第5話 平倉幹夫

「先生、昨日ね、子猫を拾って家に連れて帰ったら、母さんに捨てなさいと言われたんだ。でもね、こっそり、自分の部屋に持ち込んで買う事にしたよ。僕って偉いよね。」


自己主張が全体の話の8割だが、決して人を否定しない心やさしい男性だ。


「そうですか、素晴らしい動物愛護の精神ですね。野良ネコはたくさんの危険が周りにあって、生きる事が難しい環境にいますから、平倉さんのおかげで一つの命が救われましたね。良かった。」


狭川は、ひきこもり自体が自殺の原因にはならないと思っている。


昭和初期には、家に何もない家庭が多く、現代の様に在宅で生活出来る仕事がある時


代背景とは比較にならない面が多いと考えていた。


平倉は24歳で、スマホに依存した青年だ。


若者のスマホ病も新しい時代の生活スタイルであって、「スマホばかり弄る。」と躾を


する親は時代の勉強不足とも思える。


現代の会社は、パソコン、スマホ、タブレットの三種の神技で成り立つところが大き


い。


昭和で言えば一つの物事に長ける人間は出世するともいえるのだ。


「平倉さん、スマホで今はどんな事をしていますか?」


狭川の言葉は平倉が最も求めるものは何なのかを引き出す意味だ。


「お母さんに、携帯会社との契約を打ち切られたので、電波の繋がらないスマホの使い道を考えています。」


平倉は、躁の状態に変化した。


自分が最も聞いてほしい事だと認識したのだ。


「先生は、もし、スマホが通信不能になったら携帯会社にかけ込むでしょう。僕は違うんです。通信料を払わないでいいし、スマホは、フリーワイファイを使えば使いかっては変わらないんですよ。スマホは、電話じゃなく媒体なんです。」


狭川は、自分の不得意分野ではあったが、本気で興味がある事を平倉に伝えた。


彼は、満面の笑顔で、ダウンロードすればワイファイから離れても動画や書籍が読み


放題だと自慢げに話す。


だんだんと気分はマックスに近づいた。


声のトーンが大きくなり、社会への恨みつらみを攻撃的な言葉で話し始めた。


狭川は、「そろそろだ。」と平倉を平静に戻し始める。


「今回は、大変勉強になりました。平倉さんの話はとても参考になります。お母さんに聞かせてあげたい。」


そう言ったところで平倉はくしゃくしゃな笑顔から平常心を取り戻した。


平倉は、母親に絶対服従な態度で平素から逆らう事が無い。


初診では、母親が同席し彼は一語も口に出さなかった。


一人立ちの手前で立ち止まっているのだ。


ただ、彼は自殺行動を常に変化させている。


どんな方法を使って自殺企図を遂げようとしているのか判断がつかない。


「では、又次回は来月の3日で宜しいですね。」


と狭川は診察の終わりを告げた。


平倉幹夫は、籠った声で「はい」と答えた。






狭川一家は、妻、長男、次男、長女の5人暮らしだ。


長男は大学4年で就職も薬剤師の道が決まっている。


次男は今年高校受験、情報処理科のある学校に進むつもりだ。


長女は高一で有るが、スポーツ推薦での進学。


それぞれが生きる希望で胸一杯だろうと狭川は思っている。


中でも長男が薬剤師になるとは夫婦とも意外に思った。


大学の専攻は生物学。


人間も生き物だと言われればそれまでだが、漠然と医療とは無関係だと決め込んでい


たのだ。


一流大学では無かったが、狭川も子供たちに医療の仕事を一度も進めていない。


もっと言えば「医者になどなるものではない。」とも思っていた。


医療は生命に命を吹き込むような仕事ではない。


欠けた部品を新しいパーツに入れ替えるだけの修理屋だ。


今の医療では、永遠の命は保証できない。


延命に努めるだけのサラリーマンなのだ。




「石礫さん、最後の患者さんを。」


本日最後に入室したのは、小学6年生の女の子だ。


父親に連れられてきた。


皆川みながわひかるさん、こんにちは。」


少女は頑なな態度と海に沈む貝の様に口を閉ざしている。


「すみません、先生。」


父親の恭介は、娘を憐れみな目で見つめながらそう言った。


「いえ、誰にでも彼でも話さない方が、今の時代安全です。」


申し訳なさそうにする父親の意に反して娘のひかるは窓に立つ鉄格子を眺めていた。


「ひかるさん、アニメをペンタブで書いているそうですね。今度見せてほしいです。」


ひかるは、母親の死をきっかけに小学校の3階校舎屋上から飛び降りを図ったが、植


え木の上に落下したため、肋骨を骨折しただけで命は救われた。


母親っ子だった事で父親とのコミュニケーションは失われたままだ。


狭川は、彼女の診療には同年代のグループセッションを考えていた。


それと大事な事は長い時間だと。






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