第9話 ブログ






 毎日あたしの心の中には、曇り空が広がっていた。


 いつ雨が降り出すのかわからないような、ぼんやりとした心配と不安………。


 だからあたしは、常に友達の顔色を窺ってた。


 学校にいる時間だけが、父親から解放される大事な時間だったから………。






 2007年4月────


 中学の入学式当日。


 お母さんは朝からバタバタと身支度していた。


「若葉ー、もう支度が済んでるなら、お米研いでおいてくれる?」


 今月買ってもらったばかりの携帯から顔を上げ、ため息を吐いた。


 自分の部屋を出て居間に向かうと、お母さんが今日着ていくスーツにアイロンをかけていた。


 うちでは滅多にクリーニングを利用しない。


 丸めたタオルをジャケットの袖の中に突っ込んで、お母さんは器用にアイロンをかけている。


 シンクの前に立って、新しい制服のブラウスの袖をまくり、米を研いだ。


 すると寝室の方からお父さんが欠伸をしながらやって来て、あたしの制服姿を見て言った。


「………あれ、今日から中学校か」


 振り返らず、米を研ぎながら「今日が入学式」と返す。


「ああ、そうだっけか………。

 友達たくさん出来るといいな」


 冷蔵庫の中から牛乳を取り出し、そのままパックに口を付けようとするのが視界に入って、あたしは「ちょっと!」と声を上げ、牛乳を奪う。


 その際、手についた水滴がお父さんの顔に飛んだ。


「あっ、何すんだよ………」


 お父さんは無精髭を生やした顔をトレーナーの肩のところで拭う。


「ちゃんとグラスに注いでっていつも言ってるでしょ。

 汚ないじゃん」


 水切りかごの中からグラスを取って牛乳を注ぐ。


「わざわざ洗い物を増やす事ないのに………」


 お父さんはグラスを受け取ってゴクッゴクッと牛乳を飲む。


 口の横から牛乳が垂れて、トレーナーの襟元が汚れても特に反応しない。


「………はい、ごちそうさん」


 スローな動きでグラスをシンクの中に置いて、口をトレーナーの袖で拭きながら台所を出て行く。


 お父さんはなんでも洋服で拭こうとする。


 トイレで手を洗った時も、壁にタオルをかけてあるのに洋服で手を拭く。


 しかもその洋服を、一週間は着替えない………。


 あたしは先にグラスを洗って片付けてから、米を研いだ。


 お母さんはスーツに着替えて化粧を済ませた後、一人でテレビを見ながら朝食を食べているお父さんに言った。


「お父さん、それ食べたら食器を水に付けるぐらいの事はしておいてよね。

 入学式が終わったらそのままパートに行って、帰りは遅くなるから」


「ああ、わかった」


 ゆっくり口の中を動かしながら返事をし、お父さんはテレビから目を離さない。


「そろそろ行くわよ若葉、忘れ物はないわね」


 頷いて、カバンを持って玄関へ向かう途中、立ち止まってお父さんを見た。


 玄関からお母さんが「行って来まーす」と声を上げると、お父さんは背中を向けたまま、「おう」と返す。


「お父さん………行って来ます…………」


「おう」


 入学おめでとうの言葉一つもらえないまま、あたしは家を出た。


 団地を出たところで、前方に環の姿を見付けた。


 環はお父さんと話しながら並んで歩いている。


「あ、おはようございますー」


 お母さんが声をかけると、環と環の父親が振り返る。


 環の父親は「ああ、どうも」と感じの良い笑顔で会釈を返してくる。


 環はあたしと目が合うと、小さく顎を引き、あたしも同じように返した。


 二人が立ち止まったので、お母さんとあたしは歩調を早めて近付いた。


「いよいよ今日から中学生ですねー。

 入学式にはお父さんが出席されるんですか?」


「ええ、女房は朝から裁判が入ってるんで」


 環の父親は後ろ頭を撫でながら、ちょっと恥ずかしそうに言った。


「弁護士さんって本当に大変なんですね。

 環ちゃん、中学に上がってもうちの子と仲良くしてあげてね」


 環は気の進まない顔付きでこくんと頷く。


 昔から環は思っている事がすぐ顔に出る。


 去年、公園でテニスをして遊んで以降、環とはあまり話していなかった………。


 環は小学5年生の時、うちの団地に引っ越してきた。


 お母さんが弁護士をやっているというだけで、環の家族は団地内で少し浮いた存在だった。


 その上、環のお母さんはほとんど団地内の行事に参加する事はなく、近所のおばさん達から ”協調性がない” と反感を買い、厳しい目で見られていた。


 だけどあたしは、環の事が羨ましいと思っていた。


 お母さんが弁護士なんてカッコいいと思うし、お父さんも有名住宅メーカーに勤めるサラリーマンで、中の上ぐらいの裕福な家庭だ。


 そういう両親に恵まれているところもそうだけど、環自身も魅力的な女の子だった。


 顔は男っぽい雰囲気もあるけど可愛いし、服のセンスもお洒落だ。


 そんなオーラに惹かれ、あたしは団地内の草むしり当番の時に初めて環に話しかけた。


 同じクラスだったけど、学校では周りの目が気になって、なかなか話しかけられなかったのだ。


 今度一緒に遊ぼうと誘ってみると、環は「いいけど」と言ってOKしてくれて、ぶっきらぼうな感じのする子だったけど、あたしは環と友達になれた事が嬉しかった。


 ………けれどその翌朝。


 学校の下駄箱のところで上履きに履き替えていると、いつも一緒にいるグループの女の子から、


〈今日から相澤さんの事は無視ね〉


 と言われた。


〈え……なんで?〉


〈だって、なんか相澤さん、超感じ悪いじゃん。

 こっちから色々話しかけてやったのに全然愛想がないし、ちょっと気取ってない?〉


〈そうかな………〉


〈それに昨日麗奈からメールが来たんだよ。

 若葉は携帯まだ持ってないでしょ。

 だから今日学校で会ったら伝えてくれってさ。

 ちゃんと伝えたからね〉


 そう言って、その子は一緒に登校してきた友達と行ってしまう。


 気が重たくなって、あたしはノロノロと階段を上った。


 そして教室の前で環に会い、環の方から「おはよう」と声をかけてくれたけど、あたしは環の顔を見る事が出来ず、素っ気なく挨拶を返して教室に入り、麗ちゃん達のグループのところへ向かった。


 ………昔から、同じ団地内で仲良しの友達が出来たらいいなと思っていた。


 環がそうなってくれたらいいなと、ついさっきまでは思ってたけど………麗ちゃん達グループに睨まれて、外されるわけには行かない。


 麗ちゃんは可愛くて頭も良くて、いつも周りには沢山の友達がいた。


 小三の時から同じクラスで、お姫様的な麗ちゃんのオーラに憧れながらも近寄りがたさを感じてなかなか話しかける事が出来なかったけど、ある日、トイレで麗ちゃんの方から話しかけてくれた事があった。


〈ねえ、藍川さんってさ、まつ毛長いね〉


 手洗い場で顔を覗き込まれてドキッとした。


〈えっ、そんな事ないよ………。

 久住さんの方が、ずっと長くてパッチリしてるし………〉


〈ううん、藍川さんも結構パッチリしてるよー〉


〈そうかな………〉


 女子同士なのに、麗ちゃんと話すと緊張してしまう。


 あたしみたいに麗ちゃんに憧れている女子は多かった。


 だって麗ちゃんは本当にお姫様みたいだったから。


 そして麗ちゃんに話しかけられて以降、あたしは面白い事をして麗ちゃんの気を引き、グループの仲間にしてもらえた。


 麗ちゃんのグループの女の子はみんな可愛くて、いつでもクラスの中心となっていて、その中に入れた事で、自分のクラスでの身分が上がったような気がして嬉しかった。


 学校の中でぐらい、そういうグループの中で楽しく過ごしたかった。


 ………だから、あたしの中では昨日初めて話した環よりも、麗ちゃんの方が優先順位は上だった。


 麗ちゃんは可愛いけど、すごく気が強くて意地悪なところがある。


 グループの調和を乱したり、仲間を裏切ったりすると、すぐに周りを巻き込んでシカトしたりする。


 それが怖くて逆らえずにいたけど、純粋に麗ちゃんから嫌われるのが嫌だったし、自分の立場を失うのも絶対に嫌だった。


 そして………その日を境に、麗ちゃん達は環への嫌がらせを始めた。


 環も麗ちゃんに負けじと気が強く、負けず嫌いな性格のようで、弱いところを絶対に見せない態度が余計に麗ちゃん達の反感を買う事になった。


 素っ気なく挨拶を返して以降、環はあたしに話しかけてくる事はなくなり、あたしは麗ちゃん達と一緒になって無視している事に、ずっと罪悪感を感じていた。


 せっかく仲良くなれそうだったチャンスを逃してしまったようで、寂しくもあり………。


 せめて団地にいる時だけでも仲良くなれないかと思い、あたしは麗ちゃんの目が届かないところで環と接触を図り、少しずつ仲良くなる事が出来た。


 環は最初、あたしに対して怒ってたけど、そのうちこっちの都合に合わせてくれるようになった。


 麗ちゃんの事で愚痴を言うと、嫌なら離れればいいのにと環は言う。


 環は負けず嫌いな性格の上に、正義感があって真面目な性格の女の子で、麗ちゃん達と一緒になっていじめをする子達を軽蔑しているようだったけど、それでもあたしは、環の意見に頷く事は出来なかった。


 このまま麗ちゃん達とも環とも衝突する事なく、上手く付き合っていきたかった。


 ところがある日。


 環が給食のシチューの鍋をひっくり返してしまい、麗ちゃんの足を火傷させてしまうという事件が起きた。


 麗ちゃんは怒りまくって、その日の放課後、環を体育館に連れて行き、バスケットボールを全員でぶつけるという制裁を加える。


 そして、あたしも一緒に仕返ししてくれと麗ちゃんから頼まれた。


 環はあたしと目が合うと、小さい声で「やめてよ」と呟いてくる。


 環はその時初めてあたしに弱い顔を見せた。


 その事に胸を痛めながらも、麗ちゃんに逆らう事が出来ず、目をつぶって環にボールを投げ付け、それは環の目に当たり、環は目を押さえてその場に崩れ落ちる。


 酷い事をしてしまった事に膝が震え、ごめんという言葉が喉まで出かかった時、環は立ち上がり、周りにいた女の子を体当たりで突き飛ばし、あたしをめがけてバスケットボールを思い切り投げつけてきた。


 ボールは急所の鼻にぶつかり、鼻血が流れる。


(………なんで?)


 他の子にはやり返さなかったのに、あたしにだけやり返してきた事にショックを受けた。


 それを見て怒った麗ちゃんが、仕返しに環にボールを投げ付ける。


 両手が自由になった環はそれを上手くキャッチして、麗ちゃんが火傷したところを目がけてボールをぶつけ、隙をついて体育館を飛び出して行った………。


 その日の出来事は問題となった。


 というより、環のお母さんが問題に上げたのだ。


 報告を受けた担任の先生は自習時間を作り、麗ちゃん達を職員室に呼び出した。


 だけどその際、あたしだけが呼び出しを受けなかった。


 きっと環のお母さんが話したのだろう。


 麗ちゃんが怖くて逆らえなかったという事を………。


 麗ちゃん達が教室に戻って来るまで、あたしはずっと怯えていた。


 あたしだけ呼び出されなかった事について、絶対麗ちゃんは怒っているはず………。


 自習のプリントの問題が頭に入らず、その事ばかり考えていると、やがて麗ちゃん達がしょんぼりした顔で教室に戻って来て、まっすぐ環の席に向かい、全員で環に謝っている。


 怖くてそちらに顔を向ける事が出来ず、自分の席で硬直していると、グループの女子が席に戻る途中、あたしの席の隣を通りかかり、小さな声で、


〈裏切り者〉


 と、冷たく吐いて通り過ぎて行った。


 ………その日から、あたしは麗ちゃん達グループ全員から無視される事になった。


 無視される以外、嫌がらせを受ける事はなかったけど、喪失感でいっぱいだった。


 麗ちゃん達グループから外された事で、クラス内での絶対的地位を失ったような気がして………。


 無視されているあたしを見て、環は気にしない方がいいというような事を言ってきたけど、それが妙に癇に障った。


(誰のせいでこんな事に………)


 環と友達になった事を心底後悔し、麗ちゃんを裏切ってしまった自分を悔やんだ。


 環に関わらなければ、こんな事にはならなかった。


 もうこれ以上麗ちゃんに嫌われたくなくて、環に近付いて来ないでくれと言うと、環はあたしに対して悪びれた態度を見せるどころか、逆ギレして自分の席に戻って行く………。


 あたしはそんな環の神経が信じられなかった。


 確かに、麗ちゃんに対して怖いと思う気持ちだったり、麗ちゃんの命令に従いたくないと思う時もあったけど、あのグループの中にいる事は、あたしにとっては何よりも大切なステータスだった。


 家に居場所を感じられない分、学校での時間を大切にしたかったのに………。


 こんな気持ち、環にはわからない。


 家族に恵まれて、自分に自信があって、普通の小学生でいられる環には………。


 それからしばらくして、環が麗ちゃん達グループと打ち解けて仲良くなったのを見た時は、愕然とした。


 環に自分の居場所を取られてしまったような気がして………。


(どうして………?

 なんで環が麗ちゃんと仲良くなってるの?)


 麗ちゃんみたいな子は嫌いだって言ってたのに、麗ちゃんも麗ちゃんで、環みたいにプライドが高そうで協調性のない子は嫌いだって言ってたのに………。


 しかも麗ちゃんは、今まで仲良くしてきたグループの女子よりも、環を一番気に入っているようだった。


 環は一匹狼気質なところがあって、麗ちゃん達グループと仲良くなってもそこに定着する事はなく、自分の席に近い子と一緒に過ごしていたりして、席替えをする度に仲良くする子が変わる。


 どこにも属せず、環はいつも堂々としている。


 そしてクラスの中心核であったあの麗ちゃんが、自ら環のところへ話しかけに向かうのだ。


 今まで麗ちゃんは自然と自分の所に人が集まってくるので、そんな風に振る舞う事はなかったのに………。


 環にも嫌われ、麗ちゃんにも嫌われてしまった自分の居場所なんて、もうどこにもないような気がした………。






 ────そんな昔の事を思い出しながら、あたしはお母さんの後ろをついて、携帯をいじりながら歩いていた。


 環もお父さんの隣で、黙々と携帯をいじりながら歩いている。


 するとしばらくうちのお母さんと話していた環の父親が、環の頭を小突いた。


「………痛いし」


 環はジロッとお父さんを睨み上げる。


「まったくおまえは………何さっきから携帯ばっかいじってるんだ。

 友達がすぐ後ろにいるのに」


 環はあたしを一瞥する。


「若葉だって携帯いじってるし」


「その "○○してるし" って言い方やめなさい。

 まったく………。

 近頃は反抗期で困りますよ」


 環の父親は苦笑しながお母さんに言う。


「うちも同じようなものですよ。

 今月携帯を買ってあげてからはずっといじってたりして、呼んでもすぐに返事しないし。

 最近の子は友達より携帯の方が好きなんですかねー」


「その携帯で話している相手は友達のはずなんですけどね。

 おかしな時代ですよ」


 別に携帯で目の前にいる子と話しているわけじゃない。


「ほら、環、学校着くまで携帯はしまっとけ。

 若葉ちゃんと話ぐらいしろ。

 確か同じクラスなんじゃなかったか?」


 環はムスッとして、しぶしぶ鞄の中に携帯をしまい、あたしもお母さんから言われて携帯を閉じた。


 環はあたしの隣に並んで歩き、不愛想な表情をしたまま話しかけてくる。


「携帯、買ってもらったんだね」


「あ、うん………」


「見せてよ」


 携帯をしまっても、結局は携帯の話題になる。


 環はあたしの携帯を見て「ソフトバンクにしたんだ」と言い、自分の携帯を取り出して言った。


「赤外線で番号交換しようよ」


「え、いいの?」


「何が?」


「いや………去年の事、まだ怒ってるかなと思ってたから………」


「ああ………もういいよ別に。

 同じ団地に住んでるんだし、番号ぐらいフツーに交換するでしょ」


「あ………でも、あたし赤外線のやり方まだわかんない」


 環はあたしを見て「だっさ」と悪態を吐く。


 それは環の照れ隠しでもあった。


 赤外線で番号を交換した後、あたしは環に部活は何にするのかを尋ねた。


「テニス部」


「やっぱりテニス部なんだ。

 実はあたしもテニス部に入りたいんだけど………いい?」


「なんであたしに聞くの?」


「え、いや、なんとなく………」


「………別に、入りたいやつに入ればいいんじゃない?」


「そう、だよね………。

 ………テニスのスコート、早く履きたいね。

 入ったらすぐに履かせてくれるのかな」


「さあ。

 なんか聞いた話によると、しばらくは体操服らしいよ?」


「えーっ、そうなの?

 つまんなー………。

 スコート履かないと、テニスやってる気分しないじゃんねぇ」


 環はようやく「ハハッ」と笑った。


「若葉ってさ、形から入りたがるよね」


「だって、そこ大事じゃん。

 環もスコート履きたいでしょ?」


「まあね」


「ラケットはおじさんのを借りるの?」


「最初はそのつもり。

 去年貸したヨネックスのケット、実はあれ、結構高いやつなんだってさ」


「へー、そうなんだ。

 いいなぁ………うちのお母さん買ってくれるかな………」


 上目遣いにお母さんの背中を見る。


「買ってくれないの?」


「うちは環んちみたいに金持ちじゃないからね」


「別に金持ちじゃないようちは」


「うちに比べたら金持ちなのっ。

 洋服とかさー、いつもお洒落で高そうなの買ってもらえてるじゃん」


 環は「そうかな」と言って首を捻る。


「携帯も小学校の時から持ってたし、自分の部屋にパソコンだってあるんでしょ?」


「まあ………。

 うちのパパとママはいつも仕事で忙くしてるから、家の手伝いもしてるし、その分そういうところだけは甘くしてくれてるんだよ」


「あたしだって家の手伝いやってるけど、そんなの買ってもらえないよ。

 それにうちのお母さん、ケチだし」


 お母さんに聞こえないように小さな声で言った。


「じゃあ、お父さんに頼んでみれば?」


「ああ………まあ……うちはお母さんが財布を握ってるから………。

 あっ、そういえば先週の『エンタの神様』見た?

 小島よしおの “そんなの関係ねぇ”」


 そう言って、お父さんの話題にならないように話を逸らした。


 お父さんの事は誰にも話したくないし、誰にも話せなかった。






 自分のクラスに入って席を探すと、今回もあたしと環は出席番号が前後だったので、席も前後になった。


 他の小学校から来た子達を見ながら、あたしは環に「ちょっと緊張するね」と言った。


「まあ。

 けど、若葉はすぐに馴染むんじゃん?

 社交的だし」


「えー、そうかなぁ」


 と返しつつ、環よりは先に馴染むだろうなと思っていた。


 環は人見知りなので、周りと打ち解けるまでに時間がかかるタイプなのだ。


 それに小学校の時は色々あって失敗しちゃったけど、中学校ではその失敗を繰り返したくないと思っている。


「あ、ねぇねぇ、あの後ろから二番目の子、可愛いくない?

 なんか明るそうだし性格良さそう。

 あ、あの子も可愛い。

 しかも足ほっそいねぇ~、羨ましいー」


 そんな事を言っていると、環が机に肘をついてジーッとあたしの顔を見つめてくる。


「え、何?」


「………。

 ううん、別に」


 環は肩をすくめ、机の上に置いてあった入学のしおりをパラパラとめくって眺める。


 ………なんとなく、環が今何を考えているのかがわかった。


〈若葉はさ、友達の事なんてどうでもいいんだね〉


 去年喧嘩した時、環はあたしにそう言った。


〈麗奈達のグループに居たかったのも、あたしに近付いて来ないでって言ったのも、全部自分の為だったんでしょ?

 嫌われたりいじめられたりしないように〉


 あたしはそれに対して、結局は環だって麗ちゃんと仲良くなったじゃんと返した。


〈は? 何言ってんの?

 麗奈と仲良くなったのは仲直り出来たからじゃん。

 他のみんなもそうだよ。

 麗奈を利用して自分を守ろうとしたあんたと一緒にしないでよ!〉


 環はそう言った後、


〈卑怯者っ〉


 と吐き捨てて、あたしの前から去って行った。


 ………環の言う通り、あたしは自分の身を守る事を優先的に考えている人間だ。


 でも、それのどこがいけないの?


 誰だって自分が可愛いはずだし、自分の立場を守りたいと思うのは当然だ。


 みんながみんな環のように強いわけじゃない。


 環は友達関係について、いつも綺麗事ばかりを言う。


 そんなんじゃ学校で上手く渡り歩いて行く事は出来ない。


 笑いのツボが合ったり、一緒に遊んでいる時はすごく楽しいけど、そこだけは昔から価値観が合わないところだった。


 見せかけの友情でいい。


 うわべだけの付き合いでもいい。


 学校で出来るだけ衝突を避けて過ごす事が出来ればそれでいい。


 麗ちゃん達のグループのようなところにはもう入れないかもしれないけど、それでも学校で過ごす時間だけは楽しく過ごしたいという思いは、依然変わらなかった。






 家に帰ると、お父さんが朝と同じ場所に居座ってテレビを見ていた。


 今に始まった事じゃない。


 お父さんは昔からこうだった。


「ただいま」


「おう、おかえり、早かったな」


 鞄を自分の部屋に置きに向かい、キッチンに行って昨夜のカレーを温め直した。


「ああ、いい匂いだなぁ………。

 お父さんのは大盛りにしてくれないか?」


 あたしは返事を返さなかった。


 それでもお父さんは聞き返して来る事はない。


 黙っていてもご飯を準備してくれるだろうと思っているからだ。


 朝炊いたご飯をお皿によそい、自分とお父さんのカレーをテーブルの方へ運ぶ。


「おお、ありがとう」


 お父さんはテレビを見ながら礼を言う。


「………あれ? 福神漬けは?」


「そのぐらい自分で持ってくればいいでしょ。

 いただきます」


 先に食べ始めると、お父さんは頭をボリボリと掻き、「よっこいしょ」と言ってキッチンに福神漬けを取りに向かう。


 テーブルの上にお父さんのフケが落ちたのを見て、深いため息がこぼれた。


 うちのお父さんは一週間に一度しか風呂に入らない。


 だから一週間に一度しか着替えないのだ。


「ほら、若葉も福神漬けいらないか?」


 お父さんは福神漬けが入ったタッパーをテーブルの中央に置いて言ってくる。


「いらない」


「なんだ、せっかく持ってきてやったのになぁ………」


 自分の為でしょ………。


 さっさとカレーを食べ終えて、ご馳走様と言って腰を上げる。


 お父さんは家の中の事をほとんど何もやらない。


 それどころか、働いてもいない。


 誰にも言えない事だけど、お父さんは無職だった。


 そして毎日家でゴロゴロしながら、一日中テレビを見ている。


 福神漬けなんか持ってきてくれなくていいから、もっと普通のお父さんであって欲しいと思う………。


 自分の部屋に戻り、部屋着に着替えて塾の宿題に取りかかる。


 しばらくすると、また "いつもの" が始まった。


「………って事だよなぁ。

 だけどタモリさんもいつまでも若いよなぁ。

 クニさんよりずっと年上だろう?

 やっぱり芸能人はいいよなぁ」


 お父さんは『笑っていいとも』を見ながら "クニさん" という人と話をしている。


 家に客が来たわけじゃない。


 お父さんはいつもそうやってテレビを見ながら、ひとり言を言っているのだ。


 つまり頭の中で "クニさん" という人と話している。


 小4の時に初めてそれを聞いた時は、幽霊と話をしているんじゃないかと思って怖くなった。


 だけどお母さんに言うと、


〈頭の中で友達と話してるだけよ〉


 淡々とそう言っていた。


 それでもヘンだと思ったけど、お母さんはいつも、


〈お父さんの事は気にしなくていいから、あんたは自分の部屋で勉強してなさい〉


 と言うのだった。


 気にしないなんて出来るわけない。


 お父さんはよそのお父さんに比べて明らかにヘンだ。


 働きもしない、風呂にもちゃんと入らない、一日中テレビを見て、そうやっておかしなひとり言を口にする。


 しかもそのひとり言は、あたしの部屋までボソボソと聞こえてくる。


 気が散って仕方がなかった………。


 ラジカセでCDを回し、ヘッドホンで音楽を聞きながら勉強を再開する。


 こうするしかなかった。


 うるさいと文句を言ってもやめないし、あまり言い過ぎると、突然大声を出してキレる事がある。


 自分の家にいても落ち着かない………。


 むしろ、自分の家が一番落ち着かない場所だった。


 家にお父さんがいる限り、あたしの心が休まる事はない………。


 途中で疲れて、机に突っ伏してため息を吐いた。


(普通の子と同じような生活がしたい………)


 それは日々思っている事だった。


 だからこそ小学生の頃のあたしは、麗ちゃんのグループに入る事が出来て嬉しかったんだ。


 学校には "スクールカースト" という暗黙の身分制度が存在する。


 麗ちゃんのグループは頭が良くて可愛い子が多かったので、間違いなくクラスの女子の中で一番上の階級だった。


 だから、あたしもその階級の人間になれた気がしたんだ。


 小学生にとって、学校という世界が社会の全てと言っても過言ではない。


 学校の中でどう生きるかというのはとても大切な事で、それは中学生になった今でも変わらない。


 だけど一つ学んだ事は、環境が変わればそれまでの階級は一旦リセットされるという事だ。


 麗ちゃんは私立の中学へと進学する事になり、それまで仲良くしていた子達と別れる事になった。


 そして今日の入学式で、廊下に元グループの子達が集まっているのを見かけたけど、麗ちゃんと一緒にいた時の華やかなオーラは全く感じられず、それぞれクラスも離れてしまい、冴えない顔をして教室へ入って行く姿を見てそう思った。


 リセットされる事は、失敗した人間にとってはチャンスだ。


 これからまた新しい人生が始まる。


(よしっ、元気を出そう)


 気合を入れて身体を起こしたところで、ふと思い出した事があった。


(あ、そーだ、commuの会員登録をしたかったんだ)


 うちにはパソコンがなく、携帯も持っていなかったから、まだcommuを使った事がなかった。


 周りの子はみんなcommuに会員登録して、ブログやチャットやアバター遊びを楽しんでいる。


 携帯をカバンの中から取り出して、commuのサイトにアクセスして会員登録を済ませる。


 ハンドルネームは "双葉" にした。


 ブログの名前を考えるのは面倒だったので、そのまま "双葉のブログ" とする。



[双葉です。

 中学生になった記念に、今日からブログを開始します。

 誰かコメントをくれると嬉しいです。

 よろしくお願いします♪]



 携帯で入力して今日の日記を書く。


 そしてブログのスキンを選ぶ事にした。


 commuのブログスキンは他のSNSサイトよりも豊富だと聞いてたけど、携帯のスキンはそんなに多くなく、しかも無料だと更に少なくて、ちょっとがっかりした。


 100円とか300円出せば可愛いスキンを使う事が出来るけど、お母さんは絶対携帯サイトへの課金を許さない。


 携帯を買ってもらうのだって相当苦労して頼み込んだのだ。


 とりあえず好きな色のスキンを選び、プレビューを見て確認する。


 ちょっとシンプルな感じだけど、悪くはなかった。


 そこそこ満足したところで携帯を閉じ、勉強を再開しようとしたところで、お父さんの大きなおならがヘッドホンをつけていても聞こえてきて、急に現実に戻されたようで興醒めした。


 もう一度携帯を開き、ブログに日記を追加する。


[もっとまともなお父さんが欲しかった。

 今のお父さんなんか嫌い。

 どっかに消えてくれればいいのに………]






 翌日からテニス部に入部した。


 初日は先輩達が練習するところを見るだけで、お喋りは厳禁だったけど、部活が終わった後、あたしは更衣室の中で同じ学年の子に自分から沢山声をかけた。


 その甲斐あって、すぐに色んな子と打ち解けて話す事が出来た。


 一方、環は自ら話しかけたりする事なく練習中も黙々と先輩達から指示された基礎練習に励んでいた。


「ねぇねぇ、藍川さん。

 あの相澤さんって人、藍川さんと同じ小学校の子だよね。

 一緒に走らないの?」


 グラウンドを走りながら、仲良くなった友達が尋ねてくる。


 環は先頭を一人で走っていた。


「ああ………環はマイペースっていうか、一匹狼みたいなところがあるから」


「ふーん、変わってるね」


「うん、まあ………」


 初めからそんな調子だったから、環は日に日に一年生の中で浮いた存在となっていった。


 それでいいのだろうかと少し心配して見ていたけど、ある日を境に、環を取り囲む環境が変わった。


「おい、相澤、ちょっとコートに入って打ってみろ」


 コーチにそう言われて、環は一年生の中で一番最初にコート入りする事になった。


 素振りを真面目にこなし、小学校の時から公園でテニスの遊びをやっていた事もあって、上達が早かったからだ。


 同級生はみんな環に注目する。


 真面目で練習熱心な環は先輩達にも気に入られ、一躍人気者となった。


「相澤さん本当に上手いねー」


「そのラケット格好いいよねー」


「もう先輩達と練習出来るなんて羨ましい。

 あたしも相澤さんみたいに真面目に頑張ってみよっかなー」


 今までグラウンドを一人で回っていた環の周りには、自然と人が集まり、環と一緒に真面目に練習する子が増えた。


 あたしも一応選手を目指していたので、後れを取るまいと、焦ってみんなの後を追う。


 そしてある日の練習帰り、一緒に団地へ帰りながら、環から部活が終わった後も素振りの練習をしている事を聞いた。


「えっ、そんな事してたの?」


「うん。

 どうせパパとママが仕事から帰ってくるのも遅いし、退屈だからやろうかなーって」


「えー、偉ーい環ー。

 どうりでどんどん上手くなってるはずだよねー。

 絶対環は今年の新人戦に出場出来るよー」


「そうかなぁ。

 でも一応、新人戦に出る事をひそかに目標にしてる」


 環はへへっと笑う。


「なんだよー、いいなぁ。

 あたしも自主練頑張ろうかな」


「だったら一緒にやる?

 実は公園で一人でラケット振るのって、寂しかったんだよね」


「やるやる。

 帰ったらお母さんに聞いてみるね」


 家に帰り、お母さんがコンビニのパートから帰って来ると、その事を相談してみた。


「まあ……8時ぐらいまでならいいけど………団地の中から外に出たりしないでよ?

 危ない人が多いんだから」


「うん、わかってる」


「それから部活ばっかり頑張るんじゃなくて、ちゃんと勉強も頑張るのよ?」


「もー………わかってるよ、いちいちうるさいなぁ」


「うるさいじゃないの。

 いったい誰の為に昼夜頑張って働いてると思ってるのよ」


 お母さんはそう言いながら洗濯機の中にコンビニの制服を入れてスイッチを押し、いそいそとキッチンへ向かい、夕飯の支度を始める。


 うちはお父さんが働かないから、お母さんが仕事に出て家計を支えている。


 朝から夕方までスーパーで働き、その後はコンビニで9時まで働く。


 本当に働き詰めの毎日を送っていた。


 全ては日々の生活と、あたしの大学進学の為。


 昔から勉強だけはしっかりやるように口うるさく言われていた。


 あたしが将来困らないようにしたいみたいだけど………正直、何かに付けては勉強勉強と言ってくるお母さんがちょっと鬱陶しくもあり、重たくもあった。


 いったい誰の為にとか、これだけお母さんは毎日頑張ってるのにとか、そんな言葉を聞かされると、だったら頑張るのをやめて欲しいと思ったりする。


 それに、どうしてお母さんはお父さんに対して、もっと働くように言わないのか………。


 お父さんには諦めているというような事を前に言ってた事があったけど、だったらなんで一緒に暮らしているんだろうと思ってしまう。


 ちなみにお父さんとお母さんは、いつからか別々の部屋で寝るようになった。


 一週間に一度しか風呂に入らないお父さんを「汚い」と言って嫌いながらも、もっとマメに風呂に入るように注意する事もない。


 夫婦の愛情とかそういうものは、うちにはないような気がした。






 それから環と一緒に自主練を頑張った甲斐あって、その年の11月、新人戦の大会に出場出来る事になった。


 あたしは実力が近い苺美という子とダブルスを組む。


「藍川さん、よろしくねー」


 苺美は少し不良っぽい雰囲気をかもし出している子で、苦手なタイプだ。


 苺美も口には出さないけど、あたしのように子供っぽいタイプはあまり好きではないようで、ペアを組まされた事に不満を抱いている感じが試合中にわかりやすく現れる。


 あたしがミスをすると、すぐに舌打ちし、声をかけても無視したりする。


 気が弱いあたしは、苺美の機嫌を窺い、試合中もずっと気を遣いっぱなしだった。


 そして団体戦の試合の時、初出場による緊張と苺美からのプレッシャーに耐えきれず、何度もミスを連発してしまった。


 そのせいであたしは一年生全員から総スカンを食らう事になる………。


「誰のせいで負けたと思ってんだよ」


「あーあ、本当にマジでムカつくー」


 などと、聞こえよがしに言われたりした。


 全員にシカトされ、先輩に練習をサボっていたと嘘を吐かれ、更衣室に置いていた荷物を隠され、携帯に匿名のフリーメールが何件も届いた。


 "部活やめろよ下手くそ"


 "死ね、ブス"


 "存在自体がウザい"


 ………今すぐにでも部活をやめたいと思った。


 部活の仲間とは上手くやってきたつもりだけど、テニスの実力で責められるとどうしようもない。


 けれど、そんな孤独な時間は思った程長くは続かなかった。


 環が助けに入ってくれたからだ。


「若葉、今日は一緒に打ち合いやろう」


 自由練習の時間、環はペアを組んでいる子を差し置いてまで、あたしのところに来てくれた。


「あ、うん………」


 そして何食わぬ顔をして、コート外でも一番目立つ場所にあたしを連れて行き、練習を始めるのだ。


 そうする事で、周りに無言の抗議をしているように見えた。


 どうして環はそんなに強くいられるんだろう………。


 環も団体戦でのあたしのミス連発に腹が立っているようだったのに、みんなの反感を買ってまで助けに来てくれるなんて………。


 それだけ環には、自分に自信があるのかもしれない。


 そういうところが羨ましくもあったけど、そうやって助けてもらえた事を素直に喜ぶ事が出来ない自分がいた。


「苺美の機嫌を窺って練習してるからいけないんだよ。

 なんでそんなに気が弱いの?」


 そんな風に思った事をズバズバ言ってくる。


 そういうところがキツく感じるし、もしも今回の事で、標的があたしから環に変わってしまったら、同じように助けなければならないのだろうかというプレッシャーも感じる………。


 そしてその時は一週間後に訪れた。


「環って本当に偉そうでムカつくと思わない?

 もう許してあげるから、若葉も一緒に環の事無視しようよ」


 苺美からそう話を持ちかけられた時、あたしには断わる勇気がなかった………。


 一人一通の迷惑メールのノルマを課され、わざわざフリーメールのIDを作って環の携帯に送った。


 "鬱陶しいから消えろ"


 送った証拠をみんなに見せなければならなかったので、生易しい事は書けなかった。


 案の定環は、苺美達と一緒にシカトするあたしを見て、他の子より怒りをむき出しにしてきつく当たってくる。


「やっぱりあんたってそんな奴だよね………。

 この白状者!」


 そんな言葉を吐き付けてきた。


 ………もう………あたしばっかり責めないでよ。


 どうしてあたしにだけそんな感じなの?


 一番悪いのは苺美じゃん。


 従わなかったら何されるかわからないのに、逆らえるわけないじゃん。


 あたし以外の子だって、その時の状況に応じて常に立ち振る舞いを計算して動いてる。


 環みたいにバカ正直に生きている子の方が珍しかった。


 ところがある日、あたしは苺美から思いがけない話を聞いた。


「環がさー、前に言ってたよ。

 若葉のフォームはなんかダサいって。

 ホント調子ノッてるよねあいつ」


 部活のみんなでマックに寄って話している時に言われたので、恥ずかしくて顔が熱くなり、思わずその場で涙ぐんでしまった。


 苺美は焦って「あー、ごめんごめん」と謝って来たけど、本当に悪いとは思ってないように見えた。


 そういう苺美にもムカついたし、裏でそんな事を言っていた環にはもっと怒りを感じた………。


 普段は正義感ぶっているくせに、環はそうやって人をバカにするところがある。


(許せない………)


 あたしは例のフリーメールを使って、自ら環に嫌がらせのメールを送った。



[死ね、高飛車女!!]



