第2話 崩壊






 家を飛び出した後、向かったのは練馬にあるパパ方のお婆ちゃんの家。


 インターホンを鳴らすと、お婆ちゃんがドアを開けて出て来た。


「ああ、環か………」


 お婆ちゃんはあたしの顔を見るなり、不機嫌そうな顔を見せる。


「事故に遭ったって聞いたけど、もう大丈夫なの?」


「うん、とりあえずは………」


「記憶の方は?」


「それはまだだけど………あの、お婆ちゃん。

 ママから聞いたんだけど、りんごを預かってくれてるんだよね?

 その、あたしが家を出たから………」


 お婆ちゃんは「ええ」と言って腕を組む。


 昔ママの味方をしたから、あたしはお婆ちゃんから嫌われている。


「もう家を出たりなんかしないから、りんごを返して欲しいの。

 お願い、お婆ちゃん」


 軽く目を見開いて、ため息を吐きながらおばあちゃんは言った。


「………まったく、本当に環は《千歳》さんにそっくりだね」


《千歳》というのはママの事だ。


「自分勝手な事ばっかり言って………。

 りんごを押し付けて来たのはあんた達でしょ?

 いい加減にしてちょうだい」


 萎縮して黙り込んでいると、奥の部屋から「ワンッ」とりんごの声が聞こえてきた。


 そちら見ると、りんごがふすまの隙間に鼻先を突っ込んで、顔を動かしながらこちらに出て来た。


「りんご………りんご!!」


 りんごはワンワンと吠えながら、あたしの所へ駆けて来る。


 しゃがんで手を広げると、りんごは短いしっぽを振りながら口元を舐めて来る。


「りんご………ごめん………本当にごめんね………」


 久しぶりにりんごに会えたような気がして、涙がこぼれた。


 りんごはその涙をペロペロと舐めてくる。


「お婆ちゃんごめんなさい………お願いだからりんごを返して。

 お願いします………」


 泣きながら頭を下げると、お婆ちゃんは深くため息を吐き、しぶしぶ了承してくれた。






 りんごを連れて電車に乗り、自宅の最寄り駅に着くと、りんごをキャリーケースの中から出し、お散歩用のリードを首輪にかけた。


「りんご………少しお散歩してから帰ろうか………」


 真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった。


 ママはあたしのせいで全てぐちゃぐちゃになってしまったと言ってたけど………それを思い出す事が出来ないし、思い出すのが怖いような気がした。


 暗い気持ちでいつものお散歩コースを回り、ふと思い付いて、若葉が住んでいた団地へと足を向ける。


 団地の前まで来ると、懐かしい気持ちになった。


 団地内にある公園が見えて、若葉と遊んだ時の事を思い出す………。






 2006年7月────


 平日の夕方頃、一人でテニスの練習をしていると、ボールについていたゴムが切れて、公園の外に転がって行った。


 それを取りに向かうと、ボールを足で止め、拾い上げたのは若葉だった。


「あ………」


「………よっ」


 気まずそうに、若葉はボールを持った手を挙げる。


 こっちも気まずくて、無言で頷いて返す。


 若葉とまともに話すのは去年喧嘩して以来だった。


 若葉からボールを受け取り、ぶっきらぼうに「ありがとう」と返す。


 すぐに踵を返し、公園の中に戻ると、若葉が公園の外に立ったまま「何してんのー?」と声をかけてくる。


 背を向けたまま「テニスの練習ー」と返す。


「あ、そっか………。

 面白いー?」


「………フツー」


 切れたゴムを固結びして、テニスの練習を再開する。


 あたしがラケットでボールを打つのを、若葉はその場にたたずんで眺めている。


 持っていた手提げのバックの紐をいじりながら、少しだけそわそわしている様子が視界の端に見えていて、なんとなく、話しかけたそうにしているのを感じた。


 感じたけど………こっちから話しかけるのは癪だったので、気付かないフリをしてボールを打ち続ける。


 そうしているうちに、若葉は諦めたように帰って行った。


 翌日も、あたしは学校から帰って来てすぐ公園へ向かい、テニスの練習をする。


 すると若葉がまた公園の前を通りかかって足を止める。


 ランドセルのベルトを握ったまま、黙ってこちらを見ているので、ボールを打つのを止めて若葉を見た。


「………何?」


「あ、あの………昨日のさ、『刑事・鳥羽晋太郎』見た?」


『刑事・鳥羽晋太郎』というのは、シリーズ化されている人気のドラマの事だ。


「………」


「映画化されたら、観に行く?」


「………行かない、DVDになるまで待つ。

 何か用?」


「いや………それが聞きたかっただけだけど………なんとなく、テニスするとこも見てただけ。

 見ててもいい?」


「いいけど………」


 黙って見られているとやりづらいんだけど、一人で黙々とやっているよりはマシな気がした。


 団地内には同い歳や近い歳の子もいたけど、気が合う子がいなくて、遊び相手がいなかったからだ。


 手を休めると、若葉はいつの間にか公園の低いフェンスに腰をかけている。


 あたしは若葉に言った。


「………暇なの?」


「うん、今日は塾がない日だから」


「ふーん………。

 塾って面白い?」


「いやー、面白くはないよ。

 勉強するだけだし、同じ学校の友達もいないし。

 お母さんが行けって言うから、仕方なく行ってるだけ」


「でも、勉強頑張ってるみたいじゃん」


「全然頑張ってないよー、頭も良くないし」


 頑張ってるくせに頑張ってないと謙遜するような嘘が、あたしは嫌いだった。


 そういう返し方をされると冷めた目で見てしまう。


「環はお母さんから言われない?

 塾行けって」


「全然言われない。

 勉強は本人のやる気次第だっていつも言ってるから」


「へー、いいなぁ………。

 でもおばさんは弁護士なんでしょ?

