第6話 後ろめたさ






 麗奈はリビングから火事が起きた庭を見て、顔をしかめて言った。


「ひどい………こんな事までするなんて………」


 あたしはインスタントコーヒーを作ってローテーブルの上に置き、ソファーに腰を降ろした。


「ごめんね、こんな物しかないんだけど」


 麗奈は首を横に振って「ありがとう」と微笑み、向かいのソファーに腰を降ろす。


 そして足下に近付いてきたりんごの頭を撫でた。


「りんごまでこんな目に遭わされるなんて………許せない」


「え?

 麗奈、りんごに会った事あるの?」


「ああ、うん。

 高校生の時に何度か遊びに来た事があるんだよ」


「へぇ………」


「本当に覚えてないんだね」


 麗奈はちょっと寂しそうな顔をしてコーヒーに口をつける。


「ごめんね、小学生の頃の記憶はあるんだけど………。

 まさか高校で麗奈と再会してたとは思わなかった」


「小学生の頃かぁ………。

 あたしとの事なんて嫌な思い出しかないでしょ?」


 自虐的に言って笑みを浮かべる麗奈を見て苦笑する。


「そんな事ないよ。

 ちゃんと仲直りして、仲良くなれた事も覚えてる」


「そっか。

 じゃあ、あの時の事は覚えてる?

 あたしがさ、環が若葉と遊んでる事について尋ねた時の事」


「ああ、あの下駄箱の前で話した」


「ううん、そうじゃなくて。

 その次の日の事」


「次の日?」


「教室であたしが、“昨日は本当に若葉と遊んだの?” って聞きに行った時の事。

 そしたら環が怒ってさ………」


 その時の事を思い返す。


 確か、朝教室に着いて早々の事だ。


〈………もし遊んでたとしたら、なんだって言うの?〉


〈え?〉


〈あたしが若葉と遊んでたら、麗奈はあたしと友達やめる気なの?

 そんな友達なら………あたしはいらない。

 麗奈と友達なんかやめる〉


「………あの時はびっくりしたなー。

 一対一で話してて、そんな事言われたの初めてだったし」


〈え………何怒ってるの環。

 そんな事言わないでよ、別に友達やめる気なんかないし………〉


 あの時の麗奈の困惑した顔を思い出して、ごめんねと謝った。


「あの日は若葉に対して気が立ってたから………」


「うん、高校に上がってからその時の事は聞いた。

 自分の事しか考えてない若葉に腹が立ったんでしょ?」


「うん………」


「どうして若葉はそんなにあたしのグループに居たかったのかなーって、今でもよくわかんないんだよね………。

 小学生の頃のあたしって、まあ………ぶっちゃけ意地が悪かったじゃん?

 特別仲が良かったわけでもないのに………」


「うーん………。

 若葉も華やかなグループの中に居たかったんじゃん?」


「そうなのかな」


「たぶんね。

 若葉の考えてる事ってたまによくわかんなかったけど………。

 それにしても本当に綺麗になったよね、麗奈。

 昔から綺麗で可愛かったけど、どこの美人のお姉さんかって思っちゃった」


「ありがとう。

 でもメイクしてるからそう見えるだけだよ。

 環だってメイクすれば全然変わるよ。

 環も可愛いじゃん」


「可愛くないよ。

 顔が男っぽいから自分の顔はあんまり好きじゃない」


「そんな事ないって。

 高校の頃は一緒にドラッグストアに化粧品買いに行ったりしてたんだよ?」


「そうなの?」


「うん。

 高校で再会してまた仲良くなれたのも、それがきっかけだった。

 環は覚えてないだろうけど、あたし高1の頃、一時期いじめられてたんだよ」


「えっ、麗奈が?」


「そう。

 高校に入ってから他校の男子に告白されて付き合う事になったんだけどさ、その元カノが同じクラスの女子だったみたいで、因縁付けられたんだよ。

 あたしが彼氏を取ったって。

 その男が最低な奴でさ、あたしが告白OKしてから、その子をフッたらしいんだよね」


「へぇ」


「それから嫌がらせされるようになって、ある日更衣室で着替えてるところを盗撮されて、ネットでバラまくって脅されて………。

 ドラッグストアで化粧品を盗むように命令されたの。

 店の前で見張られて、逆らえなくてマスカラをカバンの中に入れようとしたら、たまたま近くにいた環がそれに気付いて、あたしの腕を掴んで止めに入ってきたの。

 ………それで事情を話したら、あたしを連れてその子達の所に行って抗議してくれたんだよ。

 脅して万引きさせるなんて立派な犯罪だって。

 もちろんその場でシラを切られたんだけど、環はそれで引き下がらなくてさ。

 とぼけるつもりなんだったら、本当に警察に被害届出すからね?って。

 そうなったらあんた達の携帯調べられて、ソッコー逮捕だから。

 あたしに調べられるのと警察に調べられるの、どっちがいい?って」


 そう凄んで、あたしは麗奈をいじめていた女子3人組から携帯を出させ、盗撮写真をその場で削除したらしい。


 そしてもしも他にデータ残してて、本当にネットに晒したりしたら、ママに頼んで告訴するからねと言ったようだ。


 今度また麗奈に嫌がらせしたら、今回の事も黙っちゃいないからねと。


 そうして、それ以降麗奈はいじめを受ける事はなくなったそうだ。


「あたし、そんな事したんだ………」


「そうだよ。

 あの時環に助けてもらえなかったら、今頃どうなってたかわかんないよ。

 同じ高校って言っても、環は普通科であたしは英語科でそんなに接点なかったのに、環は本当に変わってないなーって思った。

 正義感があって勇気があって。

 あたしに本気でぶつかって来てくれたのも環だったし、これが本当の友達なんだなって思った。

 それまで都合のいい友達関係しか築けなかったけど、それを機にもっと仲良くなれたんだよ?

 一緒に帰ったり遊びに行ったり」


「………そっか」


 だけどそこで麗奈に裏切られたりしてたら、またネットに逃げ込んでいたんだろうな………。


「でも若葉の事があって………あたし達二人とも学校に行けなくってさ………」


 麗奈は視線を落として顔を曇らせる。


「麗奈も学校行かなくなったんだ………」


「行けなかったし、親からも行くなって止められた。

 世間に知れたら人生が台無しになるって言われて、携帯のアドレスも全部消されて、しばらく家に閉じ込められてた。

 環に連絡したかったんだけど、させてもらえなくて………」


「あたしが犯人達に若葉のIDを教えたりしたからだよね………」


「ううん、それはあたしだって同罪だよ」


「え?」


「犯人からチャットが入った時、あたし環と一緒にいたんだもん。

 学校帰りにマックに寄って話してる時だった」


 ようやくその時の話にありつく事が出来て、身を乗り出して「それで?」と続きを促した。


「ちょうど若葉に対して色々ムカついてた時だったし、相手の翔平君が遊び人だって聞いてたから、あたしが環に言ったんだよ。

 “教えちゃえば?” って」


「………」


「嫌なら若葉も自分で断わるだろうしって。

 それで環も “そうだよね” って。

 若葉なんか翔平君に遊ばれて捨てられちゃえばいいんだって、二人で冗談半分に話して笑ってて………そしたら、あんな事になった………」


 本当に、そんな軽い気持ちでした事だったんだ………。


「だから環一人の責任じゃないんだよ?

 あたしも悪かったんだよ」


 眉根を寄せてそう言い聞かせてくる麗奈を見て、鼻の奥がツンとした。


「ありがとう麗奈………。

 あたし、その時どうしてそんな事をしたのかがわからなくて、ずっと苦しくて………」


「あたしもずっと苦しかった。

 まさかあんな事になるなんて思わなかったし………。

 混乱してるうちにパパが名古屋に転勤する事になって、あたしも向こうの学校に転校する事になって………」


「そうだったんだ………」


 鼻を啜って、手の甲で目をゴシゴシと擦った。


「無事に高校も卒業出来て、大学にも進学出来て………。

 だけどいつまで経っても気持ちが晴れなくて不安だった。

 大事なものをこっちに置き忘れてきたような、やるべき事を残してきたような気がずっとしてて………。

 あたしはきっと、環と話をしたかったんだと思う。

 警察で事情聴取を受けて、何も話せないままそれきりになってたから」


「そっか………」


「だから今回の事を聞いて、すぐに駆け付けてあげなきゃって。

 ママに反対されたけど、黙って家を出て来ちゃった」


「大丈夫なの? そんな事して………」


「うん。

 あたしはパパとママに守ってもらえてたのかもしれないけど、それでいいのかなってずっと考えてた。

 気持ちが前に進めないまま、ずっと立ち止まってた………」


「麗奈もそうだったんだ………」


 麗奈は頷いて小さく鼻を啜る。


「環は今までどうしてたの?

