第5話 少しの悪意






 警察の車で自宅に戻り、夕方近くになって角田さんと国生さんの二人組が、りんごを動物病院から連れて帰って来てくれた。


「りんご!」


 りんごは首にエリザベスカラーを付けられていた。


 それでキャリーケースに入らなかったのか、角田さんがりんごを抱いて玄関に入って来る。


「よっこいしょっと。

 結構重たいもんだな、コーギーって奴は」


 床にりんごを下ろし、角田さんは肩を回す。


 あたしはかがんでりんごの右耳を見た。


 消毒液が染み込んだガーゼが耳の後ろに当てられている。


「りんご………大丈夫?」


 国生さんがキャリーケースを床に下ろして言った。


「広範囲には至らなかったけど、結構火傷がひどかったみたい。

 皮膚がただれちゃってるから、そこの部分の毛は生えてこないだろうって………。

 だけど聴覚には何も問題ないって」


「そうですか………」


「せっかく毛並みが良かったのにな」


 角田さんは指でりんごの背中を撫で、「お邪魔させてもらってもいいかな」と尋ねてくる。


 スリッパを出して、二人をリビングに通した。


 そしてソファーのところに集まり、若葉のお母さんについての報告を受けた。


「え………引っ越してたんですか?」


 角田さんは頷く。


「去年の春頃に、事件当時住んでた団地から引っ越したそうなんだけど、住民票はそのままで、近所の人もどこに引っ越したのか知らないらしくてね」


「あの、でも………」


「どうしたの?」と、国生さん。


「………井草森公園で会う前、団地の前で一度会ってるんです」


「そうなの?」


 国生さんは眉をひそめ、角田さんが続きを促してくる。


「それは先月のいつ頃?」


「9月の中旬頃で………退院したその日です。

 その時はまだ若葉が自殺した事しか知らなくて、なんとなく立ち寄ってみたら、団地の前の歩道で声をかけられて………」


 あたしはその時のおばさんとのやり取りを話し、おばさんがそのまま団地の中に入って行った事を告げた。


 国生さんは「妙ですね」と言って角田さんを見る。


「そうだな。

 井草森公園でも偶然会ったんだろ?」


「はい、ちょっと散歩に出て来たって………」


「二回とも偶然とは考えにくいな………。

 もしかして後を付けられたとか、そういう気配は感じなかった?」


「いえ………。

 だけど公園で会った時は、おかしいなと思いました。

 それに………」


 自宅のポストに入れられた新聞記事のコピーの事を話し、それを持ってきて見せると、角田さんはそれを見ながら頬の無精髭をかいた。


「やっぱり君に恨みを抱き続けていた可能性が高いな………。

 事故以前の事は、まったく覚えてないの?」


 頷くと、国生さんが「どうします?」と角田さんを見る。


「まあ………とにかく藍川由紀乃の行方を探すしかないだろ」


《藍川由紀乃》とはおばさんの名前だ。


 あたしはずっと気になっていた事を尋ねた。


「あの、あたしも聞きたい事があるんですけど………」


「ん?」


「その記事に書いてある "少女C" って、誰の事ですか?」


「少女C?

 どこに書いてある?」


 そう言われて、少女Cの記述があったのはネット記事の方だった事を思い出すと、国生さんが「もう一人の友達の事?」と聞き返してくる。


「あ、はい。

 少女Bって書いてある子の事はわかったんですけど………」


 角田さんは国生さんを見る。


「わかるか?」


「はい。

 当時の事件関係者の名前は控えてきてありますから」


 国生さんはバックの中からシステム手帳を取り出し、ページを開いて言った。


「犯人グループ達と出会い系サイトで知り合ったのが《櫻井苺美》という少女です。

 その少女から犯人グループ達との合コンに誘われたのが、相澤さんと、《久住麗奈》という少女です」


 あたしは驚いて「えっ!」と声を上げた。


「どうかした?」


「いえ………麗奈とは小学校を卒業して以来会ってなかったから………」


「そっか、高校時代の記憶が丸ごと抜けてしまってるんだよね。

 久住さんは、相澤さんと同じ高校に通ってたのよ」


 そう言われて思い出した事があった。


 そういえば麗奈は、私立椿女子の中学に進学したんだった。


 あたしは普通に公立の中学に入ったから麗奈とはそれきりだと思ってたけど、椿女子の高校に入学して再会したって事か………。


 角田さんが言った。


「その二人にも一応話を聞いておいた方が良さそうだな。

 もしかしたらその二人の所にも現れるかもしれないし」


「そうですね。

 後で二人の自宅に行って話を聞いて来ます」


「ああ。

 それで、っと、今後の相澤さんの事なんだけど、今日お父さんの携帯に電話して話をしたんだ」


「パパと?」


「そう。

 電話に出てくれないって言ってたけど、ちゃんと君の事を心配してたよ?」


「………」


「すぐ東京に戻って来る事は出来ないって言ってたけどね。

 まあ、転勤先で色々苦労してるんじゃないかな………」


 色々………。


 それもきっと、あたしのせいなのだろう………。


「またいつ狙われるかわからないから、とりあえず48時間自宅の前に警官を二名立たせておく事にはなったんだけど、こんな時に自宅で一人ってのは心細いんじゃないかと思ってさ。

 親戚の家とかどこかに身を寄させてもらった方がいいんじゃないかな。

 その方が安心だろ?」


「でも………りんごがいるから………」


 あたしは膝の上に乗せていたりんごに目を落とした。


「ママの実家は高知だし、パパ方のおばあちゃんちは近くにあるんだけど、あんまり仲が良くないんです。

 それにあたしがした事について知ってるのかどうかもよくわからないし………」


 りんごを引き取りに行った時、おばあちゃんはその事について何も言及しなかった。


「それは当然知ってるんじゃないかなぁ。

 それに仲が悪くても、命には変えられないよ?

 しばらく居させてもらった方がいいと思うけど」


「………いえ………ここに残ります」


 あたしは頑なにそう言った。


 りんごの事もあるけど、ママが出て行った事について文句を言われるのが嫌だった。


 二人は困ったように顔を見合わせる。


「お母さんが行きそうなところに心当たりはないの?」


「わかりません………」


「でも、お母さんは弁護士なんだよね?

