第3話 死への執着
「採血を致しますが、どちらの腕にしますか?」
石礫は、採血と同時にリストカットの確認もするつもりだ。
「左腕に。」
静は右利きで、左腕を出すのは自然とも言える。
「少し、チクっとします。」
注射針を静脈に差し込む時、手首の確認を気付かれないよう自然に行動した。
「矢張り!」
石礫は、静の診療を聞いていて、少し違和感を覚えていたのはこれだったのだと悟った。
狭川は軽快に「それでは、今日は、ここまでにしましょう。繰り返し聞きますが、悩みごとなど有りませんね。」と診察をしめた。
静は、はっきりした声で、「有りません。」と答えた。
彼女が診察室を出てから、石礫から報告があった。
「深いリストカットが3本ありました。3,4センチほどでした。特に隠すつもりも無かったようです」
狭川は得体の知れない失望感に包まれた。
リストカットは知識のいる自殺方法だ。
リストカッターや自傷ラーは死ぬ事が目的ではない為、人に助けてもらう事で自分の存在を見せなければならない。
つまり、死にいたる個所は切らないように避けるのだ。
彼女は違う。
自殺既遂を起こしうる重症患者だ。
自傷行為は彼女の本懐ではない。
自傷行為者は、この広い地球の中で自分と言う命がどんな存在なのかが知りたい、其の答えを教えてくれるのは、「助けてくれる人。」なのだ。
生きている価値、人間は生きて何をこの世に残すのか?
その答えを出せる人はこの世にいるのだろうか?
然し、静は違う。
彼女は全ての人生を終えている。
今も未来も十分に見据えた上で全うしているのだ。
山見静の次に診察に訪れたのは、初老の男性だった。作業ジャンパーに汚れた作業服。風貌は荒んでいる。
「
返事は帰ってこなかった。
自殺未遂でこの病院に担ぎ込まれてきた。
首を吊った為、喉に虎ロープによる痕跡が残っている。
「首の方は大丈夫ですか?」
その瞬間だった。
千条が狭川に向かってこぶしを振り上げてきた。
「しまった!」
間に合わなかった。
狭川の右の頬に千条の左のこぶしがぶつかる。
声を出したため舌を噛んだようだ。
薄い血液の味がした。
さらに千条は狭川の襟元をものすごい力で絞り上げていた。
「だ、誰か!」
石礫の悲鳴に、3人の男性看護師が慌てて入室し、千条を引き離す。
それでも力仕事で培ったのか、掴んだ手が離れない。
4人目の男性看護師が駆け付け、千条は隔離病棟へと連れて行かれた。
狭川の白衣は、襟から腹にかけて裂けていた。
「誤診だ。言葉を選び間違えた。」
自殺未遂の爪痕を穿り返してしまったからだった。
其れは、個人の最も触れられたくない真実であり、デリケートなところだ。
しかも、それは死を願う人間にとって最終の決断によって生じた信念であり、そこに触れれば死を持って制裁を受ける。
自分の為に人を傷つける行為は自身の生命保持の場合は許されるとしている。
また、他人を傷つける可能性がある場合、生命保持のため、傷つけようとする人間を傷つける事も良しとされる。
千条の暴力は自らの心を守る為であったのかもしれない。
その日、病院では、警察を巻き込むかどうか会議が開かれた。
結果、精神科の専門病院へ千条を移す事で一致した。
令和4年は遂に半分を迎えた。
6月、電動自転車を漕ぐ狭川は、裾の裂けた雨合羽で出勤していた。
「チェーンに合羽の裾が絡まるなんて昭和じゃないんだが。」
娘のお古のこの自転車は改造車だ。
至る所を取り外し、シンプルだが、チェーンカバーも無い。
雨に気を取られて裾バンドを忘れて足元を引っ張られる感じがしていた。
病院に着き裾を見ると折り目の部分が完全に裂けていた。
「寒いの後は熱い、今度は水攻撃。季節は何故人間を責める。」
道理に合わない理屈を捏ねながら診察室へと向かった。
「山見静さんどうぞ。」
石礫の歯切れのいい声が診察室前の廊下に響いた。
中へ入って来た静は、物憂げな表情に見えた。
「雨が続きますが、気が滅入ったりしませんか?」
狭川は、診療では無く、私事として気持ちを聞いた。
「先生は、季節によって気分が変るとほんとに思っていますか?」
ドキリとした。
彼女の眼は、憂いから挑戦する目に変っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます