第7話 ぬくもり






 便利な物は大抵操作が簡単だ。


 簡単に人と繋がる事が出来て、簡単に色んな事が出来てしまう。


 今はそういう世の中だ。


 ネットさえあれば………。


 だけど本当に、あたし達は相手と繋がっていたんだろうか。


 顔も見えない、体温も感じない、だけどネットさえあれば近いところにいる距離感で、相手の何を理解していたのだろう。






〈あ………。

 ねぇ麗奈、翔平君が若葉の事紹介してくれだって〉


〈えー、何?

 翔平君って若葉みたいなタイプが好きなわけ?

 ダッさ〉


〈写真見て気に入っちゃったみたい。

 自分で口説くからcommuのID教えてくれだって〉


〈ふーん、だったら教えちゃえば?

 嫌なら若葉も自分で断わるだろうし。

 わざわざ環とあたしが仲を取り持つなんて面倒臭いじゃん〉


〈だよね、若葉だって子供じゃないんだし。

 えーっと、若葉のIDはっと………〉


〈でもさー、翔平君ってチャラいけど顔は悪くないじゃん?

 意外と若葉もマジになっちゃったりして〉


〈ああ、あり得る。

 若葉も意外と面食いなんだよねー〉


〈でも翔平君とくっついてさ、そのうち飽きられてフラれちゃったらウケるんだけど〉


〈ハハハハッ、確かにそれ面白いかも〉


〈あんな自分勝手な奴、遊ばれて捨てられちゃえばいいんだよ〉


〈だよね。

 人の恩を何度も仇で返して……何回助けてやったと思ってんだよっ………と、そうしーん。

 ………あ、翔平君がありがとうだって。

 返信早っ!〉






 ………そんな軽いノリでした事が、思いがけない悲劇を生んだ。


 そして人の心に恨みの心を宿し、その沿線上に巻き込まれてりんごは殺された。


 ネットとか、人のしがらみとか、全く関係のない場所で生きていたりんごが、あたしの軽はずみな行動のせいで犠牲になり、殺されたんだ………。


「コンビニの防犯カメラを確認してきたの。

 やっぱりりんごちゃんを拐ったのは藍川由紀乃だったみたい。

 りんごちゃんに何か食べ物を与えて、連れて行くところが映ってたから………」


 うちに駆け付けて来てくれた国生さんは気の毒そうに言った。


 あたしと麗奈は、りんごを段ボール箱の中に入れて、自宅に引き返して来ていた。


 段ボール箱の中で横たわっているりんごを見ながら、角田さんは舌打ちした。


「くそっ………むごい事しやがって………。

 犬を歩道橋から投げ落とすなんて………。

 いくら娘の事があるからって、何も犬を殺す事ないだろう」


 段ボールの蓋を閉じて、角田さんはりんごに手を合わせて目を閉じる。


 あたしは縁側に座って、涙を垂れ流しながら麗奈の肩にもたれていた。


 麗奈も泣きながら訴える


「刑事さん、お願いだから捕まえて下さい。

 こんな事絶対許せない………。

 環が大事にしてるのをわかっててこんな事するなんて………」


 角田さんは「そうだな」と頷き、麗奈があたしに言ってくる。


「環、ごめんね。

 あたしがりんごをお散歩に連れて行かなければ、こんな事にはならなかったのに………」


 あたしは鼻を啜って首を横に振った。


「誰のせいでもないよ………あたしのせいなんだよ………。

 りんごはあたしの身代わりになって殺されたんだよ………。

 りんごは何も悪くないのに……何も悪い事してないのに………こんな目に遭わされて………」


 鼻の奥がツンと痛くなって、さらに涙が溢れた。


 麗奈はあたしを抱きしめて、「なんでこんな事に……」と呟いて嗚咽を漏らす。


 角田さんは言った。


「必ず藍川由紀乃を捕まえるから、な?