 それまで引き受けてた案件もあるだろうし、さすがにそれを放っぽり出すって事はないんじゃないかな。

 もしかしたら裁判所かどこかに出入りしてるかもしれないよ?」


「………ママの仕事道具は、全部自宅に残されてました」


 角田さんは軽く頭を後ろに反らして顔をしかめる。


「ママの事は………もうどうでもいいです。

 見捨てられたって事なんだろうし………」


「そんな事はないんじゃない?」


 そう言って国生さんは眉尻を下げる。


「ママは弁護士で、正義感が強かったから、あたしがした事が許せなかったのかも………」


 ぎゅっと下唇を噛んでいると、角田さんが肩を下げて言った。


「弁護士が正義とは限らないけどね………。

 中身は普通の人間だよ」


「………」


「じゃあ、俺達はこの辺で。

 何かあったらいつでも連絡してくれていいから」


「はい、ありがとうございました」


 そうして、二人は帰って行った。






 それから丸二日間は家の中で過ごして、警備してくれていた警官の人にお礼を言ってから、出かける事にした。


《瀬戸内》と書いた表札の家を訪ね、インターホンを鳴らす。


 しばらくして、インターホンの向こうから「はい」と応答があった。


「あの、相澤です。

 芽衣ちゃんいますか?」


 瀬戸内というのが芽衣の名字だ。


「あー………ちょっと今は出かけてるんだけど………」


 その声からして、芽衣のお母さんなのだろうと思った。


 困惑しているその様子に、こちらを警戒しているのが窺える。


「あの、何時頃帰って来ますか?」


「さあ………。

 悪いけど、用があるなら直接携帯に電話してくれる?」


「すいません………芽衣ちゃんの携帯の番号は知らないんです」


 嘘だった。


 そこまで仲が良かったわけじゃないけど、苺美繋がりで中学の時に教えてもらった事がある。


 だけど今日かけてみたら着信拒否されていた。


「そうなの………」


 芽衣のお母さんは返答に困っているようだった。


 あたしを芽衣に近付けたくないのだろうけど、引き下がるわけにもいかず、一度深呼吸をして気合いを入れて言った。


「わかりました、じゃあまた来ます」


「えっ、ちょっと、」


 踵を返して歩き出すと、前方に芽衣の姿を発見した。


 芽衣はスマホをいじりながらこちらへ歩いてくる。


「芽衣」


 声をかけると、芽衣は顔を上げ、横から来た自転車とぶつかりそうになる。


 自転車に乗っていたのはゴマ塩頭のおじいさんで、「携帯見ながら歩くな!」と芽衣に捨て台詞を吐いて去って行く。


 芽衣は小さく「すいません」と言ってから、ようやくあたしの姿に気付いた。


「あ………」


 あたしは会釈をして「久しぶり」と言った。


「うん、久しぶり………」


 そう言いながら、芽衣はキョロキョロと辺りを見渡す。


 周りの目を気にしているのかもしれない。


 あたしは芽衣の所へ歩み寄った。


「急にごめん。

 ちょっと聞きたい事があって」


「………何?

 て言うか、こないだの火事は大丈夫だったの?」


「ああ、うん、それはなんとか………。

 あのさ………苺美が今どこに住んでるのか知らない?

 さっき行ってみたら、引っ越してたみたいだから」


「ああ………そうだね。

 だいぶ前に引っ越したみたいだけど………あたしは知らないよ。

 もう苺美とは縁切ったから」


 芽衣は迷惑そうな顔をして目を逸らす。


「うん、それは苺美から聞いた。

 若葉の事があったからだよね………?」


「………」


「でもさ、苺美と芽衣って仲良かったのに………それでそれきり?」


 芽衣はわずかに目をしかめてこちらを見る。


「それでって………何言ってんの?

 あんな事件起こしておいて」


「………」


「自覚してないの?

 それともいつもの正論?」


「え?」


「友達思いみたいなフリするのやめてよ。

 結局若葉をあんな目に遭わせたくせに………」


「………」


「もういい?