 超頭良くないとなれないじゃん」


「でもママは高卒だよ。

 勉強は独学でやったらしいし」


 ラケットの上でボールを転がしながら答えると、若葉は目を丸くして「えっ!」と声を上げる。


「本当に?

 大学とか行ってないの?」


「うん、学生時代は塾にも行ってないって言ってた。

 ママは母子家庭で経済的に苦しかったからって」


「すごーい………」


「高校卒業してから猛勉強したんだって。

 でも四回も司法試験に落ちたらしいけど」


「それでもすごいよー。

 いいなぁ、お母さんが弁護士とか、カッコいいー」


 ママの事を褒められるのは悪い気がしないので、「そうかな」と返しつつ、顔が少しにやけてしまう。


「そのテニスのラケットは?」


「これはパパの。

 昔テニスやってたみたいで、こないだ物置の中から見付けたの」


「へー、いいね。

 テニスとかやった事ないや」


 羨ましそうな顔をするので、つい「やってみる?」と切り出した。


「え、いいの?」


「うん、はいこれ」


 ラケットを渡すと、若葉は目を輝かせて「おお」と感動している。


 ボールを渡すと、若葉はおぼつかない手付きでラケットを振り、ボールを打つ。


 ゴムの反動でボールが戻ってくると、わっ!と声を上げてそれを避けた。


「避けちゃダメじゃん」


「だって怖かったんだもん。

 よくこんなの打ち返せるね」


「慣れたら平気だよ」


 若葉は再度チャレンジして、一生懸命打ち返そうとする。


 あまりに下手くそなので、打ち方を教えてやる事にした。


 何回か連続で打ち返せると、若葉は「おおっ!」と自分で驚いて、嬉しそうに笑っている。


 あたしも「やったじゃん」と言って、手を叩いて笑った。


 その日から、若葉が塾じゃない日は毎日テニスで遊ぶようになった。


 パパがラケットを二つ持っていたので、それを貸して二人で交互にボールを打つ。


 打ち損ねるとしっぺをするという罰ゲームを作り、「いったーい!」と声を上げながらも、二人で笑った。


 ………結局、あたしも若葉も寂しかったんだと思う。


 昔のしこりは残ってても、楽しく遊んで寂しさを埋める事の方が、優先順位が上だった。


 それに、一番遊んでて楽しいのは若葉だった。


 ちょっとした事が可笑しくて、他の人にはわからない笑いのツボが同じで、6年生にもなると大人びた女子が増えてくるけど、あたしと若葉はその辺の精神年齢が低いところも同じだった。


 そしてある日の放課後。


 下駄箱で靴に履き替えていると、麗奈がグループの女子二人を引き連れて声をかけてきた。


「ねえ環ー。

 今日さ、あたし達修学旅行で使うバックとか小物とか見に行くんだけど、一緒に行かない?

 一回家に帰ってから」


「あー………今日はゴメン、若葉と遊ぶ約束してるから」


「若葉と?

 環、若葉と遊んだりしてたの?」


 麗奈は眉をひそめる。


「まあ………同じ団地だからさ………。

 他に遊び相手もいないし」


 嘘を吐きたくなかったし、正直に話す事が若葉をフォローする事にもなると思った。


 誰か一人が若葉を許せば、他のみんなもと思ったけど………。


「なんだ、言ってくれれば一緒に遊ぶのにー」


「麗奈は塾とかピアノとか英会話とかで忙しいでしょ」


「だからって、何も若葉なんかと遊ばなくてもいいじゃーん。

 ねぇ?」


 麗奈は他二人に同意を求める。


 まだ若葉を許せないみたいだ。


「あのさ、麗奈、若葉の事だけど………」


 そう言いかけたところで、近くの階段から若葉が降りて来る。


 若葉は麗奈に気付くと、狼狽えながら顔を逸らす。


 麗奈は若葉を無視して、「じゃあね、環」と帰って行く。


 暗い顔をして靴に履き替える若葉に、あたしは言った。


「一緒に帰ろっか」


「え、いいよ………。

 あたしと一緒にいると、仲良くしてると思われるよ?」


「思われるっていうか、あたしさっき、今日は若葉と遊ぶって麗奈に言ったし」


「えっ、言ったの?」


 若葉は驚いてあたしを見る。


「言ったよ、いけなかった?」


「いや………だって、そんな事言ったらさ………」


「………。

 ねえ、去年あたしに近付いて来ないでって言ったのって、やっぱりそういう事?」


「え?」


「あたしと一緒にいると、余計に麗奈達から嫌われると思ったからそう言ったんでしょ?」


「………」


 返事がないという事は認める事と同じだ。


 腹の中でイラッときた。


 そうやって、またあたしを裏切ろうとしたんだ。


 味方になるって言ったあたしより、若葉は麗奈を選ぼうとした………。


「………ねえ、なんでそんなに麗奈のグループに居たかったの?」


「………」


「あたしより麗奈の方が、なんか………上みたいな?

 そんな風に思ったの?」


「そういうわけじゃないけど」


 若葉は慌ててかぶりを振っても、あたしを見ようとしなかった。


 図星だったのだろう。


「………若葉ってさ、友達の事なんてどうでもいいんだね」


「え?」


「自分から近付いて来ないでって言ってきたくせに、いざ一人になったらあたしに近付いて来たりして………なんか、すごい自分勝手だよね。

 都合がいいって言うか………。

 あたしの事バカにしてんの?」


 若葉は首を横に振る。


「してないよそんな事。

 あたしは別に、本気で麗ちゃんの事を嫌ってたわけじゃないし、環とも仲良くしたかったし………」


「てもあたしと仲良くしてた事、麗奈に隠してたじゃん」


「それは………」


「しかも最後はあたしを裏切ったくせに、何が仲良くしたかっただよ。

 結局若葉は、自分の事しか考えてないだけじゃん。

 麗奈達のグループに居たかったのも、あたしに近付いて来ないでって言ったのも、全部自分の為だったんでしょ?