 ………って、そっか、覚えてないんだよね………」


「うん、覚えてはないんだけど………」


 周りから聞いた話や、記憶を失ってから今日までの事を話した。


 苺美にされた事については、麗奈は不快感を露にする。


「苺美の奴、そんな事して来たんだ………」


「苺美も一人で苦しかったんだよ。

 今も一人で苦しんでる」


「でも………あたしは苺美に同情出来ない。

 苺美は環の中学時代の同級生って事で紹介されただけだし、翔平君達との合コンの話を持ちかけて来た時も、“知り合いの大学生だ” なんて嘘吐かれて。

 正直今でも苺美に騙されたって思ってる。

 あたし達も悪かったかもしれないけど、苺美が出会い系サイトで知り合った奴らなんかを紹介して来なければって」


「うん………あたしもそう言って苺美に責任を押し付けようとしちゃったけど………。

 でもそんな事したって自分がやった事からは逃げられないから。

 それに若葉のお母さんは、あたしを殺したい程恨んでるわけだし………」


「………その事なんだけどね、環。

 あたし的には………もう若葉の母親に同情するべきじゃないと思う」


「え?」


 顔を上げて麗奈を見ると、麗奈は眉間に皺を寄せたまま続ける。


「確かに若葉に対しては申し訳なく思ってる………。

 でもだからって、こんな事される筋合いない。

 だってそうでしょう?

 あたし達を騙して若葉を暴行したのは、あいつらなんだよ?」


「それはそうだけど………」


「それに、若葉の母親はもう散々あたし達に嫌がらせしてきたんだから。

 環の親やうちの親の会社に密告したのは若葉の母親なんだよきっと」


 麗奈もそう思っているようだ。


「それに若葉のあの父親………。

 あの人だけは絶対同情なんかしたくない」


 憎々しい顔をする麗奈を見て、思い出して言った。


「そういえば苺美から聞いたんだけど、若葉の父親が慰謝料を要求して来たって本当なの?」


「そう。

 でもあんなのは慰謝料の要求なんかじゃない。

 ただの “ハイエナ” だよ」


 そんな蔑称を口にする麗奈に少し驚きつつ、「どういう事?」と尋ねた。


「苺美も若葉の父親の事を嫌ってたっていうか、どっかおかしいみたいな事を言ってたんだけど………」


「苺美もそう言ってたんだ。

 あたしもどっかおかしいと思う、若葉の父親は。

 うちのパパとママはたぶん、何かの精神病なんじゃないかって言ってた」


「え、精神病?」


「慰謝料を要求してきた時からなんか様子がおかしくて、事件が起きて二週間後ぐらいだったかな………。

 夜中にうちを訪ねて来て、まるで電気代の集金に来たみたいに言って来たの。

 “あのー………若葉の慰謝料をもらいに来たんですけど………” って、抑揚のない口調でそう言ってきて。

 それを断わったら怒りを見せるでもなく、“でも、払ってもらわないとうちも支払いが滞って大変なんですよ……” って」


 それは確かにおかしいと思った。


「最初は若葉が亡くなったショックで気がおかしくなってしまったのかなって、パパ達は思ったみたいなのね。

 それであんまり騒がれたくないと思って、慰謝料じゃなくて示談金として、後日50万払ったみたいなの。

 だけどその後会社に密告されて、まったく意に介さない様子っていうか、何事もなかったみたいに慰謝料をくれって。

 その時も、集金に来たみたいに」


「………」


「だけどパパが怒鳴って追い払ったら、そのうち来なくなったけど………。

 あれは絶対なんかおかしいよ」


「うーん………」


「それに、若葉の父親がなんの仕事をしてたか、環は聞いた事ある?」


「あ、ううん。

 あたしもはっきりとは聞いた事がなくて。

 それに同じ団地に住んでる時も会った事ないんだよね」


「そう………。

 とにかく、ちょっと普通じゃないと思う。

 若葉の事でおかしくなったんじゃなくて、元々どっかおかしかったんじゃないかってパパが。

 本当に娘を失った怒りを感じてるんなら、娘の事にかこつけてお金をせびったりなんかしないって」


「………」


「だからたぶん、若葉の家庭自体どっかおかしかったんだよ。

 若葉が自殺したのは、暴行された事だけが原因じゃないかもしれないし………」


「どういう事?」


 麗奈はあたしから目を逸らし、「いや、ちょっとそう思っただけなんだけどさ」と言葉を濁す。


「とにかく、若葉の事があるからって、これ以上同情しちゃダメだよ。

 若葉の母親は警察に捕まえてもらわなきゃ」


「うん、そうだけど………」


 目を伏せると、麗奈は「しっかりして?」と言ってくる。


「いくら自分にも非があっても、つけ込まれちゃダメだよ環」


「うん、それはわかってる………。

 だけどもう一つわからない事があるの。

 そもそもあたしと若葉の喧嘩の原因ってなんだったんだろうって。

 あたしが何か悩んでて、それを若葉に相談しようとしてたみたいなんだけど………。

 麗奈、何か知らない?」


「ああ、うん。

 それはあたしも聞いてないの」


「そうなんだ………」


「だけど相談を持ちかけたのに返事をくれなかったって話は聞いてる。

 チャットで “既読” になってるのにスルーされたって」


 既読………。


「それで若葉と喧嘩になった後、今まで散々若葉に裏切られてきた事を環は打ち明けてくれたの。

 環が助けてあげても、若葉はそれをすぐ裏切ってたって」


「………」


「それを聞いてあたしも若葉に対して余計にムカついて、それでついあんな事言っちゃったんだけど………。

 環も本気で悪気があって、IDを教えたわけじゃないよ」


「そっか………」


 あたしはソファーの上に足を乗せ、ごしごしと顔を擦った。


「ありがとう麗奈、色々話を聞かせてくれて」


「ううん。

 それにしばらく、あたしは環の側にいるから」


「え、でも大学があるんじゃ、」


「大学は休学届けを出してきた。

 一度立ち止まって、ゆっくりこれからの事考えてみたいって思ってたところだったんだよ。

 ただ流されるまま物事だけが進んで行くみたいで嫌だったから」


「そっか………」


「それにさ、今度はあたしが環を助ける番だから。

 環のママが出て行ってしまったんなら尚更だよ。

 病院に通ってるんなら、あたしも一緒について行ってあげる。

 一人にしないから」


「麗奈………」


「だけどさ、環。

 あたし………環のママは、きっと帰ってきてくれると思う」


「え?」


「あたし、環のママの事は信じてるから。

 小5の時、あんな風にあたしに大事な事を気付かせてくれた環ママの事。

 だから環も信じよう?

 きっと戻ってきてくれる。

 ね?」


 力強く励まされて、複雑な思いに駆られながらも、あたしは「ありがとう」と返した。






 その翌日。


 外来で志水先生の元を訪れた。


「へぇ、良かったじゃないか。

 友達が会いに来てくれて」


 麗奈の事を話すと、志水先生は顔を綻ばせながらそう言った。


「うん。

 まさか麗奈がもう一人の少女Cだとは思わなかったし、向こうから会いに来てくれるとは思わなかったからびっくりしたけど」


「確か麗奈ちゃんって、小学校の時に君をいじめてたグループの大将だった子だろう?」


 あたしは「まあね」と苦笑して返す。


「という事は、その子だけなんじゃないか?

 ちゃんと仲直りして友達関係が続いてる子って」


「え?」


「ほら、前に言ってただろう?

 君達の間じゃ、ちょっとした事ですぐ仲間外れにされたりして、特に仲直りする事なくなあなあな感じで終わるみたいな事をさ」


「ああ………」


 そう言えばそんな事も話したっけ………。


「喧嘩しても仲直り出来る友達は大事にした方がいいよ。

 それに彼女は、君に助けてもらった事をずっと感謝してたんだね」


「うん………まあ………」


 首を捻って返すと、「何、どうしたの」と尋ねられる。


「いや、あたしはその時の記憶がないからピンとこなくて」


「そう?

