第1話 空白の四年間






[ツラい……今すぐにでも死んでしまいたい………。

 もう誰も信じられない………]


 西新宿の横断歩道の前で、あたしは以前から利用しているSNSサイト"commu(コミュ)"にそう書き込んだ。


 ブログを書いたり、その時のつぶやきやチャットも出来るという、よくあるSNSサイトだ。


 "誰も信じられない"と言っておきながら、心の中では誰かに救いを求めていた。


 どうしたの? 何があったの?


 ………そう心配してくれる事を期待していた。


 スマホを胸の前で握りしめて、誰かが反応してくれるのを待った。


(お願い………誰か助けて………)


 ぎゅっと目をつぶって願っていると、背後から背中をドンと押され、目の前の道路に二三歩飛び出してしまう。


 誰かの「危ない!」という声を耳にした直後、こちらに向かってきたバイクに撥ね飛ばされて、あたしはそのまま意識を失った………。






 気が付くと、あたしは病院のベッドに寝かされていた。


 右腕はギプスで固められていて、いったい何があったのだろうとぼんやり考えていると、どこからか名前を呼ばれた。


「………環………環っ!?

 良かった、目が覚めたのね………」


 ベッド脇に駆けつけて来たのはママだった。


 手にしていた花瓶を棚の上に置いて、顔を覗き込んでくる。


「ママ………。

 いったいどうしちゃったの? あたし」


 その質問に答えるよりまず先に、ママは急いでナースコールを鳴らした。


「すみません、あのっ!

 環の、娘の意識が戻ったんです!」


 意識が戻った?


 何それ。


 あたし………気を失ってたの?


 しばらくすると、病室に医者と看護師がやって来た。


「おお、良かった。

 目が覚めたみたいだね、環ちゃん」


 眼鏡をかけた五十代ぐらいの男の医師が、あたしを見て顔を綻ばせる。


 "環ちゃん"なんて………まるで以前からあたしを知ってたみたいに………。


 あたしはママを見た。


「ねえ、あたしなんでこんなとこにいんの?

 全然覚えてないんだけど」


「バイクに撥ねられて頭を打ったのよ」


「頭を?」


 言われてみて気付いたけど、あたしの頭には包帯が巻かれていた。


「事故にあった時の事、覚えてないの?」


 思い出そうとしてみたけれど全く思い出せず、左側の頭がズキッと痛んで、顔をしかめて言った。


「全然覚えてないけど………交通事故に遭ったって事?

 いったいどこで?」


「それも覚えてないの?

 西新宿の交差点の横断歩道よ」


「西新宿?」


 なんであたし、そんなとこに居たんだろう………。


「目が覚めたばかりで、記憶が混乱してるみたいだね」


 医師はそう言ってママの方を見る。


「とりあえず検査の結果、脳に異常はありませんでしたし、一週間ぐらい様子を見て問題なければ、退院出来るでしょう」


「そうですか、良かった………。

 ありがとうございます志水先生」


 ママは医師に向かって頭を下げる。


 《志水》というのが、この医師の名前らしい。


 今の状況がいまいちよくわからなくて、何気なく病室の窓の方を見ると、綺麗な青空が広がっているのが見えた。


 雲がゆっくりと右の方へ流れていて、それを目で追っていると、窓際の壁にかけられているカレンダーが目に留まった。


 子猫の写真がついたカレンダーで、西暦のところには "2013年" とある。


「じゃあ相澤さん、点滴替えますねー」


 声をかけてきた中年女性の看護師に、カレンダーの方を向いたまま尋ねた。


「あの………あれ、何ですか?」


「え?」


「あのカレンダー」


「カレンダー?」


 看護師はカレンダーの方を見て、軽く微笑んで言った。


「あのカレンダーね。

 前の患者さんが残していったものなの。

 可愛いでしょ。

 相澤さんも猫が好きなの?」


 違う、聞きたいのはそこじゃない。


「そうじゃなくて。

 なんで2013年になってるんですか?」


「え?」


 看護師は戸惑った顔をして志水先生に顔を向ける。


 志水先生は眉を潜めてあたしに尋ねてくる。


「どういう事?」


「だから、なんであんな先のカレンダーを掛けてるのかなって………」


 志水先生は険しい顔付きになり、ママと看護師が戸惑いながら顔を見合わせる。


「え………何?