 嫌われたりいじめられたりしないように」


「………。

 でも、環だって結局は麗ちゃんと仲良くなったじゃん」


「は? 何言ってんの?

 麗奈と仲良くなったのは、ちゃんと仲直りしたからじゃん。

 他のみんなもそうだよ。

 麗奈を利用して自分を守ろうとしたあんたと一緒にしないでよっ!」


 心底腹が立って踵を返し、「卑怯者っ」と言い捨ててその場を去った。


 若葉をフォローしようとした自分がバカだったと思った。


 ………そんな風に、仲良くしようとする度にぶつかって、最後には裏切られる。


 一緒に遊んでいる時は楽しいのに、その関係はいつも脆く崩れ去っていく………。


 その日以降、あたしは小学校を卒業するまで、若葉と遊ぶ事はなかった。






 ───………結局、あたしと若葉は "友達" だったのだろうかと、公園を眺めながらそんな事を思った。


 あたし達の間に友情なんていうものは存在しなくて、お互い寂しさを埋める為だけの関係だったんじゃないかと思う。


 だけどそれでも………若葉が自殺して死んでしまったのはやっぱりショックで………。


 大きいような小さいような、よくわからない穴が心に空いてしまっている。


 ため息を吐くと、どこからか「環ちゃん」と呼ばれた。


 振り返ると、ショートボブの中年女性が微笑みながら、ゆっくりこちらに近付いて来る。


 髪型が変わってたから一瞬わからなかったけど、それは若葉のお母さんだった。


「あ、おばさん………」


「久しぶりね、その腕どうしたの?」


「ああ、これは………この前事故にあったみたいで、骨折したんです」


「みたいって?」


 おばさんは首を傾げる。


「ああ、実は………事故に遭った時の事、全く覚えてないんです。

 頭を強く打ったみたいで」


「え………そうなの?」


「はい。

 それに………中3までの記憶しかなくて………。

 逆行性健忘症っていうらしいですけど」


「それって………もしかして、記憶喪失って事?」


「はい。

 でもなんか、記憶喪失とか現実味ないですよね。

 自分でも信じられないって言うか………」


「………。

 今日は、ここに何しに来たの?」


「え?

 あの………実はこないだ………苺美から聞いたんです。

 その………若葉の事………」


 おずおずとその事を切り出した。


 おばさんはスッと視線を落とす。


「まさか若葉がそんな事になってたなんて………。

 だから、なんとなく来てみたんです」


「………そう。

 若葉の事、全く覚えてないの?」


「ごめんなさい、中3までの事しか………」


「………」


 おばさんが暗い表情をしたまま黙り込んだので、会話に困ってしまった。


 若葉があんな目に遭って、なんと声をかけていいのかわからない………。


 それによく見ると、おばさんは少し頬がこけてしまっている。


「………可愛いワンちゃんね」


「へっ?

 ああ………」


 りんごはその場にお座りしておばさんを見上げている。


「名前はなんて言うの?」


「りんごです」


「へぇ、可愛い名前ね」


 おばさんはしゃがんでりんごの頭を撫でようとする。


 すると突然りんごが「ワンッ!」と吠えておばさんを威嚇した。


 おばさんは驚いて手を引っ込める。


「こらっ、りんご!」


 りんごはおばさんに向かって吠え続け、グルグルと喉を鳴らす。


「ごめんなさいおばさん。

 いつもはこんな風に吠えたりしないんだけど………」


「………ううん、いいのよ」


 おばさんはスッと立ち上がる。


「しばらくお婆ちゃんちに預かってもらってたみたいだから、少し気分が落ち着いてないのかも」


「………そう」


「あの、おばさん」


「ん?」


「良かったら………今度若葉のお墓参りに行きたいんですけど………」


「………」


「………おばさん?」


 おばさんは虚ろな目で「いいわ」と断ってきた。


「お墓参りに来てもらっても、若葉が生き返るわけじゃないし………」


「え?

 そうかもしれないですけど………」


 ヘンだなと思った。


 お墓参りに行きたいと言われて、"生き返るわけじゃない" なんて、そんな断り方があるだろうか。


 若葉が死んでしまった事でナーバスになってるのかな………。


「それじゃあね、環ちゃん」


「あ、はい、さようなら………」


 おばさんは緩く微笑んで団地の中に入って行く。


 その背中が小さく見えて、すごく気の毒に思えた。






 夕方頃になって、ようやく自宅に帰った。


 鍵を開けてそろそろとドアを開くと、家の中はシンと静まり返っている。


(ママ………どこかに出かけたのかな………)


 りんごの首輪からリードを外すと、りんごは躊躇いなく家の中に入って行く。


 あたしは静かにドアを閉めて靴を脱いだ。


 電気がついてないリビングのドアをそっと開けて中に入ると、ダイニングテーブルの上に置き手紙があるのを見付けた。


[環へ

 さっきは怒鳴ってしまってごめんなさい。

 環の通帳と印鑑を置いていきます。

 もうここには居れないので家を出て行きます。

 ごめんね、環]


「───……え?

 嘘………何これ………」


 手紙の隣に添えてあった茶封筒の中を見ると、あたし名義の通帳と印鑑とキャッシュカード、そして健康保険証が入っていた。


「ママ………?」


 急いでママの寝室に向かうと、そこに姿はなく、どの部屋を探しても見付からなかった。


(ママ………どうして?)


