第10話 絆の在処






 若葉のブログを読みながら、若葉の母親は包丁を持ったまま口元に手を当てて、時折ぎゅっと目を閉じたり、大きくため息を吐きながら、始終苦しそうな顔をしていた。


 そして読み終えると、紙の束を持つ手を膝のところに落とし、呆然とした顔になる。


 そこにどんな事が書かれているのか、あたしにはわからなかったけど………。


 麗奈が言った事に間違いはないようだった。


「………どう? わかったでしょ?

 若葉がずっとおばさん達に追いつめられていた苦しい気持ちが………。

 若葉は既に一度、自殺しようとしてたの。

 父親に睡眠薬を飲ませていた事に負い目を感じて。

 そこまで若葉を追い詰めたのは、おばさんなんだよ」


 麗奈がそう言うと、若葉の母親は小さく顔を横に振る。


「違う………あたしは若葉の為を思って、あの人に睡眠薬を飲ませたのよ………。

 若葉に集中して勉強させてあげたかったのよ………。

 あの時は………ああするしか方法が、」


「方法がなかったなんて、まさか本気でそんな事思ってるわけじゃないよね」


 麗奈は早口で言葉をかぶせた。


 若葉の母親は目を泳がせる。


「一番建設的な方法があったんじゃないの?

 病気だってわかってたくせに、人目を気にして家の中に隠して………。

 選ぶべき選択肢を端から捨てたのはおばさんじゃない」


「………」


「せめて若葉が病気の事を切り出してきた時に病院に連れて行ってあげてれば、若葉があそこまで自分を追い込む事はなかったんじゃないの?

 若葉はそれを望んでたんじゃん」


「………」


「若葉が環に対してしてきた事もわかったでしょ?

 若葉が何度も環の事を裏切って、裏でどんな事をしてきたのか………」


「………」


「確かに、あたし達が犯人に若葉のIDを教えなければ、若葉が犯人達に会う事はなかったのかもしれない………。

 だけどあたし達がした事と、若葉が裏で環にやってた事のどこに違いがあるの?

 若葉は環の自宅の住所まで掲示板に書いてたんだよ?

 たまたまトラブルが起きずに済んだっていうだけで、環だって、もしかしたら身も知らない誰かに狙われたかもしれないんだよ?

 環に何かトラブルが降りかかる事を狙ってたところを上げれば、あたし達よりずっと悪質だよ!」


 麗奈の厳しい非難の声に、若葉の母親は目に涙を溜めて歯を食いしばっている。


 話が見えないところもあったけど、言い過ぎなのではと心配になり、麗奈をたしなめた。


「麗奈………もういいよ………もうその辺にしておこう?」


「良くないよ!

 この人はりんごを殺したんだよ!?」


 そう言われて、あたしは臍を噛んで口を閉ざした。


「ねぇおばさん、自分のした事ちゃんとわかってる?

 おばさんは自分の過ちにも気付かないで、自分の娘が影で何をしてたのかも知らないで、りんごを歩道橋の上から投げ落としたんだよ?

 何の罪もない犬を酷い目に遭わせて殺したんだよ?

 環にとって大事な存在だってわかってて!

 わざと!

 環に地獄を見せる為に!!」


 胸が震えて、目頭が熱くなった。


「わかったよ麗奈………。

 もう麗奈の気持ちは充分わかったから………きっとりんごにも届いてるから………」


 あたしは涙を流しながら麗奈の背中を撫でた。


 麗奈も目を潤ませて、若葉の母親を睨み続けている。


「どう?

 これでもまだ、若葉はあたし達のせいで死んだなんて言うつもり?」


「………。

 あなた達のせいで若葉は乱暴された………その一点については変わらないわ」


「それでも、若葉を殺したのはあたし達じゃない。

 その一点も変わらないよ」


「………」


「最初に言ったでしょ?

 あたし達はおばさんに殺される筋合いはないって。

 こういう事よ、わかった?」


「………」


「もしあたし達を殺したりすれば、若葉の名誉を傷付ける事になるよ?

 そのブログのコピー、伯母さんの部屋に置いて来てあるから。

 若葉の日記だって書き記して」


「………」


「あたし達が殺されたら、そのブログの内容だって世間に大きく広がる事になる。

 それが公になれば、これまでおばさんがして来た事は、自分達の事しか考えられない身勝手親子の犯行って事になるんだよ。

 同情する人なんて誰もいない………もしかしたら、自業自得とまで言われるかもね。

 そんな風に、若葉が笑い者にされてもいいわけ?

 人は死んでも、名誉だけは残るんだから」


 若葉の母親はどこを見ているのかわからない表情で、フッと鼻で笑う。


「何が名誉は残るよ………。

 そんな事………あんたみたいな小娘に言われたくないわよ。

 笑わせないで」


「………」


「死んだ人間の名誉なんて、世間からすれば一瞬チラッと光って見える流れ星のようなものよ。

 覚えてるのは、ニュースをやってる間だけ………。

 どんなに不幸な目に遭おうと、他人の死なんてそんなものよ。

 コマーシャルに切り替わったと同時に、忘れ去られるようなものなのよ」


「………」


「母親のあたしが若葉を追い詰めただなんて……それが本当だとしても、そんな事、あんた達に責められる筋合いはないわよ。

 あんた達なんて所詮ただの他人じゃない。

 それとも、あんた達が若葉を救えたっていうの?

 うちの人の病気を治してくれたっていうの?

 養ってくれたっていうの?

 綺麗事ばっかり言わないでよ!!」


 若葉の母親は声を荒らげて涙を流し、再び包丁の刃先を向けて来る。


「母親はね、子供の為にいつだって一生懸命なのよ………。

 何が正しいのか、どうする事が子供の為になるのか、毎日毎日そんな事ばっかり考えて……悩んで………。

 そうやって生きてるものなのよ。

 それをあんた達みたいな、子供の一人も産んで育てた事のない小娘に何がわかるって言うのよっ!!」


 真っ赤に充血した目をこちらに向けて、若葉の母親はにじり寄って来る。


「あたしの気持ちは変わらないわよ………。

 あたしは若葉の母親なの。

 若葉の復讐はきっちり果たして見せる………」


 麗奈はナイフの取っ手を握る手に力を込める。


「来ないで………。

 そんな包丁より、こっちの方がずっと殺傷力が高いんだよ」


「ふふっ………あなたにあたしが刺せるもんですか。

 あなたにはまだ色々残ってるはずよ?

 人なんか刺せっこないわ」


「正当防衛なら罪にはならない。

 あたしは絶対、おばさんなんかに殺されたりはしないんだから………」


 麗奈の目に真剣さが増して、あたしは焦って「やめてよ!」と叫んだ。


「お願いだからもうやめて!!

 こんな事したってなんにもならないよ!」


 若葉の母親が怒鳴り付けてくる。


「黙りなさい!!

 そんな甘い事言って、この場から逃れられると思ってんの?

 逃げ出そうとすれば、その瞬間に火を点けるわよ」


 若葉の母親はズボンのポケットからライターを取り出して見せる。


 麗奈が言う。


「そうだよ環、考え甘過ぎ。

 こんな人に同情なんかしちゃ駄目。

 隙を見せたらこっちがやられるんだから………。

 警察にはもう連絡してあるの。

 この家のインターホンを押す前に、角田さんにメールしておいたから。

 だからきっともうすぐ助けに来てくれる………もしかしたらもう、既に近くに来てるかもしれない。

 それまで、自分達の身は自分達で守るんだよ」


「麗奈………」


「環の事はあたしが守る。

 そう決めたんだから………」


 麗奈は額から汗を垂らし、じりっと足を前に踏み出す。


 若葉の母親は言った。


「一人ずつ刺し殺して、最後は全員まとめて燃やしてあげる………。

 あああああああああっ!!」


 若葉の母親が包丁を持って突進してきて、あたしと麗奈は左右に分かれて逃げた。


 若葉の母親は殺気に満ちた目を麗奈の方へ向ける。


 あたしはそちらを見ながら、近くに何か武器になるようなものがないかを手探りで探した。


 そしてフローリング用の長いモップを見付けて、麗奈の方へ向かって行く若葉の母親の足元に向けてモップを振った。


 若葉の母親はモップに足元を取られて前に倒れる。


「麗奈っ!! 早く逃げて!!」


 麗奈の背後には窓がすぐ近くにあった。


 けれどガムテープで塞がれている為、そう簡単に逃げる事は出来ない。


 若葉の母親は身体を起こし、今度はこちらに振り返る。


 あたしはモップを竹刀のように構え、声を上げて若葉の母親に向けて振り降ろした。


「うわあああああああっ!!」


 とにかく若葉の母親の手から包丁を奪わなければと思い、夢中でモップを振り回す。


 若葉の母親はモップに当たらないように後ろへ下がり、こちらの隙を窺っている。


 麗奈は若葉の母親に気付かれないように背後から近付き、包丁を持っている方の手をついに掴んだ。


 若葉の母親は麗奈の腕を掴み返し、二人で包丁の奪い合いになる。


 あたしはモップを床に投げ捨てて、麗奈に加勢した。


 若葉の母親はなかなか包丁を放してくれない。


 目の前で刃渡り30センチの包丁が揺れているので、上手く力を入れる事が出来なかった。


 若葉の母親は腕を左右に振り始めて、反動を付けてあたし達を振り払う。


 床に尻餅をついて倒れると、若葉の母親が肩で息をしながら、包丁を持って向かってきた。


 麗奈が「環っ!」と声を上げ、若葉の母親に突進し、体当たりして二人で床の上に倒れる。


 若葉の母親はすぐに身体を仰向けに返し、隣でうつ伏せの状態でいる麗奈の背中に、思い切り包丁を突き刺した。


「───……麗奈!!」


 麗奈は叫び声を上げ、ベージュのジャケットがどんどん血の色で染まって行くのを見て、あたしは悲鳴を上げた。


 若葉の母親は肩で息をしながら、麗奈の背中から包丁を引き抜き、もう一度振り降ろそうとするその手を、あたしは後ろから掴んで止めた。


「麗奈っ! 麗奈ぁっ!

 早く逃げて──っ!!」


 麗奈は刺された背中に手を当てて呻き声を上げていて、とても逃げられる状態じゃなかった。


 今若葉の母親の手を放してしまったら、今度こそ間違いなく麗奈が殺されてしまう。


 あたしは必死で若葉の母親の手を掴んだまま、腕に力を入れる為に大声を上げた。


「誰か───っ!!

 誰か早く来て───っ!!」


 叫びながら揉め合っていると、突然窓ガラスが割れる音がして、誰かが庭から部屋の中に侵入して来た。


 それは一人ではなく、次々と部屋に上がり込んで来て、あっという間に若葉の母親を取り押さえ、包丁を奪い取った。


「凶器確保───っ!!」


 そう声を上げたのはヘルメットをかぶった警察の機動隊で、別の人がおばさんの腕を捻り上げてうつ伏せに倒すと、「容疑者確保しました!」と声が上がる。


「おいっ、環ちゃん!

 大丈夫か!」


 そう声をかけて来たのは角田さんだった。


「遅くなって悪かったな。

 しばらくメールに気付かなかったんだ」


 あたしは息を切らしながら頷いて返し、身体を起こす。


「おい!

 灯油がまかれてるぞ、金属に気を付けろ!

 廊下にも一人倒れてる!

 ひとまず全員外へ避難だ!」


 機動隊の人達によって庭の方へ運ばれた麗奈に、駆け寄って声をかけた。


「麗奈っ! しっかりして麗奈っ!」


 麗奈は顔を歪め、「痛い………痛ぁい………」と呻きながら、駆け付けてきた救急隊員から止血の応急処置を受けている。


 麗奈の血は背中全体に広がっていて、どんどん顔から血の気が引いていく。


 あたしと角田さんも一緒に救急車に乗り込んで、病院まで同行する事にし、血だらけになった麗奈の手を握って声をかけた。


「しっかりして麗奈っ!

 もう大丈夫だからね!

 今病院に向かってるからね!」


 麗奈は虚ろな目をして、酸素マスクを付けた状態で顎を引く。


 角田刑事さんは怒ったように言った。


「なんですぐに110番しなかったんだ………。

 もう少し遅かったら、君達二人とも殺されてたかもしれないんだぞ!」


 麗奈は苦しそうに呼吸をしながら答えた。


「だって110番したら………絶対あたし………止められてたでしょ?

 警察が来たのがバレたら、環が………殺されちゃうかもしれなかったから、先に中に………入って、環………守ろうと思って………」


 そう言って、麗奈はあたしを見る。


「環………。

 あたし………今のうちに、環に言って………言っておきたい事………あるの………」


「何?

 今のうちって………そんな縁起でもない言い方しないでよ。

 後でゆっくり話は聞くから」


 麗奈は小さく顔を横に振る。


「ダメ………今言わせて………。

 じゃなきゃ、言えないままになるかも………」


「麗奈………。

 何? どうしたの?」


「あたしね………環に、謝らなきゃ………ならないの………。

 若葉の事件が………起きて………警察で……取り調べを受けた時の事………」


「取り調べ?」


「そう………。

 あたしこの前………環に………自分も……教えちゃえって、若葉のID………。

 そう言ったんだって、言ったけど………。

 でもね………その時、その時は………警察では……それ………言えなかったの………」


「え?」


「あたしが先に………環にそう言った事………。

 警察の人には………言えなかったの………。

 ただ………止め、止めなかったとしか………」


 麗奈は目を潤ませ、涙を流す。


「環はその事………警察の人には………言わなかった………あたしが………先に、そう言った事………。

 だから、新聞には………あたしの事、書いてなかったでしょう?

 あたしだけ………その事、黙っ、黙って………たから………」


「………」


「そのまま………環と………会えなくなって………ニュースが出て………。

 環その事………どう、どう思ってるかなぁって、ずっと………ずっと気になってた………。

 あたしだけ………本当の事、黙ってて………」


 あたしは麗奈を見つめたまま顔を横に振った。


「………いいよ………もうそんな事、どうだっていいよ。

 あたしがIDを教えた事に変わりはないんだから」


「ごめんね環………。

 こっちに戻って来た時………それ………言わなきゃって思ったけど………。

 記………記憶がない、環に………切り出す勇、勇気が出せなくて………。

 いつか………ちゃんと言おうって、謝ろうって………。

 明日こそ………明日こそって………思ってたんだけど………」


「もういいってば………そんな事どうだっていいって言ってるじゃん」


 麗奈は小さく微笑む。


「でも………環の記憶が戻ったら………その時の事………どう思うかな………。

 もし………かしたら、環、あたしの事………すごく、嫌いに………なってたのかもしれないし………」


 涙がこみ上げてきて、もう一度首を横に振って見せた。


「その時の記憶なんて関係ない!

 それはもう過去のあたしで、今は今のあたしがいるんだよ!

 今のあたしがいいって言ってるんだから、それでいいんだよ!」


「環………。

 これからも……友達でいてくれる………?

 あたし………宗方さんの事、好きに………なったわけじゃないし………」


「こんな時に何言って………。

 好きだろうとなかろうと、これからも友達に決まってんじゃん。

 ごめんね麗奈………この前はひどい事言って………」


 麗奈は小さく吹き出し、軽く咳き込む。


「あれね…………あれ………さ………宗方さんと……話してたのは、さ………。

 彼女、いるかどうか………聞いてたの………」


「え?」


「環が………やる気、無しだったから………代わりに色々………聞いてあげようって思って………。

 宗方さんね、もう………7年近く、彼女いないんだって………。

 だから………あたし思わず、聞いちゃったんだよ………。

 も………もしかして、ど、童貞ですかって………」


 ぶっと、思わず吹き出してしまい、角田さんが咳払いする。


「バカ………なんて事聞いてんだよ」


「だからね、それで………宗方さんも、ウケて………笑ってたの………。

 それで話………盛り上がってただけだから………」


「わかったよもう………もうわかったから………。

 だからもうあんまり喋らないで、傷に響くから」


「あたし………助かるかな?」


「何言ってんだよ………助かってくれなきゃ困る!

 麗奈がいてくれなきゃ、あたしが困るよっ!

 一緒に生きて行こうって、言ったじゃん」


 麗奈は涙を流しながら、「そーだった」と言って微笑む。


 病院に着いて、麗奈はストレッチャーで初療室の方へ運ばれて行く。


 その後は手術室に移動し、ドアが閉まると、不安になって角田さんに聞いた。


「角田さん………麗奈、大丈夫だよね?

 死んだりしないよね?」


 角田刑事さんは手術室の方を見ながら「ああ」と頷く。


「あの子はちょっとやそっとじゃ死なないだろ。

 見かけに寄らずしぶとそうだし」


 あたしは吹き出して笑い、「そうだよね」と返す。


 そうだよ。


 麗奈は小学校の時にあたしをいじめたグループのリーダーなんだ。


 そんな麗奈が、簡単に死ぬわけない。


 絶対絶対、助かるに決まってる………。






 手術が終わるまでの間、麗奈がプリントアウトしてきた若葉のブログに目を通していた。


 それを読み終えた後、あたしは若葉と最後に喧嘩した時の事を、少しだけ思い出す事が出来た。


 あたしはあの時………誰にも言えない悩みを抱えていた。


 以前若葉から父親の事を聞いた事があったから、話せるのは若葉しかいないって、そう思って助けを求めたんだ………。


 その悩みとは………ママの事だった。


 ある日あたしは、目撃してしまった。


 ママが同じ事務所に勤めている矢代さんと、ホテルに入って行くところを………。


 どこのホテルだったとか、そういう細かいところは覚えてないけど、ママが矢代さんの肩に持たれて、矢代さんがママの腰に腕を回していた姿だけは、鮮明に思い出せた。


 それがとてもショックで、あたしはママの事を信じられなくなった。


 家に帰るのが嫌になり、遅い時間まで遊びまわる日が続き、それをママに咎められて、こう尋ねた。


〈ねえママ………。

 ママってさ、不倫した女の人の弁護とか、引き受けた事ある?〉


〈何よ突然………。

 そりゃ弁護士は依頼人を選べないんだから、そういう弁護を引き受ける時だってあるわよ。

 そんな事より、今はあんたの話をしてるんでしょう?

 いったいこんな時間までどこ行ってたの。

 まさかママに言えないところに出入りしてたんじゃないでしょうね?〉


 あたしは鼻で笑って返した。


〈言えないとこって………それはママの方なんじゃないの?〉


〈え?〉


〈………ママはさ、自分が不倫した時はどうすんの?

 自分で自分の弁護するのかな。

 浮気してたところを娘が見てても………不貞行為はありませんでしたって、そうやってシラを切って弁護するのかな………〉


 ………ママは瞬時に凍り付いていた。


 裏切られたような気持ちだった。


 ママはあたしにとって正義の人だったから。


 ママの正義の為に、あたしは今まで色んな事を我慢してきたから………。


 あたしは若葉にcommuのチャットで助けを求めた。


 メッセージが既読になったのを見てホッとして、若葉からの返事を待った。


 だけどなかなか返事が返って来なくて、一晩中携帯を握りしめていた。


(どうしてこんな時ぐらい助けになってくれないの………?)


 今まで散々裏切られてきた事を思い出し、悲しくなった。


 メッセージを読んだはずなのに、見捨てられたような気持ちになって………。


 それで、あんな風に怒ってしまった。


 そしたら若葉に逆ギレされて、あんな風になってしまった。


 その後の事は、あまりはっきり思い出せないけど、苺美が連れて来た犯人達と合コンした時の事をぼんやり思い出した。


 氷川航。


 軽そうな大学生の男が集う中で、氷川航だけはまともそうに見えた。


 カラオケの席で気が合って、選曲しないでうちのママの事をこっそりと打ち明け、氷川航はそれを聞いて、あたしを優しく慰めてくれた。


〈俺が環ちゃんの側にいてあげるから元気出してよ〉


 そんな言葉に気を許してしまったあたしは、氷川航と二人で部屋を抜け出し、カラオケボックスの廊下でキスをして、付き合おうと約束をした。


 主犯格の加納翔平から若葉を紹介して欲しいとチャットで頼まれた時、


[航も若葉ちゃん可愛いってさ♪]