 あたしなんか変な事言った?」


「いや………。

 環ちゃん、今は何年か覚えてるかい?」


「何年って………2009年じゃないの?」


 ママが狼狽えながら言った。


「ちょっと………何言ってるの環………」


 それを制して、志水先生はもう一つ質問してくる。


「自分の歳はわかるかな」


「15だけど………なんなのさっきから………」


 訝って聞き返すと、志水先生は真面目な目であたしを見つめてくる。


「今は2013年で、君は19歳なんだよ」


「は?

 ………え、ちょっと………全然意味わかんない」


「………」


「どういう事?

 あたし………頭打っておかしくなったって事?」


 志水先生は静かに首を横に振る。


「いや、そうじゃない。

 ちなみに、僕の事は覚えてるかな」


「知らない………。

 先生は、あたしの事知ってるの?」


「うん。

 君は去年この病院に来て、僕が主治医になったんだよ」


「主治医?

 ………いったい何の事言ってるの?

 あたし、去年からずっと意識がなかったって事?」


「いいや。

 君が交通事故に遭って病院に運ばれて来たのは、一週間前の事だ。

 それまでは普通に過ごしてた」


「じゃあ………先生があたしの主治医って何?

 今が2013年ってどういう事?」


 わけがわからなくて、身体を起こそうとすると頭がズキッと痛んだ。


 顔をしかめながら頭を抱えていると、志水先生があたしの肩を掴んでゆっくりとベッドに倒す。


「記憶が混乱してるようだから、今から一つずつ僕の質問に答えてくれないか?

 落ち着いて、ゆっくりでいいから」


 そう言われても落ち着けるわけがなかった。


 そしてふと、志水先生が左胸につけている名札が目についた。


 精神科志水真一と書いてある。


「先生………精神科の先生なの?」


 あたしがどこを見ているのか気付いて、志水先生は「ああ」と答える。


「そうだよ。

 何か思い出した?」


「思い出せるわけないじゃん………なんであたしが精神科なんかに………。

 ねえ………あたしいったい何の病気なの?