 携帯で電話をかけようとしたけど、誰一人登録されてない事を思い出し、リビングへ戻る。


 自宅の固定機にはママの携帯番号が登録されてある。


 短縮ボタンを押して電話をかけると、“電波の届かない所にあるか、電源が入っていない為かかりません” というアナウンスが流れる。


 何度かけ直してもそれは同じだった。


 しばらく呆然としたのち、思い立って今度はパパの携帯にかけ、5コール目でそれは繋がった。


「はい、もしもし」


「パパ!?

 あたし、環だけど」


「ああ………環か。

 ………事故の怪我は大丈夫なのか?」


「うん、今日退院してきたとこ」


「記憶は………戻ったのか?」


「それはまだだけど………。

 ねぇ、パパ、あたし………いったいパパとママに何をしたの?」


「え?」


「パパが北海道に転勤になったのはあたしのせいだってママが………。

 あたしが、全部壊したんだって。

 だけど自分が何をしたのか、全然思い出せなくて………」


「………。

 そこに千歳はいるのか?」


「ううん。

 昼間にママと喧嘩になって、帰って来たら手紙が………。

 "家を出て行きます" って………」


 そう言うと、パパがチッと舌打ちする。


「あいつ………逃げたのか………」


 ママの事を "あいつ" と言ったパパに、軽いショックを受けた。


 いつも温厚で優しかったパパが、そんな言い方をするなんて………。


「千歳に電話してみたのか?」


「う、うん………かけたけど繋がらない………。

 ねえパパ、どうしてママは出て行ったの?

 あたしいったい何したの?」


 狼狽えるあたしに、パパが「落ち着け環」とたしなめてくる。


「無理に思い出そうとしなくていい………。

 ママには、俺からも電話してみるから」


「でも、」


「いいから、環は家で大人しくしてるんだ。

 また連絡するから」


「パパ!」


 プツッと電話が切れて、床に座り込んだ。


 見えない不安に襲われ、ズキズキと頭が痛くなってくる。


 その場で頭を抱えていると、りんごが近付いて来て、あたしの膝の上に前足を乗せて顔を覗き込んでくる。


「───………あっちに行って!!」


 大きな声を上げ、りんごを払いのけた自分にハッとした。


「あ………ごめん………。

 ごめん、りんご………」


 りんごは一旦離れた後、再びこちらに戻ってくる。


(あたし、なんでこんなに気が立ってんだろう………)


 りんごはクゥンと小さな鳴き声を出して唇を舐めてくる。


 抱き上げて頭を撫で、もう一度「ごめんね」と謝った。






 翌朝。


 何もする気が起きなくて、自分の部屋のベッドに横になっていると、りんごがリードをくわえて部屋に入って来た。


 クンクンと甘えるように鳴きながら、あたしの顔を舐めてくる。


「………お散歩に行きたいの?」


 りんごは舌を出してハッハッハッと息を弾ませる。


 行く気マンマンの様子だ。


 だけど妙に身体がだるくて、起き上がるのも億劫だった。


「お散歩は夕方にしよ?

 ね?」


 頭を撫でてなだめていると、枕元に置いていた携帯が鳴ったので、急いで着信表示を見る。


 知らない番号からの電話だった。


 携帯にはまだパパとママの番号しか登録してない。


「………はい、もしもし?」


「こんにちはー、わたくし『ウサギ宅配便』の者ですがー。

 綾瀬さんの携帯電話でお間違いないでしょうかー?」


「………違います」


 間違い電話だった。


 ため息をこぼしながら電話を切り、電話帳の画面を開く。


(こないだ苺美に携帯番号聞いておけば良かったな………)


 苺美は既に記憶を無くした事を知っているから、話を聞いてもらいたかった。


 スマホの操作にまだ慣れてないので、適当にいじってみていると、ある事を思い出す。


(そうだ………昔使ってた携帯があるかも………)


 飛び起きて、勉強机の引き出しの中を探る。


 一番下の大きな引き出しの中に、見覚えのある携帯電話を見付けた。


「あったー………良かったー………」


 電池が切れていたので、一緒にしまっていた充電コードを挿して電源を入れる。


 電話帳の中に友達の番号が入ってるのを見て、心底ホッとした。


 そしてそれを見ながら、苺美の携帯にかける。


 すると………。


[お客様がおかけになった電話番号は、現在使われておりません]


(え、番号が変わっちゃってるって事………?)


 ため息を吐いて電話を切り、しばらく考えた後、思い切って他の友達にもかけてみた。


 すると今度は、


[この電話は、お受け出来ません]


 というアナウンスが返ってきた。


 つまり、着信拒否だ。


(うそ………なんで?

 同じテニス部で仲が良かった子なのに………)


 不安に駆られて、他の友達にも片っ端から電話をかけてみる。


 だけど返ってくるのは全て、現在使われてないか、着信拒否のアナウンスだった………。


(なんで誰にも繋がらないの………?)


 愕然として床に手をついた。


 もしかして、これもあたしが "何かした" 事に関係しているのだろうか………。


 ぐしゃぐしゃと髪の毛をかきながら、今度はあの事を思い出した。


 "commu(コミュ)"だ。


 commuの日記を見れば、この四年間に何があったのかわかるかもしれないし、チャットで友達に連絡を取る事が出来る。


 勉強机の前に座り、デスクトップパソコンの電源を入れる。


 ネットに接続すると、インターネットエクスプローラがバージョンアップしている事に気付いた。


 色々変わっている事に戸惑いつつ、お気に入りを見てみると、commuが入ってるのを見てホッとした。


 高校生になっても日記を付けていたんだと思いながら、クリックしてサイトに移動し、IDとパスワードを入力する。


 すると、"IDとパスワードが一致してません"というエラーメッセージが出た。


(まさか………パスワードを変えたって事?)