 送信した後、少しだけ胸がスッとした。


 そしてもう一つ別のフリーメールを取得し、苺美にこんなメールを送った。



[いつまでもこのままでいられると思うなよ………。

 おまえみたいなブサイク女、いずれみんなに嫌われる。

 覚悟しておけよ………]




 そして翌日。


 苺美はあたしが送ったメールを、環が送ったのではないかとみんなに話していた。


 それを見て、心の中で引っかかったなと思った。


 苺美は頭も悪いし、単純でバカな性格だ。


 制服を着崩して色気を出したりしてるけど、顔もそんなに可愛くないし、スタイルも微妙なので、影では男子から「あいつ超キモくね?」と陰口を叩かれている。


 そんな事にも気付かず、大人ぶっている苺美が滑稽に見えた。


 その日の夜も、あたしは苺美に嫌がらせのメールを送った。



[キモいんだよ!

 うせろ!

 スカート短くすんな!

 クラスの男子一同より]



 そして翌日、苺美はそのメールの内容に傷付いているようで、少し元気がなかった。


 男子を絡めると効果があるのかもしれないと思い、あたしはその日も苺美にメールを送った。



[ブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブスブス

 クラスの男子一同より]



[短いスカートで学校来んな!

 おまえの足なんか誰も見たくないんだよ!

 ブラウスもはだけるな!

 目が腐るだろ!

 テニス部のスコートも目の害!

 とっとと部活やめろ!

 クラスの男子一同より]



 翌日、苺美がいつもよりスカートを長くして学校に来ているのを見て、可笑しくてトイレの中で笑った。


 携帯ってなんて便利なんだろう。


 こんなに簡単に相手に仕返し出来るなんて。


 これまでは相手の顔色を窺って、怖くて仕返しなんか出来なかったけど、これからはこうやって仕返しすればいいんだ。


 それから数日後。


 いつの間にかみんなは環をハブらなくなっていて、それと入れ替わるように、今度は苺美がハブられる羽目になっていた。


 あたしが送ったメールがだいぶ効いたようで、ちょっと前まで自分もそうやって嫌がらせのメールを送ってたくせに、被害者顔して犯人捜しを始めた苺美を、みんな疎ましくなったらしい。


 そうやって、あたし達の小さな世界は小さな事で政権交代を繰り返して行く。


 けれど、どんなに政権交代しても、ただ一人変わらない人物がいた。


 環だ。


 環も苺美がシカトされ始めた時は自業自得だと漏らしていたけど、練習相手がいなくて一人で壁打ちしている苺美を見て、環はそちらに向かって一緒に壁打ちを始める。


 どうして環にはそんな事が出来るんだろう………。


 苺美にあれだけの事をされて、どうしてそんな風に優しく出来るのか………。


 あたしには全く理解出来なかった。






 2009年12月────


 高校受験前、最後の期末試験を終え、今までになく悪い成績を取ってしまったあたしは、休み時間中、机に突っ伏して落ち込んでいた。


 環がクラスの友達と話している声が聞こえて来る。


「環ー、英語の点数どうだったー?

 あたし超最悪だったんだけどー」


「マジでー?

 あたしはなんかよくわかんないんだけど、今までになく結構良かったんだよねー♪」


 それを聞いて、反射的に身体を起こして環の方を見た。


 環は廊下側の席で女子三人と楽しそうに話をしている。


「えーっ そうなの?

 今回の英語って超難しかったじゃん」


「そうなんだけど、たまたまヤマが当たったっていうかさ。

 だけどそんな大した点数じゃないよ?

 普段がひどいからさー」


「何点だったの?」


「それは教えなーい。

 はいはい、その話はおしまい。

 人の点数なんかどうだっていいじゃん」


 上機嫌の環の様子を見て、環の英語の点数がすごく気になった。


 あたしも周囲と同じように英語の点数を落としてしまったからだ。


(もしかしてあたし、環より悪かったんじゃ………)


 ハッキリ言って、環は勉強が出来る方じゃない。


 60点台とか50点台を平気で取ったりする。


 そんな環に負けてしまっていたらと思うと、不安が一気に胸の中に広がった………。


 家に帰って試験の成績を見せると、お母さんはヒステリックな声を上げた。


「ちょっとー………どうして?

 なんでこんな大事な時期にこんな点数取ってんのよ!」


 お母さんはテーブルを叩いて頭を抱えた。


 テレビを見ていたお父さんは驚いてこちらに振り返り、あたしとお母さんを交互に見た後、何事もなかったかのようにテレビに目を戻し、『ミュージックステーション』を見ながら歌を口ずさむ。


 お母さんはぐしゃっと前髪をかき上げて、苛立ちながらお父さんに言った。


「ちょっと、こんな時ぐらい静かにしてよ!!

 娘の将来がかかってるのよ!?」


 するとお父さんはもう一度振り返り、無視するかと思いきや、ゆっくりとした動作でテレビのリモコンを手に取り、突然それをお母さんに投げ付けた。


 リモコンはこめかみのところに当たり、お母さんは咄嗟に顔を押さえ、あたしは身体を硬直させた。


「うっせぇんだよ!! バカ野郎が………。

 ギャーギャー騒ぐな!!

 テレビが全然聞こえねぇじゃねぇか!

 一週間に一度しかねぇのによ!」


 どうでもいい事に腹を立てるお父さんに耐えきれなくなって、あたしは家を飛び出した。


 今年の春頃から、お父さんのひとり言がどんどんひどくなってきていて、あたしもお母さんも、精神的なストレスがピークのところまで来ていた。


 お父さんの異変はひとり事だけじゃなく、先程のように状況を無視して癇に障る行動を取ったり、突然キレたりする事も多くなった。


 そしてひとり言を喋る時の声が大きくなった事でヘッドフォンでは誤魔化せなくなり、勉強に集中出来ず、成績は受験を前にして下がる一方で、お母さんはお父さんの事よりも、どちらかと言うとその事で精神的にストレスを感じているようだった。


 このままじゃ志望校に合格出来ない………。


 どうして良いのかわからなくなって、最寄り駅近くのバス停に座って泣いていると、どこからか「若葉」と声をかけられた。


 声がする方に振り返ると、環がペットの犬を連れて歩いてくるのが見えた。


 去年の夏に親がマイホームを建てて団地から引っ越した環は、コーギーを飼いだしたのだった。


 名前は "りんご" というらしい。


「環………」


「何、こんなところでどうしたの?

 しかもこんな時間に………門限も過ぎてるじゃん」


 環は腕時計に目をやる。


 あたしは鼻を啜りながら顔を逸らして俯いた。


「………どうした?

 おばさんと喧嘩でもした?」


 こくりと頷くと、環は隣に腰を降ろし、りんごをお座りさせて頭を撫でながら言った。


「良かったら話聞くよ。

 どうした、若葉」


 普段とは違う優しい口調で尋ねられて、もう一度鼻を啜って口を開いた。


「………今から話す事、誰にも言わないって約束してくれる?」


「うん、いいよ」


 周囲にバスを待ってる人が何人かいたので、近くにある公園に向かい、ブランコに並んで腰を降ろし、あたしは環にお父さんの事を打ち明けた。


 だけど環はあまりよくわからない様子で、首を傾げながら話を聞いている。


「なんか………よく理解出来ないところもあるけど………大変だったんだね。

 そんな中で勉強してたなんて………」


 あたしはグスッと鼻を啜って言った。


「環………あたしね、お父さんってただの怠け者なんじゃなくて、精神病なんじゃないかと思うの………」


「えっ、精神病?」


「そう。

 この前勉強しながらラジオ聞いてたら、そいう話題が出て来たの。

 しっかり聞いてたわけじゃなかったから、途中から気付いたんだけど、"統合失調症" っていう病気の事について話してたみたいで、その症状を聞いてたら、もしかしてお父さんはこの病気なんじゃないかって………」


「え………まさかぁ」


 環は信じがたい様子で眉根を寄せる。


「でも、ひとり言で誰かと話してる感じが幻聴によるものなんだったら、なんとなく納得が出来るような気がして………」


「うーん………。

 おばさんには聞いてみたの?」


「ううん、まだ。

 うちのお母さん、お父さんの事を聞いても、あんまり関心持って話を聞いてくれないんだよね。

 "気にするな" とか、"放っておきなさい" とか、いつもおざなりな感じで………」


「そっかー………。

 でもさ、病気かもしれないって聞いたら、さすがに話を聞いてくれるんじゃない?」


「そうかな………」


「そう思うよ?

 だって家族の事じゃん」


 本当に聞いてくれるだろうか。


 普段のお父さんとお母さんの感じを見てると、あまり自信が持てなかった。


「とりあえず、今日はもう帰った方がいいんじゃない?

 おばさんも心配してるよ、きっと」


「うん………。

 ねえ、環、お父さんの事………絶対に誰にも言わないでね。

 ずっとお母さんから口止めされてたの。

 お父さんが働いてない事が周囲に知られたら、恥ずかしいからって………」


「うん、わかってるよ。

 誰にも言ったりしない」


 環は頷いて、きゅっと口角を持ち上げて微笑む。


 その事に安堵しながらも、あたしはふと、あの事を思い出した。


 環に親身になって話を聞いてもらっておいて何なんだけど………どうしても気になったので、英語の試験の点数の事を尋ねてみた。


「………72点」


「………」


 一瞬呆気に取られてしまいつつ、ホッとした。


 なんだ、72点か。


 心配して損しちゃった。


 72点で喜んだりしないでよ………。






 その翌日。


 学校から帰って来ると、お母さんが「おかえり」と言って玄関まで出て来たので、あれっ?と思った。


「お母さんなんでいるの?

 今日はコンビニの日なんじゃ、」


 お母さんは「シッ」と言って人差し指を立て、小声になる。


「お父さんの事はお母さんが何とかしたから、今のうちに勉強に集中しなさい」


「え? なんとかしたって………」


 そういえば、今日はリビングからお父さんのひとり言が聞こえてこない。


 お母さんはさらに声を潜める。


「今日ね、病院に行って睡眠薬をもらってきて、お父さんにさっき飲ませたのよ。

 味噌汁の中に入れて」


「───……!」


 衝撃を受けて、言葉を失った。


 お母さんはリビングの方を気にしながら言う。


「ちゃんと効いてくれるかなーって心配だったんだけど、上手い具合に効いてくれたわ。

 これで夜中まではぐっすりだと思うから、今日は勉強に集中出来るわよ」


 嬉しそうに話すお母さんを見て、口元が震えた。


「………お父さん騙して………睡眠薬を飲ませたって事?」


「え?

 ちょっと、何オーバーな事言ってるのよ」


 お母さんはあたしを見て苦笑する。


「だって、睡眠薬を味噌汁の中に入れるだなんて、下手したらお父さん………」


「大丈夫よ。

 適量を飲んで死んでたら、睡眠薬なんて誰も飲めなくなっちゃうじゃない」


「でも、」


「いいから、あんたは余計な事心配しないで受験勉強に集中しなさい。

 あんたの受験の為なら、お母さんなんだってするんだから。

 これも一つの手段よ」


 ポンと肩に手を置かれ、あたしはその手を振り払った。


「どうかしてる………どうかしてるよお母さん………。

 こんな事するなんて………」


「………若葉?」


「ねぇ、お父さんってさ、病気なんじゃないの?