 と言われて、あたしは内心ムッとしていた。


 それでその時、麗奈と話しながら、加納翔平と若葉がくっつけばいいと、心の中でそう思ったんだ。


 そうすれば、氷川航が若葉の事を好きになる事はないだろうって………。


 結局あたしも、自分の都合で若葉のIDを教えてしまったんだ。


 若葉に自分が好きになった人を、取られたくなかったから………。






 手術は無事に終えて、麗奈は一命を取りとめる事が出来た。


 けれど一週間は集中治療室に入らなければならなくなった為、その日話す事は出来ず、角田さんに付き添われ、入院先の病院に戻る事になった。


 そして一夜明けた翌日の朝。


 病室に志水先生が「失礼します」と言って入って来た。


「どうだい、少しは落ち着いたか」


 身体を起こしながら「はい」と答える。


「先生、昨日は勝手に抜け出したりしてごめんなさい………」


 志水先生は「まったくだよ」と言って椅子に腰を降ろす。


「本当に心配したんだからな。

 警察からも君の事は頼まれてたし」


「ごめんなさい………」


「まあでも、無事で良かった。

 捕まったみたいだな………若葉ちゃんのお母さん」


「うん………」


「昨日の当直の先生から話は聞いたけど、これで良かったんじゃないかな………。

 やっぱり復讐は認められるものではないし、若葉ちゃんのブログを読んだ事で、彼女の本当の苦しみを知る事が出来たんだろうし………。

 当分は受け入れられないだろうけどね」


「………ねぇ、先生。

 若葉のお父さんの病気、そんなに大変な病気なの?」


「そうだね………。

 話を聞いた限りだけど、そこまで病気が進行していたんなら、一緒に住んでる家族は大変だったと思うよ。

 もちろん、本人も苦しかっただろうし。

 それを家族内で抱え込まないで、病院や周囲に頼る事が出来たら一番良かったんだけどな………。

 ただ、偏見を怖がってた若葉ちゃんのお母さんの気持ちもわからなくはないよ。

 病気と向き合っていく中で、周りに理解してもらえないというのは、本人にとっても家族にとっても辛い事だよ」


「そっか………。

 あ………ねぇ先生、そういえばあれ、読んだよ。

 『星の王子さま』」


「おお、読んだのか。

 どうだった?」


「最初は読んでもよくわからなかったんだけど、今ならわかる気がする。

 先生がどうして、人との絆について『星の王子さま』を挙げてきたのか………。

 王子さまとキツネはさ、毎日会う約束を果たしながら絆を作っていったんだね。

 電話もネットもない世界で」


 志水先生は頬を緩めて「そうだね」と頷く。


「道具で繋がって、初めて絆が存在するわけじゃなかった。

 先生は、それをあたしに伝えたかったんでしょう?」


 志水先生は微笑みながらもう一度頷く。


「どうしてそこに気が付く事が出来たの?」


「麗奈とね、院内散歩の時に待ち合わせしてたじゃん?

 だけど喧嘩しちゃって麗奈が来なかった日………あの時あたし、来るわけないってどっかでわかってたのに、時間ギリギリまで麗奈が来るのを待ってたの」


「うん、それで?」


「もう嫌われたかもしれないって落ち込んでたけど………。

 でも病院の中庭で何度も待ち合わせて、そこで過ごした時間を思い出すと、もしかしたら来てくれるかもしれないって。

 いつの間にか、麗奈とあたしの間に絆が生まれてたから、それを信じたかったのかなって」


「なるほどね」


 志水先生は相槌をしながらニコニコする。


「だけどわからないのは、若葉との事なんだよね………」


「若葉ちゃんの事?」


「うん。

 麗奈とは仲良くなれたからあれだけど、あたしと若葉の間には信頼関係なんてなかったのになって。

 裏切られて………嫌い合って………時には憎み合って………。

 なのにどうしてあたしと若葉は、一番辛い時にお互いの事を必要としてたのかなって」


「そうだなぁ………。

 そこは特に、あの時こうだったからみたいに、全てに納得の行く答えはないと思うな」


「………」


「ただ、僕は思うんだけどね。

 絆ってさ、記憶の中に存在するんじゃないかなと思うんだ」


「記憶?」


「そう。

 相手を信じたり、相手と過ごした思い出の中に。

 例え喧嘩したり、好きになれなかったとしてもね」


「………」


「前にさ、人は好きだと思う気持ちと嫌いだと思う気持ちをはっきり二つに分ける事が出来ないって話をしただろう?

 その時その時の感情が違って、嫌いだと思う相手を助けてしまったり、好きなのにどこか受け入れる事が出来なかったり、矛盾する自分の気持ちに戸惑ったり悩んだりしてさ」


「………」


「それでも自分の記憶の箱の中で、相手との絆の糸を紡ぐものなんじゃないかなと思うんだ。

 だから必ずしも、相手と絆の糸が繋ぎ合えるってわけじゃない。

 恋愛で言えば、片想いで終わる事だってあるだろう?