 なんで病院にいるの!?」


 興奮するあたしをたしなめるように、ママが「落ち着いて、環 」と言って左腕を掴んでくる。


「落ち着くんだ環ちゃん。

 まずは一つ一つ頭の中を整理していこう。

 な?」


 志水先生に諭されて、何がなんだかわからないまま、質問に答える事にした。


 あたしの名前は《相澤環》


 歳は15歳で、中学3年生。


 の、はずなんだけど………あたしはいつの間にか、19歳になっているらしい。


「中学3年生の時の事、どこまで覚えてるかな?」


 そう言われて気付いたけど、その辺の記憶は曖昧だった。


 だけど、中3の文化祭が終わったとこまではなんとなく覚えてる。


 沢山の質問に答えた後、志水先生は「健忘症だな」と言った。


 ママは眉間に皺を寄せ、聞き返す。


「健忘って………記憶障害の事ですか?」


 志水先生はママを見て頷く。


「健忘と言っても色々種類があるんですが、環ちゃんの場合はおそらく "逆行性健忘症" です」


「逆行性?」


「ええ。

 逆行性健忘症というのは、ある地点から遡って過去の記憶を引き出せなくなる症状です。

 環ちゃんの場合は全ての記憶を喪失したわけじゃなくて、事故にあった時から15歳までの記憶がすっぽり抜け落ちている状態です」


「抜け落ちて………」


「ですが脳に異常はありませんでしたし、そのうち自然と思い出す事が出来るでしょうから、大丈夫ですよ。

 念の為、明日は脳波の検査をやっておきましょう」


「はい………」


 不安気な顔で俯くママを尻目に、あたしは志水先生に尋ねた。


「ねえ………先生もあたしの質問に答えてよ。

 あたし、なんで精神科なんかに通ってたの?」


 そこが一番気になっていた。


 志水先生は小さく頬を緩める。


「精神科って聞くと怖いイメージがあるかもしれないけど、心配しなくても大丈夫だよ。

 環ちゃんは頭痛や睡眠障害が続いてて、それで精神科を受診する事になっただけだから」


「睡眠障害………。

 なんであたし、そんな風になったの?」


 そう尋ねると、一瞬、隣に立っていたママが息を呑んだ気配が伝わってきた。


 そちらを見ると、志水先生が答えた。


「原因は人それぞれだけど、主にはストレスが原因かな。

 とにかく、今日はこのまま安静にして、もう少し眠った方がいいよ。

 色々混乱してるだろうから、気分を落ち着かせる点滴を出しておこうか」


 とりあえず頷いて返すと、 志水先生はママに言った。


「今後の治療方針についてお話したいので、ちょっとよろしいですか」


「はい………」


 ママは志水先生の後をついて病室を出て行く。


 わからない事が多すぎて、不安でいっぱいだった。


 けれど点滴を打ってもらうとすぐに眠たくなり、そのまま眠りについてしまった。






 ────夢の中で、あたしは知らない男の人と向き合って話していた。


 場所は………ファミレス?


 やけに周りがガヤガヤしていて、隣の席で小さい男の子が飛行機のオモチャを持って騒いでいる。


 男の人はあたしにこう言った。


〈まったく………一緒になる前に知れて良かったよ。

 まさかおまえがそんな事してたなんてな〉


 一緒になる?


 そんな事?


 何それ………。


〈今すぐ荷物まとめて出て行けよな。

 もう二度と連絡もしてくんな〉


 出て行けって………どこに?


 いったい何の事言ってるの?


 夢の中のあたしは、それが何の事なのかわかっているようで、その場でガクガクと震えている。


〈とにかくそういう事だから。

 じゃあな、"人殺し" 〉






 悲鳴を上げて起き上がった瞬間、ズキッと頭に痛みが走った。


(なんなの今の夢………)


 胸がざわざわして、見も知らぬ男から言われた言葉に傷付いてる自分がいた。


 夢なのに、どうしてこんなに落ち着かない気分になるんだろう………。


 ため息をついて前髪をかき上げていると、若い男の看護師が懐中電灯を持って病室に入って来た。


「相澤さん、どうしました?」


「あ………なんでもないです………。

 ちょっと………変な夢見ただけで………」


「そう。

 じゃあ目が覚めたついでに、脈を測らせてもらっていいですか」


 看護師はあたしの左手首に指を当てて腕時計を見ている。


 長めの髪に緩いパーマをかけていて、目は二重だし鼻筋も通ってるし、イケメンの部類に入るお兄さんだった。


 制服に縫い付けられた名札には《宗方卓巳》と書いてある。


「………うん、脈は落ち着いてますね。

 気分はどうですか?」


「よくわかりません………」


 なんと答えていいのかわからなくて、とりあえずそう答えた。


 さっきの夢のせいで、漠然とした不安が霧のように胸の中を漂っている………。


「もし気分が落ち着かないようなら、昨日の昼間に打った点滴をもう一度出してもらう事も出来ますけど」


 病室にある掛時計を見ると、既に深夜の1時を回っていた。


 どんだけ寝てたんだあたしは。


「あの………うちのママは?」


「お母さんには帰ってもらいました。

 面会は17時までなので」


「そうなんだ………。

 じゃあ、点滴はいらないから、携帯使ってもいいですか?

