第4話 怨恨






 10月に入り、志水先生から出してもらった薬のおかげで、あたしは体調を取り戻しつつあった。


 右腕の骨折も治りギプスも取れて、今日はりんごを連れて杉並にある井草森公園まで遊びに来ていた。


「りんごー、いくよー」


 芝生のある広場でボールを遠くに投げると、りんごは元気よく走って追いかけて行く。


 ボールをくわえて、シッポを振りながらあたしのところへ戻ってきた。


「よく出来たねー、りんご」


 頭を撫でてご褒美のクッキーをあげると、りんごは嬉しそうにそれを食べる。


 りんごもすっかり元気を取り戻してきていた。


 ストレスを解消させる為、最近では朝と夕方の二回にわけて散歩に連れて行くようにしている。


「りんご、今度はこっちにしてみよっか」


 りんごのお気に入りのフリスビーを見せると、そちらではなく、宗方さんに買ってもらった黄色いゴムボールの方を見て吠える。


 近頃りんごはこっちの方を気に入っていた。


「すっかりお気に入りだね。

 宗方さんに遊んでもらえて、そんなに楽しかったの?」


「ワン!ワン!」


 楽しかったらしい。


(それにしても、病院の売店にどうしてボールなんか売ってたのかな………)


 首を捻り、「いくよー」と言ってボールを投げると、コントロールが狂って木の茂みの方に飛んで行ってしまった。


「あっ! ごめん!」


 それでもりんごは走ってボールを取りに向かう。


 それを見て苦笑していると、ふと、誰かの視線を感じた。


 振り返ると、広場の隅っこにある低い階段のところに佇むように座っている中年の女性を見て、思わず凍り付いてしまった。


 若葉のお母さんだ………。


 目が合うと、おばさんは微笑んで小さく手を振ってくる。


 ごくりと生唾を飲んで、ぎこちなく会釈を返した。


 おばさんは腰を上げ、ゆっくりこちらへ近付いて来る。


「こんにちは、環ちゃん」


「こんにちは………ぐぜ、偶然、ですね………」


 緊張してしまい、噛んでしまった。


「ずいぶん楽しそうに遊んでたから、しばらくそこから見てたの」


「そうなんですか………」


 心臓がドクドクと音を立て、まともにおばさんの顔を見る事が出来ない。


「腕の骨折、治ったの?」


「あ、はい。

 先週ようやくギプスが取れたところで………」


「そう、良かったわね。

 記憶の方は戻ったの?」


 おばさんは頬を緩めたまま、じっとあたしの目を見つめて来る。


「あ、いえ、それはまだ………」


 嘘を吐いたわけじゃないけど、罪悪感が胸の中に広がった。


 記憶は戻ってなくても、若葉との事はわかっている。


 だけどそれをおばさんに切り出す勇気がない………。


 おばさんは「そう」と言って目を曇らせる。


 あたしは平然を装って尋ねた。


「おばさんも………遊びに来てたんですか?」


「遊びに来たっていうか、今日は天気がいいでしょう?

 だからちょっとお散歩にね」


 確かに今日は雲一つない綺麗な秋空が広がっている。


 ………でも、ちょっと散歩に来たというのは不自然な気がした。


 この井草森公園は、おばさんが住んでいる団地の最寄り駅である下井草駅から一つ先の井荻駅付近にある。


 歩いて来れない距離ではないけど………。


 と、そこへ、りんごが元気にボールをくわえて戻って来る。


 ばつの悪さを感じながら、無言で頭を撫でてやっていると、おばさんが微笑みながらりんごを見て言った。


「お利口なのね」


「あ、はい………ありがとうございます………」


 りんごは舌を出してハッハッと息を弾ませながら、続きをやろうと催促してくる。


 それに応えられずにいると、おばさんが「やらないの?」と尋ねてくる。


「あ、えっと………そろそろ帰ろうかなって思ってたから………」


「そうなの?

 もう少し遊んであげたらいいのに」


 笑顔でそう言われて、心臓の鼓動がどんどん早くなっていく。


 おばさんはいったい、あたしの事をどう思っているのか………。


 一刻も早くこの場から立ち去りたくなって、「このあと、用事があるんです」と嘘を吐いた。


「用事って?」


「えと………病院です………」


「病院?

 記憶を戻す為の?」


「いえ………そっちは特に治療しないみたいで………自然に思い出せるからって………。

 今日は、骨折した腕のリハビリをしに………」


「そう………。

 早く思い出せるといいわね」


 にっこりと笑顔を見せるおばさんが怖くて口が震えそうになり、きゅっと結んで無言で頷いて返す。


 今はそれだけで精一杯だった。


「それじゃあ、またね」


「あ、はい………さようなら………」


 おばさんが踵を返して去って行くと、身体中の力が抜けてその場にしゃがみ込んだ。


 どうしておばさんの方から若葉の事を切り出してこないんだろう。


 あんな風に笑顔を見せて、記憶の事だけ尋ねて来たりして………。


 間違いなく、おばさんはあたしを恨んでるはず。


 苺美のように、あたしをいたぶろうと考えているのだろうか………。


 もしそうなら、あの新聞記事のコピーをポストに入れたのは、おばさんの仕業なのかもしれない。


 団地の前で会った時、記憶を無くしてしまった事を話したから、考えられる事だ。


[オマエハ人ヲ殺シタ。

 ソレヲ忘レルナ]


 以前苺美が送ってきた内容と同じ事を、おばさんも思っているのかもしれない。


 いや、きっと苺美以上にあたしを許許せないはず………。


〈ずいぶん楽しそうに遊んでたから、しばらくそこから見てたの〉


 ゾクッと寒気がして、全身に鳥肌が立つ。


 りんごと笑いながら遊んでいるあたしを見て、おばさんはどう思っただろう。


 "若葉をあんな目に遭わせておいて、どうして楽しそうに遊んでるの?"