 精神科の病気………統合失調症っていう」


「───……。

 ちょっと………何言ってるのよ。

 そんな事あるわけないでしょ?」


 お母さんは取り繕ったような笑みを浮かべる。


「ラジオで言ってたんだよ。

 だって普通じゃないよ、あんなひとり言………。

 毎日毎日、誰もいないのに誰かと話してるなんて、どう考えたっておかしいじゃん」


「………やめなさい、若葉」


「ねぇ、今度お父さんを病院に連れて行ってみようよ。

 ちゃんと治療したら、お父さん良くなるかもしれないじゃん」


 するとお母さんは突然強い口調になる。


「やめなさいって言ってるでしょ!」


 あたしは肩を揺らして口を閉ざした。


「精神病なんかじゃないわよ、お父さんは………。

 元々………昔からひとり言が多い人だったのよ」


「………」


「………とにかく、あんたは余計な事考えてないで、受験勉強に専念しなさい。

 受験が終わるまで、あんたが帰って来る前に寝かしておいてあげるから、何も心配しないで頑張るの」


 涙が込み上げてきて、返事を返さずにいると、お母さんがあたしの腕を掴んで顔を覗き込んでくる。


「しっかりして? 若葉。

 お母さんはあんたに苦労をさせたくないのよ。

 ちゃんと大学に行って、生活に困らないような職に就いて、お金の苦労なんかして欲しくないの。

 その為に、お父さんに協力してもらう事は悪い事じゃない。

 ただでさえ働かないで家でゴロゴロしてるだけなんだから」


 協力………。


 お母さんのこめかみに出来た青痣を見つめながら何も返せずにいると、お母さんはあたしの腕を軽く叩いて言った。


「じゃあ、お母さんこれからコンビニのパートに行ってくるから。

 しっかり頑張るのよ、いい?」


 ドアが閉まると、あたしはその場に座り込んだ。


「うっ……うっ……うあぁぁ………あぁ……」


 床に手を付いて、こみ上げてきた涙を流した。


 こんな事までしなきゃ、あたしは受験勉強が出来ないの?


 父親に睡眠薬飲ませてまで………。


 普通じゃない………うちは普通じゃない………。


 こんなの絶対、普通の家族じゃない………。


 心の中にある曇り空から、雨がポツポツと降り出したような気がした。


 いつ降り出すかわからない、とても不安定だった心の空………。


 やがてその雨脚は次第に強くなり、地面を叩きつけ、心が激しい地震を起こしたような気がした。


 今にも崩れ落ちてしまいそうで、怖くなった。


(足元が見えない………)


 あたしはどこに足を着いたらいいの?


 どこに足を着けば安心出来るの?


 わからない………。


 あたしの居場所は、いったいどこにあるの………?






 その日からお母さんはパートから一度家に戻って来て、お父さんに夕飯を作り、睡眠薬が入った味噌汁を飲ませ続けた。


 お父さんはご飯を食べたから眠くなるのだとお母さんに言われ、


「そうか………」


 と、特に何も疑っていないようだった。


 それに今まで夕飯はお母さんが帰って来るまで食べれなかったので、早い時間に食べれる事を、お父さんは喜んでいた。


 ………あたしはそんな二人に対して、何も言う事が出来なかった。


 間違っているとわかっていながら、静かに集中して受験勉強をするにはこの方法しかないのだと、懸命に自分に言い聞かせる。


 けれど毎日、一日一回、罪を重ねているような気がしていた。


 父親に睡眠薬を飲ませて受験勉強をする。


 こんな事、誰かに知れたら、あたしはどんな目で見られるのだろう。


 神様はどんな目であたしを見ているのだろう。


 そう思った時、幼稚園の園内にあった小さな教会の事を思い出した。


 幼稚園はキリスト系のところに通っていたのだ。


 頭の中で『いつくしみ深き』の歌が流れる。


 卒園式でそれを歌ったあの頃、お父さんはまだまともで、お母さんと一緒に卒園式に出席し、保護者席からビデオを回していた。


 少し目を潤ませながら、笑っていた若い頃のお父さん………。


 ………そうだ。


 あたしは小さい頃、お父さんの事が大好きだったんだ。


 お父さんはよく肩車をしてくれて、公園で沢山遊んでくれた。


 穏やかなお父さんの笑顔が、今はもう懐かしく、遠くに行ってしまったような気がした。


 どうしてお父さんは今みたいになってしまったんだろう。


 いつからあたしはお父さんが嫌いになったんだろう。


 いつからあたしの家族は………普通じゃなくなったんだろう………。






 そして年が明け、2010年────


 あたしは第1志望校の受験にも、第2志望校の受験にも失敗した。


 その反動で、お父さんに対して重ねて来た罪が、一気にドンと覆いかぶさってきたような気がした。


(死にたい………)


 家に帰ると、リビングのこたつの中に身体をすっぽり収めた状態で、お父さんがスヤスヤと寝息を立てて眠っていた。


 その寝顔をしばらく眺めた後、自分の部屋に入り、鞄の中からドラッグストアで買ってきた睡眠導入剤をいくつも取り出した。


(これだけ沢山飲めば死ねるかもしれない………)


 コンビニで買ってきたペットボトルのお茶で、10錠ずつに分けて飲み込む。


 眠くなる前に、薬の箱をビニール袋にまとめ、ゴミ箱の中に突っ込んだ。


 着替えるのも面倒で、制服のままベッドに横になり、布団をかけて目を閉じる。


 お父さんごめんね………。


 お母さんがあんな事したのを黙って見てて………。


 二人ともごめんなさい。


 あたし、もう楽になりたいです。


 さようなら………。






「………若葉、若葉。

 ちょっと、何制服のまま寝てるのよ。

 起きなさい」


 顔をぺちぺちと叩かれて、あたしは目を覚ました。


 お母さんは不機嫌そうな顔であたしを見下ろしている。


「お母さん………」


「お母さんじゃないわよ。

 どうして制服のままベッドで寝てるわけ?

 制服がシワになるじゃないの」


「………」


「疲れてるんだから手を焼かせないでよ………。

 アイロン、自分でかけなさいよね」


「………。

 お母さん………あたし………」


 死のうとしてたんだけど、死ねなかったって事?


 お母さんは部屋を出ようとして足を止め、不機嫌そうに「もう、何よっ」と言ってあたしを見た。


「これからの事考えたら頭痛いんだから話しかけないでよ!

 それにお米を研いでおくように頼んでたのに、どうしてやってくれてなかったわけ?

 不合格だったからって、甘えるのはやめなさいっ!」


 ふすまをパシッと閉めて、お母さんは行ってしまう。


 薬を飲み過ぎたせいか、頭がガンガンする………。


 死ねなかった事と、何も気付いてもらえなかった事に泣けてきて………あたしはしばらく布団の中で泣いた………。






 3月、中学の卒業式当日。


 環は友達と楽しそうに教室で話していた。


 そして新しく買ってもらった携帯を見せている。


「いいなぁー、最新機種。

 環はいいよねー、こういうのいっつも買ってもらえてさ」


「これは受験を頑張ったご褒美だよ。

 あたしの成績じゃ、椿女子はちょっと難しかったしね」


 環は肩をすくめ、嬉しそうに携帯を眺めている。


「良かったね、行きたい高校に合格出来て。

 よく頑張りましたー」


 友達に頭を撫でられて、環は「なんだよもう」と口を尖らせて笑う。


 ………頑張った?


 どこが?


 塾にも行かないで、親から自由にさせてもらえていた環が、何を頑張ったっていうの?


 あたしなんか、小学校の頃から塾に通わされてて、勉強を頑張ってもご褒美なんかもらった事ないし、お父さんにあんな事までして受験勉強を頑張ったっていうのに、どうして環なんかと同じ高校に行かなきゃならないの………?


 なんの苦労もしないで、家族にも恵まれていて、普通の生活の中で幸せを掴めている環が、憎くて憎くて仕方がない。


 膝の上で携帯を開き、以前取得したフリーメールにログインをし、震える指でメールの文章を打った。



[死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね

 死ね]



 高校の話題で友達と盛り上がって笑っている環を見て、唾をごくりと飲み、送信ボタンを押した。


 環の携帯の着信音が鳴る。


 あたしは環を見つめ、その表情が曇るのを待った。


 環は携帯を開いてボタンを押し、そして………。


「あーっ、やったぁ!

 映画の試写会のプレミアムチケットの抽選に当たったぁ!」


「えー、うそっ!

 どれどれどれ?」


 環は携帯のメールを友達に見せてガッツポーズを取っている。


 あたしはフリーメールの画面を確認した。


 受信箱には、送信エラーのメールが返って来ていた。



[アドレスが存在していないか、ドメイン拒否されている可能性があります]






 2011年11月────


 新宿にあるスターバックスのテラス席で、あたしはコーヒーを飲みながら、買ったばかりのスマホにcommuのアプリをダウンロードしていた。


 アプリを起動してIDを入力していると、どこからか声をかけられた。


「おーい、若葉ー」


 スマホから顔を上げて辺りを見渡すと、人混みの中に環と麗ちゃんの姿を見付けた。


 二人とも肩に大きな紙袋を掛けている。


 環は軽く手を振りながら近付いて来る。


「日曜にこんなとこで会うなんて偶然じゃん。

 あ、スマホ買ったの?」


 環は目敏くあたしの手元を見て言った。


「うん。

 バイトしてお金貯めてようやくだよ」


「へー、良かったじゃん。

 あ、ねぇ、ここ同席してもいい?

 ちょうどどっかで休みたいねって話してたとこなんだ。

 ね、麗奈」


 麗ちゃんは頷きながら紙袋をあたしの隣の席に置く。


「そうそう。

 あーもうー疲れたー………」


 首を回す麗ちゃんに「何買ってきたの?」と尋ねた。


「今年の冬用のコートとブーツ。

 あー、なんか、疲れたから甘い物飲みたいな-。

 環、なんにする?

 あたし行ってくるよ」


「サンキュー。

 ホットのカフェモカでよろしくー」


 麗ちゃんは「了解」と言って、財布だけ持って店内の方へ向かう。


 環は使ってない椅子を探してこちらに運んで来て、あたしの正面に座って言って来る。


「スマホ、わざわざ新宿まで買いに来たんだ」


「うん、新宿が一番安かったから。

 環もコートとブーツを買ったの?」


「まあね。

 ちょっと大人っぽいヒールのブーツ買っちゃった」


 バックの中からファンデーションのコンパクトを取り出し、鏡で顔をチェックする環。


 高校に上って麗ちゃんと再会した環は、麗ちゃんの影響で化粧をするようになった。


 洋服の趣味も、昔はカジュアルな感じのものを着てたけど、大人っぽいものを好むようになっていた。


 小学生の頃は、あたしと環の精神年齢は同じぐらいだったのに、今は環の方がずっと大人で、麗ちゃんと私服で並んで歩いていると女子大生ぐらいに見える。


 それに二人共お洒落で垢抜けているので、お似合いの友達同士という感じで、二人の間にいると、自分が浮いているような気がした………。


 環はコンパクトを閉じて、遊歩道のイルミネーションを見ながら言った。


「今年はさすがにちょっと控えめな感じかな、イルミネーション」


「ああ、そうかもね。

 今年は節電しないとだしねー」


 今年の3月に起きた東日本大震災の影響で、街のイルミネーションは例年よりも少なめになっている。


 地元駅付近じゃあまり感じないけど、新宿のような繁華街に来ると、それがわかりやすかった。


「アプリとか色々ダウンロードしてみた?」


「ううん、本当にさっき買ったばっかりなんだよ。

 とりあえずcommuのアプリだけダウンロードしてみた」


「そうなんだ。

 中学の時に登録したID使うの?」


「うん、そうしようかなって。

 そしたらアドレス帳に自動でマイコミュのメンバーが表示されるんでしょ?」


「そそ、タイムラインも見れるよ」


「へー。

 じゃあさっそくログインしてみようっと」


 IDとパスワードを入力していると、あたしのたどたどしい手付きを見て、環が「下手くそ」と言ってニヤッと笑う。


 内心はカチンときていたけど、冗談ぽく「うるさいな」と返して笑っておく。


 環はなんでもあたしより上だ。


 携帯もネットも使い慣れてて詳しいし、テニスも上手いし、流行りを取り入れるのも早いし、メイクデビューもそうだ。


 表に出さないようにしているけど、心の中ではそういうところに年々劣等感を感じていた。


 勉強だけはあたしの方が出来るし、今だって負けてないけど、あたしは未だに高校受験に失敗した時のトラウマを引きずっている。


 環と同じ高校に通う羽目になるなんて、夢にも思わなかった………。


 やがて麗ちゃんがコーヒーを持って戻ってくる。


 環は「サンキュー♪」と言ってカップを受け取った。


「いくらだった?」


「ああ、いいよいいよ。

 こないだマック行った時に奢ってくれたじゃん。

 そのお返しー」


「そうだったっけ。

 じゃあ遠慮なく~」


 環は口をすぼめてコーヒーを飲む。


 二人の親しい様子を見て、あたしは言った。


「相変わらず仲いいね………」


 麗ちゃんは「まあね~」と言って、コーヒーカップをテーブルの上に置く。


「ていうかさ、まさかここまで環と仲良くなるとは思わなかったなー。

 最初はあたし達、険悪だったのにね」


「ホント。

 小学校の時の麗奈って、いかにも "いじめっ子大将" って感じだったよねー」


「ちょっと、その呼び方やめてよ。

 なんか "いなかっぺ大将" みたいじゃん」


 麗ちゃんは口を尖らせながら鼻に可愛く皺を寄せて微笑む。


 昔から可愛くてお姫様みたいだったけど、麗ちゃんは年々磨きをかけて綺麗になっているように見える。


 ちなみにあたしは小学生の時に麗ちゃんに嫌われて以降、ずっと口をきいてもらえなかったけど、高校で環と仲良くなってからは、あたしとも再び口をきいてくれるようになった。