 その方が落ち着くし」


「………。

 申し訳ないですけど、ここは病院なので携帯は駄目です」


 宗方さんは真顔できっぱりそう言った。


 有無を言わせないような厳しい口振りだ。


「それに相澤さんの携帯は、事故に遭った時に壊れたみたいですよ」


「えっ、嘘!?」


「救急車で運ばれて来た時、相澤さんが持っていた荷物も一緒に運ばれて来ましたから。

 ディスプレイにヒビが入って、電源も入らない状態でした」


「そんな………」


 肩を落としていると、宗方さんはこちらの心情に構う事なく、淡々と「点滴どうしますか?」と繰り返してくる。


「………お願いします」


 宗方さんは頷いて静かに病室を出て行く。


 冷たい人だなと思った。


 少しぐらい同情してくれたっていいのに………。


(どうしよう………友達の電話番号とかメアドとか、全部消えちゃったんだ………)


 深くため息を吐いて、ベッドに横になって頭をぐしゃぐしゃと掻いた。






 翌朝。


 ママが病室に現れるなり、あたしは携帯の事を切り出した。


「え、携帯を?」


「そう。

 確か紛失交換とか出来たはずでしょ?

 無くした事にして交換しといてよ。

 携帯無しとかあり得ないし」


「いいけど………。

 入院中は使えないんだし、退院してからでもいいでしょ?」


「病院の外だったら使えるの。

 お願いだから、早く交換してきてよ。

 携帯がないと落ち着かないんだから」


 ママはため息をこぼしながら頷く。


「何?

 なんか今日、テンション低くない?」


「別に………そんな事ないけど………。

 あんたがなかなか目を覚まさなかったから、心配して疲れてるだけよ」


「ああ………それは、ゴメン………。

 心配おかけしました」


 ペコッと頭を下げると、ママは椅子に腰を下ろして尋ねてくる。


「ねえ環………。

 昨日あれから………何か思い出した事とかあった?」


「ううん、まだ何も思い出せない」


 ママは「そう」と言って緩く微笑んだ。


「無理に思い出す事ないわ。

 昨日志水先生もそう言ってたし」


「あ、ねえ、志水先生の事だけど」


「ん?」


「あたし、本当にあの先生に診てもらってたの?」


「そうだけど、それがどうかした?」


「なんか………自分が精神科に通ってただなんてピンとこないっていうか………。

 ほら、あたし昔から寝付き良かったじゃん?」


「………」


「ストレスからそうなったって言ってたけど、あたし、何のストレス抱えてたの?」


「………さあ。

 それはママにもわからないけど………」


 スッと立ち上がり、ママはこちらに背を向け、花瓶の花を整えながら言った。


「ストレスなんて、誰でも抱えてるものよ。

 ママだって仕事のストレスで、眠れなくなった事あるし」


「ふーん………」


「とにかく、元気そうで良かったわ。

 じゃあ悪いけど、ママこれから仕事に行かなきゃならないから」


「ああ、うん。

 相変わらず忙しくしてるんだね。

 ………って、なんかこういう言い方も変だけど、あたし今、19歳なんでしょ?」


 ママはそれには答えず、こちらを向いて笑顔で言った。


「携帯は交換しておいてあげるから、先生の言う事聞いて大人しくしてるのよ。

 ママ、明日も来るから」


「わかってるよ。

 ああでも、別に無理して毎日来てくれなくてもいーよ。

 仕事忙しいんでしょ?」


「………」


「携帯さえ持って来てくれればいい。

 それさえあれば、特に何もいらないし」


「………うん、そうね。

 じゃあ、着替えは棚の中に入れてあるから、歯ブラシなんかも。

 じゃあね」


「うん、行ってらっしゃい」


 ママは小さく微笑んで、病室を出て行った。






 その日の昼過ぎに、意外な人物が病室に現れた。


「たーまきっ」


 雑誌から顔を上げると、入口のところに見覚えのある人物が立っていた。


「え………もしかして………苺美?」


「そーだよー、超久しぶりー♪」


 苺美は手を振りながら笑顔で近付いてくる。


《櫻井苺美(まいみ)》


 同じ中学のテニス部の友達だ。


 あたしは苺美の顔をまじまじと眺めた。


「メイク………してるんだよね? それ。

 一瞬わかんなかった。

 それに大人っぽくなってるし………」


「そーお?