 苺美とも環とも関わりたくないんだよね。

 それじゃあ」


 あたしを避けて行ってしまおうとする芽衣を呼び止めた。


「ちょっと待って。

 別に苺美の事で文句を言いに来たわけじゃないんだよ」


 芽衣は立ち止まって訝しそうにあたしを見る。


「どうしても苺美と話がしたいの。

 その、若葉の事で………」


「………」


「誰か苺美の引っ越し先知ってそうな子いない?」


「………。

 いないんじゃん?」


「………そっか」


 肩を落とすと、芽衣は一つ息を吐いて言った。


「でも、歌舞伎町のキャバクラで働いてるみたいだよ」


「え? キャバクラ?」


「噂だけどね。

 誰かが見かけたみたい」


「………」


 芽衣はそれ以上何も言わず、背を向けて家の中に入って行った。






 それからその足で、今度は麗奈のマンションを訪ねた。


 けれど麗奈もどこかに引っ越してしまったのか、既に別の人が住んでいるようだった。


 ちなみに麗奈の携帯番号は変わっててわからない………。


 事件当時の事を思い出せないなら、自分から探ってみようと考えていた。


 だから二人から話を聞かなきゃならない。


 歌舞伎町はほとんど行った事がないけど、とりあえず新宿まで出てみる事にする。


 下井草駅から西部新宿駅まで電車で向かう間、アマゾンで注文した『星の王子さま』を読んでいた。


 志水先生が言っていたキツネとのシーン。


 この前話を聞いた通りの内容だったけど、やっぱりいまいちよくわからなかった。


 どうして数回会っただけで、王子さまはキツネとの別れを惜しんでいるのか………。


 首を捻って本を閉じたところで、西武新宿駅に到着する。


 駅を出て真っ直ぐ歌舞伎町へ向かい、ごちゃごちゃと建物の中にしきつまった店を眺めながら歩いた。


 普通に吉野家とか松屋とかマックもあるけど、話に聞いてた通り風俗店の方が圧倒的に多い街だ。


 時間はまだ15時半。


 キャバクラと言えば飲み屋だから、出勤するにはまだ早い時間なのかもしれない。


 それにこれだけ多く点在する店の中で苺美を見付けだせるだろうか………。


 無謀だったかなと思いながら、新宿駅東口のALTA前の方へ出る。


 そしてつと、近くにある家電量販店に並ぶ携帯電話が目に留まる。


 店の前まで行くと、携帯電話の売り場に並んでいるのはほとんどスマホだった。


 そういえばこないだネットのニュースで、スマホの新商品が続々と発売されていて、ドコモ・ソフトバンク・au三社の熾烈な争いが繰り広げられているという記事を見かけた。


 その渦中にある商品は『iPhone』


 先月ドコモからも販売されるようになって、ユーザー獲得争いがますます加速したとの事だった。


 2009年で時が止まっているあたしにはまったくついて行けない話だ。


 スマホは両手を取られてしまうし、片手で使える以前の携帯の方が使いやすい気がする。


 それにスマホを長時間触っていると首が痛くなって、すぐ頭が痛くなってしまう。


 それなのにどうしてこんなにスマホが売れているのだろう。


 確かにスマホの方が見た目はカッコいい気がするけど………。


 でも、きっと記憶を無くす前のあたしも、スマホにハマッていたんだろうなと思う。


 二年に一度は新機種を買ってもらっていたし、携帯はあたしにとって命の次に大事な物と言っても過言ではなかったから。


 それなのに………繋がる相手が居なくなってしまって以降、携帯を見る度にため息をこぼしてしまう自分がいた。


 それでも、絶対手放せない。


 繋がる相手がいなくても常に持っていないと、社会から孤立してしまうような不安を感じる。


 志水先生が言ってたように、電話やネットがなかった時代の人達は、どうやって人と繋がっていたのだろう………。


 適当に眺めていたスマホを棚に戻すと、近くに立っていた店員から声をかけられた。


「………相澤?」


 いきなり呼び捨てされたので、思わず顔をしかめて振り返ると、そこに立っていた店員は中学の同級生だった。


「あーっ、やっぱ相澤じゃん!

 久しぶりだなぁ~」


《桐島拳哉》


 三年間同じクラスだった男友達だ。


「桐島………え?

 ここで働いてるの?」


「ああ、バイトだけどな。

 本当にすっげー久しぶり。

 元気にしてたか?」


 返事に詰まると、桐島は悪びれた顔で笑う。


「そーでもないって感じか。

 だよな………」


 桐島も若葉との事を知っているのだろう。


「まあ………なんかでも、とりあえずさ、外に出て来れるようになって良かったじゃん」


「え?」


「あの事があって以降、引きこもりになったって噂、聞いてたからさ。

 ちょっとは心配してたんだぜ?」


 桐島は照れ臭そうに笑って、肘であたしの腕を小突いてくる。


 昔から桐島はこんな感じの奴で、明るく軽く、だけど優しいイイ奴だった。


 ここ一ヶ月友達と話していなかったので、変わらない態度で話してくれるのが嬉しく思う。


「相澤は今何やってんだよ。

 つーか、その右手の包帯どうしたんだよ」


「ああ………ちょっと火傷しちゃったんだよ………。

 最近は何もしてないよ、ただ家にいるだけ」


「なんだよプータローかよ。

 いいよなぁ。

 おまえの母ちゃん弁護士だったもんなぁ」


「………」


「俺も働かないで生きてぇー。

 でも働かねぇと飲み代稼げねぇかんなー」


 桐島は腕を組んで腰をユラユラと横に振る。


「まだ未成年じゃん」


「聞こえませんけどー?

 つーか、全然変わってねーなぁ、相澤は。

 相変わらずマッジメー♪」


「あんたが軽いんでしょ」


「まーなっ♪

 けどおまえさー、化粧ぐらいしたらどうなんだよ。

 しかもなんだよその格好」


「えっ、なんかヘン?」


 最近の流行りがわからないので、適当に家にあったパーカーとデニムのショートパンツ、そしてブーツという格好で来ていた。


「いや、別にヘンって程でもねぇけどさぁ。

 なんか中学生の時のまんまって感じ?

 しかも素っぴんで髪の毛一本結びって、近所のコンビニに行くんじゃねぇんだから」


「悪かったね………」


 記憶が15歳で終わってるのだからしょうがない。


「元は結構可愛いんだから、少しはお洒落しろよ」


「そんな事言われたって………」


 今はそれどころではない。


 ムスッとしていると、桐島は鼻を啜って言った。


「まー、あれだ。

 色々あって色々言う奴がいるかもしれねぇけど………もうちょっと明るく前向きに生きたっていいんじゃねぇの?」


「え?」


「だって今のおまえ、いかにも “全ての不幸をしょってます” って感じだぜ?

 そこだけだな、変わっちまったのは」


「………」


「確かに藍川の事考えたら気の毒だけどさ、おまえだって連中にハメられたようなもんじゃん。

 相手はただ藍川を紹介してくれって言ってきただけなんだろー?」


「………でも、あたしが教えなければ、あんな事にはならなかったんだよ」


「まーそれはそうだけど………。

 いつまでもそこで詰まってたら先に進まねぇぞ?」


「………」


「櫻井も櫻井でなぁ………。

 あいつもあの時から時間が止まったまんまだもんな」


「え?」


 見上げると、桐島は親指で歌舞伎町の方を指して言う。


「あいつ今、あそこで働いてんだよ。

 キャバクラ」


 あたしは驚いて「知ってるの!?」と聞き返した。


「うおっ、なんだよその反応は………」


「今日は苺美と話したくて新宿まで出て来たんだよ。

 なんていう店で働いてんの?」


 食い付いて問いただすと、桐島は気圧されながら「そこまではなぁ」と答える。


「わざわざ店なんか訪ねなくても、携帯に電話すればいいじゃん」


「出来るものならそうしてるよ。

 着信拒否されてんのっ!」


「着信拒否ぃ?」


 桐島は苺美の携帯番号を知っているようだったので、頼み込んで苺美を呼び出してもらう事にした。






 17時頃になって、苺美は桐島のところへ現れた。


「おす、お疲れ。

 何? 話したい事って。

 この後仕事なんだけど」


 桐島は店頭のスマホを布で磨きながら「実はさ………」と気まずい顔をして、店の中に隠れていたあたしの方を見る。


 あたしは表に出て「苺美」と声をかける。


 苺美はあたしを見て目を見開いた。


「話したい事があるの。

 若葉の事で」


「………」


 それから歌舞伎町のマックに入って、飲み物だけ頼んで向かい合って席に着く。


 苺美は出勤前だからか、以前会った時よりも濃いメイクをしていた。


「そんな格好で新宿に来たの?」


 席に着くなり、苺美はジュースのストローに口を付けてそう言った。


「中学生みたいだって、さっき桐島にも言われた」


「あっそ。

 ああ………そういえば知ってる?

 桐島って中1の時、あんたの事が好きだったんだって」


「えっ?」


 意外な顔をするあたしを見て、苺美は小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。


 あたしはムッとして返す。


「そういう話をしに来たわけじゃないから」


「どういう話?