(あたしの方が先に麗ちゃんと出会ったんだけどな………)


 麗ちゃんに関しても、環はあたしより上だ。


 麗ちゃんは環の事を親友のように慕っていて、学校の休み時間も、麗ちゃんからわざわざ普通科の教室まで会いに来るぐらいだ。


 麗ちゃんのように何でも揃った女の子に慕われている環が、やっぱり羨ましくなる………。


 だけどもう小中学生の時のように、無理して自分より "上" の位にいる子と肩を並べようとするような、背伸びはしない事にした。


 家庭環境が不安定な分、学校では揺るぎない地位を持ったような子と仲良く過ごしたいなんて考えてたけど、もうそんな他力本願的なまやかしは通用しない年頃になったと思っている。


 17歳にもなれば、ある程度の人間性は固まってきていると思う。


 学力とか、人とのコミュニケーション能力とか、人徳とか、そういうのを覆す事は時既に遅しというか、人間の能力は生まれや生い立ちで最初からある程度決まっているという事に気付けるようになれたというか………。


「………。

 ねー、若葉さぁ、あたし前々から思ってたんだけど」


 いきなり麗ちゃんに話しかけられ、びっくりしてせっかく入力したパスワードを誤って消してしまう。


「え、何?」


「なんか若葉って、小学校の時とだいぶ変わっちゃったよねー」


「え………そうかな。

 ああ、もしかして老けたって事?」


 麗ちゃんは鼻を鳴らし、シラけた顔をして「さぶー」と言って環を見る。


 環も「確かに今のはないわ」と言って笑う。


 腹の中で怒りを抑えた。


「なんかさー、高校に上ってから性格暗くなったような気がする。

 小学校の時はひょうきんっていうかさ、もっと明るかったじゃん。

『エンタの神様』の次の日はさ、波田陽区のモノマネやってくれたりしてさー」


「ちょっと、懐かしいんだけど波田陽区」と、環。


「ああ、そうかな………」


 あたしは苦笑して返す。


「なんか今は見るからに暗ーい感じする。

 この前なんか、教室で純文学とか読んでなかった?」


「あれは論文の参考にする為だよ。

 大学受験に向けて」


 環と麗奈は顔を見合わせ、「ガリ勉だねー」と声を揃える。


 普通に言ってるのかもしれないけど、全部バカにしたように聞こえてしまう。


「もうちょっと笑ってさ、高校生活楽しんだ方が良くない?

 あたし達今が一番楽しい時じゃん」


「あたしにはそういう余裕はないよ………。

 麗ちゃんは余裕そうだね」


「余裕って程でもないけど、まあフツーに女子高生やるぐらいの余裕はあるかな、人並みには」


「昔から頭良かったもんね、麗ちゃんは」


 あたし達が通う椿女子高校の学力レベルは普通ぐらいだけど、麗ちゃんがいる英語科だけは別で、都内でもトップに近いレベルにある。


 大学受験の事について、環には話題を振らないでおこうとすると、麗ちゃんが話題を振った。


「環は? 大学の事は考えてんの?」


「まあ、一応ねー。

 昔はあんまり勉強の事とか言われなかったんだけど、最近は “大学だけは行った方がいい” って言われるようになっちゃって」


「おばさんが?」


「そう。

 まあでも、今さら頑張っても三流大学ぐらいにしか行けないと思うけどね」


 環は苦笑してコーヒーを口にした後、突然何かを見付けて吹きそうになる。


「なに、大丈夫?」と、麗ちゃん。


 環はゲホッと咳込み、「噂をすればママだ」と言った。


 環が見ている方を見ると、環のお母さんが駅側から遊歩道を歩いて来るのが見えた。


 隣には、環のお母さんと同じ年ぐらいのスーツ姿の男の人がいて、二人で何か深刻そうな顔をして話をしている。


 あたし達が座っている席の正面まで近付いて来ると、環が「ママ」と声をかけた。


 環の母親はこちらに気付いて驚いた顔をする。


「びっくりしたー………。

 何してるのこんなとこで。

 あら、麗奈ちゃんに若葉ちゃん」


 あたしと麗ちゃんは「こんにちは」と会釈を返す。


「驚き過ぎだし。

 今日は麗奈と買い物行くって言ったじゃん」


「ああ、そうだったわね、すっかり忘れてた。

 ああ、《矢代》君、この子があたしの一人娘の環ね」


 矢代君と呼ばれた男の人は、環を見て「こんにちは」と感じのいい笑顔を浮かべる。


「こんにちは、ママがいつもお世話になってます」


「生意気言わないの。

 じゃあママ達これから打ち合わせがあるから行くわね。

 帰りは遅くなり過ぎないようにね」


「うん、わかってる」


 環が手を振って見送ると、麗ちゃんが尋ねた。


「ねね、今の人って誰なの?

 なんか結構イケメンなおじさんだったね」


「ママと同じ事務所の人だよ」


「て事は、弁護士って事?」


「ううん、あの人はパラリーガル。

 ママの下について、色々力になってくれてるみたい」


「へー、パラリーガルかぁ。

 なんだ、おばさんの恋人とかだったら面白かったのに」


「ちょっと、人の母親によからぬ疑いをかけないでよね」


 環は軽く麗奈を睨む。


「冗談だよ冗談。

 でもやっぱりカッコいいよねー、環のママって。

 あたしも将来弁護士になっちゃおうっかなー」


「麗奈が?

 なんかキャラ違うんですけど。

 ねぇ?」


 環に相槌を求められ、どうだろうと首を捻って返す。


「でも弁護士ってやっぱり大変みたいだよ?

 今は特に大変な案件を引き受けてんだよね」


「へぇ、どんな案件?」


 環はチラチラと辺りを見ながら、小声で「いじめだって」と言う。


「いじめに遭ってた子が首を吊って自殺しちゃったんだけど、遺書にいじめを受けてた事が書き残されてたのね。

 だけど肝心のいじめっ子の名前が書いてなくてさ。

 だから、学校側に誰がいじめをやってたのか調査させてるんだけど、学校がその事実を否定してるらしいんだよ」


「えー、そうなんだ。

 でもそういうのって結構認めさせるのに時間がかかるって、よくニュースで言ってるよね」


「そうそう。

 ネットの掲示板に悪口を書き込まれたらしいんだけど、そのスレッドがなかなか探せないんだって。

 IPアドレス調べれば一発でわかるのに、そこから苦労してるみたい。

 そういう事、遺書に書き残してくれれば良かったのにさ」


 それを聞いて、あたしは一瞬スマホを操作する指を止めた。


「掲示板か。

 学校の裏サイトとかあーいうやつ?」


「そうそう。

 あたしも小学校の時にさ、前の小学校の友達から悪口かかれた事あったんだよねー………。

 もうそれ以降、下手に見ないようにしてるんだ、腹が立つだけだから」


 ………。


「えー、でもさ、もし個人情報とか晒されてたら怖くない?」


「そうだけど、そんな事いちいち心配して確認してたら止まらなくなっちゃいそうだからさ。

 書かれてあるんじゃないかって不安になって見る子が多いみたいだけど、どんどん病んじゃいそうじゃん?」


「うーん、確かに」


「きついよね………ネットで "晒の刑" にされるなんてさ、ネットリンチっていうの?

 そりゃ思い詰めて自殺したくなるって」


 そう言ってコーヒーを飲んでいる環を見ていると、あたしの視線に気付いて「ん?」と首を傾げる。


「ううん………。

 そういうのって辛いよなぁと思って」


 適当に誤魔化して、あたしは心の中で微笑を浮かべていた。






 家に帰ると、いつもいるはずのリビングに、お父さんの姿が見当たらなかった。


 トイレかなと思いながら自分の部屋に入ると、お父さんがいたので驚いた。


「びっ……くりしたぁ………もう………。

 ちょっと、人の部屋で何やってんの?」


 お父さんはこちらに振り向く事なく「探し物」と言って、洋服箪笥の中をあさっている。


 下着が入っている引き出しまで開けようとするので、引き出しを押さえて抗議した。


「ちょっ………やめてよもう!

 娘の部屋をあさるなんて最悪!

 探し物って何!?」


「俺の財布だ。

 若葉、どこに隠した」


 お父さんはどこを見ているのかわからないような顔で尋ねてくる。


「はあ?

 そんなのあたしが隠すはずないじゃん。

 ていうか、財布なんか探してどうすんの」


 見付かったとしても、お父さんの財布にお金なんか入ってるわけがない。


「煙草を買いに行きたいんだ、煙草」


「また煙草?」


 お父さんはなぜか最近、煙草を好むようになっていた。


「煙草なんか吸ってたらお金がもったいないじゃん………。

 結構高いんでしょ?」


 お父さんはボリボリとフケだらけの頭をかく。


「煙草を吸わないと落ち着いて寝れないんだよ。

 もう夕方なのに」


「………」


 高校受験が終わって眠剤の服用をやめた後も、お父さんの生活習慣は夕方寝て夜中に起きるというリズムで定着していた。


「わかったよ………。

 今度はお母さんにもらっておいてよね」


 あたしは自分の財布から千円札を取り出してお父さんに渡す。


 アルバイトして稼いだ自分のお金だ。


 お父さんは千円札を受け取ると、特に礼も言わずに「行ってきます」と言って煙草を買いに行く。


 深いため息が漏れて、目をつぶって顔をこすりながら気持ちを落ち着かせる。


 二年前に疑った通り、お父さんは病気だった。


 あれから病院に行って診察を受けたわけではなく、去年家の中で探し物をしている時に偶然見付けてしまったのだ。


 通帳等の貴重品が入っている引き出しの中に、お父さんの診断書が入っていて、そこに "精神分裂病" と記載されてあった。


 診断日は2001年。


 つまり、お母さんはお父さんが病気である事をとっくにわかっていて、それをずっと隠し続けていたのだ。


 病院にも連れて行かず、働かせようともせず、家の中に閉じ込めて、臭い物に蓋をした………。


 どうしてお母さんがそんな事をしたのか、理由はすぐにわかった。


 昔ラジオで聞いた通り、精神分裂病という病名は現在では統合失調症と呼ばれているが、2002年まではその病名で呼ばれていた為、偏見の目で見られる事を恐れたのだろう。


 統合失調症の症状は多彩で、お父さんのように幻聴や妄想の症状だったり、意志・欲望の低下や感情・思考の障害など、数え上げたらきりがなく、全ての人に全ての症状が当てはまるというわけではない。


 薬物治療で良くなる人もいれば、生涯病気と付き合っていかなければならない人もいるらしい。


 お父さんの場合はどちらなのだろう………。


 治療してみないとわからないのかもしれないけど、一生抱えて行かなければならなかったらどうしようと、考えるだけで先が暗く思えた。


 そしてその問題から、どうしても目を逸らしてしまう。


 きっとお母さんもそうなのだろう………。


 机に向かい、ノートパソコンを立ち上げる。


 ネット回線を契約すると無料でもらえたやつだ。


 今時ネットがないと不便で仕方がない。


 携帯代もネット代も、今は全て自分のバイト代から支払っている。


 ネットに接続してヤフーニュースをチェックしながら、ふと、環が言っていた事を思い出した。


〈あたしも小学校の時にさ、前の小学校の友達から悪口かかれた事あったんだよねー………。

 もうそれ以降、下手に見ないようにしてるんだ、腹が立つだけだから〉


 お気に入りからあるサイトに接続し、自分が昨日書き込んだスレッドを探した。



[私立椿女子高校

 2年3組 相澤環へ


 死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 消えろ消えろ消えろ消えろ

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 消えろ消えろ消えろ消えろ

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 消えろ消えろ消えろ消えろ

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 消えろ消えろ消えろ消えろ

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 消えろ消えろ消えろ消えろ

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 消えろ消えろ消えろ消えろ]