 もう一度覚えているパスワードを入力してみたけど、ダメだった。


 パスワードに使いそうなものを入れてみても、結果は同じだ。


 最後の手段で、登録していたメールアドレスを入力し、パスワードの再設定を図ってみたが、"このメールアドレスでの登録はありません" と出てしまう。


「なんで………」


 頭を抱え、ぎゅっと目を閉じた。


 苛立って、思わず机の上に置いていた鉛筆立てや辞書などを払いのけてしまう。


 その様子に驚いて、りんごが「ワン!ワン!」と吠えてくる。


 我に返り、床に散らばった物を見つめ、自分の行動に困惑した。


 こんな風に物に当たったりした事なんてなかった………。


 昨日はりんごにも当たっちゃったし、あたし、どうかしてる………。


 辛くなって、机の上に突っ伏した。


 不安で、すごくイライラして、胸の中がモヤモヤする………。


 だんだん息苦しくなってきて、その時ふと、病院から出された薬を思い出した。


 整形外科から出された薬じゃなく、精神科から出された薬の方だ。


 一階のリビングに降りて、ダイニングテーブルの席に置いたままにしてある紙袋の中を探る。


 退院してきた時に持ち帰ってきた荷物だ。


 薬袋を見付け、中に入っていた説明書を読むと、"不安や焦りを和らげる" と書いてあったので、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、薬を服用した。


 これで少しは落ち着くかもしれない………。


 二階に戻るのがだるくて、ソファーの上に横になる。


 りんごもソファーの上に来たので、その頭を撫でながら、しばらく目を閉じる事にした。






 夢の中で、あたしはcommuのブログに日記を付けていた。


[今日Wと喧嘩をした。

 すごくムカついた。

 二度と口をきくもんかって思った。

 本当に卑怯な奴。

 Rが嫌いになるのも仕方ない。

 WはあたしをRより下に見てる。

 自分は臆病者のくせに。

 あー本当にムカつく。

 ムカつく。

 ムカつく。

 あんな奴もうどうでもいい]


 commuのIDは二つ持っていて、書いているのはサブIDの日記。


 メインIDの日記は友達にも公開しているから、愚痴や誰にも言えない本音はサブに書くようにしている。


 というより、それを吐き出す為にサブIDを作った。


 転校して来て以降、若葉に裏切られた事だったり、前の小学校の友達が知らぬ間にcommuを退会していて、連絡が取れなくなった事がきっかけだった。


(友達なんて信用出来ない………)


 ずっと友達でいようなんて約束しても、離れたら自然消滅してしまう。


 表向きは笑ってても、裏では何を思っているかわからない。


 そう思うようになって、本音はネットの中にぶつけるようになった。


 ネットの中で知り合った友達の方が、真の友達であるように思えた。


[あたしもこの前友達に裏切られたばっかりだよ。

 匿名でブログのコメントに "死ね" って書かれた。

 タイミング的にわかるんだよね。

 最近あたしがクラスで威張ってる女子から嫌われ始めたら、コロッとそっちに寝返った奴だから。

 もう友達なんか信じない。

 適当に広く浅く付き合った方がいいよ]


 そんなコメントが返ってきたりして、ブログの中で愚痴を言い合った。


 顔は見えないけど、誰を悪く言ってもお互い差し支えがなくて楽だった。


 それに、いつも味方をしてくれるのがネットの友達だ。


 たまに荒らしが入ってくる事もあるけど、そんな奴相手にしないし、コメント欄やチャットにブロックをかければそれで済む事だ。


 簡単で便利で、気楽でいられるネットの世界は、あたしにとってなくてはならない存在となった。


 夢の中でネット友達とチャットをしていると、その相手が突然、若葉に切り替わった。


[あんたがあたしの居場所を奪った。

 許さない………。

 おまえなんか消えろ。

 消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ。

 いつか絶対に殺す]






 そこでパチッと目が覚めた。


(何? 今の夢………)


 途中までは回想だったのに、突然若葉が出てきた事に驚いた。


〈おまえがあたしの居場所を奪った〉


 その台詞も妙にリアルに感じた。


 自分の事を棚に上げて人のせいにしたり、麗奈達のグループにいる事で自分の身を守ろうとした若葉の性格を考えると、そういう事を考えてそうに思えた。


 "消えろ" とか "殺す" とか、さすがにそこまでは考えてないと思うけど………。


 寝覚めの悪さにため息を吐き、掛け時計を見ると、既に16時を回っていたので驚いた。


 さっき飲んだ薬には、眠くなる作用も入っていたのだろうか。


 目を擦りながら身体を起こすと、りんごがリードをくわえて二階から降りてきて、催促するように「ワンッ」と吠えてくる。


 もう一度ため息を吐いて、りんごの散歩に出かける事にした。


 散歩の途中、コンビニに寄ってお金を下ろす。


 ママが置いていった口座には、50万近く入っていた。


 その上、定期預金には200万。


 あたしが大学に行く時のお金を貯めてるって言ってたから、それがこれなのだろう………。


 そして、ふと気付く。


(あたし、高校を卒業した後はどうしてたんだろう?)


 定期預金がそのまま残ってるって事は、たぶん、大学には行かなかったという事だ。


 それにママは、あたしが勝手に家を出て行ったと言っていた………。


 思い出そうとすると頭痛がしてきたので、やめた。


 考え込んだり思い出そうとしたり、そうやって頭を使おうとすると痛くなるみたいだ。


 適当にお弁当や飲み物を買って帰途につく。


 玄関の前にあるポストの中を覗くと、数枚のダイレクトメールと、白い封筒が入っていた。


 取り出してみると、宛名はあたしになっていて、住所も送り主の名前も記載されてない怪しげな手紙。


 その場で封を切って手紙を取り出すと、そこにはパソコンの文字でこう書かれてあった。


[オマエハ人ヲ殺シタ。

 ソレヲ忘レルナ]


 息を呑んだ。


(何これ………誰かのいたずら?)