 もう別にあんたと話す事なんかないんですけど」


 苺美はマニキュアを塗った爪を気にしながら言う。


 今日は剥げずに綺麗に塗れていて、キラキラしたデコレーションまで付いている。


「………三日前、うちの庭に火を点けられたの」


「へっ?」


 目が合うと、苺美はしかめっ面になった。


「ちょっと………冗談やめてよ。

 言っとくけど、あたしじゃないからね」


「苺美がやったなんて思ってないよ」


「え?

 ………だったら、何が言いたいわけ?」


 あたしは気合いを入れてもう一度深呼吸をした。


「あたしを殺したい程恨んでる人がいるって事だよ」


「………」


「あたし、全然事の大きさをわかってなかった。

 火を点けられたその日に、うちの前に人だかりが出来て、その前に出た時にようやくわかった。

 こんな事になってたんだって」


「………」


「言わなかったけどあたしね、事故に遭った時、自分で横断歩道に飛び出したんだって。

 つまり、自殺しようとしてた」


 苺美は目を釣り上げて眉を潜め、「だから?」と聞き返して来る。


「そこまで自分は思い詰めてたとでも言いたいわけ?

 笑わせないでよ。

 そんなの、単に逃げようとしただけじゃん」


「………」


「残念だったね、死ねなくて。

 生きて苦しめって事なんじゃない?」


 苺美は長い髪の毛先を指でつまみ、枝毛探しを始める。


「死ねたら本当に楽だよねー………。

 あたしなんかずっと前から思ってたよ。

 あんたに人生狂わされたせいでさ」


「………」


「だけどうちのママに借金?

 全部背負わせんの嫌だからさ、仕方なく生きてるわけよ。

 やりたくもない水商売なんかやってさ」


「………。

 借金って、奨学金の事?」


 苺美はこれ見よがしにため息を吐く。


「奨学金なんて可愛い借金の事言ってんじゃないんだよ。

 世間知らず」


「………」


「うちの父親が残した借金だよ。

 闇金から借りた借金まで全部ママに背負わせてとんずらしちゃったの。

 それでもなんとかギリギリのところで生活してたのに、あんたが今にも崩れそうな橋の足を折ってくれちゃったわけ」


「………」


「自分がどれだけの事をしたってわかったんならさ、少しは苦労したら?

 死ぬんならさ、もっと苦しんでから死んでよ。

 そしたら線香の一本ぐらい立てに行ってあげるから」


 鼻で笑って、苺美はストローに口を付ける。


 あたしもジュースを飲んで渇いた喉を潤した。


「………苺美はさ、そうやって全部あたしのせいにすれば楽になるわけ?」


「は? 何それ」


「さっき桐島が言ってたよ。

 苺美も、若葉の事件の時から時間が止まってるって」


「ああ………もしかしたらそうかもね。

 あそこであたしの人生終わったのかも」


「そういう意味じゃないから」


 はね飛ばすように言うと、苺美は苛立った顔をする。


「何? さっきから。

 そういうんじゃないそういうんじゃないって………。

 そんなにあたしに責任押し付けたいわけ?」


「………。

 苺美ってさ………本当はビビりなんだよね」


「は?

 ………喧嘩売ってんのあんた」


 ギロッと睨んでくる苺美の目を、あたしは真っ直ぐ見返した。


「いいよ、喧嘩しても。

 腕の骨折も治ったし、タイマンでも張る?

 あたし負ける気しないんだけど」


「はあ?

 あんた頭おかしいんじゃないの?

 本気でそんな事言ってるわけ?」


「本気だよ。

 だって本気で苺美と話したくて来たんだもん」


「何それ、意味わかんない」


「苺美の言う通りだったんだよ。

 あたしはいつも逃げようとしてたんだと思う。

 家に引き込もって、ネットに逃げ込んで」


「………」


「どうして自殺しようとしたのかは、正直わかんないし、全く思い出せない。

 若葉の事が関係してるんだとは思うけど、それだけ苦しんだとか、そういう事を言いに来たわけじゃないよ」


「………」


「苺美はさ、強がってるだけで本当はビビりなんだよ。

 そうしないと乗り越えられないから。

 誰かのせいにしないと怖いから」


「………何それ」


「本当はどっかで責任感じてたんじゃないの?

 だから苦しかったんじゃないの?」


「───……は?

 なんであたしが責任なんか………。

 悪いのはあんただって言ってんじゃんっ!」


「だったら、なんでそんなにビビってんだよ。

 悪くないなら、堂々としてればいいじゃん」


「………」


「こないだはあたしも混乱して、勢いで苺美が一番悪いとか言っちゃったけど………。

 もうそんな事思ってないから………一人で怯えなくていいよ………」


 苺美はきゅっと下唇を噛む。


「苺美の気持ち、全然わかってなくてごめん………。

 一人で苦しんでたのに、あんな事言って本当にごめん………」


「………」


「もうあたし、逃げない事にしたから。

 今すぐ記憶を戻す事は出来ないけど、自分がした事と向き合おうと思ってる。

 だから、苺美とちゃんと話をしなきゃって」


 苺美はいつの間にか目に涙を溜めて固まっていた。


 テーブルの上で拳を握り、小刻みに震えている。


「………あたしは、もう過去に戻りたくなんかない。

 若葉の事なんか忘れたいんだよ………」


「………本当に忘れられる?」


 苺美はあたしを見て涙をこぼす。


「忘れるよあたしは。

 だから………もう会いに来たりなんかしないで」


「苺美………」


 涙を手の甲で拭って、苺美は鼻を啜る。


「………けど、これだけは忠告しておいてあげる。

 あたしのママの会社や、環の両親の職場に事件の事を密告したのは、全部若葉の母親の仕業だから」


「え?」


「証拠はないけど、絶対そう。

 環の家に火を点けたのも、きっと若葉の母親がやったんだよ………」


「………」


「それから、若葉の父親にも気を付けた方がいいよ。

 あの人、絶対頭おかしいから………」


「え?」


 若葉の父親………?


「若葉が死んだ後、慰謝料寄越せって言って金をせびって来たの、何度も何度も………。

 だけど怒鳴るとかそういうんじゃなくて、なんか………とにかく様子がおかしかった………」


「………」


「環の家にも行ったみたいだよ。

 おばさんに追い払われたみたいだけどね。

 弁護士だから、そういうの強いじゃん」


「じゃあ………麗奈の家にも?」


「麗奈の事、思い出したの?」


「思い出したわけじゃないけど、警察の人から聞いた。

 ねえ、麗奈は今どうしてるの?