 書き込んだのは都内の高校の裏サイトと呼ばれる掲示板。


 高校受験に失敗し、環と同じ高校に通う事になってから、何かイライラする事があるとこうしてネットの中に負の感情を吐き出さないと気が済まなくなっていた。


 環の携帯の番号やメールアドレス、自宅の住所まで書き込んだ事もあった。


 すぐに削除されてしまったようだけど………。


 あたしは全ての不平不満を、環を中傷する事で心の平穏を保っていた。


 どうして標的が環なのか、それは自分でよくわかっている。


 環に対する劣等感や嫉妬、自分にない物を沢山持っているのが羨ましくて、憎らしかった。


 ………だけど時々、ふと我に返る。


 どうしてあたしはこんな風に暗い人間になってしまったのだろうと………。


 環には何度も助けてもらったのに、影でこんな事をしている自分は、ものすごく醜い人間だと思う。



[あたしなんて、生きる価値のない人間なのかもしれない。

 今すぐ苦しまずに死ねる方法があるのなら、今すぐにでも死んでしまいたい………]



 高校生になってから、頻繁にcommuのブログに "死にたい" という気持ちを綴っていた。


 特にこれという大きな理由があるわけじゃない。


 ただ漠然と "死にたい" と思ってしまう。


 学校で真面目に授業を受けている傍ら、どこかで自暴自棄になっている自分もいる。


 大学進学を目指す事は自分の意思ではなく、お母さんの意思だからだ。


〈あんたの受験の為なら、お母さんなんだってするんだから〉


〈お母さんは若葉に苦労をさせたくないの〉


 お母さんは自分やお父さんを犠牲にしてでも、あたしが幸せになる事を望んでいる。


 ………でも、本当に?


 本当にそれで幸せになれるんだろうかと疑問を抱きながらも、あたしはただお母さんの言う事に従っていた。


 お父さんの生活リズムにも目を背けたままだ。


 あたし達が家の中で主に活動する時間にお父さんが寝てくれる事で、過ごしやすくなったのは確かだからだ。


 これでいいのか、これでいいのかと、自分に問いかけながら、一日一回、見て見ぬふりをするという罪を重ね続けていた………。






 お母さんがパートから帰って来て、お父さんがあたしの部屋でお金を探していた事を話すと、思わしくない顔をして言った。


「どうしてお父さんを外に出したりしたのよ」


 ………お母さん………問題はそこ?


 お父さんが、あたしの部屋をあさっていた事は?


「………出したわけじゃないよ。

 お父さんが勝手に煙草を買いに行ったんじゃん」


「子供みたいな言い訳しないでよ。

 いい?

 今度お父さんに煙草代をせびられても、絶対渡しちゃ駄目だからね」


 そう言って、お母さんは買い物袋を下げてキッチンへ向かう。


「そんな事言うんなら、頭ごなしに言うような事しないでよ。

 お母さんはいったいあたしにどうして欲しいわけ?」


「何よそれ」


 お母さんは買い物袋から買ってきたものを台の上に取り出す。


「ちゃんと理由を説明してって事だよ。

 どうしてお父さんに外出させたくないわけ?」


「………」


「お母さんの考えがわからないのに、あたしにお父さんを止められるわけないじゃん。

 そのぐらい言わなくても本当はわかってるんでしょ?」


「………」


 お母さんは手を動かすのをやめて、あたしを真っ直ぐ見て言った。


「お父さん、たまにカッとなって、物を投げたりする事があるでしょ?」


「え? ああ、うん………」


「あれを人様にやられたら困るの。

 警察に捕まるのよ?」


「───……」


「そうなったらどうなるかぐらい想像つくでしょ?

 そういう事よ」


 お母さんは冷蔵庫を開いて、牛乳や豆腐を中にしまう。


「ねぇ………そう思うんだったらさ………。

 お父さんを、ちゃんと病院に連れてってあげようよ」


 お母さんは振り返ってあたしを見る。


「お父さん、やっぱり統合失調症だったんでしょ?

 こないだお父さんの古い診断書を見たの」


「………そう」


 肩を落とし、お母さんは豆腐の袋を縛っていた輪ゴムを指でいじりながら言った。


「………あんたがまだ小さい頃はね、ちゃんと病院に通ってたのよ。

 お医者さんから出された薬も、きちんと飲んで」


「そうなの?」


 お母さんはあたしを見て頷く。


「だけどね、少し良くなってもまたすぐにぶり返すのよ………。

 高い薬を飲ませても、生活が厳しくなるばっかりで、完治する事なんか出来なかったの」


「………」


「お父さん自身も、治らないなら薬なんか別に飲まなくてもいいって、家でゆっくり休めるんなら。

 だからもう、それ以降病院には連れて行かなかったの。

 お父さんの病気の事も、他人には知られたくなかった。

 もし知られたりしてたら、あんたは友達からいじめられてたかもしれないのよ?

 父親が精神病だって」


「………」


「お父さんの病気の事で、あんたが周りから変な目で見られたり、将来の就職する時に足枷になったりするのがお母さんは嫌なの。

 あんたが結婚する時だって、相手の家族にどんな風に思われるか………」


「………」


「世間はそんなに甘くないのよ。

 綺麗事言ってたら生きていけないの。

 そういうものなのよ」


 輪ゴムがバチッと切れて、お母さんは一瞬目をしかめて手元を見て、それを三角コーナーの中へ捨てた。


 その様子を目で追いながら尋ねた。


「………お父さんを病院に連れて行かないのは、全部あたしのせいなの?」


「は?………何?

 若葉のせいだなんて、お母さん一言も言ってないじゃない」


「でもあたしの為だって事は、裏を返すとそういう事じゃん」


 お母さんは下唇を噛んで、あたしの頬を叩いてくる。


 左の頬に痺れが走り、涙が込み上げてきた。


「それ以上そんな事言ったら、お母さん本気で怒るわよ?

 親が子供を幸せにしたいと思うのは当たり前の事なの。

 やり方は人様の家とは少し違うかもしれない……でも抱えてる事情が違うんだから、それは仕方のない事なの」


「………」


「若葉は何も心配する事はないの。

 お父さんの事はお母さんがなんとかするし、あんたはただ、将来の事だけ考えて頑張っていればいいの。

 それでいいんだから、ね?」


 お母さんはあたしの頭を撫でながら頬を緩め、夕飯の支度に取りかかった。






 それから、お母さんはお父さんに外出させないようにする為に、常に煙草を切らさないように家に買い置きするようになった。


 お父さんも出かけるのは面倒なようで、家にある煙草を吸いながら、相変わらずテレビを一日中見るような生活を送っていた。


 そうする事で、お父さんがあたしの部屋をあさる事もないと思ってたんだけど………。


 よりにもよって、あたしが家に携帯を忘れたその日に事が起きた。


 学校から帰って来て一目散に自分の部屋に入ると、部屋が滅茶苦茶になっていたので愕然とした。


 箪笥にかけていた洋服は全て床に投げ出されていて、ブラもショーツも全部だ。


 勉強机の引き出しも荒らされていて、ノートパソコンが机の上にない事に気付き、我に返ってリビングへ向かう。


 そしてお父さんが勝手にあたしのパソコンを使っているのを見付けて、カッと頭に血が上り、それを奪い上げた。


「お父さん!

 なんで勝手にあたしのパソコン使ってるわけ?

 あたしの部屋のあれ、いったい何なの!?」


「おお、若葉………。

 いや、お父さんの携帯が見付からなかったから、そっちにないかと思って探してたんだよ」


 リビングの中もお父さんによって散らかされていて、目をぎゅっと閉じてため息を吐いた。


「お父さんは携帯なんか持ってないじゃん………。

 なんでいきなりそんな事思い付いて………」


「いやぁ、仕事で使ってたやつがあったはずなんだよ。

 それでクニさんと連絡が取りたくなってさ、」


「クニさんなんかどこにもいないじゃん!!

 頭おかしいんじゃないの!?」


 勢い余ってそんな事を言ってしまうと、お父さんの形相が変わり、いきり立ってあたしの顔をひっぱたいてきた。


「おまえは父親に向かってなんて言い草してんだ!!

 親をバカにしてんのか!」


 頬を押さえ、涙を流しながらその場に座り込んだ。


「ごめん………そんな事言うつもりじゃなかったんだけど………」



「お父さんだってなぁ、これでも頑張って生きてるんだよ家族の為に。

 おまえが受験の時だって、騙されたふりして睡眠薬飲んでやっただろ。

 忘れたのか!」


 目を見開いてお父さんを見上げた。


「………お父さん………それ気付いてて飲んでたの?」


 お父さんは苛立つようにボリボリと頭をかきながら、胡坐をかいて座る。


「気付かないわけないだろ。

 クニさんがちゃんと教えてくれたんだから………」


「………」


「俺が起きてたら、勉強の邪魔になってたんだろ。

 だったら別に、俺は寝てたっていいからよ」


 胸の奥から込み上げてくるものがあって、咳き込むように息を吐いて、その場で涙を流した。


 嬉しいとも違う、悲しいとも違う………よくわからない思いが胸の中に留まりきれず、噴き出た感じだった。


 そしてつと、テーブルの上にあたしの携帯が置いてある事に気付いた。


「………お父さんそれ」


「ん? ああ。

 俺の携帯が見付からないから、おまえの携帯を貸してもらったんだ」


「───……勝手に使ったの?」


「ちょっと電話させてもらったんだよ。

 いいじゃないかそのぐらい」


 ぐっと拳を握り、それを膝のところで震わせながら怒りを堪えた。


 携帯を手に取り、ノートパソコンを胸に抱き、お父さんに言いたい言葉を全部飲み込んで、あたしは家を飛び出した。



[もう嫌だ………死にたい………死にたい………死にたい………死にたい………]



 公園のブランコに腰を降ろして、commuのブログに思いをぶつけた。


 もう嫌だあんな家………。


 今すぐにでも、何もかも捨ててどこかに消えてしまいたい………。






 そして翌朝。


 学校に向かうバスの中で、あたしは初めて環からcommuのチャットにメッセージが来ていた事に気付いた。


 メッセージが届いたのは昨日の19時頃。


 通知が出てないという事は、もしかしたら、お父さんが勝手に読んでしまったのかもしれない。



[若葉、助けて………。

 もうあたし、誰も信じられなくなりそう………]



 環のメッセージを読んで、いったい何があったのだろうと思った。


 環がこんな事を言ってくるなんて初めての事だ。


 学校に着いてから、あたしは環のところへ向かった。


 環は自分の席に座り、机の上に突っ伏している。


「環、おはよう。

 どうしたの?

 昨日は連絡出来なくてごめん。

 ちょっと………昨日は立て込んでたから、返事出来なかった」


 お父さんが勝手にメッセージを見た事は言いたくなかった。


 環は顔を上げると、腫れ上がった瞼を重く下げたまま言った。


「………どうして?」


「え?」


「どうして昨日のうちに連絡くれなかったの?」


「いや、だから、昨日は本当に立て込んでて、余裕がなくてさ………」


 環は泣きはらした目で睨んでくる。


「一晩中立て込んでたっていうの?

 そんなの常識的にあり得ないじゃん」


「あり得ないって言われても………メッセージ自体に気付いたのも今朝の事だし………」


「嘘言わないでよ、ちゃんと "既読" って出てたし。

 あたしのあんなメッセージ読んで、なんとも思わなかったの?

 あたしは昨日、ずっと若葉からの連絡を待ってたんだよ………朝までずっと!」


 環は目に涙を滲ませる。


「誰にも言えなくて………若葉にしか言えそうになくて………。

 それで昨日は若葉を頼ったのに、どうしてこんな時まであたしを見捨てたりするわけ?