 もしかしたら環ちゃんと若葉ちゃんは、お互い片想いだと思いながら、どこかで繋がっていたのかもしれないね」


 ………もし、そこで両思いである事に気付けていたら、こんな結果にはならなかったのかな。


 少なくとも、あの時チャットで見た “既読” という文字じゃなくて、若葉の事をちゃんと見ていたら………。


 嫌い合っても、憎み合っても、繋がっていられたのかもしれない………。


「それはそうと………。

 いくつか記憶を思い出したみたいだね」


「ああ、うん。

 断片的にだけど、若葉と喧嘩した時の事は思い出した。

 それから………ママの事も………。

 ………先生はさ、その事知ってたんでしょう?」


「うん………。

 その件についてだけは、君に嘘を吐いた。

 君自身が思い出すまでは、言うべきじゃないと思ったから」


「うん………いいよ、わかってる。

 先生はあたしの為に黙ってたんだって」


「………今お母さんの事は、どう思ってる?」


「今は正直………許せないと思ってる………」


「………」


「ママが怯えてたのは若葉の事じゃなくて、あたしがその事を思い出す事だったんだって………。

 それで記憶が戻らないように出来ないかどうか先生に相談してた事を思うと、ママの事………信用出来ない………。

 許す事は出来ない」


「………」


「今は………あんまりママの事は考えたくない。

 今月末にパパが北海道から帰って来るから、あたしはパパの事を大切にしようと思う。

 今言えるのはそれだけかな………」


「………そうか」


「うん………」


 パパはおそらく、ママが浮気した事を知ったんだと思う。


 だからパパは、“気持ちの準備をする時間が欲しい” と言ってたんだと思うから………。






 それから一ヶ月後。


 あたしは若葉の母親が収容されている拘置所へと面会に向かった。


 腰縄に手錠をかけられた状態で面会室に現れ、看守の人に入口のところで拘束を解いてもらい、中に入ってくる。


 アクリル板を挟んで正面の席に腰を降ろすと、若葉の母親は下を向いたまま「久しぶりね」と言った。


「久しぶりです………。

 ………体調は、大丈夫ですか?」


「ええ、おかげさまでね………」


 若葉の母親は前以上に頬がこけていて、無気力そうな表情を見せていた。


「………麗奈ちゃんは、まだ入院してるんだって?」


「はい。

 でもあと二週間ぐらいで退院出来るみたいです」


「そう………」


 若葉の母親は肩を落として息を吐き、荒れた左の手の甲を撫でながら言った。


「あれからあたしも色々考えたわ………。

 若葉が小学校の頃から環ちゃんを裏切って、ひどい事をしてた事………。

 ごめんなさい。

 そこは母親として、申し訳なかったと思ったわ………」


「いえ………」


「でもね………それでもあたしはやっぱり、あなた達を許す事は出来ない。

 あたしは、若葉の母親だから………」


「………はい、わかってます。

 あたしも、りんごの事は一生許す気はありません」


「………」


「だけど………今日は一つだけお願いがあって来ました」


 若葉の母親は手の甲を撫でながら「何かしら」と聞き返してくる。


「若葉のお墓がある場所を教えて欲しいんです」


「………」


「毎年、若葉のお墓参りに行って………」


 その次に続ける言葉を、覚悟を決めて言った。


「………お墓参りに行って、許しを乞わせて欲しいんです」


 若葉の母親は目の動きを止めて、静かに聞き返してくる。


「………何を言ってるの?」


「………」


「たった今あたし、あなたを許すつもりはないって言ったはずだけど」


「………はい、わかってます。

 若葉も許してくれる事はないと思ってます。

 だってもう若葉は、この世にはいないから………」


「………」


「だけど………この前病院の先生から教えてもらったんです。

 “ごめんなさい” と、“許して下さい” の二つの言葉の違いを」


「………」


「ごめんなさいって謝る事は誰にだって出来るし、相手が許してくれなくても一方的に言える謝罪の言葉だけど、許して下さいという言葉は、とても簡単には口に出せない謝罪の言葉だって………。

 現に今、言い出すのにとても勇気がいりました」


「………」


「だけどこうも言ってたんです。

 許して下さいという言葉には、相手との信頼関係を修復したいという意味が込められているんだって」


「………」


「だからそういう気持ちで、これからずっと、若葉のお墓に手を合わせていきたいんです。

 許してもらえなくても、そういう気持ちでいないと、いつか若葉の事を忘れてしまいそうだから………」


「………」


「お願いします、お墓の場所を教えて下さい」


 あたしは若葉の母親に向かって頭を下げた。


 若葉の母親はしばらく黙り込んだ後、一つ息を吐いて言った。


「記憶の方は、元に戻ったの?」


「………はい、少しだけ」


「そう………。

 じゃあ、あなたが交通事故にあった時の事は思い出せたのかしら」


 顔を上げ、顎を引いてみせた。


「はい、つい最近思い出しました。

 病院の先生からは自殺を図ったと聞かされてました。

 だけど、あれは自殺じゃありませんでした。

 誰かに後ろから背中を押されたんです」


「………」


「あの日あたしは、同棲してた人から若葉の話を持ち出されて、別れ話をされたんです。

 誰かが、彼に若葉の事を密告したんです。

 それで誰も信じられなくなって………死にたいと思ってました」


「………」


「だけど、自分で飛び出したわけじゃなかった。

 あの時あたしは、SNSで誰かに助けを求めていたんです。

 携帯を持って、横断歩道の信号の前で待っている時に、背後から誰かが………」


「………そう。

 その犯人は、誰だかわかる?」


「ええ。

 彼に密告したのも、あたしの背中を押したのも………全部おばさんがやった事なんですね」


 すると若葉の母親はフッと鼻で笑い、「やっぱり何もわかってないのね、環ちゃんは」と言った。


「一つは正解よ。

 あたしがあなたの彼氏に若葉の事を密告したの。

 だけどあたしは、あなたの背中を押してないわ。

 あたしはただ、それを見ていただけ」


「………見ていた?」


 目をしかめると、若葉の母親は顔を上げ、真っ直ぐあたしを見つめ返してくる。


「そう、見てたの。

 本当はあたしが殺すはずだったんだけど、先客がいたのよ」


「先客………」


「もう一人いるでしょう?

 あなたに人生を滅茶苦茶にされた人間が」


 そう言われて、ふっとある人の顔が浮かび、大きく目を見開いて言った。


「まさか………」


 若葉の母親はわずかに口元を結び、微笑を浮かべて言った。


「あなたは、その人を許す事が出来るかしら」


 愕然とするあたしを残して、若葉の母親は「終わりました」と看守に伝え、面会室を後にした。






 その帰り、志水先生の元を訪れた。


 診察室に入ると、志水先生はあたしを見て驚いた顔をする。


「どうしたの、傘はさして来なかったのか」


 午後から雨が降り出してきて、ビニール傘を買う気になれず、濡れながら歩いて来た。


「傘………嫌いなんだよね、子供の時から………。

 片手が塞がっちゃうしさ」


「それじゃ風邪引くじゃないか。

 どうした、何かあったのか」


 心配そうに顔を覗き込んでくる志水先生に、あたしは目を閉じて打ち明けた。


「………あたしを殺そうとしたのは………ママだったの」


「え?」


「9月の頭に、事故に遭った時の事………。

 あたしは自殺しようとしたんじゃなくて、誰かに背中を押されたの。

 それが………ママだったの………」


 志水先生は目をしかめる。


 涙が込み上げてきて、口元を押さえた。


「先生………あたしどうすればいいの?