 今日は二人ともここで大人しくしててくれ。

 もうこんな事を繰り返させるわけにはいかない………」


 すると国生さんがあたしの背中を撫でながら言ってくる。


「環ちゃん、辛いだろうけど………りんごちゃんをこのままにしておくわけにいかないし、火葬してあげたらどうかな。

 このままじゃりんごちゃんが可哀想だし………」


 そう言われても、なかなか決心が着かなかった。


 もうりんごの顔を見れなくなるかと思うと放したくなかった。


 だけど国生さんの言う通り、りんごはお腹の肉が破れてしまっているので、早く火葬してあげないと虫がわいてしまう。


 それはあまりにも忍びなくて………。


 麗奈がペットの火葬を頼めるところを携帯で探してくれるというので、お願いする事にした。






 小さな遺骨入れの中に収まったりんごを連れて、火葬場から帰って来た。


 骨壺を膝の上に置いてソファーのところでぼんやりしていると、麗奈がりんごに付けていたカラーを見ながら言った。


「まだ火傷も治ってなかったのにね………。

 りんご、耳を掻きたくて仕方がない感じだったよね………」


 そう、りんごはしきりに後ろ足で右の耳を掻こうとしていた。


 カラーが外れたら、また公園に連れて遊んであげようと思ってたのに………。


 宗方さんからもらったボール、りんご気に入ってたよね………。


 うちの中でも噛んだりしてたもんね………。


 もう一緒にお散歩に行けないんだね………。


 毎日一緒に寝てたのに、それも出来ないんだね………。


 最後はあたしの病気のせいでストレス溜めて、火傷を負って、今回ものすごく怖い思いをさせられて………。


 痛かったよねりんご………。


 あたしがりんごをおばあちゃんちに引き取りに行かなかったら、こんな事にはならなかったのかな………。






 その日の深夜。


 キッチンから包丁を持ち出して浴室へ向かった。


 色々考えたけど………若葉に対しても、りんごに対しても、自分が死ぬしか償う方法が思い付かなかった。


 松谷先生は、若葉の事を忘れずに生きて行く事だって言ってたけど、もうそんな気にはなれない。


 いくら若葉の事があっても、あたしは若葉の母親を許す事が出来ない。


 りんごを殺した若葉の母親が憎くて憎くて仕方がない。


 だけどいくら憎んでも、りんごはもう帰って来ない。


 逃げと言われようと、あたしはりんごのところへ行きたかった………。


 シャワーを捻って、包丁を左手首に向けた。


 リストカットじゃ死ねないって聞いた事があるけど、思いきり切れば失血死出来るかもしれない。


 そう思って、静脈が一番太そうな場所を選んで、包丁で切った。


 一度目は震えてしまって、かすり傷程度の傷になってしまった。


 ビーズ玉程度の血が傷口からぷくっと顔を出す。


 この程度じゃダメだ。


 もっと強く切らなきゃ。


 包丁を振り上げて、今度は思いきり振り落とした。


 けれど自分の意思に反して身体にストッパーがかかり、さっきよりは切れたものの、まだまだな傷だった。


 その傷口を、ノコギリで切るかのように包丁を動かした。


 肉が切れたのが見えた。


 血がダラリと垂れた。


 これなら行けるかな。


 ていうか、頭がボーッして眠くなってきた………。


 事前に飲んでいた薬が効いてきたみたいだ。


 手首をシャワーにかざし、浴槽に頭をもたげて、あたしは目を閉じた。






〈お父さんの事……誰にも言わないでね〉


 夢の中で、若葉は涙を流しながらそう言った。


〈うん、わかってるよ。

 誰にも言ったりしない〉


 あたしは若葉と並んでブランコに座っていた。


 若葉はグスグスと鼻を啜り、手の甲で涙を拭いながら言った。


〈………そういえばさ〉


〈ん?〉


〈期末の英語のテスト………何点だった?〉


〈え? なんで突然そんな事〉


〈いや……結構いい点取れたって教室で話してるのを聞いたから。

 何点だったのかなーと思って………〉


〈別に………大した点数じゃないよ。

 いつもより良かっただけで、たぶん若葉の方がいい点取ってるよ〉


 若葉があたしの試験の成績を探ろうとしているのがわかって、そう言ってはぐらかした。


〈ううん。

 あたし今回は全然良くなかったもん………。

 ねぇ、何点だった?〉


 涙目でしつこく聞いてくるので、仕方なく72点と答えた。


 英語はいつも60点台ぐらいしか取れなかった。


〈あー……そうなんだ………〉


〈ね? 大した点数じゃないでしょ?

 若葉は?〉


〈………〉


〈こっちも教えたんだから教えてよ〉


〈そんなに変わらないよ……78点だから………〉


 は? 何それ。


 全然良くないって言ってた点数がそれ?


 あたしより全然いいじゃん………。


〈あーあ………。

 年が開けたら受験生だし、お互いもっと頑張らなきゃだね………〉


 もっとって………何それ。


 あたしは頑張ってこの点数なんですけど。


 ていうか、あたしは椿女子に行くし、普通科はそんなにレベル高くないし、これでも順調なんですけど………。


〈はぁ………。

 よしっ、そろそろ帰って勉強しないとなー………〉


 若葉は憂鬱そうな口振りでそう言ってたけど、表情がスッキリしていて、ホッとしているのがよくわかった。


 あたしより上ならいいって事?


 あたしより下だったらどうしようと思ってたって事?


 ………バッカみたい。


 何それ。


 若葉と成績を競うつもりなんかないけど、ものすごく腹が立った。


 若葉はあたしをバカにしてる。


 テニスも下手で、フォームもなんかおかしくて、結構綺麗な顔してるけど麗奈みたいな美少女ってわけじゃないし、全然あか抜けてないし、私服もいつも安っぽそうな感じで、あたしだったら絶対選ばないようなダサいセンスしてるくせに。


 気が小さくて臆病者で、すぐ強い立場の人間にへつらって、プライドのかけらもないくせに。


 高校だって母親から行けって言われてるところを目指して、自分の意志みたいなのも何もなくて。


 そんな若葉にバカにされる筋合いなんかない。


 悩み事の相談になんか乗るんじゃなかった。


 父親は定職に就いてなくて、その上頭がおかしいんでしょう?


 精神病かもしれないんでしょう?


 若葉の受験なんか………全部失敗しちゃえばいいんだ!






 ………シャワーの音で目が覚めた。


 今のは、中三の12月頃の夢だ。


 そうだ………あたしは若葉から打ち明けられたんだ。


 父親が精神病かもしれない事を………。


 中三の文化祭頃までの記憶しかなかったから、思い出せなかったけど………。


 左の手首を見ると、いつの間にかシャワーから外れたところにあって、血が乾いて出血が止まっていた。


 ああ………現実はこんなもんか。


 やっぱりこのぐらいじゃ死ねなかったか………。


 薬のせいでガンガンする頭を抱えて立ち上がり、シャワーを止めて浴室を出た。


 リビングのソファーのところで傷の手当てをしていると、二階から足音が聞こえてくる。


 麗奈が起きたようだ。


 足音はそのままリビングを通り過ぎて、トイレの方へ向かう。


 やがて水が流れる音が聞こえてくる。


 黙々と消毒薬を含ませたコットンで血がこびりついた腕を拭いていると、リビングに麗奈が入ってきた。


「………わっ、びっくりしたー………何やってんの環。

 そんなところで電気も付けないで」


 朝方近い時間だったので、薄明かりの中で手当てをしていた。


 あたしは麗奈に背中を向けたまま答えた。


「なんでもないよ。

 目が覚めたからボーッとしてただけ。

 麗奈は?」


「ちょっと喉が乾いたから水を飲みに来ただけ。

 そんなところにずっといたら風邪引くよ?

 今日はなんか冷えるし」


 麗奈は喋りながら冷蔵庫の方へ向かう。


 ミネラルウォーターを取り出して、グラスに注ぐ音が聞こえてくる。


 そして音が止まると、麗奈が言った。


「ちょっと環………何してんのそれ………。

 なんで救急箱なんか出してるの?」


 テーブルの上に置いてある救急箱に気付いたようだ。


「ちょっと怪我しちゃっただけ。

 なんでもないよ」


「………」


 麗奈は入口の方へ向かい、電気を付ける。


 急に眩しくなったので、あたしは目をしかめた。


 麗奈はこちらに近付いてくる。


「ちょっと、何その傷………。

 まさか環………」


 あたしは自嘲気味に笑った。


「失敗しちゃったんだよ。

 でも大した事ないから大丈夫、ちょっとしみるけど」


 再びコットンで傷口を拭こうとすると、麗奈は隣にやって来てあたしの左腕を引っ張った。


「何これ………本当に死のうとしたの?」


「だから、失敗しちゃったんだって。

 大丈夫だよ」


 苦笑すると、麗奈に肩を掴まれ、思いきり頬を叩かれた。


 左頬全体にジーンと痺れが広がる。


「バカッ! 何が失敗だよ!

 こんな事するなんて!!」


「………」


「しっかりしてよ環っ!

 こんな事したらりんごが悲しむよ!

 後を追うみたいに環が死んだらさ!

 わかるでしょう!?」


 麗奈は涙ぐんであたしの肩を揺らしてくる。


「だって………もう疲れちゃったんだよ………。

 フランダースの犬でさ、ネロがパトラッシュに言うみたいな?

 あんな心境なんだよ」


「ふざけないで!

 どうしてこんな事するんだよ!

 しかも夜中にこそこそと………」


「………ふざけてなんかない。

 だって………だってもう本当に疲れちゃったんだよ!

 誰かに恨まれるのも! 誰かを恨むのも!

 もうこんなの嫌だ!!」


「環………」


「りんごは何も悪くないんだよ!