 今まで散々若葉の事助けてきてあげたのに………こんな時ぐらい………」


 過去の事をここで持ち出されて、だんだんイライラしてきた。


「本当に薄情だよね若葉は………。

 昔からそう、友達の事なんてどうでもいいんだよね。

 自分の都合ばっかり考えてるんだよね」


 拳に力が入り、唇を噛みしめて床に目を落とす。


 そして環から「裏切り者」と言われ………大きく息を吐き、環の机を両手で思い切り叩いた。


 バンッ!!と大きな音が鳴って、教室中がシンとなる。


「さっきから黙って聞いてれば、一方的に勝手な事ばっかり………」


 驚いて目を見開いていた環は、やがて顔を険しくさせ、「一方的?」と聞き返してくる。


「あたしだって………昨日は本当にそれどころじゃなかったんだよ………。

 それなのに、昔の事引き合いに出して勝手な事言わないでよ。

 あたしがいつ環に頼んだ? 助けてくれなんて。

 全部環が勝手にやった事じゃん」


「はあ?

 何それ………余計なお節介だったとでも言いたいわけ?

 都合のいい時だけ近付いてきて、あたしの事何度も裏切っておいて」


「恩着せがましい事言わないでよ!

 いくら助けてくれたからって、環がしてくれた事と同じ事を返せるわけじゃないんだよ!

 あたしは環みたいに強くないんだよ!」


 環はいきり立って言った。


「別に全く同じ事を返して欲しいだなんて思ってない!

 あたしみたいに強くないって、それ何?

 自分は弱者だとでも言いたいわけ?

 もっと友達に対して出来る事があったんじゃないの?

 ただの卑怯者のくせに、最もらしい事言わないでよ!」


「うるさ────い!!」


 頭がテンパって叫び声を上げると、周りにいたクラスメイトが仲裁に入ってくる。


 それに構わずに環に言った。


「環に何がわかるんだよ!

 何も苦労してないくせに!

 あたしの気持ちなんかなんにもわかんないくせに!」


「はあっ!?

 何も苦労してないなんて、なんで若葉にそんな事がわかるんだよ!

 あたしの何を知ってんの?

 誰だって影で苦労してるもんなんだよ!

 自分の事ばっかり考えてるから、そういう事にも気付けないんじゃん!」


 あたしも環も、それぞれに周りから腕を掴まれて止められながら、お互い言いたい事ばかりをぶつけ合った。


「もう二度とあんたなんか助けないから!

 この卑怯者の裏切り者!!」


 それに対して言い返せる事は何もなかったけど……何もなかったけど………。


 あたしの中で、何かが切れた。


 正義感を気取って、あたしだけを悪者にして責めてくる環が、殺したい程憎いと思った。


 そんな事、色んな事に恵まれてる環から言われたくなかった………。


 環を不幸な目に遭わせてやりたい………環の幸せな日常をぶち壊してやりたい………。


 あたしが毎日どんな思いで過ごしていたのか、出来るものなら思い知らせてやりたかった。


 ………だけどそんな事、出来るわけがないんだ。


 環にあたしと同じ思いを味わせるなんて、どう考えたって無理。


 環のお父さんかお母さんのどちらかが、あたしのお父さんと同じ病気になってくれない限り、あたしの気持ちなんかわかってもらえない。


 だけど今日の事で怒りが収まらず、あたしはネットで人を殺す方法について調べ始めていた。


 どんな殺し方をしたら気分が晴れるだろう。


 完全犯罪とか、やろうと思えば出来るのかもしれない。


 あたしは傷付かないで、環だけが死ぬ。


 そうなれば、もしかしたら麗ちゃんは一緒に遊ぶ子がいなくなって、あたしの所に戻ってくるかもしれない………。


 そしてあたしは、環の事で親身になって慰めてあげるんだ。


 そうやって麗ちゃんの力になって、あたしの事をもう一度友達として認めてもらうんだ。


 そうすれば、あたしはもう一度やり直せるかもしれない。


 麗ちゃんと同じ位の人間になれるかもしれない。


 環は所詮三流大学にしか行けない学力だけど、あたしだったら、麗ちゃんと同じ大学を目指す事が出来る。


 そうだよ、あたしの価値はそこにあるんだ。


 あたしだって環にないものを持ってるんだ。


 まだ間に合う………今ならきっとまだ間に合う………。


 環に取られてしまった麗ちゃんの隣のポジションを、取り返してやろうと思った。






 あたしはそれからしばらく、環をどう殺すかという事ばかり考えて過ごしていた。


 それを考える事は意外と楽しく、生き甲斐のようなものを感じた。


 ある意味、一つの生きる目標だ。


 あの家に帰るのが本当に嫌だったけど、だんだんそんな事も気にならなくなった。


 だって、集中出来るものを見付けられたから。


 あたしにはきっと、そういうものが必要だったんだと思う。


 親の問題があっても、構わず集中出来る何かが………。


 ところが、その数日後。


 バスで学校に向かいながら、commuのアプリで友達のタイムラインを見ていると、マイコミュリストの中から、環と麗ちゃんが外れている事に気付いた。


 いや、外れたんじゃない。


 あたしがあの二人から外されたんだ。


 たぶんあの二人はマイコミュからあたしを外す事で、自分達のタイムラインを表示させないように設定したのだろう。


 環はともかく、麗ちゃんから外されたのはショックだった。


 やっぱり………麗ちゃんは環の味方なの?


 あたしは麗ちゃんと環みたいな関係になれないの?


 親友みたいにはなれないの?


 廊下を歩いて教室に向かっていると、前方から環と麗ちゃんが楽しそうに話しながら歩いて来るのが見えた。


 そして麗ちゃんはあたしに気付くと、何も見なかったかのように顔を逸らす。


 環もまた、あたしに目を向ける事なく、笑いながら麗ちゃんと二人で通り過ぎて行く………。


 あたしはまるで、透明人間のようだった。


 ………やっぱり、あたしは環には敵わないんだ。


 なんか、ちょっとどうかしてたかも。


 何勘違いしてたんだろう。


 あたし、環を殺していったい何をしようとしてたんだろう。


 どういう自分になりたかったんだろう。


 環を殺したって、あたし自身が変わるわけじゃないのに………バカだな………。


 本当にどうかしてた。


 こないだ環に初めて言い返して、あれだけ大きな声を上げて、頭のネジがどうかしちゃってたのかな………。


 そんな勘違いにのめり込んでいたせいで、二学期の期末試験の成績をガクンと落としてしまった。


 しかもそれは中学高校を合わせても、過去最悪の結果だった。


 成績表を見せると、お母さんは目に涙を滲ませてあたしの顔を叩いた。


「いったい何考えてんの!

 どうやったらこんな成績が取れるの!

 ちゃんと説明しなさい!!」


 その日もあたしはブログに日記を付けた。



[………お母さん。

 あのね、あたし、Tを殺そうと考えてたんだよ。

 子供じみた動機っていうか、妄想っていうか………。

 とにかくあたし、Tの事が憎くてしょうがなかったんだ。

 Rちゃんから嫌われたのもTのせいだし、Tはあたしと違ってすっごく恵まれてるし、転校生のくせに強くて逞しくてさ。

 あたしにない物ばっかり持ってるんだよ。

 自分が損するかもしれないのに、勇気を出してあたしを助けに来てくれたりさ………。

 あたしにはそんな勇気ないし、いいところもないんだよね。

 悔しいけど、Tはすごく魅力的な子なんだよ。

 優しくて、友達思いで、いつも堂々としててさ………。

 頭がどうかしてたとはいえ、そんなTを殺す事を考えるだなんて、あたしって本当に最低な人間だね。

 今日ほど自分が嫌になった事はないよ。

 ねぇ、お母さん。

 あたし幸せなんかになれなくていいからさ、死んで生まれ変わりたいよ。

 心が綺麗な人間に………]






 12月13日────


 塾の帰りに、DIY専門店で丈夫なロープを買った。


 首を吊る為のロープだ。


 色々自殺方法についてサイトを調べたりしてみたけど、一番確実そうなのは首吊りだった。


 死ぬ場所はもう決めている。


 幼稚園の、あの教会だ。


 キリスト様に沢山の懺悔を済ませてから、あの世に旅立ちたい。


 今度は綺麗な人間に生まれてくる為に………。


 下井草駅で降りて、自宅ではなく、通っていた幼稚園の方へ向かって歩いて行く。


 園内に忍び込み、協会のドアを開けると、懐かしいキリスト様の姿が正面に見えた。


 祭壇の方へ近付いていき、膝を床について両手を握ってお祈りを捧げる。


 そしてお父さんの事や環の事を懺悔していると、コートのポケットの中で携帯が鳴った。


 この着信音は、commuのチャットだ。


 いったい誰だろうと思いながら、取り出してディスプレイを見ると、マイコミュ以外からのメッセージアイコンがついていた。


 アイコンをタッチしてメッセージを開いてみると、それは環からのメッセージだった。



[環だよ。

 こないだは本当にごめんね。

 あたしが悪かったよ。

 いきなり怒鳴ったりして。

 commuのIDを新しく作ったんだ。

 またマイコミュになってくれないかな。

 返事待ってる♪]



 信じられない気持ちだった………。


 まさか環が、こんな風に素直に謝ってくれるなんて………もう一度友達に戻ろうとしてくれるなんて………。


(環………)


 涙が込み上げてきて、あたしは泣きながら返事を返した。



[あたしの方こそ本当にごめん。

 言えなかったけど、あの日はお父さんと色々あって、メッセージもお父さんが勝手に開いちゃってて、それで朝まで気付かなかったんだ。

 その事だけはどうか信じて欲しい。

 あたしも環に聞いてもらいたい事があるの。

 本当にきつくて、苦しくて苦しくて………他の人には言えない、環にしか言えない事って言ったらわかるよね?]



 するとすぐに “既読” と表示され、返事が返ってくる。



[わかってるよ^^ あの事だよね?

 今どこにいる?

 どっかで待ち合わせして会わない?]



 胸が熱くなり、あたしは「うん、会いたい」と返事をする。


 そして神様にもう一度祈りを捧げた。


(神様……申し訳ありません………。

 あたしは環に面と向かって、これまでの事を謝ってきたいと思います………)


 そして教会を出て、環との待ち合わせ場所へと急いだ。


 駅の方まで引き返し、環が指定したコンビニへ向かう。


 店の中ではなく、店の裏手にある駐車場にいるとの事だった。


 そんなところで何をやってるんだろうと思ったけど、とりあえずそちらに向かい、駐車場の角を曲がったところで、突然目の前に若い男二人組が立ちはだかった。


 ビクッとして立ち止まると、ロン毛気味の茶髪の男が、「若葉ちゃんだよね?」と言う。


 わけがわからず頷いて返すと、突然背後から誰かに口を塞がれ、ほとんど抵抗する事も出来ないうちに、あたしは近くに停まっていた黒いワンボックス車の中に引きずり込まれてしまった………。






 その後の事までは………ブログにも書けない。


 とにかくあたしは、何がなんだかわからないうちに、見知らぬ男達から傷付けられた。


 環になりすましてあたしを呼び出して………。


 だけどcommuのIDは、環が奴らに教えたらしかった。


 あたしはもしかしたら、最後の最後に、環に裏切られてしまったのかもしれない………。


 ねぇ、環。


 あたし今回初めてわかったよ。


 友達に裏切られるって、こんなに辛い事だったんだね。


 環は何度も、こんな辛い思いしてたのかな………。


 妙正寺川近くのゴミ捨て場のところで車から降ろされたあたしは、しばらくぼんやりした後、DIY専門店で買ったロープの事を思い出した。


 袋ごとどこかに落としてしまったみたいだ………。


 せっかく首を吊る為に買ったのになと考えていると、目の前にあるゴミ捨て場に、こたつのコードが縛って捨ててあるのを見付けた。


 これなら使えるかもしれないと思い、それを拾い上げ、どこか首を吊れそうな場所を探した。


(最後にババ引いちゃったって事なのかな………)


 こんな事になるなら、あのまま教会で首を吊ってれば良かった。


 死ぬ前にこんな目に遭うなんて、全然想像出来なかったよ………。


 もう何も考えないようにしよう。


 これからあたしは無になるんだ。


 もう何も苦しむ事はないんだ………。


 お父さん、お母さん、親不孝な娘でごめんね。


 だけどあたし、もう楽になりたいです。


 どうか許して下さい。


 さようなら………。


 最後のブログに色んな思いを書き残して、こたつのコードを橋の手すりに結び、それをぐるっと首に回して、あたしは川へ向かって飛んだ。











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