 環ちゃんらしいじゃないか。

 そうやって友達の為に果敢に向かっていくところが」


 志水先生が吹き出して笑うので、なんとなく恥ずかしくなって首をすぼめた。


「まあ、実際そういう事が起きたらそうするかもなとは思うけど………」


「なんだ、さっきから釈然としない感じだね。

 何か気になる事でもあるの?」


「まあ………ちょっとだけ………。

 麗奈はその事があって本当の友達になれたって言ってくれてたんだけど、あたしの方は麗奈の事を信用してたのかなぁって」


「どういう事?」


「あたし、若葉に悩み事の相談を持ちかけてたって事だったじゃん?

 だけどその悩みって、誰にも打ち明けてなかったみたいなの。

 警察に聞かれた時も、それは言いたくないって言ってたんだって」


「へぇ」


「でも麗奈と仲良くしてたんなら、どうして麗奈に相談しなかったんだろうと思って」


「麗奈ちゃんには聞いてみたの?」


「うん、聞いてみた。

 だけど何を相談しようとしてたのかは聞いてないって」


「そうなんだ」


「それに、こんな事を言ったらあれなんだけど………」


「ん?」


 一度乾いた唇を舐めてから打ち明けた。


「麗奈が会いに来てくれた事は嬉しいし、側にいて助けになってくれるって言ってくれた事もすごく嬉しかった。

 でも………その分ちょっと不安になってる自分がいる………」


「どうして?」


「………前回、苺美から騙されてるから」


「ああ」


 そういう事かと言うように、志水先生は何度か頷く。


「力になるなんて言っておいて、あんな風に騙されちゃったじゃん?

 麗奈の場合は “自分も悪かったんだ” って打ち明けてきてくれたけど………。

 麗奈と再会して仲良くなった記憶がないし、また友達に騙されたり裏切られたりして傷付くのが怖いなって………」


「なるほど」


 志水先生は頬を緩めながらノートパソコンに向かってキーボードを叩く。


「確かにそんな事があった後じゃ慎重になるだろうね」


「うん………」


「僕個人としては、麗奈ちゃんは自分が損する事を打ち明けてきたわけだから、信用してもいいんじゃないかと思うけど。

 でも環ちゃん自身が不安なら、無理して信用する事はないと思うな」


「どういう事?」


「誰だって自分が可愛いからさ、傷付くのが怖くて相手を疑ったりするのは自然な事だと思う。

 それにね、どんなに信頼出来る友達でも、全てをさらけ出す必要はないんだよ」


「え?」


 志水先生は椅子を回転させて再びこちらを見る。


「環ちゃんはネットにマイナスな自分を置く事で、現実生活の自分を保ってるところがあるって、前に話した事があるだろう?」


 こくりと頷く。


「それは理想とする自分でありたいと思う気持ちだったり、友達を裏切ったりしてはいけないっていうような、真面目な性格から来てるところがあると思う。

 だけど真面目でいようとする分、疲れてしまう事がある」


「………」


「環ちゃんは自分でも言ってたけど、卑怯な事が嫌いだったり、常に正直でいなきゃいけないと思ってるところがあると思うんだ。

 でも人間には誰だって弱いところがあるし、ずるいところだってあるし、そういうとこってあんまり人に見せたくないよな?

 だけどそこを裸にしてさらけ出してしまうと自分を守るものが何も無くなってしまって、すごく苦しくなってしまう。

 例えば野球のグローブに例えて考えてみようか」


 そう言って志水先生は左手を広げて見せる。


「野球のボールを受ける時にグローブを使わないでキャッチすると当然痛いし、肝心な手を痛めてしまう事になって試合どころじゃなくなってしまう。

 それと同じで、心にもそういう防具みたいなものがあっていいと思うんだ。

 そうしないと周りからの言葉にいちいち傷付いてしまったり、相手に裏切られたような気持ちになって、“自分はこんなに正直なのに、どうしてあなたはそうじゃないの” って、相手を責めてしまったりね。

 そこは、心当たりがあるよな?」


 唇を噛んで、こくんと頷く。


 先生の言う通りだ。


「正義感が強いところだったり、友達を大事にしようとするところは環ちゃんの良いところだと思う。

 だけど実際そういう事が出来る人間って少ないと思うし、環ちゃんだけが損をしてしまう事になるよな?

 だから真面目な自分を大事にするのもいいんだけど、“人は誰でも秘密を持っていいんだ”、“自分を守ってもいいんだ” って事を頭に留めておいてさ。

 そうやって自分を楽にしてあげると、もう少し周りと上手くやる事が出来るかもしれない」


「そっか………」


「人を信じる事って勇気がいる事だよな。

 だから麗奈ちゃんの事も無理して信用しようとしないで、これから信頼関係を築くつもりで付き合ってみたらどうかな。

 自分を守りながら人に近付く事は決して悪い事じゃない。

 少しずつ近付いていけばいいと思うよ」


「少しずつか………そっか………。

 そうしてみようかな」


 志水先生は頬を緩めて「そうしてみてごらん」と言って、再びノートパソコンに向かう。


「それはそうと、昨日はパニック発作が起きたみたいだけど。

 それはもう大丈夫か?」


「あ、うん。

 宗方さんがいてくれたおかげで助かりました………」


「うん、偶然居合わせたんだってな。

 でも心配なのが、若葉ちゃんの母親の行動だな………。

 君をつけてきた可能性があるんだろう?」


「たぶんそうなんだと思う………。

 今朝警察に電話してその時の事を話したんだけど、警察の人もそう言ってた。

 跡をつけられてないか、充分注意するようにって。

 でも夜とかは自宅周辺をパトロール強化してくれるって言ってた」


「そうか。

 その辺は僕には何もしてあげられないから、警察を頼って自分の身を守るようにな。

 若葉ちゃんに対して罪悪感を感じてるかもしれないけど、そのお母さんがやってる事は許されない事だ。

 絶対に同情して自分を追い込んだりしないようにな」


 角田さんや麗奈にも同じ事を言われたなと思いながら、頷いて「はい」と答えた。






 診察を終えて待合室の方へ向かうと、麗奈が雑誌を読みながら待っていた。


「麗奈、お待たせ」


「ああ、おかえり」


 麗奈は雑誌を閉じてラックに戻す。


 あたしは隣の席に腰を下ろした。


「結構待たせちゃったよね、ごめんね」


「ううん、大丈夫。

 ねね、それよりさ、精神科ってどんなところなの?

 怖い人とか居たりしないの?」


「うーん、最初はあたしもそう思って不安だったんだけど、他の患者さんには会ってないから結構平気かな。

 診察自体は割と普通に話してる感じだし」


「へー、どんな事を話すの?」


 興味を示して尋ねてくる麗奈を見て、先程志水先生と話した事を思い出し、少し後ろめたい気持ちになった。


 だけど全てをさらけ出さなくてもいいんだというアドバイスを思い出し、話せる範囲で話をした。


「最近の身体の調子はどうだったかを話したり、この一週間の間に起きた事を話したり。

 あとは不安に思ってる事を話して、アドバイスをもらったりする感じかな」


「へぇー。

 先生はどんな感じの人なの?」


「すごく優しいよ。

 それにあたしの性格を理解した上で、色々為になる事とかを教えてくれる。

 こういう時はこう考えてみたら?とか」


「そうなんだ。

 なんか精神科のお医者さんに相談できると頼もしい気がするね」


「うん、すごく頼もしい」


 笑顔で頷き、志水先生に言われたように、麗奈とはこれから少しずつ近付きながら付き合って行こうと思った。


 病院の玄関を出て話しながら歩いてる途中、背後から「相澤さん」と呼ばれて振り返る。


 中庭の方から宗方さんが走って来るのが見えて、ドキッとした。


「あ、宗方さん。

 あの、昨日は本当にありがとうございました」


 頭を下げて礼を言った。


「あれから大丈夫だった?」


「うん、大丈夫。

 それに昨日、友達が会いに来てくれたから」


 そう言って麗奈を見て、宗方さんを紹介する。


「麗奈、こちら担当看護師の宗方さん」


「初めまして、環の友達の久住麗奈です」


 麗奈は笑顔でお辞儀をする。


 宗方さんはペコッと会釈をして返す。


「良かったね、友達が会いに来てくれて」


 あたしは照れながら頷いて返す。


「あれから警察には連絡した?」


「うん、今朝電話した」


「そっか、気を付けないとな。

 それから昨日みたいにパニックになった時は、なるべく落ち着いて呼吸をするようにな」


「うん、わかった」


 宗方さんは頷き、「それじゃあ」と言って中庭の方へ戻り、車椅子に乗っているおじいさんに何か話しかけている。


 その様子を眺めていると、麗奈が「んんー?」と言って顔を覗き込んでくる。


「何見とれてんの?」


「えっ、別に、見とれてたわけじゃないよ」


「嘘だぁ、今顔がにやけてたよ?」


「えっ、嘘」


 顔に手を当てると、麗奈はにやっと笑って「わかりやすーい♪」と言った。


「結構かっこいい人じゃーん。

 さては惚れたね?」


「別にっ、そういうわけじゃないってば。

 だいたいあの人、すっごい年上なんだよ?」


「へぇ、いくつなの?」


「27歳」


「27歳かぁー。

 でもそれぐらいの年の差なら全然アリじゃない?