 殺すならあたしを殺せばいいのに!

 あたしがトラックに跳ねられれば良かったんだよ!」


 あたしは顔を上げて麗奈を見た。


「ねぇ、どうして?

 りんごはさあ、いつだってあたしを守ろうとしてくれるいい子だったんだよ………。

 あたしのせいで具合が悪くなってもさぁ、あたしの為に吠えたりしてさぁ………。

 なのになんで………あたしのせいであんな目に………」


 麗奈は顔を歪めて涙を溢れさせ、あたしを抱き締めてくる。


「そうだよね……りんごは何も悪くなかったのにね………。

 ひどいよね………」


 色んな気持ちが込み上げてきて、麗奈の肩のところで涙を流し、しがみついて泣いた。


「もう嫌だよ麗奈………。

 りんごが死んじゃったんだよ………りんごが………。

 うわあぁぁぁ………」


 神様………お願いだから時間を巻き戻してりんごを返して。


 あたしが代わりに死にます。


 元々あたしが死ぬべきだったんです。


 全部あたしの軽はずみな行動がいけなかったんです。


 神様もわかってるよね………?


「環………ごめん………ごめんね気付いてあげられなくて………。

 爆睡しちゃっててごめんね?」


 麗奈はあたしの背中を撫でてくれる。


 麗奈の身体が暖かかった。


 だから余計に泣けた。


 人のぬくもりは………生き物のぬくもりは………死んだらもう元には戻らないんだ………。






 その日の午前中、麗奈に伴われて病院へ向かった。


 診察室で志水先生に事情を話すと、怒った顔をしたまま、左手首の包帯の上にそっと手を乗せて、「辛かったな」と言った。


「先生………あたしもう生きたくない………生きたくないよ………」


「そうだな………楽になりたいよな。

 りんごちゃんは君の味方だったもんな………」


「………」


「だけどさ………麗奈ちゃんも君の味方なんじゃないのか?

 君が死んだら彼女はどうしたらいい。

 すごく悲しむよ?

 僕だって君には死んで欲しくない」


「………」


「なあ環ちゃん、しばらくゆっくりしようか。

 もう疲れちゃったよな、色んな事があったしさ………」


「………ゆっくりって?」


「入院して一旦気持ちを落ち着かせよう。

 その方がいいと思う」


「………」


「それに今日は麗奈ちゃんがここに連れて来てくれたけど、これ以上友達に負担をかけるわけにもいかないだろうし。

 君がこういう事をして、彼女自身もショックを受けてるだろうから」


「………」


「いくら友達でも、支えられる事と支えられない事がある。

 このままだと麗奈ちゃんまで一緒に倒れてしまう。

 だからここからは自分自身で乗り越えなきゃならない。

 それが出来るようになるまで、入院して身体を休めよう。

 な?」


 涙が頬を伝い、それと共に、あたしは頭を下に落とした。






 その日から、あたしは入院する事になった。


 精神科の閉鎖病棟というところに入った。


 閉鎖病棟の入口には鍵がかかっていて、自由に出入りは出来ない仕組みになっている。


 夕方頃、病室のベッドに横になり、暮れかけた薄暗い空をぼんやり眺めていると、ドアをノックして宗方さんが現れた。


「失礼します。

 相澤さん、今回も俺が担当になったから。

 採血の指示が出てるから、血を取らせてもらっていいかな」


 静かにワゴンを押して来る宗方さんを見て尋ねた。


「………もしかして………あたし………前にもこの病棟にいたの?」


「うん、そうだよ。

 何か思い出したの?」


「いや………宗方さんがここにいるって事はそうかなって………」


「ああ、そういう事か」


「あ………でも前は外科病棟でも会ったよね」


「あの日はたまたま人手が足りなくて駆り出されてたんだ。

 元々はここが担当」


「へぇ………」


「採血する前に脈と血圧を測らせてもらっていいかな。

 右腕にしようか」


 宗方さんは左手首に巻いた包帯に触れてくる事なく、ベッドの右に回って脈を測る。


 それを終えてから、あたしは宗方さんに尋ねた。


「聞いた? りんごの事………」


「うん、聞いたよ………」


 それだけ答えて、宗方さんは黙々と血圧を測る準備をする。


「………若葉のお母さんに殺されたの。

 歩道橋の上から、投げ落とされたんだって」


「うん………」


「お腹がね、破裂してたの。

 即死だったみたい………」


「うん………」


 あたしの右腕に血圧計のベルトを通して、スイッチを入れて腕を締めていく。


「りんごはきっと恨んでるよね、あたしの事………。

 あたしのせいであんな目に遭って………」


 プシューッと音が鳴って、ベルトが緩まっていく。


 宗方さんは測った血圧をカルテに書き留める。


「りんごは不幸だったよね、あたしみたいなのが飼い主で………。

 他の人に飼われてたら、あんな痛い思いしなくて済んだのに………」


「………そんな事ないよ。

 袖を捲ってくれる? 採血するから」


 あたしは右のパジャマの袖を引っ張り上げた。


 左手を動かすと傷口が痛んだ。


 不思議な事に、切った時よりも今の方が痛い気がする。


 宗方さんは二の腕のところでゴムをしばり、血管を指で触って探している。


「拳を握って力を入れてくれる?