 そりゃメイクぐらいするっしょ。

 もう19なんだし」


「ああ………うん………そうだよね………」


「でもあたしの事は覚えててくれて良かった。

 環ママから聞いた時はびっくりしちゃったけど」


「ママに?」


「そう。

 昨日バッタリ、駅前で会ったの」


「そうなんだ。

 ああ、それで今日は来てくれたんだ」


「そういう事」


 苺美は肩から提げていたハンドバッグを降ろして椅子に座った。


 まるで女子大生が持ってそうな、大人っぽいお洒落なバックだった。


「ねえ環、本当に記憶喪失になっちゃったの?」


「そうみたい。

 中3までの記憶しかなくてさー………。

 て言うか、未だに信じられないんだけどね、今が2013年だなんて」


「へー………本当にすっぽり忘れちゃってんだ………」


「自分が19歳ってのも全然実感がないよ。

 まるでドラえもんのタイムマシンで未来に来たって感じ?」


「ふーん………。

 でも、なんか面白いね」


「面白くなんかないよー………。

 見てよこのギプス。

 バイクに撥ね飛ばされた時に骨折したみたいなんだけど、それだって全然覚えてないし」


「じゃあさ、高校に行った事も覚えてないの?」


「うん、覚えてるのは中3の文化祭辺りまでっていうか………その辺の記憶の境目は曖昧なんだけどね。

 ねえ、あたしどこの高校に行ったか知ってる?

 希望通り椿女子に行けた?」


 椿女子というのは『私立椿女子高等学校』の事で、その高校を志望していた事は覚えている。


「うん、環は椿女子に行ったよ。

 テニス部にも入ってたし」


「そっか、良かったー………。

 って、本当になんか変な感じ。

 自分の未来を知らされた感じがするっていうか」


「アハハッ。

 本当にタイムマシンで未来に来ちゃった感じだね。

 でも良かった。

 なんか全然元気そうじゃん。

 昨日環ママがかなり混乱しちゃってるって言ってたから、心配しちゃったよ」


「そりゃ昨日はさすがにね。

 でも今日は点滴と薬が効いてるみたいで、自分でも不思議なくらい気持ちが落ち着いてんだよねー」


「へー、そっか」


 そんな会話をした後、苺美は2009年から今までに起きた出来事を話してくれた。


 日本の総理大臣がコロコロ変わった事や、北朝鮮が核ミサイルの発射実験を行って問題になった事。


 テレビが地デジ化した事。


 東日本大震災が起きた事。


 東京スカイツリーが開業した事。


 それから芸能人の話題もいくつか聞いたけど、中でも一番ショックで驚いたのは、大ファンだったマイケル・ジャクソンが亡くなった事だった。


「そんなぁ………マイケルが死んじゃったなんて………」


 うなだれるあたしを見て、「本当に覚えてないんだね」と苺美。


「なんか色んな事が起きたんだね………。

 覚えてない事ばっかりで頭痛くなってきた」


「大丈夫?」


「うん、なんとか………」


 ため息を吐いて前髪をかき上げていると、苺美が声のトーンを落として言ってきた。


「じゃあ………あの事も覚えてない?」


「あの事って?」


「だから………《若葉》の事………」


「若葉?

 若葉って、あの若葉?」


《藍川若葉》


 小学校からの友達で、同じくテニス部に所属していた。


「そう、あの若葉」


「え、何?

 若葉がどうかしたの?」


「やっぱ覚えてないんだ………。

 実はさ………」


 苺美は言いづらそうに下唇を舐めてから言った。


「一昨年………自殺しちゃったんだよね」


 驚いて目を見開いた。


「………え、え? 嘘でしょ?

 あの若葉が………?」


 苺美は小さく顎を引く。


「なんで?