 そう思った次の瞬間、ママのあの言葉が頭を過った。


〈今まで頑張って積み重ねてきたものを、あんたが全部壊したのよ!

 自分で思い出しなさいよ!!〉


(まさか………まさかだよね。

 あたしが人を殺しただなんて………)


 そんな事をしたのなら、とっくに警察に捕まってるだろうし………。


「たーまきっ♪」


 突然背後から背中を叩かれて、悲鳴を上げて驚いた。


 振り返ると、苺美が胸に手を当てて立っていた。


「びっくりしたー。

 何もそこまで驚かなくても」


「苺美………びっくりした………」


 心臓がバクバクと音を立てているのを感じながら、手紙を後ろに隠す。


「退院したんだね。

 だったら連絡くれれば良かったのに」


「ごめん………連絡したかったんだけど、携帯が壊れちゃってたから………。

 それより、こんなところでどうしたの?」


「芽衣の家に遊びに行った帰りだよ」


「ああ………」


《芽衣》というのは、同じ中学で苺美が仲良くしてた友達の事だ。


 芽衣の自宅はうちの近くにある。


 苺美を家に上げ、消えてしまったスマホの電話帳のデータを、クラウドサービスというものから復元してもらった。


「良かったね、データのコピー取ってて」


 苺美はそう言ってスマホを返してくる。


「ありがとうー………本当に助かった………。

 なんか、スマホになってすごく便利になったんだね」


「まあね」


 苺美はリビングのソファーに腰をかけて足を組む。


「今日おばさんは?」


「ああ………それが………」


 あたしはママが出て行った事を話した。


「えー………そうなんだ………。

 おばさんどこに行っちゃったんだろう………」


「わからない。

 自分がいったい何をしたのかも思い出せないし………。

 パパも北海道に転勤にする羽目になったみたいで、なんかもう………色んな事が変わってて頭が混乱してる………」


「そっかー………。

 覚えてなくても、何か心当たりとかないの?」


 そう言われ、一瞬さっきの手紙の事を思い出したけど、首を横に振って「何も」と返す。


 あんな手紙が届いた事を話して、誤解されるのが怖かった。


 それに苺美は昔から口が軽いところがある。


「でもさ、そのうち帰ってくるかもしれないよ。

 何があったか知らないけど、おばさんも感情的になっただけかもしれないし」


「そうかな………」


「そうだよ。

 環が記憶を失ってて大変な時に、見捨てるような事するわけないじゃん」


 見捨てる………。


 そう言われて気付いたけど、あたしもしかして、ママに見捨てられちゃったって事………?


「だけど、おばさんが戻ってくるまでが心細いね。

 近くに誰か頼れそうな親戚いないの?」


「パパのお婆ちゃんちが練馬だから遠くないけど、ママもあたしもお婆ちゃんから嫌われちゃってるから。

 ママの実家は高知だし………」


「そっかぁ、高知じゃ遠すぎるよねー」


「………ねえ………苺美」


「ん?」


「あたし、高校卒業した後はどうしてたのかな。

 大学には行ってないみたいだけど………何か知ってる?」


「あー………ごめん、それはわかんないや。

 環に最後に会ったのは高1の時だから。

 高校に入ってすぐの頃、中学のテニス部メンバーでカラオケに行ったんだよ」


「そっか………」


 その事も思い出せなかった。


「これから先どうすればいいんだろう。

 どうしたらいいのかわかんない………」


 頭痛がしてきたので、こめかみのところを指で撫でていると、苺美が励ましてくる。


「これからの事はゆっくり考えればいいんじゃない?

 まだ退院したばっかりなんだしさ。

 まずはその骨折を治さないと。

 右手が使えないと不便でしょ?」


「うん………」


「あたしに出来る事なら協力するしさ」


「ありがとう、苺美………」


 思わず涙ぐんでしまうと、苺美は「元気出して」と言って背中を撫でてくれた。






 それから一週間経っても、ママが戻ってくる事はなかった。


 携帯に電話しても依然電源を切っているようで、全く繋がらない。


 パパに電話しても出てくれなくて、パパにも見捨てられてしまったのではないかと不安になる………。


 苺美が携帯の電話帳のデータを復元してくれたけど、着信拒否をされていたから、番号を変えていた友達にも電話をかけるのが怖かった。


 知らない名前もいくつか登録されてて、たぶん高校で出来た友達なんだろうけど、覚えてない人間と話す勇気はない。


 リビングのソファーに座って、先週届いた手紙を開いて眺めた。


[オマエハ人ヲ殺シタ。

 ソレヲ忘レルナ]


 いったい誰がこんな手紙を寄越してきたのか………全く見当がつかない。


 でもなんとなく、ただのいたずらとは思えなかった。


 引っかかるのは "ソレヲ忘レルナ" というところ。


 記憶を無くしてる時にこんな手紙が届くなんて、偶然とは思えない………。


 手紙をテーブルの上に置いて頭を抱えていると、りんごがこちらにやって来て、テーブルに身を乗り出して手紙をくわえ、リビングを出て行く。


「あっ、ちょっと、りんご?」


 後を追うと、りんごはママ達の寝室に入って行く。


 そしてクローゼットの前に手紙を置き、前足で扉のところを引っかいている。


「何やってんの。

 そんな事したら傷が付くでしょ。

 やめなさい」


 左手だけでりんごを抱きかかえてやめさせると、りんごはクローゼットに向かって吠える。


 中に何かあるのだろうかと思い、扉を開いてやると、りんごは床に置いていた手紙をくわえ、クローゼットの中にあった手提げの紙袋の中にそれを入れた。


 そして褒めろとばかりにシッポを振って見上げてくる。


 紙袋を取り出して中を覗くと、思わず目を見張った。


 中には沢山の貼り紙らしきものが入っていて、そのどれにも "人殺し" と書いてある………。


[この人殺し!恥を知れ!]