 そんな言葉が頭に浮かんで、頭がズキズキしてきた。


 しばらく両方のこめかみをマッサージしながら蹲っていると、りんごがなおも催促して吠えてくる。


 その事に苛立って、静かにしてよ!と、怒鳴りつけそうになってハッとした。


(………ダメ、怒鳴っちゃダメ)


 こんな風に感情が高ぶりそうになった時、自分でストップをかけるトレーニングをするように志水先生から言われている。


 バックの中からペットボトルのお茶を取り出し、携帯していた抗不安薬の頓服をその場で飲む。


 そうやって自分で気持ちを落ち着かせるようにするのもトレーニングの一つだ。


 一度大きく深呼吸して、いつもの口調でりんごに言った。


「ごめんねりんご………そろそろ帰ろうか」


 言葉が通じるわけもないけど、りんごはその場にお腹を付けて座り、断固抵抗の意思を見せる。


 もっと遊びたいと思うのは当然だ。


 りんごは我儘を言ってるわけじゃない。


 だからここで叱り付けたり、自分の感情をぶつけたりしちゃ駄目なんだ………。


 そう自分に言い聞かせて、りんごの頭を撫で、その場から動いてくれるのを待つ事にした。






 家に帰ってから、自分の部屋の机の引き出しにしまっていた新聞記事のコピーを取り出して眺めた。


 おばさんがこれをポストに入れたのなら、知らないフリをしたあたしを見て、どう思っただろう。


 シラを切ったとか、そんな風に思われたかもしれない。


 いや………実際にあたしはシラを切った。


 おばさんに若葉の事を切り出すのが怖くて、なんと言っていいのかわからなくて………。


 記事は読んだけど思い出せないなんて、都合のいい言い訳だと思われるかもしれないし、あの時自分がどうしてそんな事をしたのか思い出す事も出来てないのに、そんな状態で無責任に謝れるわけがない。


(いったいどうしたらいいの………?)


 頭をぐしゃぐしゃと掻いて、つと、パソコンに目が留まる。


 今のこの気持ちを、ネットの中に吐き出したくなった。


 パソコンに電源を入れ、commuのサイトにアクセスする。


 そして新しいIDを作り、新しいブログを立ち上げた。


 ハンドルネームは ”林檎”


 以前サブIDで使ってたものだ。


 ブログタイトルも以前と同様、“林檎日記” にする。


[林檎です。

 色々あって、いつの間にかIDが消されちゃってたので、新しくID取得しました。

 マリちゃん、コータくん、きなこさん、浪花節さん。

 このブログに気付いたらコメントかチャットに連絡下さい。

 またみんなと話したいです]


 羅列したハンドルネームはネットで知り合った友達、“マイコミュ” の仲間だ。


 マリちゃんは同い年で、コータくんは三つ年上のお兄さんで、きなこさんは30代後半の専業主婦。


 浪花節さんはサラリーマンで、50代のおじさんだ。


 みんなのハンドルネームで検索をかけてみたけど、いつの間にかcommuは名前検索が出来ないしくみになっていた。


 この四人はブログをやってなかったから、ブログ名で検索する事も出来ない。


 だからこちらのブログを全員公開に設定して、みんなが気付いてくれるのを願うしかない………。


 心の支えになってくれるのは、ネットの友達だけだ。


 記憶喪失になった事は信じてもらえないかもしれない。


 若葉との事について書く事も出来ない。


 それでも、他愛のない話でもいいから、とにかく友達と話がしたかった………。






 翌日。


 一週間に一度の外来に向かった。


 診察室に入るなり、志水先生はあたしの顔を見て言った。


「あれっ?

 どうした、そんな疲れた顔して………。

 目にクマが出来てるじゃないか」


「うん、まあ………」


 そう答えて、志水先生の向かいにある椅子に腰を下ろし、膝の上にバックを乗せる。


「先週来た時はだいぶ調子が良くなってきてたのに、今日は調子悪そうだな………。

 何かあったのか」


 昨日、若葉のお母さんに会った時の事を話すと、志水先生は「そうか………」と深刻そうに頷く。


「おばさんは、きっとあたしの事を恨んでるだろうし………。

 そう思ったらなんか、急に怖くなって………」


「それで昨日は眠れなかったのか」


「それもそうなんだけど、なんか………落ち着かない気分になったって言うか、すごく不安になって………。

 明け方まで携帯いじってた」


「携帯で何をやってたの?」


「まあ………新しくブログを立ち上げたり、人のブログを読んだり………。

 あとは………ネットの友達から連絡が来ないかなって、ずっと待ってた………」


「どういう事?」


 ブログで呼びかけた事を話すと、志水先生は息を吐いて肩を下げる。


 あたしは上目遣いで志水先生の反応を窺った。


「先生………呆れてる?