 いいじゃん年上♪」


「だから違うってば!」


「隠さない隠さない♪」


 冷やかすように手をヒラヒラさせる麗奈に、顔が熱くなって「もうっ」と怒って見せる。


 そして病院の表玄関へと歩いた。


「いいじゃんそんなに照れなくったって。

 なんだか見かけによらず真面目そうな人だね」


「まあ………」


「好きなんでしょ?」


 今度は冷やかしじゃなく、頬を緩めて確認してくる麗奈に、小さくこくりと頷いた。


 麗奈はそれを見て嬉しそうに笑った。


「新たな恋の到来かぁ。

 いいじゃんいいじゃん?」


 “新たな恋” と言われて、あの事を思い出した。


「ねえ麗奈………新聞に書いてあったんだけどさ。

 あたし………犯人グループの一人と付き合いだしてたって、本当?」


「ああ………あれね………。

 確かにそんな話になったみたいだけど、でも結局2~3回会っただけだから気にしなくて大丈夫だよ」


「やっぱり本当だったんだ………」


 肩を落とすと、麗奈は「気にしないの」と言って励ましてくる。


「あんなの付き合った回数に入らないって。

 今は新しい恋に出会えたんだから、それでいいじゃん」


「そうだけど………」


「ね、それよりさ、これから吉祥寺に行ってみない?」


「え、吉祥寺?」


「うん、久しぶりに行ってみたい。

 高校の時は環とよく寄り道してたんだよ」


 そっか、椿女子は吉祥寺にあるんだっけ。


「それにさ、環のその髪。

 しばらく何も手入れしてないでしょ」


「え?

 ああ………まあ、たぶんそうなのかな………」


 記憶が無くなる前はよく覚えてないけど。


「恋した記念にさ、美容室に行ってカラーリングでもしてみない?」


「え、カラー?」


「そう。

 そしたらもっと明るい感じになって可愛くなると思うよ」


「そうかなぁ。

 でも染めた事ないからよくわかんないんだけど………」


「絶対可愛くなるってー。

 イメチェンするといい気分転換にもなるしさ」


「イメチェンかぁ」


 そういえばこないだ、桐島からももっとお洒落しろってダメ出しされたばっかりだっけ………。


「ね? 行こう行こう♪」


 腕を組んで誘ってくる麗奈に、頷いて返す。


「うん、行ってみようかな。

 人生初のカラーリング」


「よしっ、決まり決まりー♪」


 そうして、あたしと麗奈は電車に乗って吉祥寺へと向かった。






 空きのある美容室に入り、ヘアカタログを見てどんな色にするかを選ぶ。


 だけど自分にどんな色が似合うかわからなかったので、麗奈に選んでもらう事にした。


 そして決まったのがモカブラウン。


 カラーリングと一緒に肩下まで重く伸び切っていた髪の毛をすいてもらい、フロントには少しシャギーを入れた。


「あーっ、いいじゃんいいじゃーん。

 すっごく垢抜けた感じ」


 仕上がった後、麗奈はあたしの後ろに来て鏡を見ながら言った。


 あたしも鏡に映った自分を見て、結構いいかもと思った。


 髪の毛はそんなに黒い方ではなかったけど、やっぱりカラーリングした方が軽く見えるし、気持ちが明るくなった気がした。


 美容室を出た後、麗奈が服を見に行こうと言うので、南口にある丸井を見て回った。


 最近の流行りのファッションを知らないのと、19歳の年齢に合う服がわからなかったので、麗奈にアドバイスをもらいながら、何着か服も購入した。


 可愛いと思うカーデを見付けて、照れ臭い感じもしたけど、色違いでお揃いを購入した。


 すごく楽しかった。


 こんな風に女同士で出かける事も、久しぶりであるような気がした。


 それに中学生の時より大人っぽい服を選ぶ事が出来て嬉しい。


 試着して全身を鏡で見ながら、これが19歳の自分なのかと、改めて思ったりした。


 いつの間にか大人になってしまったような不思議な感じと、もっと色々お洒落してみたいなという気持ちがわいてきて、すごく楽しみになってきた。


 ヒールのある靴も一足買って、今度は化粧品も見に行ってみようと誘われ、ドラッグストアへ向かう。


 店に入ると、「この店で環が助けてくれたんだよ」と麗奈が言ってくる。


 へぇと頷きながら、見覚えのない化粧品売り場を見渡す。


 中学生の時に色付きのリップクリームを買おうと、何度か化粧品売り場に来た事があるけど、ファンデーションやマスカラを買ったような記憶はまったくなかった。


(これからはあたしも化粧したりするんだ………)


 リップクリームではなく、グロスを手に取ってそんな事を思った。


 そしてふと、財布の中身が気になった。


 調子に乗ってママが残してくれたお金を結構使ってしまったけど、勝手にこんなに使ってしまって良かったのか………。


 当面は困らない額が通帳の中に入っていたけど、今まで服や靴を買う時は、いつもママからお金をもらって買いに行ってたから、少し罪悪感を感じた。


 あたしの大学費用の為に貯めた貯金だったわけだし………。


 でも、ママはこのお金を残して家を出て行ってしまったわけだし、半ば反抗心で、このぐらいいいかなと思い直して化粧品を眺め、可愛いケースに入ったファンデーションを見付けて手に取っていると、目の前にある鏡に、若葉の母親と同じショートボブの中年女性が映っているのを見付けて、ビクッとして硬直した。


 その人はおばさんじゃない。


 でも、もしかしたら今日もつけられているのかもしれないと思い、バッと振り返って辺りを見渡した。


「どうしたの? 環」


 あたしの様子を見て、隣にいた麗奈が不思議そうに尋ねてくる。


 それに答える余裕がなく、心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、同じところを何度も見返したり、落ち着きなく目を動かした。


「ねぇ、環、いったいどうしたの?」


「麗奈………ゴメン………。

 あたしやっぱり、化粧品はいいや………」


「え?」


 胸の中に不安が一気に広がって、居ても立ってもいられなくなり、手にしていたファンデーションを棚に戻し、店を飛び出した。


「環!」


 店を出てからハァハァと息を切らし、辺りを見回す。


 どこかから若葉の母親に見られているかもしれないと思うと、気が気じゃなかった。


 あたしがお洒落を楽しんでいたら、若葉の母親はどう思うだろうか………。


 また昨日のような目で見つめられそうな気がして怖くなった。


「ねぇ、環ってば、本当にどうしたの?」


 追いかけて来た麗奈に腕を掴まれて、小さく悲鳴を上げて振り払った。


「あ、ごめん………びっくりしちゃって………」


「どうしたの環。

 なんかすごい汗かいてるし、顔色が悪いけど………」


 心配顔で尋ねてくる麗奈に、あたしは唾を飲み込んで言った。


「なんか………急に若葉の母親に見られてるような気がして………」


「ええ?」


 麗奈は顔をしかめ、急いで辺りを見渡す。


「………気のせいじゃない?

 いくらなんでもこんなとこまでつけて来たりしないんじゃ………」


「でも………井草森公園にも、妙少寺公園にもつけて来たんだよ?」


「それはそうかもしれないけど………。

 だとしても大丈夫だよ、普通に買い物してるだけなんだし」


 その言葉が妙に癇に障って、あたしは麗奈を見て言った。


「どうして………?