 ちょっとチクッとするよ」


 採血の針が腕に刺さり、血が試験菅みたいな入れ物の中に流れていく。


 こんな風に、血がいっぱい出たら良かったのにな………。


「もう力抜いていいよ」


 宗方さんは針の先に脱脂綿を当てて針を抜く。


「ここしっかり押さえてて」


 あたしは言われるまま脱脂綿を押さえた。


 宗方さんはあたしの名前が書いたシールを血が入った瓶に貼り付ける。


「………りんごはさ、相澤さんの事が好きだったじゃない」


「………」


「だからそんな事を言ってたら、りんごが悲しむよ。

 相澤さんが心配で成仏出来なくなる」


 再び涙が込み上げてきて、右手で顔を覆った。


「先にこれを貼らせて」


 あたしの右腕を引いて、小さな絆創膏のようなものを採血したところに貼って血を止めた。


 宗方さんはようやくあたしの目を見る。


「りんごは幸せだったよ。

 最後はひどい目に遭ってしまったかもしれないけど、相澤さんと過ごしてる時間はずっと幸せだったはずだよ」


「………」


「犬って、そういう生き物だよ」


 涙で視界がぼやけていく。


 唇を噛みしめ、ぎゅっと目をつぶって両手で顔を覆った。


「だからもう………自分を傷付けたりしちゃダメだ。

 今日はゆっくり休んで。

 また明日来るから」


 そう言って、宗方さんは静かに病室を後にする。


 あたしはしばらくそのまま泣き続けていた。






 それから一週間後に、麗奈がお見舞いに来てくれた。


 面会室に入ると、先に席に着いていた麗奈が笑顔を向けてくる。


「環、会いに来たよー。

 病室には家族しか入れないっていうから驚いちゃった」


 明るく振る舞う麗奈に「ごめんね」と言って、テーブル越しの正面の席に座った。


 面会室にはテーブルを挟んで椅子が二つずつ置いてあって、ここでお見舞いに来てくれた人と話をするらしい。


「それにドアに鍵とかかけられてんだねー。

 ある意味セキュリティはバッチリっていうか」


 そんな冗談を言った後、あたしが黙っているのを見てテンションを下げた。


「あんまりこういう話をする気分じゃないよね………。

 少しは落ち着いた?」


「うん………。

 ごめんね麗奈、迷惑ばっかりかけて………」


「そんな事ないよ。

 少しは落ち着いてくれたんなら良かった」


「………」


「しばらくさ、こっちの伯母さんの家に泊まらせてもらう事になったの。

 だからまた顔を見に来るよ」


「名古屋には帰らなくて大丈夫なの?」


「うん。

 実家では色々自由にさせてもらえなくて、あたしが窮屈にしてた事、伯母さんはわかってくれてるからさ。

 気持ちが落ち着くまで居ていいって」


「そうなんだ」


 頬を緩めて頷くと、麗奈も頬を緩めて言った。


「良かった。

 やっと少しだけ笑顔が見れた」


「うん……ありがとう」


「何か欲しいものとかある?

 あと必要なもの。

 自宅の鍵は預かってるから、言ってくれれば持ってくるよ?」


 麗奈はバックの中から手帳を取り出す。


「そうだなぁ………。

 ………あ、あれが欲しいな。

 除毛剤」


「え、除毛剤?」


「うん。

 この病棟は刃物とか持ち込み禁止なんだって。

 無駄毛用のカミソリとかも」


 要するに、身体を傷付けたり出来るものはダメだという事だ。


 この前同じ病棟内で無数のリストカットの傷痕がある人を見て、なるほどなと思った。


「あー………そっか………。

 うん、わかった、除毛剤ね。

 宗方さんに会うんだし、お手入れはしておかないとだよねー」


「………」


「あ、ごめん……こんな時に不謹慎だったかな………」


「………ううん。

 お風呂に入る時とか、無駄毛がボウボウだと恥ずかしいからよろしく」


「うん、わかった………。

 あと他には?

 時間潰せそうなやつとか」


「うーん………今のところはいいや。

 部屋にテレビがあるから、毎日それ見てるし」


「そっか………。

 他には? 何かない?」


「んー………それだけかな………」


「………除毛剤だけ?」


「うん………。

 あ、お金はあとで払うね。

 貴重品とかも全部病院預かりで、自由がきかなくてさ」


「そんなのはどうでもいいんだけど………」


「………」


 麗奈は俯いて、ボールペンのノックを押して手帳にしまう。


 そして両手を膝の上に置いて言った。


「………あのね、環」


「ん?」


「環はどう思ってるかわからないけど………あたしにとって環って、一番大事な友達なのね?」


「………」


「だからさ………あたしは環に死んで欲しくないの」


 麗奈は真っ直ぐ見つめてくる。


「ホント言うとさ、環が若葉に相談しようとしてた事をあたしには話してくれなかった時、ちょっとショックだったんだよね………。

 あたしの方が環と仲良くしてるのにって」


「麗奈………」


 麗奈は上目遣いにこちらを見て、「ちょっとしたやきもちってやつ?」と言って首をすくめる。


「あたしまだまだ環と一緒にやりたい事が沢山あるんだよね。

 また買い物にも行きたいし、旅行とか? も行きたいし。

 あと車の免許も取ってさ、女二人でドライブとかも良くない?」


「………」


 麗奈は指折り数えながら話を続ける。


「お洒落なバーに飲みに行ったりー、クラブとかも行ってみたいよねー。

 あとエステとかも行きたくない?

 除毛剤なんか使わないで永久脱毛すればいいんだよ。

 あとは習い事もやってみたい。

 ヨガとかフラメンコとか?

 ああ、フラメンコの衣装とかお揃いでお洒落なやつ買おうよ」


「………」


「あとはそうだなぁ………あっ、そうだ、東京オリンピック!

 一緒に観に行こうよ。

 日本でオリンピックなんて、一生に一度かもしれないよ?」


「………」


「そういうさ、定番的な?

 普通に楽しい事とか一緒に楽しみたいわけよ。

 あたし達まだ19なんだもん。

 成人式だってまだじゃん」


「………」


「そうだ、成人式だよ。

 一緒に着物着て歩こうよ。

 あたしこっちの成人式に出るし」


 それを聞いて、プッと吹き出して笑った。


「住所は名古屋じゃん」


「いいんだよそんなの。

 成人式は着物を楽しめればいいんだから」


「………でも、成人式に出たら同級生とかに会うよね。

 あたし達どんな目で見られるのかな………」


「だったら、環が名古屋に来ればいいじゃん」


「………」


「自分の人生なんだよ?

 過去に何があろうと、自分で切り開いていかなきゃならないんだよ?」


「………」


「そうやって生きていけばいいじゃんあたし達。

 他の人がわかってくれなくても………あたし達はお互いの事わかってるじゃん」


「………」


「それなのにさ………環にいなくなられたら困るよ。

 マジで困る。

 ていうか、その前に悲しくてやってられなくなる。

 せっかく仲良くなれたのにさ………」


 麗奈は声を震わせ、目を潤ませた。


 麗奈に泣かれると、もらい泣きしそうになってしまう………。


「あたし意地悪だし性格悪いし………環みたいな子があたしには必要なんだよ。

 一緒にいてくれなきゃ寂しいよ」


 麗奈が流した涙を見て、胸がズキンと痛んだ。


「生きようよ一緒に………色んな事二人で乗り越えよう?