 またブログを始めたりして………」


「いや、呆れてはないよ。

 ブログをやる事が悪いと思ってるわけじゃないし。

 それに、日記を付けるのはいい事だと思うよ」


「………」


「ただ、環ちゃんが救いを求める場所は、どうしてもネットの中なんだなぁと思って」


「だって今はしょうがないじゃん。

 他に頼れる友達もいないし………。

 それに、自分でもわかってる。

 こんな事したって、何万人のブログの中から見付け出してもらえるわけないって。

 前に使ってたIDは消されちゃってたし………」


「………」


「それでも、携帯をいじってないと不安なの。

 そうしてないと、誰とも繋がってないような気がするっていうか、すごく孤独な気持ちになって………」


「まあ………その気持ちはわかるような気がするけどね。

 確かに今の状態だと、そうなるのかもしれないな」


 でしょう?という意味を込めて、あたしは頷いて返した。


「それに誰にも言えない悩みや不安をどこかに吐き出したくて、ネットにすがりついてるのは、何も環ちゃんに限っての事じゃないしな。

 ここ数年は多いからね、ネット依存症になってる人が。

 SNS疲れになってる人も多いし」


「SNS疲れ?」


「そう。

 えっと、あれ、なんて言うんだっけな………。

 現実生活が充実してるっていう意味の、若い子達が使う言葉」


「”リア充” の事?」


「ああ、そうそう。

 本当は現実生活で上手く行ってないんだけど、SNSサイト上ではそう見せかけて、満足感を得ようとする人がいるみたいでね。

 でもそれだけじゃ物足りなくて、他人からのコメントを求めたり、フェイスブックで言えば自分の投稿に “いいね” ボタンがつくのを頻繁にチェックしたり」


「………」


「自分に関心を持ってもらいたかったり、他人に自分の事を認めてもらいたくて、一日に何十回も記事を投稿して、いつの間にかネットの世界が全てになってたりしてね。

 人それぞれ色んな理由でのめり込んでるんだろうけど、逆にそれを見てる側も反応に困って、疲れてる人がいるみたいだな」


 それを聞いて、自分にもいくつか当てはまる部分があると思った。


 サブIDでは自分の本心を吐き出したかったから、リア充を装う事はなかったけど、誰かに構ってもらいたくて、コメントが付くのを何度もチェックしたりしてたし、誰かに自分の寂しい気持ちに気付いてもらいたい部分はあったと思う………。


「みんなどこかに寂しさだとか自分を認めてもらいたい気持ちを抱えてるものだからな。

 それが一概に悪いとは思わないし、そもそもSNSは誰かとコミュニケーションを取って楽しむものだから、要は使い方が大切って事かな」


 使い方………。


「それにね、以前SNSがすごく役立った事があったんだよ。

 環ちゃんは思い出せないかもしれないけど、一昨年の3月に東日本大震災が起こってね」


「ああ、うん。

 思い出せないけど話だけは聞いてる。

 東北の方で地震が起きて、大きな津波が来て壊滅状態になったって」


「そう。

 日本の地形が変わってしまう程破壊力のある大津波だったんだ。

 当時は大騒ぎになって、安否確認の電話やメールが殺到して通信障害が起こって、しばらく繋がらなくなってね。

 東北だけじゃなく、関東もだいぶ揺れたし」


「へぇ………」


「そんな時にネットが活躍してくれたんだ。

 携帯の回線とネットの回線は別だったから。

 もちろん大きな被害を受けた地域の人は家ごと流されてしまって、パソコンなんか触れる状況じゃなかったけど。

 それ以外の人はSNSを使って、遠方に住む家族に無事である事を伝えてる人が多かったみたいだよ」


「そうなんだ………」


「そういう緊急事態に大活躍してくれたけど、でもそれは本来の役割を果たしたに過ぎない。

 ネットは情報を発信したり、誰かと連絡を取り合ったりする為のものだからさ。

 つまりパソコンも携帯電話も、その為の単なる "道具" だ」


「………」


「みんな誰かと繋がっていたい思いはあるし、連絡を取りたい相手と連絡が取れない時は不安になるものだよ。

 繋がらない事で焦ったり孤独を感じる気持ちはよくわかる。

 だけど環ちゃんの場合、その道具そのものに人との繋がりというか、"絆"を感じてる節があると思う。

 さっき話してたブログの話に例えれば、ネットの中に “絆の在処” を感じてるって言うのかな………。

 以前お父さんから携帯を取り上げられた時、環ちゃんはまるで全ての繋がりを絶たれたみたいにパニックに陥ってた」


「え、でも………実際はそういう事じゃん。

 そりゃ直接会えたら話は別だけど、連絡を取れる物がなかったら意味ないし、そこに絆なんて存在しないじゃん」


「何かで繋がらなければ、人との絆は存在しないって事?」


「結局そういう事になるじゃん………。

 友達に着信拒否された地点で、友情なんて終わってるし、ママだって電話に出てくれないし………。

 親子の縁を切られたも同然じゃん」


「じゃあ、電話さえ存在しなかった時代はどうだったのかな」


「え?」


「それまでは人と人との間に、絆なんてものは存在しなかったって事になるのかな」


「それは………ああ、手紙。

 手紙って手段はあったじゃん」


「手紙だって、昔は必ず相手の元に届ける事が出来たわけじゃないよ?

 特に戦時中なんかはね」


「そんな難しい事言われたって、あたしにはわかんないよ………。

 電話やネットがある時代に生まれた人間だし、先生だってそうでしょう?

 誰かと繋がって初めて絆が存在するんじゃないの?

 そういう事になるでしょ?」


 志水先生はゆっくり首を横に振った。


「いいや、僕はそうは思わないな」


 あたしは手元にあるバックの取っ手をぎゅっと掴んだ。


「じゃあ、人との絆っていったい何?

 先生はそれがどこにあると思ってるの?」


「うーん、絆とは何か、か。

 それはいったい何処にあるのか………」


 志水先生は軽く宙を仰いで微笑んだ。


「それは僕の意見を聞くんじゃなくて、環ちゃん自身で考えてごらん」


「え、何それ。

 結局先生もわかってないんじゃないの?」


「いやいや、人の考えはそれぞれだからさ。

 それに人との絆について考えてみる事は、今の環ちゃんにとって必要な事だと思うよ」


「どうして?」


「どうして必要なのかも、自分で考えてみる事だ」


 釈然とせず、しかめっ面で息を吐くと、清水先生は微笑みながら言った。


「じゃあ一つだけヒントをあげようか。

 サン・テグジュペリの『星の王子さま』は読んだ事ある?」


「ああ………確か中学の英語の教科書に載ってた。

 一部しか載ってなかったから、全部は読んでないけど」


「じゃあ、王子さまがキツネに出会ったところはわかる?」


「なんとなく………」


「王子さまはね、キツネと友達になる為に、ある事をしたんだ。

 なんだと思う?」


 首を傾げて返すと、志水先生は胸の前で両手を組んで言った。


「キツネとの約束を守ったんだ」


「約束?」


「そう、約束だ。

 そしてキツネから大切な事を教わった。

 今度読み返してみるといいよ。

 出版社によって訳し方が違うけど、だいたいは同じ事を言ってるから」


 志水先生は椅子を回転させてノートパソコンの方へ向かう。


 そしてキーボードを叩きながら、思い出したように言った。


「そうだ、友達と言えば。

 あれからマユミちゃんとはどうなったの?」


「マユミ?