 麗奈も引っ越したみたいなんたけど」


「知らない。

 麗奈んちは家族ごと逃げたんだもん。

 どっかの高校に転校したらしいけど、どこに行ったかは誰も知らないと思う」


「そうなんだ………」


 苺美はスマホを取り出して時間を見る。


「そういう事だから………。

 若葉の事はもう忘れたいし、関わり合いになりたくないの。

 わかるでしょ?」


「………」


「そろそろ行く。

 支度が遅れると罰金引かれるから」


 苺美はマニキュアが剥がれないように気を付けながらバックのファスナーを閉じて、ゴムが削れきったハイヒールの釘の音をカツンカツンと立てながら帰って行った。






 帰りの電車の中で、若葉の父親の事について考えていた。


 そういえばあたしは、若葉の父親を一度も見た事がなかった。


 中1の時、部活の休憩中、何かのきっかけで若葉に尋ねた事がある。


〈そういえばさ、若葉のお父さんってなんの仕事してるの?〉


〈んー………なんか、建築関係とか色々………〉


〈色々って?〉


〈………よくわかんない。

 とにかく色々〉


 そう、あれは水道場で水を飲んでいる時だった。


 若葉はなんだか歯切れが悪く、結局「ふーん」と受け流してしまったけど………。


〈怒鳴るとかそういうんじゃなくて………なんか、とにかく様子がおかしかった〉


 そう話している時の苺美は、説明しがたい事にもどかしそうな顔をしていた。


 いったいどんな人なんだろう………。


 と、そこへ、バックの中で携帯が鳴り、マナーモードにしていなかったので、慌てて取り出した。


 鳴ったのは電話ではなくメールの着信音。


 もしかしてネット友達から連絡が来たのかと、一瞬期待した。


 だけどそれはパパからのメールで、逆に驚いた。


[火傷は大丈夫か?

 こんな時に帰ってやれなくて本当にごめん。

 それになかなか連絡してやれなくてごめんな。

 色々不安に思ってる事があるだろうけど、もう少しパパに気持ちの整理をする時間をくれないか。

 落ち着いたら必ず連絡するから待ってて欲しい。

 約束する。

 パパは環を絶対見捨てる気なんかないから信じて欲しい。

 また何かあったら連絡くれ。

 パパより]


 胸が熱くなって、涙が込み上げてくる。


[約束する]


 その言葉が、なぜかとても胸に響いて涙が止まらなかった………。






 その翌日、杉並北警察署へと出向いた。


「あの、刑事課の角田刑事さんか国生刑事さんに会いたいんですけど」


 受付で尋ねると、三階に向かうように案内された。


 "刑事課"と書いたプレートの部屋の中を覗くと、事務机の上には殺伐と書類や物が置かれていて、その周りを人が慌ただしく動いている。


 こんな所にいきなり入って行っていいのかどうか迷っていると、後ろからポンポンと肩を叩かれてびっくりした。


 振り返ると、コンビニの袋を下げた角田さんが立っていた。


「どしたの、こんなとこで」


 角田さんは今日も無精髭を生やしたままで、ネクタイもだらしなく緩めている。


 コンビニの袋にはカップヌードルがいくつも入っていて、そこに目を留めると、「食べる?」と言ってきた。


 取調室に通され、椅子に座って待っていると、お湯を入れたカップヌードルを二つ持って戻って来る角田さん。


「お待たせー。

 シーフードしか買ってきてないんだけど、いい?」


「はあ………」


 ペコッと頭を下げると、角田さんはあたしを見て言った。


「何。

 こんなもんばっか食ってるのかと思ってる?」


「いや、まさか取調室でカップヌードル食べる事になるとは思わなかったなと思って」


「ああ、そういう事か。

 落ち着いて話をするならもってこいの部屋だろ?

 はい、割り箸。

 3分ね」


 わざわざ時間を言って来たのが可笑しくて、プッと吹き出して笑うと、角田さんは鼻で笑った。


「ようやく笑ったね。

 少しは元気が出たか」


「はい、角田さんのおかげで」


「俺の?」


「パパに………話してくれたんですよね?

 あたしの事」


「ああ、あれか。

 パパから連絡は来た?」


「来ました。

 絶対見捨てたりしないって」


 角田さんは笑って頬の無精髭をかく。


「それで今日はわざわざ礼を言いに来てくれたの?」


「いえ、実はちょっと相談があって」


「相談?

 なんでしょう」


 角田さんは腕時計を見ながら聞き返してくる。


「こないだ話した麗奈の事なんですけど」


「ああ、友達の?」


「居場所………わかりました?」


「ああ、連絡取れたよ。

 地方に引っ越してたから、ちょっと時間かかったけど」


「地方に?」


「そう。

 事件の後しばらくして引っ越したみたいだね。

 お父さんが転勤になったとかで」


「どうやってわかったんですか?」


「ん?

 フツーにお父さんの会社に問い合わせて」


 警察ならそのくらい朝飯前か………。


「あの、あたしも麗奈と話がしたいんですけど、連絡先を教えてもらえませんか?」


「何、携帯知らないの?」


「番号が変わってたんです」


「ああ、なるほどね。

 だけど個人情報の守秘義務があるから、教えるわけにはいかないんだよ」


「そうなんだ………。

 あ、じゃあ、あたしの携帯番号を麗奈に伝えてもらえませんか?

 どうしても麗奈と話がしたいんです、若葉の事で」


「それはいいけど………。

 どうしてまた?」


 ちゃんと自分がやった事と向き合いたいという気持ちを話すと、カップヌードルの蓋を剥がしながら「なるほどねぇ」と言う。


「それをした事で若葉が生き返るわけじゃないけど………。

 でも自分がどうしてそんな事をしたのかがわからないと、前に進めない気がして」


「ふーん………真面目なんだね」


 少しカチンときた。


「馬鹿にしてますか?」


「いやいや、話に聞いてた通りの子だなーと思って」


「え?」


 角田さんはカップヌードルをズルズルと啜る。


「当時の事件資料を読み返してみたんだよ。

 それで君に関する周囲の評判は、ほとんど "真面目で正義感が強い子" って事だった。

 まあ、あんまり協調性がないとも書いてあったけどね」


「………」


「だからって言うか………水を差すようだけさ、自分がどうしてそんな事をしたのか振り返ってみても、あんまりスッキリしないかもしれないよ?」


「どうしてですか?」


 角田さんはスープに息を吹きかける 。


「大して悪意がなかったから」


「悪意?」


「ここ数ヶ月さ、SNSに不謹慎な写真の投稿が勃発して問題になってたのは知ってる?

