の世界に戻ってみたいか? そのゲートをくぐれば以前の姿に戻るついでにその肉体の傷も元に戻ろう」


「──っ、」

 俺は声を絞り出すよりも早く、ヤツの言葉に頷こうとしていた。だけど、


「では我の目の前でそこの娘を殺すがよい。良い泣き声で殺すことができたなら、お前をこの世界から見逃そうではないか」

 ランゼウスの続けた言葉に、俺の喉は急ブレーキをかけて返事を止める。


「なん、で?」

 俺の潰れなかった方の瞳から、涙が知らずこぼれていた。

 なんでそんな残酷な条件を出すのか、俺は心の底からコイツが悪魔に思えた。


「全ては我の遊興である。そして勇者の絶望した顔こそが極上の料理となるのだ。見れば分かるぞ。そこの娘とは長年苦楽をともにしたのであろう? それほどの相手を自ら手にかける覚悟があるのならば、我とて勇者を見逃すこともやぶさかではない」


「ふざ、けるなっ。そんな、こと」

 できるわけがない。そう口にしようとしたとき、


「いいよ、ご主人様」

 フィンが、俺の前に立っていた。

 潰れた脚で、苦痛に顔をゆがめながら、それでも俺に殺されようと目の前に立っている。


「フィン、知ってるよ。ご主人様が、元の世界に帰りたいって毎日泣いてたこと」

 フィンはまるで聖母のように穏やかさで俺に語る。


「フィンたちが、異世界から人を呼んじゃいけない理由もちゃんとわかった。そんなことしたら、その人の人生が台なしになっちゃうもんね」

 涙を浮かべながら、フィンは笑っている。


「フィンは、いいよ。あの日ご主人様に助けてもらわなかったら、あそこで死んでたんだから。ご主人様と過ごした時間、本当に楽しかった、フィンの人生はそれで、いいよ」

 フィンの手が、俺の手をとろうとする。そのまま、俺にお前を殺させる気なのか?


「いいわけ、ねえだろっ。まだ、これからっ、フィンの人生は続いてくんだよっ。こんなところで、終わって良いはずがないだろ!」

 喉から血を吐き出しながら、それでも俺の想いを言葉にする。

 俺は自分の脚に力を込め、フィンの腕を払ってランゼウスを睨みつけた。

 どんなカタチであれ、フィンの命に手はかけさせない。


「なんと、妙な形で勇者に火が着いてしまったものだ。だが今のお前に何ができる。玉砕覚悟で突っ込んでくる愚者ほどつまらないものはないぞ。……おお、そうだこうしようではないか」

 ランゼウスは名案を思い付いたかのように右手を掲げた。

 彼の掌には黒い玉体が生まれ、


「星壊・スタージェネシスエンド」

 ヤツはためらうことなくその玉体を握りつぶした。

 同時に、俺たちのいる足場が消失する。


「な!?」

 突然の浮遊感に困惑する。


「ご主人様っ、これナニ?」

 フィンも俺の側で無重力空間にいるみたいに手足をばたつかせている。


「なかなか良い反応である。我もかいがあるというものだ」

 あまりにも平然と、ランゼウスはとんでもないことを口にした。


「世界を、消した?」


「そう口にしたはずだぞ。どうだ、これでわかりやすくなったのではないか? どうあがこうとそこの娘を殺す以外にお前が助かる道などない。どちらにせよ結果は変わらぬぞ。娘が生きるべき世界はたった今なくなったのだからな」


「そ、そんなことのために、お前は今、世界を?」

 消した? この世界にいたはずの全ての命を、殺したのか?


「不快だったか? だが仕方あるまい、それだけの力が我にあり、それを防ぎ守るだけの力がお前たちになかっただけのこと。真の強者とは好きな形で勝利を得ることができる者のことだ。弱者には負け方を選ぶ自由すらない」