 ………ああ、苺美の事か。

 マユミじゃなくて "マイミ" だから。

 苺に美しいって書いてマイミ」


 志水先生は「これは失礼」と言って笑い、首をすくめる。


「最近の子はそういう名前が多いなぁ。

 確かに音読みで "マイ" とは読めるけど」


「まあね。

 あたし………中学の時に苺美の名前をバカにした事がある。

 "DQNネーム" じゃないかって」


「"DQNネーム"?」


「インターネットスラングだよ。

 当て字で作る "キラキラネーム" とか聞いた事ない?」


「ああ、あれか。

 色んな言葉が生まれるもんだね」


 志水先生は苦笑する。


「テニス部仲間の間で軽く口にしただけだったんだけど、その事、苺美は知ってたみたい。

 こないだそう言ってた」


「そっか。

 それから仲直りはしてないの?」


「は? 仲直り?

 そんなのするわけないじゃん」


「どうして?」


 志水先生は手を止めてこちらを見る。


「どうしてって………この前苺美との事は話したでしょ?

 あたしを騙してあんな手紙寄越してきて、若葉の事も全部あたしのせいにしてきて………。

 あたしが通報したから自分の人生が滅茶苦茶になったとか言ってきたんだよ?

 それにあんな写真をプリントアウトしてくるなんてどうかしてる。

 信じられない」


「うーん………」


「名前をバカにした事はあたしが悪かったけど………でも苺美だって、中1の時にあたしが好きだった人の事バラしたりした事あったんだよ?

 そのせいで相手と気まずくなって、ずっと口きけなくなっちゃったし………。

 中学の時の事はお互い様だよ」


 志水先生は「なるほど」と言って頷く。


「それに苺美は、仲がいいフリしてあたしの事を嫌ってた。

 正義感気取りで偉そうだったって、あたしの事、まるごと全否定された………」


「どういう事?」


「………中1の時に、新人戦の試合があったの。

 あたしも苺美も………それと、若葉も出場してた。

 苺美は若葉とダブルスを組んでて、その時の団体戦の試合で、若葉がミスを連発したんだよ。

 それで1年生全員から反感を買う事になって………。

 ある日苺美が若葉をシカトしようって言ってきたの。

 あたしも若葉がミスを連発した事にはムカついてた。

 だけど全員でシカトするとか、そういう事好きじゃないから断ったんだよ。

 くだらないって」


 志水先生は片腕を机の上に乗せて相槌を打つ。


「それでも苺美達は若葉をハブって、しょうがないから………あたしが若葉の打ち合いの相手になって練習してた。

 そしたらいつの間にか、今度はあたしがハブられる事になった。

 もちろんその時も、若葉は苺美達の方に行ったんだけどね」


「前に話してた事か。

 環ちゃんが助けてあげても、若葉ちゃんが助けてくれる事はないって」


「そう。

 そんな感じで、若葉からは裏切られっぱなしだったんだよ。

 そういう時の事も忘れて、苺美は全ての事をあたしのせいにしてきた。

 あたしの記憶がないからって都合のいい事ばっかり………。

 そんな奴と仲直りなんかするわけない。

 したくもないよ」


「………」


「あたしは別に、正義感ぶってるつもりなんてなかった。

 ただ、嫌いな事はしたくなかっただけ。

 小学生の時にテニスの練習の真似事してたから、中1の時はあたしが一番手だったの。

 1年生の中で一番先にコートに入らせてもらったのもあたしだった。

 だけど2年に上ってからは、他の子の方が上手くなって、それがただ悔しかっただけなのに………抜かされた事で悔しがってるあたしを見て、自惚れてるとか周りを見下してたとか、そんな風に思われてたみたい。

 全然そんなんじゃなかったのに………」


 あたしが俯くと、志水先生は眉尻を下げて言った。


「中学生なんてまだまだ子供だから、そういう誤解が生まれるもんだよ。

 相手の些細な言動が気になったりしてね」


「………だけど先生も言ってたよね。

 あたしは表向き "いい子を演じてた" みたいな事」


「ああ、あれはまた別の意味だよ。

 環ちゃんは人から良く見られる為にいい子ぶってたわけじゃないだろう?

 誰かの為を思ったり、環ちゃんなりの信念と理想の自分があって、それを貫こうとしてたって意味だよ」


「………」


「それに僕は、環ちゃんが正義感を気取ってる子だなんて思ってないよ?

 実際に正義感が強いとこあるじゃないか。

 若葉ちゃんに裏切られても、結局は助けてあげてたんだろう?」


「そうやって来たはずなんだけど………。

 じゃあどうしてあたしは、若葉にあんな事をしたのかな」


「若葉ちゃんのIDを教えた時の事?」


 こくりと頷いて返す。


「なんか自分の事がわからなくなってきた。

 まさかあんな事になるとは思わなかったって、新聞には書いてあったけど………。

 それでもあたしは、若葉が犯人の一人に "遊ばれればいい" なんて思ってたんでしょ?」


「………」


「結局………全部あたしの責任って事なのかな………。

 苺美に責任を押し付けられても、文句を言える立場じゃなかっのかな………」


 志水先生は肩を下げて、「僕の考えを言ってみてもいいかな」と言ってきた。


 あたしは顔を上げて志水先生を見る。


「苺美ちゃんが全部の責任を環ちゃんに押し付けてきたって話だったけど、心の中では苺美ちゃんも、自分に責任を感じてたんじゃないかな」


「え?」


 あたしは眉を潜めて見せた。


「何言ってんの先生………なんでそんな風に思うの?