 飲食店の冷蔵庫の中に入ったりさ」


「ああ………ネットでちょっと見ました」


「"入ってみた" とか "人身事故なう" とかさ。

 端から見るとなんて事してんだって感じだけど、やってる本人達は単なる子供の悪ふざけのつもりなんだよな。

 仲間内じゃ笑える事でも、世間的には全然笑えないじゃない。

 会社が大きな損害を被ったりしてさ。

 悪ふざけでしたーで済む話じゃないし。

 ここまで大問題になるとは思わなかったとか、大半の奴がそう言ってるけど、実際考えてなかったと思うんだよ。

 まあ言ってしまえば "確信犯" じゃないって事ね」


「………」


「だからそのボタンを押す時は、ほんの少しの悪意だったと思うんだ。

 だけど押してみたら、想定外の事態にびっくりみたいな?

 ちょっと考えればわかるだろって突っ込みたくもなるけど、とにかく事情は違っても、環ちゃんもそれに近い感じだったわけよ。

 ほんの少しの悪意」


 ほんの少しの………。


「なんで友達のIDを勝手に教えたりすんだよって、周りからすればそう思う。

 だけどそれは取り返しの付かない事件が起きたからだ。

 他人は結果しか見ないから、IDを教えたりした環ちゃんの神経が理解出来ないってなるだろうけど、IDを教えたからって普通はそんな事になるとは思わないから、深く考えずにやってしまう事は結構あると思う」


「………」


「ただ、俺ら警察は悲惨な事件をいくつも見てきてるから、なんでそんな軽率で危ない事をって思ってしまうのが正直なところでさ。

 しかも普段はそんなにいい子なのに、こんな事でって残念に思った気持ちもある」


「………」


「だからその時の自分の感情を振り返ってみても深い意味はなくて、“なんでそんな事をしてしまったんだろう” って、結局は今と同じ場所に行き着くんじゃないかと思うよ?

 身も蓋もない話だけどね」


 ………確かに、角田さんの言う通りなのかもしれない。


 結局辿り着くのは、“後悔先に立たず” っていう救い処のない場所。


 だけど………。


「………それでも、あたしは自分がやった事を受け入れたいです。

 過去から逃げたくないんです。

 それが今のあたしの生きる道だと思うから」


「………」


 角田刑事さんは口を動かしながら、「早く食べないと伸びるよ」と言う。


 あたしは割り箸を割って既に伸びた麺を啜る。


「………亡くなった女の子はさ、環ちゃんにとってどんな存在だったの?」


「………。

 よくわかりません」


「………そっか」


「はい」


 ズルズルッと、しばらく麺を啜る音だけの時間が過ぎる。


「じゃあさ、環ちゃんがその子に相談したかった事ってなんだったのかな」


 あ。


 そういえばそうだった………。


「そこについては書かれてなかったんですか?

 あたしも知りたいところなんですけど」


「書かれてなかった。

 というか、言いたくなかったみたいだよ」


「言いたくなかった?」


「うん、そう書かれてあった」


「………」


「だから環ちゃんにとってその子はどんな存在だったのかなって。

 その子にしか言いたくない悩みがあったって事はさ」


 若葉にしか言いたくない悩み………。


 考え込んでいると、角田さんはスープまで残さず食べきってから言った。


「まあとりあえず、その麗奈ちゃんって子には伝えておくよ。

 だけどこれだけは約束してくれるかな」


「なんですか?」


「自分を追い詰めすぎない事。

 この前みたいな事はしないようにな、自分を傷付けるような事だけは」


 自分に罰を下す為に、膝を拳で叩いていた時の事だなと思い、こくんと頷いて返す。


「………あの」


「ん?」


「髭にネギが付いてます」


 角田さんは口元の髭を撫でてネギをつまんで食べる。


「どうして髭剃らないんですか?」


「ん?

 髭が生えてると人相が悪く見えるだろ?」


「まあ」


 角田さんについてはそう見える。


「刑事は人相が悪いぐらいがちょうどいいんだよ」


 得意気な顔をする角田さんを見て、吹き出して笑ってしまう。


「でも髭剃ったらちょっとカッコいいかも」


「ちょっとだけ?」


「うん、ちょっとだけ」


 角田さんは鼻で吹き出して笑い、つまようじをくわえていた。






 家に戻ると、りんごが包帯とカラーを巻いた姿で元気に駆け寄って来る。


 こんな痛々しい姿になってもりんごは元気だ。


「ただいまー、りんご。

 耳の消毒してからお散歩行こうねー」


 顔を両手で挟んで撫でると、りんごは口元をペロペロ舐めてくる。


 だけど実際に消毒しようとすると、大人しくはしてくれない。


 背中をまたいで押さえ付けてようやくだ。


 消毒液が滲みるのか、キャンキャンと鳴き声を上げる。


 ただれてピンク色の肌が見えている耳を見ると、可哀想に思えて仕方がなかった。


「ごめんね、りんご。

 あたしのせいでこんな目に遭わせて………」


 消毒を終えると、ぎゅっとりんごを抱き締めた。


 ここ数日お散歩に連れて行ってあげられなかったので、少し遠くの妙正寺公園までバスを使わず歩いて行く事にした。


 りんごのお気に入りは井草森公園なんだけど、前回の事があるのであまり行きたくない………。


 池の回りをのんびり歩いていると、前方に思わぬ人を見付けた。


「あっ………宗方さん!」


 10メートル程離れたところから大声で呼んでしまい、周囲の人が驚いて振り返る。


 恥ずかしくなって額に手を当てて俯いていると、宗方さんの方から歩いて来てくれた。


 宗方さんは以前話していた豆柴を連れている。


「よう、偶然だね」


「こんにちは。

 ごめんなさい大声で………」


 豆柴がりんごに向かって吠えるので、宗方さんが「こら」と注意する。


「その子、なんていうの?」


「未来。

 こう見えてもメスなんだ」


「へぇー、未来ちゃんかぁ。

 可愛いー。

 おいでおいで」


 しゃがんで手を伸ばすと、未来ちゃんはクンクンと匂いを嗅ぎながら近付いてきて、指をペロッと舐めてくれる。


 りんごはそろそろと未来ちゃんに近付き、お互いの匂いを嗅ぎながら様子を窺っている。


 未来ちゃんが警戒しているのはりんごが付けているカラーのようだ。


「火傷したんだったよね。

 ひどいの?」


「うん………。

 もう毛は生え変わらないだろうって」


「そっか、災難だったな………」


 宗方さんはしゃがんでりんごの背中を撫で、優しい笑顔を向けている。


 私服姿だと余計にカッコよく見えてドキッとした。


 宗方さんはあたしの視線に気付く。


「あっ………あの、犬が相手だと、笑うんだね………」


「え?」


「だって、いつもはほら、真面目で固そうな顔してるから………」


 宗方さんは小さく微笑む。


「家は下井草の方じゃなかったっけ」


「え?