 残酷に、嗜虐的に、ランゼウスの黒眸が俺を射抜く。


「──さあ、殺せ」

 魔王はこれが最後だと、俺にフィンを殺すことを促した。断れば、2人とも無惨に殺されるだけだろう。たった今、無惨に散った世界と同じように。

 フィンを殺せば、少なくとも俺だけは助かる。

 元の世界に、あの日に戻ることができる。


 悪い夢を見ていたと、もう一度元の生活に戻れるんだ。


 フィンだって、それを許してくれている。だから、


「フィン、ごめんな」

 たった一人しか助からないのなら、もう残された手段はこれしかない。

 俺は右のポケットをまさぐり、あるモノを取り出してフィンの胸元に押し付けた。


「ご主人、様?」

 彼女は不思議そうに俺を見ながら、胸に押し付けられたモノを握りしめる。


「それを母さんに見せろ。わかってくれるはずだ」

 俺はフィンを、俺の世界に繋がるゲートへと押し込んだ。


 フィンはわけもわからない顔をしている。その時、かつて燃える飛行機の中で父さんが俺に告げた言葉を思い出した。

 身体は挟まれて動けず、数分後には確実な死が迫る状況で父さんは俺に言った。


「母さんと、小鳥を、頼む」

 そっか、父さんはあの時こんな気持ちだったんだな。


「ダメッ、フィンも残るっ。ひとりはダメッ」

 我に返って状況を理解したフィンは必死に叫ぶが、もうすでに彼女は半分以上が転移ゲートに飲まれている。これで自然に彼女は俺の世界に転移していくはず。あとは、


「おや、これはルール違反ではないか勇者よ」

 目の前のこの魔王をどうにか足止めしなければ。


「ルール違反? お前はフィンがこのゲートを使ったらダメなんて、一度も口にしてないぞ」


「ん? んん? そういえば、そうであったか」

 ランゼウスはあごに手を当てて、ほんの少しばかり考え込むそぶりをする。

 そのわずかな隙にフィンのいる転移ゲートに俺も飛び込めないか頭によぎる。だが、


「お前はここで俺が止める。フィンにも俺の世界にも、手出しなんかさせない」

 ランゼウスがフィンを追うようなら同じことだ。

 折れかけの最後の矜持が、俺の足がすくむのを抑え込んでいた。


「フィンッ、絶対に俺もそっちに戻るから。信じて待ってろ!」

 もはや叶わないと知りながら、俺は彼女の希望のために、そんな嘘を残した。

 転移のゲートはほぼ閉じかけ、最後にフィンの声だけがかすかに聞こえる。


「フィン、ずっと待ってるから。ご主人様のこと、フィンが呼ぶからっ。フィン、のことっ───」

 最後に彼女は、俺の名を叫んだ。

 それは、彼女の奴隷契約が解けた証。

 主従の対象である、俺の死が確定した証明だった。


 黒い腕が、すでに俺の身体を貫いている。


「ふむ、見世物としては面白かったが。これから我があの娘を追いかければ結果は同じだぞ?」

 魔王ランゼウスは俺の胸、腹、内臓の諸々を黒い腕で貫きながら、残酷な現実を告げる。


「おっと、そういえば貴様のマテリアルギフトを拝むのを忘れていたな。だがもう手遅れか、死体からはギフトを剥ぎ取れぬしな」

 ランゼウスの無情な言葉が聞こえる。


「──────ぁ」

 両方の肺が壊れた俺は声も出せず、ランゼウスに返答することもできない。


 フィンも完全に俺の世界に転移して、彼女とのつながりはいつ切れてもおかしくないほどに細くなる。でも、


「──────ぁ、」

 世界を隔てても、断ち切れぬ繋がりなら、それは何よりも強い絆と呼べるのではないか?


 フィンの、声が聞こえる。


 俺の耳には届かなくても、彼女が今も必死に俺の名を叫んでいると俺にはわかる。だから、


「──────ぁあ」

 ランゼウス、お前をこのまま行かせるわけにはいかない。


「ぁ、ぁああああ!!!!」

 俺の右腕に、文字通り全身全霊を込めてヤツの顔面を打ち抜いた。


 時の海に広がるかすかな波紋。

 わずかに残ったフィンリルと俺の細いつながりを、決して切れることのない絆として結ぶ。アストラルギフト『リアンフォール』がほんの刹那、俺の拳を魔王に届きうる高みにまで引き上げた。


 ランゼウスの黒い顔が、不気味に笑い、ひび割れた。


「……良い一撃であった。なるほど、お前は勇者ではなく英雄の類であったか。道理で口に合わぬわけだ。心の内が既に強いモノを、いくら味付けしようと我の腹は消化などできぬわ」

 ランゼウスは俺の心臓であっただろうモノを含めて全て握り潰し、同時に砂のように消えていった。

 奴が、もう一度現れることはなかった。



「──────、」

 もはや、俺にできることは何もない。

 声を出すこともできず、残った右腕もまともに力が入らない。

 当然だ、脳に回る血液すら、もう使い切ってしまったんだから。


 数秒後残されたのは、何もない時の海に漂う何者かの残骸だけ。


 こうして、──────小鳥遊龍弥は死亡した。


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