 苺美は責任なんか感じてないよ。

 通報なんかしないで、黙って犯人達の言う事聞いてれば良かったんだって言ってたんだよ?

 そしたらバレなかったかもしれないとか、そんな最低な事言ってたんだよ?

 そんな奴が責任を感じるとかあり得ないじゃん」


「苺美ちゃんが環ちゃんに言ってきた事だけを鵜呑みにすればそういう事になるのかもしれないけけど、本当に何も感じてなかったら、そんな風に君を責めて来たりしなかったんじゃないかな」


「どういう事それ………全然意味わかんない………」


「若葉ちゃんに対する責任とか罪悪感とか、後ろめたい気持ちとか。

 そういう事を内心では感じてて苦しかったから、当時の記憶を失った環ちゃんの事を許せないと思ったんじゃないかな。

 一人だけ楽にさせたくないって」


「………」


「責任も感じないで単なる八つ当たりだったんなら、若葉ちゃんの事を持ち出してこなかったんじゃないかと思うんだ。

 君が言ったように、若葉ちゃんの悲惨な写真をプリントアウトしてくるなんてさ。

 よっぽどの気持ちがないと、そこまでしないと思うんだよな」


 ………そう言われてみれば、苺美は写真を見せてきた時、こんな事を言っていた。


〈この写真を見せられた時は、あたしだってショックだった………。

 何ヶ月も頭から離れなくて、夢に出てきてうなされた事もあったし〉


 苺美は、若葉と仲が良かったわけじゃない。


 それなのにショックを受けて夢にうなされてたって事は、志水先生が言った通り、責任を感じていた?


 だからこそ、責任逃れをしたくて、あたしを責めてきたって事………?


 だけど、苺美はお母さんが仕事でクビにされた事も、あたしのせいだって責めてきた。


 そこは若葉に対する責任とは関係ないんじゃないかと思ったけど………苺美はこうも言っていた。


〈自分は家に引き込もって学校から逃げて………ほんっとズルいよね。

 でもあたしは、奨学金を受けて高校に入ったからそうは行かなかった〉


 つまりあたしは、苺美が言ったように、自分だけ逃げたんだ。


 だけど、苺美は逃げられなかった。


 いや、逃げるわけにはいかなくて、周りから非難されても学校に通い、嫌がらせを受けてきたんだ………。


「その時の記憶が戻らないと、若葉ちゃんに対してどう責任を感じればいいのかわからないだろうし、亡くなってしまった若葉ちゃんとは仲直りする事も出来ない。

 でも、苺美ちゃんとはもう一度話をしてみる余地はあるんじゃないかな?」


「………」


 そう言い諭されても、苺美との事は普通の喧嘩じゃないし、事の重大さが全然違うだけに、簡単に頷く事は出来なかった………。






 その日の夜も、ベッドに横になったままずっと携帯をいじって、ブログにネット友達からの連絡が来るのを待っていた。


 コメントやチャットに連絡が来たら、携帯のメールに通知が来るよう設定してあるのに、サイトにアクセスしてチェックしないと気が済まない。


 スマホの扱いにはだいぶ慣れてきていて、commuのチャットアプリをダウンロードしてどんなものなのか触ってはみたけど、電話もメールもチャットも、まだ誰とも繋がった事はなかった。


 以前はパソコンや携帯で簡単に友達と連絡が取れていたはずなのに………ネットさえあれば、常に誰かと繋がっているような気がしてたのに………。


 こうして手にしていても、今は孤独な気持ちでいっぱいだった。


 繋がる道具があっても、誰かに繋がらなければ意味がない。


〈環ちゃんの場合、その道具そのものに人との繋がりというか、"絆" を感じてる節があると思う。

 さっき話してたブログの話に例えれば、ネット中に “絆の在処” を感じてるって言うのかな………〉


 志水先生に指摘された通りだったのかもしれない。


 以前学校に携帯を持って行くのを忘れた事があって、ただそれだけでブルーな気持ちになって、すごく落ち着かなかった。


 目の前に友達がいるのに、携帯にメールが来てないか、ネット友達からチャットが入ってないか、そっちの方が気になって仕方がなかった。


 でも、志水先生が言ってた事でいまいちわからなかったのは、人との “絆” についての話だ。


 そのヒントとして、どうして『星の王子さま』が出て来たのかもよくわからない………。


〈キツネとの約束を守ったんだ〉


 約束を守る事がいったいなんだというのか………。


 ため息を吐き、電子書籍のアプリで『星の王子さま』を検索していると、一階のリビングからりんごが吠えているのが聞こえてきた。


 何をしてるんだろうと思いながらも携帯を触り続けていると、りんごがなかなか吠えるのをやめようとしないので、仕方なく一階に降りる事にした。


「りんごー、もう10時過ぎてるんだから静かにしなよ。

 近所迷惑になるでしょー」


 リビングに入ると、りんごは庭の窓に向かってせわしなく動きながら吠え続けている。


「何、どうしたの、何かあるの?」


 そちらに向かってカーテンを開くと、オレンジ色の光が見えて、一瞬目を疑った。


 庭の垣根のところで、何かが燃やされていた。


「え……何?

 何これ………」


 思わぬ出来事に状況をすぐに飲み込めずにいると、りんごが前足で窓を擦り始めた。


 そうだ、ボーッとしてる場合じゃない。


 早く火を消さなきゃ!