 あたし………ママに殺されかけたの………。

 こんな事、どうやって受け止めたらいいのかわかんない………わかんない!!」


 下を向いて、膝の上にボタボタと涙をこぼしながらしばらく泣き続けていると、志水先生が箱ティッシュを差し出してきた。


「これで涙を拭きなさい。

 辛い事に気付いちゃったんだな………」


「………先生は、この事も知ってたの?」


「いいや………それはさすがに知らなかったよ。

 一週間前まではね」


「え?」


 顔を上げると、志水先生は眉尻を下げて頷きながら言った。


「一緒に、お母さんに会いに行こうか」


 10月に入院していた閉鎖病棟へ案内され、廊下を歩いて行くと、病棟内の中庭にママの姿があった。


 あたしは驚いて息を呑み、車椅子に座ってぼんやりしているママを見つめた。


 頭に包帯を巻き、右足はギプスで固められている………。


 志水先生はあたしの隣に並んで言った。


「先週、うちの病院に運ばれて来たんだ。

 僕も驚いたよ。

 横断歩道から飛び出して、自殺を図ったんだ。

 君の背中を押した、あの横断歩道でね」


「………」


「こっちの病棟に入ってもらったのは、お母さんの精神状態が心配だったんだ。

 横断歩道に飛び出す前に、お母さんは精神科の薬を大量に飲んでいて、かなり不安定なようだったから」


「………」


「それで僕が担当につく事になって、さっき君から聞いた話を打ち明けられたんだ。

 環ちゃんが横断報道に飛び出した時の目撃者はいたけど、背中を押すところは誰も見てなかったみたいでね。

 環ちゃんがバイクに撥ねられた時に我に返ったらしいんだけど………」


「………」


「あの日お母さんは、西新宿で裁判の引継ぎをやってたそうなんだ。

 いじめで子供が自殺してしまった事件を担当してたんだけど、君と若葉ちゃんの事があって、それを知った依頼人が弁護士を変えてくれと言ってきたんだ。

 ずいぶん依頼人から非難されたようだし、かなり参ってる状態の時に、たまたま環ちゃんの姿を見付けたんだ。

 それでその時、環ちゃんが携帯電話を胸に抱きしめているのを見て………つい、魔が差したらしい。

 まだ懲りないのかって、そう思ってしまったようだ………」


「………」


「だけどね、お母さんは君を一方的に恨んでいたわけじゃないんだ。

 弁護士としての社会的信用も失って、母親としての信頼や、威厳というのかな………そういうものも失ってしまった事で、君にどうやって若葉ちゃんとの事を反省させたらいいのかわからなくて、ずっと苦しんでたんだ。

 あの時の君には、お母さんの言葉はまったく届かなかったから」


「………」


「それで耐えきれなくなって、君を残して家を出た。

 君が言ってたように、お母さんは君の記憶がいつ戻るのか怯えてたんだ。

 でも………逃げても逃げても、君はずっとお母さんの心の中に居たそうだよ。

 結局苦しみからは逃げられなかったって、そう言ってた」


 あたしは視線を落とし、窓の方に背を向けて鼻を啜った。


「環ちゃんのお母さんもね、ごく普通の人間だったんだよ。

 強いところもあれば、弱いところもある。

 いや………どちらかと言うと、本当はすごく繊細な人だったのかもしれないね………。

 強くある事で、弱い自分を守ろうとしてた。

 そういうとこ、君と少し似てるのかもしれないな」


「………」


 志水先生はあたしの方に身体を向ける。


「お母さんの事を許すか許さないかは、君が決める事だ。

 でも、お母さんもずっと後悔して苦しんでいた事だけは、知ってて欲しいと思ったんだ」


「………」


「お母さんからは、家族には誰にも知らせないで欲しいと言われてたんだけど………どうする?

 今日はこのまま帰るかい?」


 思いきり鼻を啜って涙を拭い、首を横に振った。


 中庭に出れるドアの方へ向かうと、一足先に、ママのところへ宗方さんが話しかけに向かっていた。


「相澤さん、雨も強くなって来ましたし、そろそろ病室に戻りましょうか」


 ママは小さく顎を引き、宗方さんに車椅子を押してもらい、こちらへ向かって来る。


 宗方さんはあたしに気付いて足を止め、ママも、正面にあたしがいる事に気付いた。


「環………」


 目が合うと、ママは一瞬にして相好を崩し、咳き込むように嗚咽を漏らして泣き出した。


 あたしは歯を食いしばって堪えながら、ママの方へと歩み寄って行く。


「環………環………。

 ごめんなさい………ごめんなさい………」


 ママは両手で顔を覆って号泣する。


 その様子を、宗方さんは静かに黙って見ている。


 大きく深呼吸して、しゃがんでママの顔を覗き込んだ。


「ママ………パパが今でも、ママが帰って来るのを待ってる………。

 だからもう………それ以上は何も言わないで。

 ………一緒にうちに帰ろう?」


 ママは恐る恐る顔を上げ、あたしの顔を見る。


 堪え切れなくなって、あたしも嗚咽が漏れてしまう。


「何やってんだよ………もう」


 ママの右足のギプスを撫でて、あたしとママはその場で抱き合い、しばらく泣いていた。






 2014年7月────


 あれから半年以上の月日が過ぎて、若葉の母親に実刑判決が降りた。


 その裁判の判決を見届けに来たあたしと麗奈は、裁判所の玄関に向かいながら、角田さんと話していた。


「一応気になって見に来たんだけど、検察の求刑通りの判決が出て良かったな。

 若葉さんの事について同情的な意見もあったけど、それを踏まえた上での判決だ。

 彼女が君達にした事は許されないし、きちんと罪を償ってもらわないとな」


 判決文を言い渡された後、何も言わず静かに頭を下げて退廷して行ったおばさんの姿を思い出し、あたしは控えめに「そうですね」と返す。


 これで良かったのかもしれないけど、気持ちは複雑だった。


 すると麗奈が言ってくる。


「りんごにした事も、重く捉えてもらえて良かったね」


 角田刑事さんが「そうだな」と頷いて返す。


「昔はペットは物としてしか扱われなかったけど、今は新しい法律が出来たから、ちゃんと命に対する刑罰が科されるようになったからな」


 それについても複雑な思いはあったけれど、労るように言ってくれる角田さんに、「ありがとうございます」と言って小さく頭を下げた。


 裁判所の建物を出ると、夏の暑さと湿気が身体にまとわりついてきて、角田さんは空を見上げ、「あっつー………なんだこの暑さは」と文句を言っている。


「上旬から容赦がないな、去年に続いて今年も猛暑か………。

 またどんどん熱中症で倒れる人が増えて行くんだろうな」


「去年は5万9000人にまで上ったんでしょう?

 熱中症で搬送された人」と、麗奈。


「そうそう、2012年から2割強の増加だったんだってさ。

 二人も熱中症には気を付けないとな。

 ああ、そういや、姫はもう大丈夫なのか?

 刺された時の怪我は」


「何? その"姫"って」


 麗奈は眉根を寄せて角田さんを見上げる。


「いや、なんとなく、そういうキャラかなーって」


 角田さんは顎の無精髭を撫でながら苦笑いを浮かべる。


「感じわるー………。

 人の事ワガママなお姫様とか思ってない?」


「いやいや、気が強くて勇敢なお姫様だって思ってるよ。

 サバイバルナイフ持って友達を助けに向かうだなんてさ、無茶し過ぎだけど」


「それって褒めてんの?」


 納得の行かない様子の麗奈に、あたしは「まあまあ」と言ってたしなめつつ、吹き出して笑ってしまった。


 確かに "勇敢なお姫様" という揶揄の入った表現は、麗奈にピッタリ当てはまっているような気がした。


 麗奈はフンと鼻を鳴らす。


「背中に傷は残っちゃったけど、問題なくピンピンしてますよ」


「そりゃ良かった。

 最近はどうしてたの? 二人共」


「あたしはこっちの大学を受け直す準備をしてるとこ」と、麗奈。


「へ? 受け直すって?」


 それにはあたしが答えた。


「東京に戻って来て、こっちの大学で法学部に入って勉強するんだって」


「法学部に?」


 麗奈は頷く。


「そう。

 環のママみたいに、カッコいい弁護士になろうと思って」


「はー………弁護士ねぇ………。

 でもなんでわざわざこっちの大学に?