 あたし達二人揃ったら怖いものなんてないじゃん。

 バスケットボールぶつけ合った仲じゃん」


 唇が震えて、鼻で吹き出して笑った。


「そうだったね………バスケットボールとか懐かしい………。

 麗奈、卑怯なんだもん………大勢で寄ってたかってさー………」


 麗奈も泣きながら吹き出して笑い、「ごめん」と首をすくめる。


「環ってすんごい負けず嫌いだったよね」


「そっちこそ」


 顔を見合わせて笑い、あたしも麗奈に「ごめん」と謝った。


「心配かけてごめんね………。

 もうバカな事しないよ。

 悲しませて本当にごめん………」


「本当だよ。

 ………もう傷は痛くない?」


「うん、もう平気………。

 だいぶ塞がってきた」


「そっか、良かった」


 するとドアをノックされ、返事をすると、女の看護師がドアを開けてきた。


「相澤さん、もう一人お客さんが来てるわよ」


「え?」


 看護師さんが中へ促したのは、なんと………パパだった………。


「環………。

 来るのが遅くなって悪かったな」


「パパ………」


 仕事上がりなのか、パパはスーツを着ていて、麗奈に会釈をする。


 北海道のお土産と見られる袋をテーブルの上に置き、あたしが座ってる方へ回って来て、椅子には座らず、腰を屈めて手を握ってくる。


「りんごの事は警察の人から聞いたよ。

 辛かったな、環………。

 りんごはおまえの弟みたいなもんだったもんな………。

 だけどもう二度と死のうだなんて思わないでくれ。

 パパの娘は環だけだ。

 お願いだから、自分の身体を傷付けたりしないで欲しい」


 そっと包帯の上に手を乗せられて、勢いよく罪悪感が胸の中に広がった。


「………ごめんなさい。

 パパごめんなさい………あたし………」


 パパは首を横に振り、あたしの頭を撫でてくれる。


「もう泣かなくていいから。

 寂しい思いをさせて悪かった。

 パパな、来月末に東京に戻って来れる事になったから」


「え………本当に?」


「ああ。

 会社に頼み込んで、子会社に異動させてもらえる事になった。

 給料は下がっちゃうけど、これでまた環とあの家で暮らせる」


 それを聞いて麗奈が「良かったじゃん、環」と言って顔を輝かせる。


「だけどそれまでは北海道で引き継ぎしないとならないから、今日これからまた北海道に戻らなきゃならないんだ。

 それまで待っててくれないか?

 パパはもうどこにも行かないから。

 あの家で、一緒にママの帰りを待とう」


 緊張の糸がほぐれて、あたしは子供のように泣いてパパに抱き付いた。


「ごめんなさい………あたしのせいで転勤になっちゃって………。

 あたし………パパとママの大事なものを沢山壊しちゃったんだよね?」


「もういいよ、大丈夫だ。

 全部環には変えられないものだ。

 おまえさえ生きてくれていれば、それでいいよ」


 パパの言葉は嬉しくて、だから余計にグサグサと胸に突き刺さった。


 パパ達からもらった身体を傷付けてしまったという罪悪感………。


 一番の親不孝をしてしまったのだと、心から反省した。






 その日の午後、病棟内の診察室で志水先生の診察を受けた。


「良かったな………お父さんが帰って来てくれる事になって」


 志水先生は神妙な顔付きでそう言った。


「正直、家族の事は心配してたんだ。

 一連の事を受け止めて支えてくれるのは、家族しかいないからな………」


 なんと答えて良いのかわからなかったけど、そうやって言われると危機的状況にあったのだなと改めて思った。


「だけどこれでわかっただろう?

 お父さん達は環ちゃんを見捨てたわけじゃなかったんだ。

 お母さんからの連絡はまだないのかもしれないけど、きっと色んな事を思ってると思う。

 だから命を粗末にしないで欲しい。

 りんごちゃんの事は本当にショックだったろうし、可愛いそうな目に遭わされたと思うけど、りんごちゃんは生きたくても生きれなかったんだって事を忘れちゃ駄目だ。

 な?」


 こくんと頷くと、志水先生は小さく微笑んで頷く。


「それはそうと、君自身、最近変わったと思わないか?」


「え?」


「気付かないか?

 今回入院して一度も携帯を触りたいって言ってない事を」


「ああ………。

 でも、変わったっていうか、今はあんまり携帯を触る気分じゃないだけっていうか………」


「それでも一つの進歩だよ。

 しばらくネットや携帯から離れた生活をして、気付ける事が出てくるだろうし」


「………。

 ねぇ先生、前にあたしに聞いた事あったじゃない?

 若葉があたしにとってどういう存在だったか」


「ああ、うん、聞いたね」


「今なら答えられる気がする………。

 あたしと若葉は、相容れない関係だったんだと思う。

 やっぱりあたし………若葉の事は好きじゃない。

 いなくても何も差し支えないし………」


「………それは、今回の事を受けてそう思ったの?」


「そういうわけじゃないけど………。

 でも今回の事で思った事は、もう若葉に対して罪悪感を感じて生きるのはやめる。

 償いなんて、もう考えない」


「………」


「若葉のお母さんに対しても罪悪感なんて持たない。

 だって、あたしの大切な存在を奪ったんだもん。

 それも故意に………。

 だから、もうおあいこでしょ?

 これ以上罪悪感に苦しむ必要なんかないでしょう?」


 志水先生は小さく肩を落とす。


「でも、君にとって若葉ちゃんとりんごちゃんは、それぞれ別の存在なんじゃないか?」


「りんごに比べたら取るに足らない存在だよ、若葉なんて」


「………」


「麗奈が言ってくれたの、あたしが一番大切な友達だって。

 今のあたしにとってもそう。

 麗奈が一番大切な友達だよ。

 若葉なんかいらない。

 必要ない」


「うーん………。

 確かに僕は若葉ちゃんについて尋ねたけど、別に結論付ける事はないんじゃないか?」


「結論を付けたいの。

 だってもう、吹っ切って前に進みたいから」


「………」


「あとは警察に若葉のお母さんを捕まえてもらって終わらせたいの………。

 一生許せないけど、それでいいの。

 向こうもそうなんだろうし、もう二度と、関わりたくもない」


 志水先生は鼻で息を吐く。


「今の環ちゃんは感情的になってるから、こんな事を言っても届かないかもしれないけど………。

 人との関係なんて、簡単に割り切れるものじゃないと思うな。

 それこそ、白か黒かみたいに」


「………」


「僕はね、人との関係なんてみんなグレーだと思ってる。

 真っ黒も真っ白も存在しない。

 ただ、人それぞれグラデーションが違うだけでさ。

 そのグラデーションは時と場合で常に変化するものだと思う」


「………」


「誰にだって好き嫌いはあるけど、今日のこの人は優しいなとか、今日のこの人は機嫌悪くて嫌だなとか、そういう風に思う時があると思う。

 君は若葉ちゃんを嫌いだって言ったけど、彼女とテニスで一緒に遊んだ時は楽しかっただろう?」


「そんなの………昔の話だよ………。

 もう若葉はこの世にはいないし、今のこの気持ちはこの先覆る事なんてないよ、絶対」


「そうかな。

 生きてなくても、彼女と過ごした思い出は残ると思うよ」


「………やめてよ先生……そういう事言うのもうやめて。

 せっかく自分の中で整理の付け方が見えてきたのに………」


「………」


「先生前に言ったよね?