 急いで浴室に向かい、戸棚からバケツを取り出して水を入れる。


 それを持ってリビングに引き返し、「りんご! どいて!」と叫んで窓を開けた。


 裸足のまま庭に飛び出して、バケツの水を勢いよく炎に向けてかけると、50センチぐらいの高さで燃えていた炎が一気に倍以上に膨れ上がり、火の粉が手元に飛んできた。


 あたしが悲鳴を上げたと同時に、いつの間にか外に出て来ていたりんごも悲鳴を上げた。


 見ると、りんごの右耳に炎が燃え移っていて、芝生の上に頭を擦りつけてそれを消そうとしている。


「りんご!!」


 りんごの元に駆け寄り、トレーナーの袖を引っ張って炎を振り払った。


「りんご! 大丈夫!?」


 りんごを抱いて耳が焦げてしまったのを確認しながら、背後で勢いよく燃え盛る炎を見て、完全にパニックになってしまった。


「………誰か………誰か助けて!!

 誰か! 誰か!!」


 他に火を消し止める方法が思い付かなくて、怖くて怖くて、りんごを抱いて叫ぶ事しか出来なかった。


 するとどこからか、「おい! 火事だ!!」という男の人の声が聞こえてきた。


 家の向かいにあるマンションの3階のベランダに人影を見付けて、無我夢中で「助けて下さい!!」と叫んだ。


 やがてその男の人が駆け付けて来てくれて、「布団か何かを持ってくるんだ! 急いで!」と指示を出してくる。


 あたしはパパとママの寝室の方に向かい、毛布を引っ張り出してきた。


 男の人は窓のカーテンを外しながら、「それを水で濡らすんだ!」とさらに指示を出してくる。


 キッチンの水道で毛布を濡らしていると、騒ぎを聞き付けて近所の人達が集まって来る。


「おい! 誰か119番しろ!」


 全体的に濡らした毛布を男の人に渡すと、代わりにカーテンを外すように言われた。


 あたしは半泣きの状態で急いでカーテンのフックを外し、男の人は他の人達と協力して炎の上に毛布を掛けて塞ぐ。


 カーテンを外し終えて渡すと、毛布の上にさらにカーテンを被せる。


「ねぇ、消火器持って来たわよ!!」


 パジャマ姿のおばさんが庭に消火器を持って入ってきて、男の人が消火器のピンを抜き、鎮火しかけている炎に向けて放射し、ようやく完全に火を消す事が出来た。






 しばらくして、消防車と救急車とパトカーが揃ってうちの前に集まった。


 消防隊の人が庭で火事が起きた場所を確認し、「初期消火はOKです!」と声を上げ、現場検証をしている。


 あたしはリビングのソファーのところで、救急隊員の人から応急処置を受けていた。


 後から気付いた事だけど、水をかけた時に飛んできた火の粉で、右手の甲を火傷してしまっていた。


「ペットの犬が吠えてるのを聞いて、火事を発見したんだね。

 その時誰かを見たりしなかったかな」


 手当てを受けながら、警察からの事情聴取にも応じていた。


「誰も見てません………」


 左手で頭を抱えてため息を吐くと、リビングの中に若い女の刑事さんが入ってきた。


「角田さん、ご苦労様です」


《角田(かどた)》というのが、今目の前にいる30代後半ぐらいの刑事の名前らしい。


「おう、来たか。

 おまえも近所の人達からの聞き込みに回ってくれ」


「あの、その前に話したい事があるんですけど」


「ん? なんだ」


 女の刑事はあたしを見下ろし、しゃがんで顔を覗き込んでくる。


「杉並北署の《国生》です。

 あたしの事、覚えてないかな」


 知らない顔だったので首を横に振って見せると、角田刑事が「知ってるのか」と国生刑事に尋ねる。


「ええ、以前あたしが取り調べを担当したので。

 彼女は一昨年の12月に、妙正寺川の橋で自殺した女の子の………」


 それを聞いて、大きく目を見開いて国生刑事を見つめた。


「ああ………あのSNSを利用した事件の………」


 角田刑事は顔をしかめてこちらを一瞥する。


「という事は、もしかしてあの時の友達3人組の一人って事か」


「ええ、まあ………」


 国生刑事はあたしに気を遣うような口調で答えた。


 角田刑事は「そうか」と呟いて渋い顔をする。


 そこへ消防隊の人が声をかけてきた。


「刑事さん、どうやら火種は油のようですね」


「え? 油?

 ガソリンや灯油じゃなくて?」


「ええ。

 おそらくサラダ油か何かを布に染み込ませて、火を点けたようです」


「油か………。

 だったら見ず知らずの放火犯の仕業じゃないかもな………。

 火に水をかけて消す事を想定して、事態を悪化させる事を目論んだのかもしれない」


「怨恨のセンが有力ですね」と、国生刑事。


「ああ、そうだな。

 だとしたら………」


 それ以上の事は口にせず、二人は目で示し合わせる。


 何を言わんとしているのかはすぐにわかった。


 救急隊の人はりんごの耳の手当てもしてくれていて、「こっちの子はどうします?」と、あたしの手当てをしてくれている人に尋ねる。


「そっちは動物病院だ。

 確か近くに夜間の病院があっただろ。

 そこで降ろして行こう」


「わかりました」


 りんごは救急隊の人に抱えられ、救急車へ連れて行かれる。


「刑事さん、取り調べは病院に着いてからにしてもらえませんか。

 中度に近い火傷のようですから」


「ああ、そうですね。

 じゃあ………先に病院に行きますか。

 相澤さん、今日家族の人は留守なのかな」


 角田刑事に尋ねられ、小さく「いません」と答えた。


「何時頃帰ってくるのかな。

 もうしばらくここで現場検証する事になるから、携帯で連絡を取る事は出来ないかな。

 出来れば早く帰ってきて欲しいんだけど」


「………パパは、北海道に転勤になりました。

 ママは………家を出て行って連絡が取れません………」


 目頭が熱くなって、涙がこぼれた。


 そんなあたしを見て、角田刑事は複雑そうな顔をして国生刑事と目を見合わせている。


 救急隊の人に伴われて玄関を出ると、家の前に沢山の人だかりが出来ていた。


 俯いて救急車の方へ向かっている途中、人だかりの中から怒鳴り声が聞こえてきた。


「おい! ちょっと待てこらっ!!」


 ビクッとして振り返ると、隣の家に住んでいる《杉田》のおじさんが先頭に立っていた。


 この近所では、口が悪く怒ると怖い事で有名なおじさんだ。


 進入禁止のテープを潜ろうとする杉田のおじさんを見て、警察官がそれを阻止する。


「中に入らないで下さい!