 名古屋の大学にも法学部ぐらいあるんじゃないの?」


「そうなんだけど、しばらく親から離れてみようと思って。

 今までずっと親に守られっぱなしだったから、こっちで一人暮らししながら頑張ってみようと思ってさ。

 あたしも環と同じように、若葉の事から逃げない事にしたの。

 自分が生きたいと思う場所で、精一杯生きる。

 自分が正しいと思う事を貫いて行こうと思う」


 角田さんは右の眉をひょいっと持ち上げる。


「たくましいじゃない。

 環ちゃんはこれからどうするの?

 前に会った時は、家でお母さんの仕事の手伝いをしてるって言ってたけど。

 まさか環ちゃんまで弁護士を目指してるとか?」


「まさか。

 ママの手伝いをしてるのは、人を雇う余裕がないから手伝ってるだけだよ。

 麗奈はともかく、弁護士なんかあたしの頭じゃ無理無理」


 ママはあれから退院した後、自宅で自分の事務所を開業し、以前にも増してバリバリ働くようになった。


 何せまだ20年以上残っている家のローンを、パパと二人で払って行かなきゃならないのだ。


 今は以前のように仕事がないから、国選の仕事や法テラスから回された債務整理の仕事ばかりやってるけど、ママが前向きに立ち直ってくれて良かったと思う。


「ふーん。

 あれからお母さんとは上手く行ってるの?」


「まあ………その辺は割と普通かな………。

 何もしこりがないわけじゃないけど」


「そっか。

 まあそれでも環ちゃんは強いと思うよ、自分を置いていったお母さんを許してあげてさ」


 ………ママがあたしにした事は、麗奈にも角田さんにも話していなかった。


「強くなんかないよ………。

 むしろ、弱いからママを許したの。

 どんな事をされても………あたしにはママを嫌いになる事なんか出来ないもん。

 子供の頃から、ママはあたしの憧れの人だから………」


 あの日病院で、ママの弱い姿を見て、改めてそう思ったんだ。


 ママにも自分と同じように弱いところがあって、強くある為に、その弱さを隠して生きてた。


 無くした記憶はいっぺんに戻る事はなく、過去の夢を見たり、ふとした拍子に思い出したりする。


 ママが退院して一ヶ月ぐらい経ってから思い出した事だけど、ママは例のいじめで自殺した子の件で、なかなか学校側にいじめがあった事実を認めさせる事が出来ず、行き詰まっていた時期があった。


 その辛さをパパにではなく、いつも側で見ていた矢代さんに支えてもらっていたのかもしれない。


 ママはパパにもあまり弱いところを見せたりしなかったから………。


 だけど今では、ママはパパにもあたしにも弱いところを見せてくれている。


 もう一度家族の信頼関係を取り戻そうとしてくれている………。


 強くある為に、弱さを隠す必要なんてなかったんだ。


 弱さがあるからこそ、人は強くなる事が出来る。


 ママはその事をあたしに教えてくれた………。


「だけど環も、将来やりたい仕事が見付かったんだよねー」と、麗奈。


「へぇ、何の仕事?」


 あたしは言った。


「精神科の看護師になろうと思って。

 来年から、看護学校に通う事にしたんだ」


「へー、看護師か。

 入院したりして、色々影響を受けたって事かな」


「うん。

 自分が病気になって初めて知った事も多かったし、先生や看護師さんに助けてもらったから、あたしも心の病気で苦しんでる人達の力になれる仕事がしたいなと思って」


「なるほどね。

 今の時代はどんどん増えてきてるみたいだからなぁ………。

 頑張っていい看護師さんになってよ。

 俺もいつか心が折れたら、環ちゃんのところに行こうかねぇ。

 理解しがたい動機で事件を起こす人間が増えて、だいぶ心が疲れてきたよ」


 そう言って胸を支える角田さんを見て、麗奈が「そういうキャラじゃないじゃん」とツっこむ。


「いやいや、冗談で言ってるわけじゃないよ?