 あたしはネットの中にマイナスな自分を置いて、現実ではいい子でいようとしてるって。

 それはその通りだったけど、こんな時までいい子でいる気なんかないよ。

 だってあたし、今は若葉のお母さんの事を殺したいほど憎んでる………なんの罪もない犬を殺すなんて頭がどうかしてると思ってる………。

 最低な人間だって」


「………」


「それに本当のあたしはいい子なんかじゃないの。

 一枚皮をめくれば、人をバカにするような子なの。

 若葉の事なんか特にそう。

 受験だって失敗しちゃえって思ってたし、犯人達にIDを教えた時も、遊ばれちゃえばいいって思ったんだもん。

 そういう人間なのあたしは。

 だからもう、気持ちを掻き乱すのはやめてよ。

 ある意味、そういう自分を受け入れて認める事が出来たんだから………それでいいでしょう?」


「それでいいというか………。

 こうあるべきとかそんなものはないけど、君はまだ自分を受け入れる事なんか出来てないと思うよ?

 今は極端にマイナスな自分だけを "本当の自分だ" と主張してるだけでさ。

 それはネットに依存してた時の君と、本質的には何も変わってないと思う」


「………」


「自分をプラスかマイナスかに仕分ける必要はないんだよ?

 だって、どちらも君は君なんだもん。

 今日言った事を聞いたって、僕の君に対する評価は何も変わらないよ。

 環ちゃんは正義感の強い友達思いな女の子だ。

 そこはどんなにマイナスな君がいても変わらないと思う。

 表か裏か、どちらが本当の自分だとか、分ける必要はないんだ。

 両方とも、君っていう一人の人間なんだから」


「………じゃあ、どうやって乗り越えればいいの?

 あたしはそうする事でしか割りきる事が出来ないよ………」


「………。

 割り切るにはまだ時間が早いよ。

 それはもう少し先でいいと思う」


「あとどれくらい?

 どれくらいあたしは今の苦しみに耐えればいいの?」


 目に涙が滲むと、志水先生は腕を膝の上に乗せて両手を組んだ。


「その時がいつ来るのかはわからない………。

 だけど必ず訪れるし、君はそれが出来る子だと僕は思ってる」


「どうしてそんな事が言えるの?

 あたしは大した人間じゃないんだよ……強がってるだけで、本当は弱い人間なんだよ………」


「誰だって弱いよ。

 それでも君には出来る。

 だってもう、君はその山を登ろうとしてるから」


「………」


「何かを乗り越えるっていうのは、そういう事じゃないかな。

 いきなり頂上にたどり着けるわけじゃないし、登るところから始まってるんだと僕は思う」


 登るところから………。


「大丈夫だ。

 自分を信じてごらん?

 君はきっと、色んな自分を受け入れて、今の悲しみを乗り越える事が出来るから」


「………」


 そうして、その日の診察は終わった。






 それからさらに二週間が過ぎ、なんの答えも見付からないまま時が過ぎた。


 一つ変わったのは、ずっと病室に篭りきりだったのが、そうではなくなった事。


 食事は病棟内の広場で食べるようになり、麗奈がお見舞いに来てくれる日は、病棟を出れる院内散歩という時間を利用して、院内の中庭やテーラーで過ごすようになった。


 院内散歩が出来るのは月水金の週三回。


 その時間なら外に出て携帯を触ったり出来るけど、麗奈と待ち合わせをする以外に、携帯を使う事はほとんどなかった。


「ねえ、年が明けたらさ、思いきってオーストラリアに旅行に行ってみない?」


「オーストラリア?」


 麗奈は「じゃじゃん♪」と言って、バックからパンフレットを取り出す。


「さっそく旅行代理店からもらってきちゃった。

 高校の時の修学旅行はハワイでつまんなかったじゃん?

 あんまり自由に行動したり出来なかったし」


「へー………ハワイに行ったんだ………」


「そう、行ったんだよ。

 その時は環、”ハワイじゃなくてオーストラリアに行きたかったー“ って言ってたんだよ?」


「え?」


 麗奈は楽しそうにパンフレットをめくって、行ってみたいところを指して話してくる。


 あたしが行きたいと言っていた事を覚えていてくれたんだ………と、麗奈の優しい気持ちに胸がじんわり熱くなった。


「………うん、いいかも、オーストラリア行ってみたい。

 あたしは英語話せないから、麗奈に任せた」


「オッケー、麗奈ちゃんに任せなさーい♪」


 麗奈は院内散歩がある日は毎日来てくれていた。


 明るい麗奈の性格のおかげで、あたしは普通に笑って話せるようになれた。


 どうしてそんなに優しくしてくれるんだろうと、心の中で疑ってしまう時もあった。


 だけど話しているうちにいつも忘れてしまう。


 そのぐらい、自然と楽しく過ごす事が出来てきていた。


 と、そこへ、どこからか足元にピンクのゴムボールが転がってくる。


 それを拾い上げて、りんごが気に入っていた黄色いゴムボールを思い出す。


(あ………これって………)


 そこへ宗方さんが駆け寄ってくる。


「ごめんごめん、キャッチし損ねちゃって。

 ………あ、オーストラリアに旅行に行くの?」


 パンフレットに目を落とし、麗奈が「そうなんです」と答える。


「へー、いいね。

 俺も海外とか行ってみたいよ。

 それじゃあ」


 宗方さんはそれだけ言って、中庭の中央へ戻っていき、年配の人達とキャッチボールをしている。


 そっか。


 あのボールは患者さんの気分転換の為に売店に置いてあったんだ………。


「ねぇねぇ、環。

 前から思ってたんだけどさ、宗方さんって、あんまり笑ったりしないよね」


「ああ………うん、そうだね………」


「病院で何回か会ってるけど、一度も笑ってるとこ見た事ない気がする。

 元々そんな感じの人なの?」


 宗方さんの過去については誰にも話すつもりはないので、「まあ、あんな感じかな」とだけ答えておく。


「ふーん。

 ちなみに、宗方さんとは上手く行ってるの?」


「え?

 別に………フツーだよ。

 単なる患者と看護師って感じで」


「そうなの?

 せっかく担当に付いてくれてるのに、もったいないじゃん」


「担当って言っても、四六時中お世話してくれるわけじゃないし。

 他の看護師さんとかも検温とか血圧計りに来たりするし、毎日会ってるわけでもないよ」


「えー、そうなんだー。

 なんかつまんないの」


 麗奈は口を尖らせて可愛い顔をする。


 狙ってるんじゃなくて、自然と可愛い顔になるから羨ましいなと思う。


「それに宗方さんって、ああやっておじいちゃんおばあちゃんの相手をしてる事が多いし」


「へー。

 あの人達はどんな病気なの?」


「んー、たぶん、認知症かな。

 よく知らないけど」


 あまり病室を出て他の患者さんと話したりしないので、周りの事はよくわからない。


「ふーん………。

 でもさー、入院中がチャンスなんじゃない?