 なんで麗奈は普通にしていられるの?」


「え?」


「化粧品なんか買ってるとこ見て、どう思われるか気にならないの?

 あたし達………若葉にあんな事したのに!」


 大声を出してしまい、我に返る。


 麗奈は戸惑った顔をしていて、周囲の人が訝しい顔付きであたしを見て通り過ぎて行く。


 さらに息苦しくなった気がして、あたしは胸を押さえて呼吸を整えながら言った。


「ごめん麗奈………ごめん………」


 立っているのも辛くなって、その場にしゃがみ込む。


「環………ねぇ、大丈夫?

 しっかりして?」


 大丈夫と返して、麗奈に支えてもらいながら近くにあるベンチまで向かい、頓服の薬を飲む事にした。






 帰りのバスの中で、麗奈に謝った。


「本当にごめんね麗奈。

 せっかく楽しく買い物してたのに………」


 二人席に座っていて、麗奈は隣で首を横に振る。


「ううん、ちょっと驚いたけど………。

 帰りはバスで良かった?

 大丈夫?」


「うん、もう落ち着いたから」


「そっか………」


 困惑した表情で俯く麗奈を見て、本当に申し訳ない気持ちになった。


「あたし………たまにこうなっちゃうの」


「ん?」


「急にイラッとして感情的になったり、さっきみたいにパニックになったり………」


「………それも、病気のせいなの?」


「そうみたい。

 感情をコントロール出来るようにトレーニングしてるんだけど、さっきみたいにパニックになると………」


 ため息を吐いて頭を抱えると、麗奈は肩をさすってくる。


「大丈夫だよ。

 病気の事はよくわかんないけど………今日の事は気にしなくていいから。

 それに環は実際に跡をつけられてるんだもんね。

 不安になって当然だよね」


 あたしは少し顔を上げて麗奈を見る。


「あたし、そういう事何も考えないではしゃぎすぎてたのかも。

 環に元気出してもらいたい気持ちもあったんだけど、環とこんな風に出かけるの久しぶりだったからさ。

 ごめんね?」


 眉尻を下げて微笑む麗奈を見て、胸が痛くなってかぶりを振った。


「ううん、麗奈は何も悪くないよ………。

 それにあたしも、今日はすごく楽しかった」


「本当?」


「うん、もちろん」


 小さく微笑み合って、お互いの肩に軽く持たれかかった。






 そしてその日の夜。


 あたしは夢にうなされていた。


 どこに行っても、若葉の母親からつけられる夢………。


 りんごのお散歩に出かける時も、家で料理をしている時も、お風呂に入っている時まで、いつもどこかから見られているような気がして、不安で不安で、頭がおかしくなりそうだった。


〈どうしてそんなに楽しそうに笑っていられるの?

 若葉をあんな目に遭わせておいて………〉


 そんな声が聞こえてきて、あたしは耳を覆って叫んだ。


 でも、その声が上手く出ない。


 そして声が出ない事で息苦しくなり、夢の中で必死にもがいていた。


(誰か………誰か助けて!)


 ………そして、急に頬をペロッと舐められて、ビクッとして目を覚ました。


 あたしの顔を舐めていたのはりんごだった。


 りんごは汗だくになったあたしの顔をしきりに舐めてくる。


「りんご………」


 ホッとして、りんごを抱きしめて背中を撫でる。


 そしてふと、勉強机のスタンドライトが付いている事に気付いた。


 そちらを見ると、麗奈がパソコンを付けたまま、机に突っ伏して小さな寝息を立てている。


 大学から出されたレポートだけは期日までに提出しなければならないらしく、ネットを使わせて欲しいと言われて貸していたのだ。


 今日はあちこち動き回ったし、途中で疲れて寝ちゃったんだろうなと思い、クローゼットからひざ掛けを取り出し、静かに近付いて肩にかけてあげようとして、麗奈が見ていたパソコン画面に目が留まった。


 WEB画面には、自律神経失調症についてのサイトが開かれていた。


 そしてもう一つのタグには “心の病について” と書かれてあって、麗奈を起こさないようにマウスでタブをクリックしてみると、


[心の病にかかった人に周りがしてやれる事]


 と書かれてあるページを見て、震えそうになった口元を手で押さえ、涙が込み上げてきた。


 麗奈は、あたしの病気を理解しようとしてくれてたんだ………。


 思いがけない麗奈の気持ちが嬉しくて、涙が止まらなくなった。


(麗奈、今日は本当にごめんね。

 そしてありがとう。

 本当にありがとう………)






 翌朝。


 9時頃になって、麗奈が欠伸をしながらリビングに起きて来た。


「おはよー………。

 机で寝ちゃってたから肩凝っちゃった」


 あたしはダイニングテーブルで餃子を皮で包みながら言った。


「ごめん、熟睡してるみたいだから起こさなかったんだ」


「大丈夫。

 ひざ掛け、肩にかけてくれてありがとね。

 ………何やってんの?」


 麗奈はようやくこちらに気付く。


「餃子作ってる。

 今日のお昼ご飯は餃子と炒飯にしようと思って」


「うっそー、手作り餃子?

 環そんな事出来るんだ」


 麗奈はこちらにやって来て感心したように言ってくる。


「このぐらい出来るよ。

 パパとママが仕事で遅い日は、あたしが作ったりしてたから」


「偉い環ー。

 しかもなんか超器用じゃない?」


 あたしは顔を綻ばせて頷く。


 餃子と炒飯はあたしの十八番で、昨日のお礼に作ってあげたいと思ったのだ。


「朝ご飯もキッチンの方に作ってあるから食べてよ。

 食パンは自分で焼いてね」


「あーっ、すごーい。

 美味しそう♪」


 レタスの上にスクランブルエッグとソーセージを乗せただけなのに、麗奈は子供みたいな顔をして喜んでいる。


 その姿が可愛く思えて、あたしは吹き出して笑ってしまった。


 そして朝食を食べ終えると、麗奈が餃子の皮の包み方を教えてくれと言うので一緒にそれをやっていると、インターホンが鳴った。


 誰だろうと思いながら腰を上げ、ドアホンを取ってモニターを見ると、玄関の前に立っていたのは苺美だった。


「えっ、嘘、苺美だ」


「は? 苺美?」


 苺美はなんとなく元気のない面持ちで顔を俯かせている。


 ドアを開けに向かうと、苺美は決まり悪そうな顔をして「おはよう」と言ってくる。


「どうしたの苺美。

 突然だったからびっくりした」


「うん………急にごめん………。

 あのね、」


 そこまで言いかけて、苺美はリビングのドアの前に立っている麗奈の姿を捉え、顔を凍りつかせた。


「麗奈………」


 麗奈は腕を組んでいて、低い声で「久しぶり」と返す。


 あたしは苺美に言った。


「あ、麗奈がね、あたしの事心配して会いに来てくれたんだ」


「そうだったんだ………」


 苺美は目を泳がせながら顔を伏せ、緊張した面持ちで下唇を噛んでいる。


 この二人が話しているところを見るのは初めてで、様子がおかしい苺美に「どうしたの?」と尋ねると、麗奈が言った。


「いったい環に何の用?

 ていうか、よくのこのこ来れたもんだよね」


「………」


 麗奈は明らかに怒った表情で、腕を組んだままこちらへやって来る。


「環におかしな手紙寄越したらしいじゃん。

 それに若葉のあんな写真までプリントアウトして来るなんて………頭どうかしてんじゃないの?

 しかも環のせいで自分の人生が滅茶苦茶になったとか、家計が大変になったとか因縁つけてきて。

 そんなの全然環には関係ないじゃん。

 あんたんちの家庭の事情まで押し付けてくんのやめてよね。

 被害にあったのはあんただけじゃないんだから」


「ちょっと麗奈、少し落ち着いてよ」


 止めに入ると、麗奈は厳しい目付きをして言った。


「ううん、環。

 苺美とも警察の事情聴取を受けて以来それきりになってんの。

 だから言わせてよ。

 ………苺美、よくもあたし達を騙してくれたもんだよね。

 何が “知り合いの大学生がいるから合コンに来て欲しい” よ。

 出会い系サイトで知り会った男なんか紹介されて、人生狂わされたのはあたし達の方じゃない!」


 声を荒らげる麗奈に、あたしは正面に回り込んで言った。


「ちょっと待って麗奈。

 苺美は苺美で責任感じてるんだよ」


「何言ってんの環。

 環が記憶無くしてるところに付け込んできた奴じゃん。

 その上環の優しいところに甘えて調子乗ってんのよ。

 そうだよねぇ、苺美」


 苺美は両手でハンドバックの取っ手を掴み、唇を噛みしめながら青ざめている。


「ちょっと、何黙り込んでんの?