 この前もニュースでやってたじゃない。

 SNSでクラスメイトをいじめて自殺に追い込んだ事件が。

 あれもcommuだったかな」


「ああ………確か中学生の?」


「そう、中学一年生の女の子な。

 18歳未満の利用者に規制をかけても、親の名義で携帯を持ってりゃ意味がないし、フィルタリングしても悪用する奴が出てくる、未成年に限らずな。

 そういう事が解決しないまま、どんどん新しいサービスが生まれて、また新しい落とし穴が出来て、犠牲者が出て初めてその穴に気付く。

 永遠のいたちごっこに思えてならないんだよな………。

 いくらサービスに規制をかけても、抜本的な事は何も解決しないんじゃないかって思うしさ」


「………」


「傷付けられた人間が泣いてる姿から、遺体になって変わり果てた姿まで目にする仕事だから、たまにやってられなくなる時があるよ。

 動機が不純過ぎたり、理解出来ないものだと余計にさ」


 角田さんは疲れた顔をしてため息を吐く。


 ちょうど霞ヶ関の地下鉄の入口まで歩いて来て、角田さんは立ち止まって「じゃぁ、ここでな」と言ってくる。


 それじゃあと返そうとしたところで、背後から「相澤さん」と声をかけられた。


 振り返ると、スーツ姿のおじさんがハンカチで顔の汗を拭いながら近付いて来る。


 若葉の母親の弁護を担当していた弁護士さんだった。


 あたしはペコッと頭を下げる。


「この度はどうもお疲れ様でした。

 検察側の求刑通りの判決でしたが、こちらとしては控訴しないつもりです。

 前々から依頼人がそう申しておりましたから。

 どんな判決が出ても、そのまま受け入れるつもりだと」


 角田さんが尋ねる。


「それはー………投げやりになって言ってる事なんでしょうか」


 弁護士さんはハンカチを持つ手を顔の前で振った。


「いえいえ、裁判を受けていく中で、彼女なりに気持ちの整理が付いたようです。

 亡くなった若葉さんの為に何が出来るか考え直してみて、まずは刑に服して責任を全うすると言ってました。

 それに今年の年末には、若葉さんを襲った犯人達が刑務所から出て来ますし」


 麗奈が「もう出て来ちゃうんだ………」と言って顔を曇らせる。


「たいした反省もしないで、被害者への賠償金を踏み倒す若者が多いですからね。

 相手が責任を果たすまで、自分もしっかり生きると。

 矛先を変えたと言えば聞こえは悪いですが、向けるべきところに気持ちを向けたようです。

 もう復讐なんて、考えてないと思いますよ」


角田さんはズボンのポケットに手を入れて頷く。


「そうですか、それなら良かった」


「それで実は、依頼人から預かっているものがありまして」


 弁護士さんはハンカチを脇に挟み、鞄の中から白い封筒を取り出し、あたしに差し出してくる。


「裁判が終わったら、あなたにこれを渡して欲しいと」


 封筒を受け取り、一枚だけ入っていた便箋を取り出して開くと、そこには都内にある霊園の住所が書かれてあった。


「若葉さんのお墓がある場所です。

 以前、相澤さんから頼まれたと」


「覚えてくれてたんだ………」


 あたしは便箋に書かれたおばさんの綺麗な文字を眺めた。


「依頼人からの伝言をそのままお伝えします。

 あなた方にした事は反省していますが、若葉さんの事は、やはり許す事が出来ない、と」


「………」


「けれど、もしかしたら若葉さんは、あなた方に会いたがっているかもしれないと申してました」


「え………」


「もしもまだ若葉さんを友達だと思ってくれているのなら、時々会いに行ってやって欲しいと。

 自分はしばらく会いに行ってやれないからと、言ってました」


 それを聞いて胸が熱くなる。


 若葉にした事は許してくれなくても、若葉に会いに行く事だけは許してくれたんだ………。


 角田さんと別れた後、あたしと麗奈は若葉が眠る霊園へと向かい、お墓の前で手を合わせて目を閉じた。


 頭の中で、若葉と遊んだ日の事を思い出す。


 学校の近くのコンビニで、わざわざ待ち合わせをして一緒に帰っていた時の事。


 公園でテニスをして遊んだ時の事。


 自分達にしかわからないギャグを言って笑い合っていた時の事。


 そうやって楽しく過ごした時間は少なくて、お互い嫌に思っていた時間の方が多かったのかもしれない。


 だけど、今あたしの頭に浮かぶ若葉の姿は、笑っている時の顔だった。


〈………じゃあさ、今度学校が終わったら、一緒に遊ぼうよ〉


〈今度の草むしり当番の時も出る?〉


〈良かったー、実は仲間が欲しかったんだよね。

 ほら、周りはおばちゃんばっかりだから居心地悪くてさ〉


 そう言ってヒヒッと笑っていた若葉を思い出すと、鼻の奥が痛くなって涙が込み上げてきた。


(若葉……ごめんね………。

 勝手にID教えたりして、ごめんね………)


 目を閉じたまま鼻を啜ると、麗奈が背中をさすってきてくれた。


 目を開けて麗奈を見ると、麗奈も少し目を赤くしている。


「………前にさ、環から聞いた志水先生の話。

 あれ、ちょっとわかるかも」


「何の話?」


 あたしはバックからハンカチを取り出して鼻を押さえた。


「ほら、人は自分の記憶の中で絆の糸を紡ぐんじゃないかって話。

 だけどそれは、必ず相手と結びつくわけじゃないって。

 片思いに終わる事もあるってやつ」


「ああ………」


「若葉はさ………あたしに片思いしてたのかもしれないけど、あたしはあたしで、環に片思いしてた時期があったんだよね」


「ええ? 何それ」


 思わず吹いてしまう。


「若葉にしか悩みを打ち明けようとしてくれなかった事もそうだけど、小6の時?

 環が若葉と影で遊んでたのを知って、実はちょっと焼きもち妬いてたんだよ。

 どうしてあたしじゃなくて、若葉と遊ぶのー?って、あたしの方が環と仲良くなったつもりでいたからさ」


「そうなの?」


 麗奈はお墓に添えた花を整えながら「そうだよ」と口を尖らせる。


「だってどう考えたって、若葉よりあたしと学校で話してる時間の方が長かったじゃん。

 あたしのグループには入って来てくれなかったけどさー」


「まあ………。

 だけどそれを言ったら、あたしも麗奈に負けて悔しいと思ってたとこあったよ?」


「は? 何それ」


「ほら、若葉がさ、あたしより麗奈と仲良くしたがってたから。

 せっかく味方になってやろうとしてるのに、どうしてそんなに麗奈がいいわけ?って。

 自分は下に見られてるとか、そういうの誰にも言わなかったけど、ブログにはよく書いてたよ」


「じゃあ何?

 あたし達三角関係だったって事?」


「みたいだね」


「でも、今は両思いだよね?」


「みたいだね」


 あたしと麗奈は肩をぶつけ合いながら笑った。


「こんな事言ってたら、またあたしが若葉に恨まれちゃうじゃん」


「そうかもねー。

 ………でも、どうしてあの頃はそうやって、敵味方みたいな関係しか築けなかったのかなー。

 あたしが派閥を作った張本人なんだよね………」


 麗奈は申し訳なさそうにお墓を見上げる。


「麗奈だけが悪いんじゃないよ。

 きっとみんな不安で、形みたいなものが欲しかったんだよ。

 友情なんて、目に見えるものじゃないしさ」


 あたしもお墓を見上げながら言った。


「あたしの場合はそういうの、ネットの中に作ろうとしてた。

 現実のしがらみがなくて、どんな自分でも見せられる気楽な空間みたいなの。

 だからあたしにはネットが必要だった。

 顔なんか見れなくてもいいから、誰かと繋がれる道具が必要で、いつの間にかその道具の方が大事になってた………」


「ネットかぁ。

 でも、ネットは今の時代必要不可欠だよね。

 ブログとかだってやってて楽しいし、相手の顔が見えないからこそ、話せる事もあるし」


「うん。

 だけどそれより大事なものが何かわかったから、もう道具にすがったり、ネットの中に逃げ込んだりしないと思う」


「大事なもの?」


「うん、本当の友達」


 あたしは麗奈を見る。


「連絡手段が無くなってたのに、麗奈はあたしに会いに来てくれたじゃん?」


「環………」


 照れ臭そうに笑い、麗奈は「ちょっと感動しちゃったじゃん」と言って、目尻に指を当てて鼻を啜る。


「これからも友達でいてね、麗奈」


「当然でしょ。

 東京オリンピック、絶対一緒に見に行こうね」


「もちろん」


「あと、ここにもさ、若葉のところにも一緒に来ようね。

 これからも来る気なんでしょう?


「うん、そうするつもり」


(良かったね若葉、麗奈も会いに来てくれるってさ………)


 今更いい友達ぶったりなんかしない。


 あたしはいつも、若葉に自分がした事と対等なものを求めて、期待を裏切られる度に恨んできた。


 若葉が自殺を図る程苦しんでいた事も知らないで………。


 この先も少しずつ記憶が戻る度に、若葉に対してひどい事を考えていた自分を思い出して行くのかもしれない。


 いずれ犯人達とのやり取りをもっと鮮明に思い出す時が来たら、また過去から目を逸らしたくなってしまうかもしれない。


 だけど………逃げないで、ここに来る事をやめたりはしない。


 それが唯一出来る償いで、前を向いて生きて行く為に、必要な事だと思うから。


(これからもずっと、若葉の事、忘れないからね………)











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