 進入禁止ですよ」


「うるさいっ!

 危うくうちの家まで巻き込まれるところだったんだ!

 一言ぐらい文句言わせろ!

 いつかこういう事が起きるんじゃないかって思ってたんだよ俺は!」


 杉田のおじさんは険しい目付きであたしを睨んでくる。


「何涼しい顔して家に戻って来てやがんだ。

 この人殺しが!」


 その台詞を聞いて、瞬時に身体が硬直してしまった。


「家を出てったって話を聞いてたけど、いつの間にか戻って来やがって………。

 おまえのせいでこんな事が起こったんだろうが!

 あんな事件を起こしたから、恨まれてんだろう!?」


「………」


「とっとと出て行け人殺しが!

 トラブルに巻き込まれるなんざ、まっぴらごめんなんだよ!」


 身体全体が震えて、その場から一歩も動けなくなってしまった。


「ああ、ちょっと、静かにしてもらえませんか。

 お気持ちはお察ししますが、もう遅い時間ですから」


 角田刑事がなだめに向かうと、杉田のおじさんはケッと口を鳴らす。


「こんな騒ぎになってんのに、今更遅い時間もねぇだろうが!」


 その様子を見やりながら、国生刑事があたしの背中を押して「行きましょう」と促してくる。


 周囲の人の視線は、騒いでいる杉田のおじさんよりも、あたしに注目していた。


 そこに今更な驚きの表情はなく、まるで犯罪者を見るような目付きでヒソヒソと囁き合っている。


 ………事の大きさを思い知らされたような気がした。


 あたしはこの町の人達から軽蔑されているんだ。


 あたしが今回の事を引き起こしたんだ。


(あたしが………あたしが………あたしが………)


 よろめいた足取りを救急隊の人に支えられながら、救急車の中に乗り込んだ。






 救急車の中で精神科にかかっている事を話すと、通っている病院へと向かってくれた。


 救急外来の診察室で火傷の手当てをしてもらっていると、そこに宗方さんが現れる。


「失礼します。

 相澤さん、大丈夫か?」


 何も答えられずにいると、診察室の入口に立っていた角田刑事が尋ねた。


「あのー、すいません、相澤さんのお知り合いですか?」


「相澤さんの担当看護師ですが………」


 怪訝がる宗方さんを見て、角田刑事は警察手帳を提示して「杉並北署の角田と申します」と名乗る。


「相澤さんはこちらの病院に通院してると聞いたんですが、担当医だけじゃなく担当の看護師も付くものなんですか?」


「いえ、以前彼女が入院してた時に担当してたんです」


 そうだったんだと思いながら、ぼんやりと宗方さんを見上げた。


「救急から連絡が来たので、それで様子を見に。

 今は担当医がいないものですから」


「なるほど。

 それじゃあ誰に許可をもらえばいいですかね。

 相澤さんの手当てが済んだら、事情聴取させていただきたいんですが」


 すると当直医の先生があたしの手に包帯を巻きながら、淡々と「外科の山口先生にもらってきて」と言った。


 宗方さんは「はい」と頷いて診察室を出て行く。


 前頭部がはげた当直医に角田刑事が尋ねる。


「先生はこの病院の方じゃないんですか?」


「ええ、まあ。

 人手が足りないって事で、よそから来てるんですよ」


 やる気の無さそうな態度で答える当直医を見て、角田刑事は皮肉めいた口調で「それはそれはご苦労様です」と返す。


 そして手当てを終えた後、誰もいない総合受付の待合席で話をする事になった。


「単刀直入に聞くけど、君も犯人に心当たりがあるんじゃないかな」


 角田刑事はいきなり確信をついて来る。


 黙り込んでいると、この場に立ち会ってくれている宗方さんが尋ねた。


「どういう事でしょうか」


 するとあたしの隣に座っていた国生刑事が答える。


「怨恨の犯行である可能性が高いんです」


「怨恨?」


「ええ。

 相澤さん、あの事件の事は、こちらの看護師さんも知ってるのかな」


 小さく頷いて返すあたしに、角田刑事が言った。


「まだ断定は出来ないけど………亡くなった相澤さんの友達の家族による犯行かもしれない。

 特に母親の方は、相澤さんの事を強く恨んでいるようだったから。

 どうして相澤さんは罰を受けないのかって」


 やっぱり………若葉のお母さんは、あたしを恨んでいたんだ………。


「だけどその場合ちょっとわからないのは、なんで今頃になってって事なんだよなぁ………。

 事件の後、藍川若葉さんのお母さんと接点はあったのかな」


 なんと答えて良いのかわからずにいると、宗方さんが「あの」と口を挟む。


「彼女は当時の事を覚えてないんです。

 先月事故に遭って、記憶の一部を失ってるんです」


「記憶の一部を?