[出て行け人殺し!]


 ────……顎が震えた。


 いったいどうしてこんなものが………。


 貼り紙にはセロテープの跡があり、うちに貼られたものと見て間違いないと思う。


 それにこの手紙………。


[オマエハ人ヲ殺シタ。

 ソレヲ忘レルナ]


 鳥肌が立ち、身体全体が震えた。


(あたし………人を殺したの?

 だったら、なんで今ここにいるの?

 わからない………全然何も思い出せない………!!)


 りんごが「クゥン」と鳴き声を上げて心配そうに見つめてくる。


 あたしはりんごを抱き上げた。


「どうしようりんご………あたし何もわかんない………。

 いったい何があったの?

 教えてよりんご………」


 りんごがここに手紙を運んで来たという事は、たぶんママがこの中に入れるのを見ていたのだろう。


 こんな貼り紙を捨てずにわざわざ取っておいたのは、何かあった時に証拠として残しておく為なのだろうけど………。


(じゃあ………もしかして、あたしが人を殺したなんて、言いがかりって事?

 名誉毀損で訴える為に、全部証拠として取ってあるって事?)


 けれど、あたしが全てを壊してしまった事とか、パパが転勤になってしまった事とか、ママが、


〈………ごめんなさい………ごめんなさい環………。

 だけどママ………もう耐えられない………〉


 そう言っていた事を考えると、それではつじつまが合わない………。


 するとそこでインターホンが鳴り、ビクッと肩を揺らした。


 誰が来たのだろうと、恐る恐るリビングに戻ってドアホンのモニターを見る。


 だが、そこには誰も立ってない。


 不気味に感じて、玄関のドアを開けて様子を見に向かう。


 家の外まで出てみても、来訪者らしき姿は見当たらない………。


 誰かのいたずらだとしたら、それはそれでさらに不気味だった。


 念の為、家の周りに貼り紙等が貼られてないか確認すると、ポストに大きめの茶封筒が入っている事に気付いた。


 取り出してみると、宛名だけの郵便物だったのでギクリとした。


(まさか………また………)


 急いで家の中に戻り、封を切る。


 中には新聞の切り抜きのコピーが何枚も入っていて、封筒の中から取り出して目を通す。


 一枚目の記事の見出しに、


【杉並・女子高生自殺。強姦と傷害の容疑で犯人グループを逮捕】


 と書いてあり、その被害者の名前を見て、心臓が止まりそうになった。


 藍川若葉………。


 新聞の日付には “2011年12月17日” とある。



[12月14日未明に妙正寺川の橋の手すりにこたつのコードを引っかけ、女子高生が首を吊って死んでいたのが発見された事件で、警視庁は16日、生前の少女に暴行を働いた犯人グループ4人を逮捕した。

 被害者の《藍川若葉(17)》さんは13日、通っていた塾から帰って来ないと家族から通報を受け、杉並東署が付近を捜索したところ、首を吊って亡くなっているのを捜査員により発見された。

 藍川さんは何者かによって暴行を受けた形跡があり、婦女暴行事件として警察は捜査を開始。

 強姦・暴行・傷害の容疑で逮捕されたのは、全員大学生で、《加納翔平容疑者(21)》《氷川航容疑者(20)》《中村竜也容疑者(21)》《藤井昌隆容疑者(21)》の計4名。

 容疑者らは国内大手のSNSサイト "commu" を利用し、藍川さんの友達になりすまして連絡を取り、一人で待ち合わせ場所に現れた藍川さんを車の中に引っ張り込み、車内で犯行に及んだと見られる。

 容疑者らがなりすました藍川さんの友人である少女A(17)は、三週間ほど前に藍川さんと喧嘩をしており、同じく藍川さんの友人である少女B(17)が出会い系サイトで知り合った容疑者らを紹介され、藍川さんの写真を見せたところ、加納容疑者から「可愛い、紹介してくれ」と頼まれ、藍川さんのcommuのIDを教えたという。

 少女Aは藍川さんが加納容疑者から「遊ばれればいい」と思い、軽い気持ちでIDを教えたが、「まさかこんな事になるとは思わなかった」と供述しており、容疑者らに強姦の指示を与えたわけではないと事件への関与を否定。

 少女Aは加納容疑者から犯行後、藍川さんが襲われている時の写真をcommuで送り付けられ、「おまえも共犯だからな」と警察に通報しないように脅されていたのが会話記録によって確認されている。

 結局少女Aは警察に通報し、加納容疑者らは逮捕される事になった。

 commuは国内でトップ3のユーザー数を獲得しているソーシャル・ネットワーキングサービス(SNS)で、今年10月からスマートフォン向けのアプリを開発し,サービスの提供を開始。

 commu同士なら通話とチャットが無料で出来るようになった。

 当アプリを悪用して事件が起きたのは今回が初めて。

 また、藍川さんと少女Aが喧嘩するきっかけとなったのも、commuのチャットでのやり取りで行き違いが生じた事から始まっている。

 警視庁はcommu株式会社に18歳未満の利用を規制するよう是正を求め、当事件の会見にて、SNSを利用した連絡先の交換には充分注意を払って欲しいと呼びかけている]



 ………もしかして、この "少女A" というのが自分なのではないかと思った。


 だとすれば、あの手紙に書いてあった事も、貼り紙をされていた事も合点がいく。


 直接手を下していなくとも、若葉を自殺に追い込むきっかけを作ってしまったのは、少女Aだ。


(まさか………あたしが若葉を………?)


 信じられなかった。


 まさか自分がそんな事をしたなんて………。


 若葉といったいどんな喧嘩をしたというのか。


 したとしても、"遊ばれればいい" なんて、なんでそんな事を?