 環には好き勝手な事言っておいてさ。

 あたし達に謝罪の一つでもしなさいよ。

 ほら」


 完全に頭に来ているようで、顎をしゃくって命令するように言う麗奈。


「ちょ、麗奈、言い過ぎだって」


 顔をしかめて注意すると、「だって苺美が悪いんじゃない! 甘いんだよ環は!」と興奮する。


 すると溜まりかねたように、苺美が声を震わせながら言った。


「ごめん環………麗奈の言う通りだよ………。

 あたし調子に乗って、なんでもかんでも環のせいにして………」


「苺美………」


 苺美は顔を歪めて目を潤ませ、「ごめん!」と言って身を翻し、走って帰って行く。


「苺美! ちょっと待って!

 麗奈、あたしちょっと出てくるからここにいて」


「えっ、ちょっと待ってよ。

 あんな奴放っておきなよ、追う事ないって」


 あたしはママのつっかけを履いて、「すぐ戻るから!」と言って苺美を追いかけた。


 腕を掴むと、苺美はようやく足を止め、ううっと嗚咽を漏らして涙を流す。


「ごめん苺美、麗奈があんな事言って。

 麗奈、怒ると止まらなくなるとこあるから………」


 苺美は下を向いたままかぶりを振る。


「呆れたでしょ環………。

 あんたにはあんな横柄な態度取って、麗奈にはあんな感じで………ホントびびりだよね、あたし………。

 だからあたし、あんたに麗奈の事教えなかったんだよ」


「苺美………麗奈と何かあったの?」


 苺美はズルズルと鼻を啜る。


「別に何もないよ。

 何もないけど………麗奈って超美人じゃん。

 スタイルもいいし、頭もいいし、家も金持ちだし、あたしとは全然大違いで、自分に自信がある感じだし………。

 なんか引け目を感じて、強く出れないっていうか………」


 苺美が言いたい事はなんとなくわかるような気がした。


 麗奈は昔から容姿端麗で頭も良くて、だからこそあんな風にクラスの女子から支持を集める事が出来たのだ。


 あそこまで完璧な相手に責められたら、怖くなる気持ちもわからなくはない。


「………とにかく、せっかく会いに来てくれたんだし、どっかで話そう?

 近くに公園あるから、そこに行こっか」


 苺美は泣きながら小さく顎を引き、一緒に小さな児童公園へと向かった。


 自動販売機から缶コーヒーを買い、苺美が座っているベンチに戻ると、苺美はヒールの靴を脱いでいて、かかとに出来た靴擦れを気にしていた。


 缶コーヒーを差し出すと、苺美は「ありがとう」と言ってそれを受け取る。


 今日もヒールのゴムの部分が削れていたので、缶コーヒーを振って座りながら尋ねてみた。


「前から気になってたんだけど、それ歩きにくくない?」


「え?」


「ヒールのかかと」


「ああ………よく言われる。

 店ではだらしないって注意された。

 だけどなかなか靴の修理までお金が回らなくて………。

 ピンヒールってすぐにゴムが駄目になっちゃうし」


「そうなんだ。

 あたしは履いた事ないからわかんないな」


 プルタブを引き、口をすぼめてコーヒーを飲んでいると、苺美は自嘲気味に笑う。


「環はこういう時優しいよね………。

 そういうところも昔と変わってない」


「え?」


「………昔さ、若葉をハブって環をハブって、最後はあたしが部活の仲間からハブられた事があったじゃん?」


「ああ………」


「みんなに裏切られた気がして、なんかすっごいみじめな気がして凹んでたら、環の方から声掛けに来てくれたよね」


「………」


「それなのにあたし、環の事 “正義感気取り” なんて言って………。

 環に助けてもらった事あるくせに………最低だよね………」


 あたしは肩を落として言った。


「あたしの方こそ、謝らなきゃなと思ってた。

 苺美の名前をバカにした事………最低だったなって思う………。

 ごめんね………」


「ああ、あれか………いいよもう。

 別に初めて言われたわけじゃないし。

 小学校の頃からよくバカにされてたから」


「そう………。

 今日は、どうしたの?

 何か話があって来たんでしょ?」


「………」


「苺美?」


 迷うような素振りを見せながら、苺美はこちらを向き、頭を下げて来る。


「ごめん環………こんな事………環に頼める立場じゃないんだけど………。

 だけどもう、他に頼れる人がいなくて………」


「え………何?

 どうしたの?」


 苺美は顔を上げ、乱れた髪をかき上げながら言った。


「貸して欲しいの………お金………」


「え………」


「調子のいいお願いをしてるのは充分わかってる。

 でももうどうしようもなくて………。

 今月の家賃が払えないと、アパートを追い出されちゃうの」


「………」


「ママも派遣先を転々と渡り歩いて頑張って働いてるんだけど、キャッシングで借金に借金を重ねてしのいでたから、利息で支払いが回らなくなっちゃったの………」


 以前、ママがよく債務整理の依頼を受けていて、そういう話を口にしていたのを聞いた事があるから、なんとなく状況はわかった。


「………そんなに苦しいの?

 水商売って結構もうかったりするんじゃないの?」


「そのはずなんだけど、あたしがダメなんだよ………」


「ダメって?」


 苺美は涙を滲ませる。


「あたしさ、全然お客さん取れてないんだよね。

 大して美人でもないし、要領が悪いっていうか………。

 指名が取れないとさ、ドレス代とかアクセ代とか、化粧品代とか?

 経費ばっかりかかって全然稼げないの。

 ノルマを達成出来なかったら罰金引かれたりして………」


 苺美は自分の爪に目を落とす。


「マニキュアの事もさ、よく注意されんの。

 剥げた状態で出勤してくんなって。

 他の子は高いお金かけてネイルサロンに通ったりしてるんだけど、あたしには全然余裕がなくて………」


 それでヒールのかかとを直すのもままならないのかと思い、苺美が手にしているヒールを見つめた。


「ホント哀れだよねあたし。

 すげー貧乏臭い………。

 今可哀想だなーとか思ってるでしょ」


「………」


「昔からそうなんだよね。

 うちの家って全然お金がなくて、環の家みたいに余裕のある家庭が羨ましかった………。

 ママも男運ないけど、あたしも男運ないんだよね。

 彼氏に離れられたとかこないだは言ったけど、あれって嘘。

 彼氏じゃなくて、別に彼女がいる人の二番目だったのあたし。

 だけど寂しくて………二番目でもいいから付き合ってくれって言ったの。

 そしたらただのセフレ状態。

 それでも誰かが側にいないと、自分に自信が持てなかった。

 だから出会い系サイトにハマって男を探したりして………ホントに馬鹿だよ………」


「………」


「今すごく自分が恥ずかしいって思ってる。

 本当に最悪な女だなって思う。

 ………だけど背に腹は代えられない。

 あたしの事軽蔑してくれていいから、どうかお金を貸して下さい。

 お願いします………」


 苺美はベンチに手をついて、土下座に近い状態で頭を下げてきた。


 その姿に胸が詰まる思いがして、苺美に声をかけた。


「………いくら必要なの?」


 ハッとしたように固まって、苺美は「10万……」と呟いた。


「10万か………わかった………。

 今は持ってないけど、振込先を教えてくれたら明日振り込むよ」


 苺美は涙で濡れた顔を上げ、「本当に?」と確認してくる。


「うん。

 だけどあたしのお金じゃなくて、ママが働いて貯めてくれたお金だから、必ず返してね」


 苺美は再び顔を歪め、咳き込むように嗚咽を漏らして泣いた。


「ごめん環………ありがとう………本当にありがとう………。

 必ず返す、約束する………」


(約束………)


 その言葉を胸の中で反芻しながら、苺美に言った。


「だけどさ、苺美、そんな風に自分を否定するのは良くないよ」


「え?」


「だってこないだ苺美言ってたじゃん。

 お母さんに借金を全部背負わせたくないから、死ねないみたいな事」


「ああ………」


「あたしはそういう苦労をした事がないけど、お母さんの事を想う気持ちはすごくよくわかる。

 あたしもママの仕事の為に色んな事我慢して来たつもり。

 苺美には敵わないかもしれないけど………」


「………」


「でも貸すのは今回だけだから。

 もしそれで回らなかったら、債務整理とかした方がいいと思う。

 ママがよくそう言ってたから。

 苺美の家の事情はわからないし、難しい事はよくわからないけど………あたしにはこれ以上お金の事で力にはなれないし、冷たい事を言うようだけど、お金の事は元々苺美の家族の問題のはずだから、苺美とお母さんでなんとかして欲しい」


 苺美はぐっと拳を握り、歯を食いしばっているように見えた。


 なんとなく、今苺美が何を思っているのかが伝わってくる。


 だけどそれは見なかった事にして、腰を上げた。


「振り込み先は後でメールで送って?