 退院したらしょっちゅう会えなくなるわけだし」


「そうかもしれないけど………。

 今はあんまりそういう事は考えられないし………」


「あ、そっか………。

 ………まあ、宗方さんだけが男じゃないしね。

 もしかしたら、これから他にもいい出会いがあるかもしれないし」


 いい出会いか………。


 いつかそんな日が訪れるのかな………。






 院内散歩から病棟に戻ると、売店で買ってきたクロスワードパズルをやる事にした。


 他の患者さんがやってるのを見かけて、いい時間潰しになりそうだなと思った。


 たまには病室から出て過ごしてみるかと思い、広場の椅子に座ってクロスワードパズルにのめり込んでいると、「ねぇ」と声をかけられる。


 白髪混じりのロングヘアーをボサボサにした中年のおばさんだった。


 目の下にはすごいクマが出来ていて、着ているパジャマは何日も洗ってない感じだし、見るからに病んだ空気を漂わせている………。


「………なんですか?」


 警戒しながら返すと、「隣、いい?」と尋ねてくる。


 嫌だなと思いながらも断れずにいると、いきなりぶっとんだ質問をしてきた。


「野口英世と話した事ある?」


「………。

 ………は?」


「だから、野口英世。

 知ってるでしょ?」


 それは当然知ってるけど………質問の意味がわからない………。


「あの………どうやって話すんですか?」


「はあ?

 なんで質問に質問で返すんだよ。

 こっちが聞いてるんだから、先に答えなさいよ」


 思いきり顔を歪め、キレ気味に聞き返してくる姿に妙な迫力を感じて、「ありません」と素直に答えた。


「あっそう。

 でも野口英世は、あんたがあたしの悪口を言ってたって」


「………はい?」


「だからその辺はっきり聞いておこうと思ってさ。

 ほら、あの人も結構曖昧な言い方するじゃない?

 偉い学者のくせにさー………」


 “ほら” とか、”じゃない?” って言われても、話の意味がさっぱりわからない


「あたし、あんたに何か悪い事した?」


「………はい?」


 するとおばさんは足を組んで、苛立ったように貧乏揺すりを始める。


「さっきから "はい?" ばっかり言ってんじゃないよ………。

 質問に答えろって言ってんの!」


 バンッ!と机を叩かれ、ビクッとする。


(何この人………本気で怖いんだけど………)


 こちらの騒ぎに気付いて、スタッフステーションから宗方さんが駆け付けて来る。


「どうしたの浅利さん。

 こんなところで大声出したらダメじゃない」


「この女があたしをバカにするからだよ!

 散々陰口叩いたりして、せっかく友好的に話し合おうとしてんのに、質問に答えないしさぁ!!」


「はぁっ!?

 ちょっ………そんな事言ってないしっ、変な言いがかりつけないでよ!」


 ついムキになって言い返すと、宗方さんが「いいから」とあたしをたしなめる。


「浅利さん、話は俺が聞くから病室に戻ろうか。

 ここで騒いだら他の患者さんがびっくりするから」


「なんでいつもそうやって病室に戻そうとすんのよ!

 あたしの言う事信じないで、また部屋に鍵かけて閉じ込めるつもりなんでしょ!」


「そんな事しないよ。

 浅利さんが静かに話してくれるならここで聞くけど、今はそう出来ないでしょ?

 すごく興奮してるし」


「絶対ちゃんと話を聞くんでしょうね?

 この女が悪いのよこの女が!」


 何べんもあたしに指をさすおばさんを、宗方さんが優しく「うん、わかったよ」と諭し、病室に連れて行く。


 うん、わかったよ………って、何それ!?


 なんであたしが悪者なの???


 一言文句を言ってやりたくなって立ち上がると、いきなり背後から「気にしなくていいよ」と声をかけられ、ビクッとして振り返る。


 上下ジャージを着た40代ぐらいのおじさんが、プラスチックのコップでお茶を飲みながら後ろの席に座っていた。


「あの人、いつもああなんだよ。

 統合失調症だから」


「え?」


 "統合失調症" という病名が出て来て、目をしばたたいて聞き返すと、おじさんはコップをテーブルに置いて腕を組む。


「俺も同じ統合失調症なんだけどさ、あの人の場合は、幻覚や幻聴の症状がひどいんだ。

 あと、妄想もすごい。

 さっきは野口英世がどうのとか言ってただろ?

 ついこないだまでは正岡子規がどうのこうの言ってたよ。

 たぶん、お札を見て頭にこびりついちゃったんじゃないかなぁ」


 それでそのラインナップなのか………。


 だけどいきなり "幻覚" とか "幻聴" とか言われても、どうしてそうなるのかがわからない………。


「あの………統合失調症って、あんな感じになるんですか?

 その………幻覚? 幻聴?」


「いいや、みんなじゃないよ、症状は人それぞれだから。

 統合失調症ってのは、色んな病気をまとめた病気なんだよ」


「はあ………」


「宇宙人に連れ去られそうになったとか、明日北朝鮮からミサイルが飛んでくるから逃げようとか、そういう妄想に取り付かれたりする人がいるんだよ。

 お化けを見たとかね」


「………霊感があるって事ですか?」


 おじさんは「いやいや」と手を払う。


「病気の症状でそうなってるって事。

 幻覚がある人は本当に見えるらしいんだよ。

 だからさっきの浅利さんは、幻覚と幻聴と妄想があって、野口英世と話をした事になってるんじゃないかな、あの人の中では」


「へぇ………。

 あの………えっと………」


 言わんとしてる事がわかったのか、「《植木》です」と自ら名乗ってくれた。


 あたしも「相澤です」とぺこりと頭を下げて返す。


「その………植木さんもそういうの、見えたりするんですか?」


 植木さんはどこにでもいそうな普通のおじさんで、とても浅利さんとかいうおばさんと同じ病気には見えない風貌だ。


 ジャージの袖口の所が擦り切れたりして、身なりに構ってないような感じはあるけど………。


「いや、俺はああいう症状はないから。

 ただ鬱っぽかったり、何もする気が起きなかったりするだけ」


 へぇ、と頷きながら、若葉が言っていた事を思い出していた。


〈うちのお父さん、テレビ見ながらいつも誰かと話してるんだよね………。

 誰もいないのに、何時間も〉


「………。

 あの………友達のお父さんの話なんですけど………」


 若葉のお父さんの事を話してみると、植木さんは頷いた。


「あー、そういう人もいるかもしれないね。

 つまり幻聴と幻覚があるって事だろ?

 それで何時間も独り言をブツブツとやられたんじゃ、家族はたまったもんじゃないよなぁ」


「………」


「まあとにかく、下手に触らない事だ。

 何の病気か知らないけど、相澤さんも自分の病気の治療の為に入院してるんだろ?