 えっと………どういう事ですか?」


 宗方さんはあたしが逆行性健忘症である事を説明してくれる。


 角田刑事は首を捻って言った。


「でもー………一昨年の事件の事は覚えているようですが?」


「覚えているんじゃなくて、周りから話を聞いて認識しているだけなんです」


「はー………なるほど………。

 そういう事でしたか………」


 角田刑事は腕を組んで何度か頷く。


「じゃあ、最近になって藍川若葉さんの母親と何か接点はなかったのかな」


「………昨日………会いました」


 答えると、「昨日?」と角田刑事が声を上げ、国生刑事が「どこで会ったの?」と尋ねてくる。


「井草森公園です」


「そこでどんな話をしたの?」


 若葉のお母さんとのやり取りをそのまま話すと、角田刑事は顎の無精髭を撫でながら「そういう事か」と納得する。


「もしかしたら、君が若葉さんにした事を忘れて、犬と楽しそうに遊んでいるところを見て、腹が立ったのかもしれないね………」


 もしかしたらじゃなくて、間違いなくそういう事なのだろうと思った。


「だったら加害者は、その母親でほぼ間違いないな」


 その言葉を聞いて、ふと違和感を感じた。


(………加害者? おばさんが?)


「被害者の自宅に何か痕跡が残ってないか、先に特定して調べた方が良さそうですね」と、国生刑事。


(被害者? あたしが?)


 被害者は………若葉の方だったのに………。


「そうだな。

 誰か藍川若葉の母親の自宅に向かわせてくれ。

 それと目撃者がいないか聞き込みだ。

 殺人未遂容疑の可能性もあるから、急いでな」


「わかりました」


 国生刑事は携帯を持って離れて行く。


 "殺人未遂容疑"と聞いて、唇が小刻みに震えだした。


「大丈夫か?」


 宗方さんが顔を覗き込んで声をかけてくる。


「………あたし、こんなところに居ていいの?」


「ん? どういう事?」


「こんなところで………あたしが被害者になってていいの?」


 宗方さんは眉を潜め、角田刑事が咳払いをして言ってくる。


「今回の事件については、君は被害者だよ。

 過去の事件についても、正確に言えば、君は若葉さんに対して危害を加えたわけじゃない」


「でも………きっかけを作ってしまったのはあたしなんでしょう?

 結果的には、あたしが若葉を自殺に追い込んで………」


「君は犯人達と示し合わせていたわけじゃない。

 その証言の裏も取れてる。

 君から若葉さんのIDを聞き出して、君になりすまして若葉さんを呼び出した事は、犯人グループ達も全員認めてるよ」


「だけど、あたしが若葉のIDを犯人達に教えなければ、若葉があんな目に遭わずに済んだんでしょう?

 あたしがそんな事をしなければ、若葉は………」


 角田刑事は息を吐いて腰をかがめる。


「相澤さん。

 軽率な行動を悔やむのは大事な事だけど、何もかも全部混同して考えるのは違うと思うよ。

 若葉さんの母親が君を恨んでいようと、今回のような事は許されない。

 どんな事があっても報復を許すわけにはいかないんだ」


「だけど、おばさんの言う通りだよ………。

 あたしだけ何の罰も受けないでいいの?

 あたしにも悪意があったんでしょう?

 若葉が相手の男に遊ばれればいいって………そう言ってたんでしょう!?」


 興奮して声を大きくすると、宗方さんが肩を掴んでくる。


「相澤さん、落ち着いて」


 あたしは肩を揺らして振り払った。


「落ち着いてなんかいられないよ!

 あたしが若葉を殺したんだ!

 やっぱりあたしは人殺しなんだ!!」


 泣き叫びながら、拳で自分の膝を何度も叩いた。


 宗方さんが「やめるんだ相澤さん」と言って腕を掴んできて、暴れるあたしを、角田刑事も加勢して抑えてくる。


 ………自分に、何かの罰を加えないと気が済まなかった。


 あたしは何もわかってなかったんだ。


 どれほど大きな過ちを犯してしまったのかも、あたしを殺そうとする程、おばさんに恨まれていた事も………。


 あたしは、おばさんに殺されるべきだったのかもしれない………。






 翌朝を迎え、診察室のベッドに横になってぼんやりしていると、8時頃に志水先生が慌ただしくやって来た。


「大丈夫か、環ちゃん。

 自宅に火を点けられたんだって?」


「………」


「火傷の方は?

 大丈夫か」


 心配して声をかけてくる志水先生を見て、胸が痛くなった。


「先生………。

 どうしてそんなに………優しくしてくれるの?」


「え?」


 涙腺が緩んで、涙が頬を伝って流れた。


「あたしは悪い事をした人間なのに………。

 友達を自殺に追い込んだ人殺しなのに………」


 志水先生はあたしを見つめ、小さく首を横に振った。


「故意にやった事じゃない。

 君が若葉ちゃんを殺したわけじゃない。

 警察の人もそう言ってただろう?」


「でも………もう取り返しがつかない………。

 若葉はもう生き返らないし………。

 それなのに、あたしだけ生きていいわけない………」


 志水先生は厳しい顔付きになって言った。


「それは間違ってるよ、環ちゃん」


「………どうして?」


「生きていいのかどうかなんて、そんなものはない。

 生きなきゃならないんだよ」


「………」


「環ちゃんは前に僕に聞いたよね、自分の事を軽蔑してないかどうか。

 それに対して僕は "してない" と答えた。

 医者としても一人の人間としても、その気持ちは本当だ」


「………」


「若葉ちゃんの事件について一番悪いのは犯人グループ達だ。

 僕個人としてはそう思う。

 でもそれは第三者の意見で、僕にも娘がいるけど、もしも自分の娘が若葉ちゃんのような目に遭わされたら………もしかしたら、僕も君を恨んでしまうかもしれない。

 だけどそれでも、"命" と "罪" は分けて考えなきゃならない。

 死んでしまったら罪の意識を感じる事も、苦しむ事も出来なくなってしまう。

 そうだろう?」


「………」


「若葉ちゃんに対して責任を感じているのなら尚更だ。

 君は生きなきゃならない。

 君は過ちから逃げるような人間じゃないって、僕はそう信じてる」


「先生………」


 あたしはぎゅっと目をつぶって嗚咽を漏らした。


「だからそういう考えは捨てるんだ。

 いいね?」


 熱い涙をまぶたの裏で感じながら、「はい」と返事を返した。










  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る