 必ず明日振り込むから」


「………わかった」


 苺美はベンチに手を着いたまま、 頭を上げずにそう言った。


 それ以上かける言葉が見付からなくて、あたしはそのままその場を去る事にした。






 家に戻ると、玄関にりんごか迎えにやって来た。


「ただいま、りんご」


 しゃがんで顔を撫でていると、リビングから麗奈が出て来た。


「………おかえり」


 納得の行かない顔で、麗奈はムスッとしている。


 ただいまと返し、リビングに戻って苺美から頼まれた事を話すと、麗奈は信じがたい顔をして聞き返してきた。


「はあっ?

 それで貸すって言っちゃったの?」


「うん」


 ダイニングテーブルの席に戻って、餃子作りの続きをした。


「どうして?

 なんであんな奴を助けようとすんの?

 しかも10万も貸すなんて………」


「………」


 麗奈は向かいの席に座って言った。


「ダメだよ環!

 苺美なんかにお金貸したりしちゃダメ!

 どぶに金を捨てるようなもんだよそんなの。

 絶対返してくるはずないよ、それだけ困窮してるのに」


「………うん、もしかしたらそうかなって、あたしも思う。

 もし債務整理とかされたら、確実に返って来なくなるってママが言ってた事あるし。

 債権者は同等に扱われるからって」


「だったらなんで貸したりすんの?」


 あたしは手を止めて、麗奈を見て言った。


「しょうがないよ。

 苺美の事………助けてあげたいって思っちゃんたんだもん」


「何言ってんの?

 しっかりしなよ環、そんなの人が良すぎるじゃん」


「………そうかもしれない。

 自分が損する事になるかもしれないって………自分でもそう思う………」


「だったら、」


「でも、もう貸すって約束したの。

 貸すって決めたの」


「環………どうして?

 あたしには全然理解出来ない。

 苺美に同情してるの?

 そんなの絶対間違ってるよ」


「間違っててもいいの。

 苺美だって、あたしにこんな事を頼めた立場じゃないって言ってた。

 でも苺美、土下座に近い事までしてきたの。

 自分のプライドを全部捨てて。

 あたしにはあんな事出来ないよ………」


「………」


「苺美にお金を貸す事が正義だなんて思ってない。

 貸すのは今回だけだって言ったし、それで回らないようなら債務整理するなり、自分達でなんとかしてって、ちゃんと言ってきた。

 あたしに出来るのはそこまでだって」


「環………」


「間違ってても………自分に出来る事をしなかったら、後で後悔すると思っただけ。

 ただそれだけだから」


 そう言って再び手を動かすと、麗奈は視線をテーブルの上に落として言った。


「あたしが冷たいのかな………」


 あたしは顔を上げ、首を横に振った。


「違うよ、麗奈は冷たくなんかない。

 あたしの為に、病気の事調べてくれてたじゃん」


 麗奈はちょっと驚いたようにあたしを見る。


 目が合うと、あたしはきゅっと口を結んで頷いた。


「ありがとう麗奈。

 すっごく嬉しかった」


 麗奈はかすかに口元を震わせ、目を潤ませて餃子の皮に手を伸ばす。


「本当にお人よしなんだから………。

 環のバーカ」


 そう言いながらも、麗奈は鼻を啜って微笑みながら餃子を作っていた。






 翌朝。


 銀行のATMに行って苺美の口座に10万を振り込んだ。


 これで後悔はないけど、守ってもらえないであろう約束を果たすのは、やっぱり少し悲しい………。


 そしてその日の昼、軍手をはめて庭に出て片付けをしていると、インターホンが鳴った。


「はーい」


 直接玄関の方へ回ると、訪ねて来たのは見覚えのない40代後半ぐらいの男性だったので、軽く頭を下げて見せると、男性はわずかに頬を緩めて言ってくる。


「相澤………久し振りだな」


「え?

 あの………すいません、どちら様ですか?」


「ああ………そうか………。

 記憶を無くしてるんだったな。

 私は君の高校時代の担任の《松谷(まつや)だよ」


「担任………」


 そう言われても思い出せずにいると、麗奈がこちらにやって来て、「あっ!」と声を上げる。


「松谷先生!

 どうしたんですか?」


「おお、久住も来てたのか。

 久し振りだなぁ………元気にしてたか?」


 松谷先生は懐かしむような顔をして頬を緩め、麗奈は少し悪びれたような顔をして「まあ、それなりに………」と返す。


 わからない顔をしているあたしに、麗奈は改めて松谷先生の事を紹介してくる。


 松谷先生はあたしの担任であり、数学を担当していた為、英語科だった麗奈クラスも見ていたのだと言う。


「それより、今日はどうしたんですか?」


「ああ、うん………警察から相澤の事を聞いたものだからな。

 色々大変だったみたいだな………」


 そう言って松谷先生は心配そうな顔をあたしに向けて来る。


 警察は松谷先生のところへも聞き込みにやって来たそうで、うちに火を点けられた事を聞いて、様子を見に来てくれたようだ。


 庭の方へ案内すると、黒く焦げた花壇を囲む煉瓦を見て、松谷先生は目をしかめる。


 今日は麗奈に火事が起きた場所の片付けを手伝ってもらっているところだった。


 気持ちが落ち着かなくて、ろくに掃除が出来ずにいたのだ。


 松谷先生はリビングの縁側に腰を降ろし、あたしが出したお茶を一口飲んでから言った。


「この程度の火事で済んで本当に良かったよ。

 警察から話を聞いた時は驚いたけど………」


 あたしは尋ねた。


「あの………あたしの担任の先生って事は、若葉の事も知ってるんですよね………」


 松谷先生は神妙な顔付きになってあたしを見て小さく顎を引き、湯呑みをお盆の上に置く。


 麗奈が尋ねる。


「松谷先生も聞かれたんですよね?

 若葉のお母さんの事」


「ああ………まあな………」


「松谷先生は知ってるんですか?