 ああ………うん………。

 今日はちょっと遠くまで歩いて来てみた。

 宗方さんは?」


「俺は荻窪」


「へぇ」


 同じ杉並だったんだ………。


 りんごと未来ちゃんが仲良くなってくれたので、一緒に散歩する事になった。


「宗方さんって何歳なの?」


「俺? 27だよ」


「えっ!

 そんな年上だったんだ………。

 22とか3ぐらいだと思ってた」


「たまに言われる」


 宗方さんはりんごと未来ちゃんの背中を見ながら穏やかな笑みを浮かべる。


「いつもそういう顔してればいいのに」


「え?

 ああ………笑うのは苦手なんだよ」


「どうして?」


 宗方さんは首を捻って見せる。


「前にも同じような事聞かれたね」


「え?」


「去年入院してた時。

 “なんであんまり笑わないの” って」


「へぇ………あたしそんな事聞いたんだ」


 記憶が無くなる前に宗方さんと話していたというのが、なんだか不思議な気がする。


「昔からそうなの?」


「いいや、大学生までは普通だったよ」


「普通って?」


「大学の時に、妹が死んだんだよ」


「え………なんで?」


 宗方さんは下を向いたまま「自殺」と答える。


 あたしは口をつぐんで唾を飲んだ。


「高校に上がってからひどいいじめを受けてたんだ。

 トイレの便器の水を飲まされたり、殴る蹴るは日常茶飯事だったみたいで………。

 最後は服を脱がされて写真を撮られて、それを学校の裏サイトに載せられて………それで首を吊って………」


「………」


「妹とはそんなに仲が良かったわけじゃないんだけど、その写真を見てしまった時に笑えなくなった。

 ショックで顔の神経が麻痺して、治るのに三年ぐらいかかったかな………」


 そうだったんだ………。


「今は普通なんだけど、いつの間にか笑うのが苦手になった。

 治るまでの間に、引きつってる顔を見て笑われたしね」


「………そっか。

 ごめんなさい、辛い事聞いてしまって………」


 宗方さんは首を横に振る。


「志水先生っていい先生だろう?

 俺も志水先生に診てもらってたんだ」


「そうなの?」


「うん。

 実は志水先生って、俺の四人目の先生だったんだよ」


「四人目?」


「病院を何軒かハシゴしたんだ。

 医者と患者にも相性はあるから」


「そうなんだ………。

 もしかして、それで精神科の看護師に?」


「そう。

 ずっと精神科に通ってて、なんとなく自分に向いてる気がしたから」


「へぇ………。

 そういえばあたし、将来何の仕事したいとか、あんまり考えてなかったな………」


「何もなかったの?」


「うん。

 ママが弁護士やってたから、カッコいいなーって思った事はあったけど、勉強はそんなに好きじゃなかったから」


「そうなんだ。

 だけど向いてそうだよね。

 気の強いとことか、信念を曲げないとことか」


「うーん………でも結局、あたしはママみたいに強くはないから」


「どうして?」


 宗方さんは顔を上げてこちらを見る。


「だって今回の事で色々わかったんだもん。

 自分がいかに弱い人間だったか………。

 携帯が手元がないぐらいでそわそわして、ネットの友達に繋がらないだけで不安で。

 ネット依存性って、まさにその通りだなって」


「………」


「志水先生に指摘された通り。

 あたしはネットの中で弱い自分をさらけ出して、現実では強い人間になろうとしてたんだと思う。

 信念を曲げないとか言ったら聞こえはいいけど、そういう風に強くなろうとすればする程、周りと上手く行かなくて、現実生活が嫌になって………。

 それで弱い自分はネットに逃げ込んだのかも。

 二つの世界でバランス取ってたから、その一つが無くなるとダメみたい………。

 そういう事………ママはしないもん」


「………そうかな。

 みんなどこかで強い自分と弱い自分の帳尻を合わせてるものじゃないかな」


「そう?

 じゃあ宗方さんはどこでバランス取ってるの?」


 宗方さんはこちらを見て「犬」と言う。


「犬の前だとありのままの自分でいられるから。

 強いも弱いも関係ないっていうか」


「ああ、そう言われてみればそうかも。

 だけどあたしはりんごに当たっちゃったからな………」


「でもそれを治すトレーニングをやってるじゃん。

 病気になると誰だってコントロール出来なくなるよ」


「そっか。

 なんか精神科の病気って不思議だね………。

 病気で物に当たったり暴れたりするなんて、思ってもみなかった」


「それは俺もだよ。

 まさか本当に笑えなくなるとは思わなかった………。

 でも今ならわかるけどね、そういう人の気持ちが」


「あたしはまだまだ自分の事で精一杯だな。

 まずはちゃんと過去と向き合わないと」


「過去と?」


「うん。

 こないだ志水先生から、“生きなきゃならない” って言われて、それで過去と向き合う事に決めた。

 記憶がいつ戻るのかわかんないのなら、自分で動こうと思って」


「へぇ」


「今はとりあえずそれをやる事しか思い付かないや。

 それをやらないと、自分の将来の事なんて考えられない気がする………。

 記憶がないとさ、前に進むべきなのか後ろに進むべきなのか、わからなくなるんだもん」


「ふーん、なるほど。

 それは一つ勉強になったかも」


「アハッ、そう?