 それなら他の奴に絡まれても聞き流すか逃げるかして、自分の治療に専念した方がいいよ」


 植木さんはそう言って、湯飲みを持って去って行く。


 ………若葉は、お父さんのその独り言に悩んでいた。


〈いつもヘッドフォン付けて勉強してるんだけど、ラジオとか音楽聞きながらだと集中出来ない時があるし………。

 それに最近一人言がひどくなって気が散るの。

 あたし………本当に受験失敗するかも………〉


 中三の12月初旬頃、若葉は初めてお父さんの事をそう打ち明けてきた。


 確か、期末試験の結果が悪くて、その事をお母さんに厳しく叱られて、たまりかねて家を飛び出して来たと言っていた。


 駅前のバス停のベンチで泣いている若葉を偶然見かけて、どうしようかなと思ったけど、声をかけて話を聞く事にしたんだ。


 若葉はその事を誰にも言えず、ずっと一人で悩んでいたらしかった………。






 病室のベッドでぼんやりしていると、宗方さんがドアをノックして入って来る。


「相澤さん、ごめんねさっきは。

 大丈夫だった?」


「あ、うん。

 ………言っとくけど、あたし悪口なんか言ってないからね?」


「うん、わかってるよ」


 宗方さんが少しだけ頬を緩めて笑ったので、ドキッとした。


 宗方さんの笑顔、久しぶりに見れた………。


「あ、そうだ。

 これを渡そうと思ってたんだ。

 はいこれ、良かったら」


 宗方さんは思い出したように、制服のポケットから紺色のリストバンドを取り出して差し出してくる。


「いつまでも包帯巻いてたら、いかにもって感じで嫌だろ?

 それ付けてなよ。

 学生の頃に使ってたやつだから、ちょっと古いけど」


「え………いいの?」


 宗方さんは頷き、あたしの左手首を取って包帯を外す。


 宗方さんに触られると、心臓がドキドキして顔が真っ赤になってしまいそうだった。


 包帯を外し終えると、あたしはリストバンドを左手首に通して「ありがとう」と笑顔を向けた。


「寝る時は外してね、蒸れるといけないから」


「うん、わかった」


 宗方さんは包帯を指に巻きながら病室を出て行く。


 あたしは咄嗟に思い付いて、「あっ! 待って!」と呼び止めた。


「ん?」


「あのさ………」


 心臓のドキドキがバクバクに変わり、勇気を振り絞って言った。


「退院したら………また、未来ちゃんに会わせてもらえないかなと思って………」


「ああ………まあ、いいけど………」


 宗方さんは少し困った顔をして鼻をこする。


「患者さんと個人的に外で会ってたら、周囲に誤解されるからさ………」


 "誤解"という言葉に、ズキンと胸が痛んだ。


 もしかして、迷惑だったかな………。


「………だからその事は、他の人には内緒にしててね?」


「えっ………い、いいの?」


 宗方さんは小さく微笑んで頷く。


「じゃあ」


 病室を出て行くと、あたしはフワフワした頭を枕に倒し、やがてガッツポーズを取った。


(やった………。

 どさくさ紛れに誘っちゃった………オーケーしてもらっちゃった………。

 う………嬉しーいっ!!)


 咄嗟に思い付いた事だけど、勇気を出して言ってみて良かった。


 ベッドの上で悶えながら、明後日、この事を麗奈に報告するのが待ち遠しくなった。






 そして次の院内散歩の日。


 いつも話している中庭のベンチで麗奈が来るのを待っていた。


 空気が乾燥し、だいぶ寒くなってきたので、麗奈とお揃いで買ったカーディガンの袖を引っ張って手を隠し、そわそわしながら両手の指先をこすり合わせた。


 もちろん宗方さんからもらったリストバンドも左手首に付けていて、じゃーん♪と言って、袖をまくって見せるシュミレーションまで頭の中で出来ている。


(麗奈、早く来てくれないかなぁ)


 なかなか姿を現さないので、先に自動販売機で飲み物を買う事にした。


 いつも来てくれているお礼に、麗奈の分のコーンスープも買っておこうと思いながらそちらへ向かって歩いて行くと、自動販売機の前に宗方さんと、麗奈の姿を見付けた。


(え………なんで?)


 思わず足を止め、二人の姿に目が釘付けになってしまう。


 麗奈はしきりに宗方さんに話しかけていて、それに対して………宗方さんが吹き出して笑っていた。


 その笑顔を見て、心臓がぎゅっと縮んで、膝が震えた。


 居たたまれなくなり、回れ右をしてベンチへ引き返す。


 ………宗方さんは、あたしだけに笑顔を見せてくれるんだって………勝手にそう思い込んでた。


 麗奈とはまだそんなに親しくないはずなのに、どうして笑顔を見せたりするの?


 嫌だ………。


 宗方さんには他の女の子の前で笑って欲しくない。


 しかもよりによって麗奈の前で………。


 麗奈も麗奈で、約束の時間が過ぎてるのに、どうして宗方さんと話してるの?


 まさか………あたしが一昨日、今はそういう気分じゃないって言ったから?


 それとも、麗奈も前から宗方さんの事を気になってて、近付こうとしてるって事?


 麗奈は美人だし、性格も明るいし、きっと敵わない………敵うわけがない………。


 どうして同じ人を好きになろうとするの………?


「あっ、いたいた。

 環ー、遅くなってごめーん♪」


 声からはしゃいだ感じが伝わってきて、無性にイライラした。


「ごめんね待たせちゃって。

 今そこで宗方さんに会ってさー、ついに笑わせちゃったよ」


 たまらなくなって、あたしは席を立った。


「ごめん………今日は病棟に戻るね………」


「えっ? どうしたの?

 また調子悪くなった?」


 麗奈は心配そうに顔を覗き込んでくる。


「環に話したい事があるんだよ。

 あのね、宗方さんがね、」


 あたしは耳を塞いで「聞きたくない!」と声を上げ、麗奈はビクッとして身体を離す。


「びっくりした………どうしたの急に」


「………なんで遅れたの?

 約束の時間過ぎてるのに、なんで宗方さんと影で会ってたの?」


「え?

 いやいや、違う違う、そんな影で会うだなんて………。

 そこの自販機で偶然会って話してただけだよ。

 遅れたのは悪かったけどさ。

 はい、これ」


 コーンスープを渡してくる麗奈の手を、カッとなって弾いてしまった。


「痛っ!

 ちょっと………どうしたのいきなり………」


「………取ったりしないでよ」


「え?」


「あたしの気持ち知ってるくせに………宗方さんまで取ろうとしないでよ!!」


 麗奈は顔を強張らせ、コーンスープを持っている手を降ろした。


「何それ………。

 宗方さん “まで” って、それどういう意味?

 環まで………あたしの事そんな風に見てたって事?」


 麗奈がいじめに遭っていた時の話を思い出し、ハッとした。


 しまったと………そう思った時には既に遅く、麗奈はコーンスープの缶をベンチの上に置き、傷付いた顔をして身を翻して去っていった………。











  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る