 若葉のお母さんがあの事件の後どうしてたか。

 前に住んでた団地にはもう住んでないみたいなんですけど………」


「まあ………一応な。

 藍川が亡くなった後、ご主人とは離婚したと聞いている」


「え、離婚?」と、あたし。


「ああ。

 事件が起きて半年ぐらい経ってからだったか………。

 ご主人の方は一旦実家に戻ったんだけど、昔から精神的な疾患を抱えてたみたいで、生活保護を受けて病院に入院してるそうだ」


 精神的な疾患と聞いて、麗奈が「ほら、やっぱり」と言ってあたしのトレーナーの袖を引っ張ってくる。


 松谷先生は麗奈を見る。


「やっぱりと言うのは?」


 麗奈が慰謝料を請求して来た時の事を話すと、松谷先生は少し眉根を寄せて「そうか………」と呟く。


 あたしは言った。


「でも、そんな話一度も若葉から聞いた事ないですけど。

 お父さんに精神疾患があるなんて………」


「俺も事件が起きた後に知ったんだ。

 その事は親戚にも隠してたみたいでな」


「え………どうしてですか?」


「藍川の父親は統合失調症だったんだ。

 昔は "精神分裂病" と呼ばれてたから、偏見も多かったんだろう」


 それを聞いて、何か頭に引っかかるものがあった。


 その話、前にどこかで聞いたような………。


「症状が進行する前に、もっと早く病院に通わせていれば良かったのかもしれないが………藍川母親は周囲の目を気にして病院にも通わせなかったなかったそうだ。

 統合失調症は簡単に治る病気じゃないからな………。

 一生その病気と付き合っていく人もいるようだし」


「………」


「だから藍川の家は、主に藍川の母親が家計を支えてたそうだ」


 若葉が父親の事について語りたがらなかったのは、そういう事だったんだ………。


 麗奈が言う。


「やっぱりね。

 どっかおかしいと思ってたんだよあの父親。

 絶対普通じゃないって」


 すると松谷先生が目をしかめて注意する。


「そういう偏見した言い方をするんじゃない。

 統合失調症は本人も苦しいし、その家族も支えるのが大変な病気なんだ」


 麗奈は首をすぼめて「ごめんなさい」と言って口を尖らせる。


「もしかしたら藍川もその事で悩んでたのかもしれないな………」


 松谷先生がそう言って息を吐くと、麗奈が身を乗り出して「そうそう、絶対そうだって!」と言ったので、あたしと松谷先生はつと顔を向ける。


「麗奈、もしかして若葉から何か聞いてたの?」と、あたし。


「あ、ううん、そういうわけじゃないけど………。

 ほら、若葉は父親の事とかあんまり話さなかったじゃん」


「うん、そうだね………」


 麗奈は腰に手を置いて頷き、思い付いたように言った。


「そうだ、なんかお腹空いてきちゃったね。

 もうすぐ12時だし、コンビニに行ってなんか適当に買ってくるよ」


「ああ、それならあたしが」


「いいよ、せっかく松屋先生が来てくれてるんだし、話してなよ。

 ついでにりんごもお散歩がてら連れて行こうか?」


「ありがとう、助かる」


 お散歩と聞いて、りんごは嬉しそうに立ち上がって尻尾を振る。


「よーし、りんごー。

 麗奈ちゃんとお散歩行こうねー♪」


 麗奈は軍手を外してりんごの顔を両手で撫でる。


 そしてリビングに上がると、その後をりんごがワンワンと吠えながらついて行く。


 松屋先生は麗奈を見ながら苦笑する。


「久住の方は相変わらずなようだな。

 はっきりものを言い過ぎるところが」


「はい、まあ………。

 でも、麗奈はああ見えて優しいところもあるので」


 松屋先生は頬を緩めて「そうだな」と頷く。


「じゃあ環、行って来るねー」


 元気にりんごと出かけて行く麗奈を見送ると、松屋先生が言って来る。


「お母さんも出て行かれたそうだな。

 生活は出来ているのか?」


「はい、何とか………」


「そうか………それならとりあえず良かったよ」


 そう言って松谷先生は再びお茶を啜る。


「まあ………気休めのような事しか言えないが、あまり思い詰め過ぎるな。

 おまえがした事は軽率な行動だったかもしれないが、元々のおまえは真面目な生徒だったし、友達に対して思いやりのある性格だった事も俺は知ってる。

 そういう自分まで見失わない事だ」


 そう言ってもらえると気持ちが緩んで、あたしは松谷先生に尋ねた。


「あたしは………どうやって若葉に償ったらいいんでしょうか………」


「償いか………それは難しい質問だな。

 答えを出してやる事は出来ないが………とにかく、亡くなった藍川の事を忘れずに生きていく事だろうな」


「………」


「でもだからと言って、下を向いて生きていく事はない。

 普通に幸せになっていいし、何もかも背負い込む必要はない。

 おまえだけが悪いわけじゃないんだ」


 普通の幸せ………。


 本当に、幸せになっていいのかな………。


「それに相澤はちゃんとした人間だと俺は思ってる。

 人を傷付けてもなんの反省もしないで生きてる奴が、世の中にはいるからな」


「………」


「じゃあ、俺はこれを飲んだら帰るよ。

 まだ仕事が残ってるから。

 夜はなるべく一人で行動しないようにして、気を付けるようにな」


「はい、わかりました。

 今日は来てくれてありがとうございました」


 松谷先生は小さく笑って首を横に振る。


 そして松屋先生が帰った後、焼けた煉瓦をごみ袋の中に入れていると、麗奈から携帯に電話が入った。


 軍手を外してデニムのポケットからスマホを取り出す。


「もしもし、どうしたの?」


 慌てた様子で「あっ、環?」と聞き返してくる麗奈。


「大変なの!

 買い物してる間に、りんごが誰かに連れ去られたみたいで!」


「えっ!

 嘘………なんで?」


「コンビニの駐車場にある車止めにしっかりフックをかけておいたの。

 だから逃げ出せるはずないし、リードごと居なくなってるし………。

 それに、中年のおばさんがりんごの頭を撫でてるところを、コンビニの人が見たって。

 だからもしかしたら、若葉の母親なんじゃないかと思って………」


 サッと血の気が引いて、急いで家の鍵を閉めて捜しに向かった。


 麗奈と携帯で連絡を取りながら、手分けをしてコンビニ付近を走って捜し回る。


(お願いりんご、無事でいて………!!)


 けれど、どこを捜しても見付からなかった。


 膝に手をついて息切れしていると、麗奈から連絡が入る。


「もしもし、見付かった!?」


「………環。

 たぶんあれ………りんごだと思う………」


「え? 何?

 今どこにいるの?」


 麗奈は声を震わせながら、表沿いの歩道橋の前だと答える。


 そちらへ走って向かうと、歩道橋の辺りに人だかりが出来ていたので、ギクリとした。


 みんな二車線道路の真ん中にある植木のところをただならぬ様子で見ていて、「おい、警察呼んだ方がいいんじゃないのか?」という声が聞こえてきた時には、心臓が止まりそうになった。


 人だかりの中に麗奈の姿を見付けた。


 麗奈は青白い顔をして、ガードレールの前で口元を押さえて立ち竦んでいる。


「麗奈!」


「あっ、環っ!」


 麗奈に駆け寄って腕を掴み、早口で尋ねた。


「ねぇ、いったい何があったの?

 りんごは!?」


「女の人が………歩道橋の上から………犬を投げ捨てたところを見たっていう人がいて………」


「!!」


「一瞬だったからよく見えなかったけど、たぶん………コーギーだったって………」


「───……」


「歩道橋の下を走ってたトラックの荷台の角にぶつかって、あの植木の中に落ちたみたい………」


「………嘘………嘘だよ………りんごじゃないよ。

 だってりんご………シッポがあるじゃん………。

 コーギーは普通、シッポを切るようになっててね、」


 すると話が聞こえていたのか、近くにいた小学生ぐらいの男の子が「シッポはあったよ」と言ってきた。


 振り返ってその子を見る。


「嘘………」


「俺遠くからだけど、見てたんだ。

 それになんか、首に青いメガホン? みたいなのを付けてた」


 それはきっと、エリザベスカラーの事だろう。


 小さく悲鳴を上げて言葉を失っていると、誰かが反対側の歩道を見て「あっ、来た来た」と声を上げる。


 見ると、男の巡査が二人、車道の信号が赤になったのを見計らって、ガードレールを越えて植木の方へ向かった。


 ドクンドクンと、心臓が嫌な音を立てる。


(違う………違うよね………。

 りんごじゃないよね………)


 あたしもそちらに近付いて行くと、年配の方の巡査が、丸い形をした植木の中を覗いて言った。


「あー………こりゃもうダメだな。

 内蔵が破裂しちゃってるよ………」


 顔が強張って、植木の中に手を伸ばした巡査らに注目する。


 二人が抱え上げたのは、間違いなくりんごだった………。


 りんごはぐったりして、お腹が赤黒く染まっている。


「いっ………いやあぁ───っ!!

 りんご───っ!!」


 張り叫んで、そちらに近付こうとすると、巡査に注意される。


「待った待った。

 もうすぐ信号が青になるから、歩道の方に戻ろう」


 発狂していると、麗奈に腕を引かれて歩道の方に戻る。


 若い巡査が尋ねて来た。


「この子はあなたの犬?

 可哀想だけど………もう息を引き取ってるな」


 歩道の上に置かれて、あたしはしゃがんでりんごに声をかけた。


「嫌だぁっ!

 りんご! りんご!!

 お願いだから目を開けてよ、りんご!!」


 巡査が言った通り、りんごはお腹の肉が破れていて、あばらの骨と内蔵が見えていた。


「なんで!? なんでぇっ!?

 死なないでりんご!!

 りんご────っ!!」


 どれだけ泣き叫んでも、名前を呼んでも、りんごは閉じた目を開く事はなかった………。











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