 いいサンプルになった?」


「うん、なった」


 そう言って、宗方さんは自然な笑顔を向けてくれた。


 その笑顔を見るだけでドキドキして、その笑顔を壊したくなくて、何も触れないでおく。


 宗方さんは真面目で厳しいとこもあるけど、すごく優しい。


 最初は感じ悪いと思ってた事が、今は嘘みたいに思える。


 広場の方へ出ると、りんごと未来ちゃんを自由にして遊ばせた。


 りんごはカラーが邪魔でしょうがないみたいで、何度も引っくり返ってカラーを外そうともがいている。


 それを見かねて、宗方さんはりんごが別の事に集中するように待ての状態を作って離れたところへ行き、パン!と手を叩いてりんごを呼ぶ。


 りんごは真っ直ぐ走って行って、宗方さんからご褒美のクッキーをもらって嬉しそうにしている。


 未来ちゃんもそれを真似して、りんごと一緒に宗方さんに向かって飛びかかって行き、二匹に倒されているのが可笑しかった。


 こんなに幸せで暖かい時間を、もうずっと長い事過ごしてなかったような気がする。


 そしてその中に少しだけ特別なものが含まれているのを感じていた。


 それは、人を愛おしいと思う気持ち。


 宗方さんの無防備な笑顔を見ていられるだけで幸せに思えて、このままずっと一緒にいられたらいいのになと、そんな事を思っている時だった。


 ───……どうして今まで気付かなかったんだろう。


 距離は離れてるけど、あたしが座っているベンチの真正面に、若葉のお母さんが立っていた事に………。


 顔が凍りついて、おばさんから目を放せなくなった。


 今、絶対目が合っている………。


 おばさんは木の下に直立不動の状態で立っていて、じっと目を据えて見つめてくる。


 その表情は遠くからでもわかる。


 怒りのこもった冷たい表情………。


 一時でも目を逸らすと、何をされるかわからないような恐怖を感じて、金縛りにあったように硬直して動けなくなってしまった。


「相澤さん、どうした?」


 あたしの異変に気付いて宗方さんが声をかけてくる。


 聞こえている。


 聞こえているけど振り向けない。


 心臓がドクドクと音を立て、それが胸の中で膨らんでいくような奇妙な感覚に陥り、だんだん呼吸が出来なくなってきた。


(苦しい………もうやめて………。

 どこかに行って………。

 お願いだから………あたしをそんな目で見ないで!!)


「おい、相澤さん!」


 宗方さんから肩を掴まれ、ようやく息を吐き出した。


 だけど息が肺の中に入っていかなくて、パニックになった。


 息が苦しくて苦しくて、このまま死んでしまうんじゃないかと思った。


(助けて………助けて………お願い………誰か………)


「誰か助けて───っ!!」


 目をつぶって大声で張り裂けんだ途端、目を逸らしてしまった事に恐怖を感じた。


 身体が震え、どんどん呼吸が荒くなって、顔を上げる事が出来なかった。


「おいっ、しっかりしろ!

 大丈夫だから。

 すみませーん!

 誰か紙袋を持ってる方はいませんか──っ?」


 宗方さんはあたしの肩を抱いて、公園にいる人達に声をかけた。


「あの………これでいいの?」


 知らないおばさんの声が聞こえた。


「ありがとうございます。

 相澤さん、この中でゆっくり息をするんだ。

 落ち着いて、ゆっくりだ」


 宗方さんはあたしの口と鼻に紙袋をかぶせてくる。


 何がなんだかよくわからないまま、言われるままに荒い呼吸を繰り返した。


 呼吸と共に膨らむ紙袋に、コンビニのロゴマークが見える。


 それを一点に見つめながら呼吸をしているうちに、だんだん息苦しさが治まってくる。


 りんごがあたしの足下であたふたしながらクンクンと鳴いている。


 未来ちゃんも落ち着かない様子でワンワンと吠えている。


 その途中で涙が流れた。


 ああ、生きてるんだなぁと思った。


 ゆっくり顔を上げて正面を見ると、先程立っていた場所におばさんの姿はなかった………。






 呼吸が落ち着いた後、持って来ていた頓服を飲み、ベンチに横になって休んだ。


「もう大丈夫だ、心配ないよ」


 宗方さんはりんごの頭を撫でながらそう言った。


 りんごは前足をベンチに乗っけて、あたしの顔をしきりに舐めてくる。


 顔にカラーが当たって、ちょっと痛かった。


「あとは自宅でゆっくり休めばいいから。

 家まで送るよ」


「………平気、大丈夫」


 一人で帰らなければならないような気がした。


 きっとおばさんは、あたしの気持ちに気付いたはず。


 心の中の何もかもを見透かされたような気がして怖かった………。


 りんごと一緒にタクシーに乗ると、宗方さんは「本当に大丈夫?」と確認してくる。


「大丈夫………また病院行きます」


「警察にも必ず電話するんだぞ?」


 頷いて、ドアが閉まると、ぐったりとシートに身体を預けて、宗方さんに軽く手を挙げて別れる。


 タクシーの中で、ぼんやりしながら考えていた。


 こんなんで、本当に自分の過去と向き合えるんだろうか。


 さっきのおばさんの姿を思い出すと、過去を振り返るのが怖い気がした。


 おばさんはどこからあたしをつけて来たのか………。


 散歩に出た時から?


 それとも、警察に向かった時から?


 そうする事で、おばさんはいったいあたしに何を求めてるんだろう。


 若葉の事を思い出させる事なのか、殺す事なのか、いったいどっちなんだろう………。


 料金を払って車を降りて、りんごと一緒に家の中へ向かう。


 すると背後から名前を呼ばれた。


「環っ!」


 ビクッとして振り返ると、上品に長い髪を巻いた若い女の人が立っていた。


 思わず息を呑んでしまう程の綺麗な顔立ちを見て、ハッとなった。


「………麗奈?」


「そうだよ、麗奈だよ、環」


 麗奈はスーツケースから手を放し、目を潤ませてあたしの腕を掴んでくる。


「ずっと会いたかったよ環………やっと会えた………」


 洗練されたような綺麗な顔立ちに戸惑いながらも、昔の面影にすごく懐かしい気持ちになって、心が安らぐ感じがした。


「麗奈………嘘………あたしも麗奈を探してたんだよ?

 今日刑事さんに頼んだばっかりなのに………」


「自宅に火を点けられたって聞いて、家を抜け出して来たんだよ。

 あたしも、ずっとずっと一人で苦しかったの………。

 環………生きててくれて本当に良かった………」


 麗奈は涙を流してあたしに抱き付いてくる。


 ずっと忘れていたのに、麗奈の身体の温もりを感じて心底ホッとしている自分がいた。


 一番会いたかった人に会えたような安堵感に、涙が溢れる。


「麗奈………麗奈ぁっ………」


 あたしと麗奈は、しばらくその場で抱き合って泣いていた。











  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る