 どうして出会い系サイトで知り合ったような男達に若葉のIDを教えたのか。


 そして、そんな男達を紹介してきた少女Bとは、いったい誰なのか………。


(わからない………何も思い出せない………)


 頭痛と胸の息苦しさを感じて、急いで精神科から処方された薬を飲んだ。


(違う………少女Aはあたしじゃない。

 あたしが若葉にこんな事するはずない………)


 いくら喧嘩したからって、それはこの時に始まった事じゃない。


 若葉に対する不満や愚痴や怒りは、全部ネットの中に吐き出してきた。


 絶対に違う。


 誰かの嫌がらせに決まってる。


(絶対絶対、あたしじゃない!!)






 その翌日から、ドアホンのモニタースイッチを入れたままにして、玄関の前を見張る事にした。


 嫌がらせの手紙や、新聞記事をポストに入れた犯人を見付けたかった。


 モニターを気にしながら、リビングにママのノートパソコンを持ってきて、事件の記事をネットで検索する。


 すると新聞記事には書かれていなかった事や、犯人逮捕後に判明した事柄などがわかった。


 まず、少女Aと少女B以外にも、事件関係者の中に “少女C” という人物が存在していた。


 少女Aと少女Cは事件が起きる二週間程前、少女Bから犯人グループとされる男達を紹介され、合コンを行っていた。


 事件が発覚するまで、彼らが出会い系サイトで知り合った人物達である事を、少女Aと少女Cは、少女Bから知らされてなかったらしい。


 合コンで意気投合した彼らに、少女Aは気を許してしまったようだ。


 しかも少女Aはその合コンを機に、犯人グループの中の一人である氷川航と付き合い出している。


 ますます少女Aは自分じゃないと否定したくなった………。


 それから、若葉と少女Aの喧嘩の内容についても書かれてあった。


 少女Aはある悩みを抱えていて、話を聞いてもらいたくて若葉にcommuのチャットを使って連絡を取っていた。


 そのチャットは、相手がメッセージを読むと "既読" という表示がされるらしく、既読になったにも関わらず、一晩放置された事に腹を立て、翌日学校で喧嘩になったそうだ。


 少女Aから「薄情だ」と責められた若葉は、その場で逆ギレして、少女Aに怒鳴り返したらしい。


 逆ギレして怒鳴り返すなんて、気が弱い若葉が取った行動とはとても思えなかったが、とにかくその態度に余計に腹が立った少女Aは、マイコミュ(commu同士の友達)のグループから若葉を外し、より険悪な仲になる。


 少女Aの悩みとはなんだったのか………そこまでは書かれていなかった。


 若葉の死因については、最初は犯行グループ達が殺害した可能性も見ていたそうだけど、加納が黙らせる為に撮影した写真を若葉にも送っていた事や、司法解剖の結果を見て自殺と断定したそうだ。


 それから犯人グループ達について。


 今回の事件が明るみになった事で、他二名の女子高生からも被害届が出されたらしい。


 犯人達はcommuを利用して他の女子高生にも同じような事をしていたそうで、出会い系サイトよりcommuの方が誘い出しやすかったと供述している。


 つまり、これが犯人達の手口だったようだ。


 それにしても、犯人達はなぜ少女Aらではなく、若葉を狙ったのか。


 それについては、「おとなしそうな方が黙らせやすいと思った。まさか自殺するとは思わなかった」との事だった。


 ………深いため息が出て、精神科から出された薬を飲んだ。


 薬を飲んでいないと、不安を抑える事が出来なかった。


 違うと思いたいけど、もし自分が少女Aだったらと思うと………。


 ソファーに横になり、目を閉じてマッサージしていると、ふと、若葉の母親の事を思い出す。


〈お墓参りに来てもらっても、若葉が生き返るわけじゃないから………〉


 ………あれはもしかして、あたしに対する皮肉?


 ゾクッと寒気がして、身体を起こして右腕を擦った。


 自分が少女Aである事に真実味が増した気がして、怖くてたまらない。


 まさか手紙を送って来たのは、若葉の母親………?


 その時、表からコツ、コツ、と、ヒールを踏み鳴らす足音がかすかに聞こえてきた。


 立ち上がってドアホンのモニターに目を凝らすと、ポストの前に女が立ち止まり、手紙を投函する。


 その人物の顔を見た瞬間、目を疑った………。


(そんな………)


 女が立ち去ろうとするので、急いで玄関に向かい、裸足のまま家を飛び出した。


「───……苺美っ!」


 背中に向かって声を上げて呼び止めると、苺美は足を止め、ゆっくりこちらに振り返る。


「ああ、環」


 何事もなかったように口の中でガムをくちゃくちゃさせながら、笑顔を見せる苺美に戸惑った。


「どうしたの?

 靴も履かないで」


「………苺美こそ、こんなところで何してんの?」


「また芽生のところに遊びに行って来たんだよ。

 その帰りなの」


「………まだ昼過ぎなのに?」


「そう、昨日泊まらせてもらってたから。

 芽生は午後から大学で授業あるし」


「………」


「どうしたの?」


 あたしは思い切ってポストを開けた。


 そこには、以前と同様の白い封筒が入っている。


 あたしへの宛名だけ書かれた手紙………。


「………こないだもこの手紙を入れたの、苺美だったの?」


「えっ?

 何の事言ってんの?

 手紙って何?」


 訝る苺美を睨んで「とぼけないでよ!」と怒鳴り付けた。


「ドアホン越しに見てたの。

 苺美がこの手紙をポストに入れるとこ………」


「あー………そっか、そういう事ね………」


 苺美は玄関の方を見ながら腕を組み、噛んでいたガムを地面に吐き出す。


「そうだよ、あたしが手紙を入れたの。

 びっくりした?」


 あっけらかんとそう言って笑いかけてくる苺美に、言葉を失ってしまった………。











  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る