 なんで若葉が自殺なんて………」


「塾の帰りに………その………レイプ、されたみたいなんだよね………」


「!!───……」


 あまりに衝撃的で、言葉を失った。


「妙正寺川の橋の手すりにこたつのコードを引っ掛けて、首を吊ってたんだって。

 顔とか、すっごい殴られたみたいで、制服とかもボロボロにされてて………」


「………」


「………環………大丈夫?」


 口を開くと、声が震えた。


「なんで若葉がそんな目に………」


「変な男達に目を付けられちゃったみたい。

 そいつらは全員逮捕されたんだけど、若葉以外にも、そういう事してたみたいだよ」


「そんな………」


「本当に全く覚えてない?

 環は若葉と同じ高校だったんだよ?」


「えっ! 嘘」


 その事にも驚いた。


「同じ高校って、あたしと若葉が?

 嘘………だって、若葉は頭良かったじゃん。

 私立の名門目指してたじゃん」


「そうなんだけど、第一志望も第二志望も落ちちゃったんだよ」


「………」


「しかも同じクラスだったんだよ?

 環と若葉は」


 そう言われても、全く思い出せなかった。


 というか、若葉の身にそんな事が起きたなんて信じられない………。


 混乱しながら、別の事を尋ねた。


「………苺美は、どこの高校に行ったの?」


「あたし?

 あたしはフツーに公立の高校だよ」


「そう………」


 額に手を当てて黙り込んでいると、病室のドアをノックして、志水先生が入って来た。


「失礼します。

 環ちゃん、気分はどうかな」


 何も返さずにいると、志水先生はあたしの様子を見て、顔色を変えて近付いて来る。


「どうした環ちゃん、気分が悪いのか?」


 苺美が代わりに答える。


「すみません。

 ちょっと………友達の事話してて………」


「………。

 君も、環ちゃんの友達?」


「あ、はい」


「そう………。

 いま彼女は記憶を無くしてるから、あまり刺激しないで欲しいんだ。

 余計に混乱するといけないから」


「あ、はい、すみませんでした………」


「申し訳ないけど、今日はこの辺で帰ってもらってもいいかな。

 これから診察するとこだから」


「はい、わかりました。

 じゃあね、環………」


 そう言って、苺美は帰って行く。


 病室のドアが閉まると、志水先生が改めて尋ねてきた。


「大丈夫か、環ちゃん」


「ちょっと………頭が痛い………」


 ちょっとどころか、ガンガンと痛くなってきた。


 こめかみのところで血管がドクドクと動いているのを感じる。


「それなら鎮痛剤を出してあげるから、診察は頭痛が治まってからにしようか」


 頷いて、志水先生が処方してくれた薬を飲んでしばらく休む事にした。






 若葉と出会ったのは、 小学5年生の時だった。


 2005年4月────


 あたしは親の都合で、若葉が住む杉並区の都営団地に引っ越して来た。


 初めて話したのは、団地の草むしり当番に出た日の事。


 ママから代わりにやって来てくれと頼まれて、しぶしぶやる事になった草むしり。


 団地のおばちゃん達には、


「立派なお仕事されてるものね、環ちゃんのお母さんは」


 と、嫌味を言われた。


 うちの親は共働きで、忙しい事を理由に団地や町内会の集まりに全く参加しない事をご近所さんから睨まれていた。


 そりゃそうだ、共働きしているのはうちだけじゃない。


 この団地に住む人達は大半がそうであるらしかった。


 だから、若葉に対しての扱いは違った。


「おはようございまーす。

 ごめんなさい、遅くなっちゃって」


 軍手をはめながら現れた若葉に、おばちゃん達は態度を一変させる。


「あらぁ、若葉ちゃん、おはよう。

 今日もお母さんの代わりに偉いわね」


「うちのお母さんが、おばさん達に申し訳ありませんでしたって、伝えてくれって」


「謝ってもらわなくてもわかってるわよ。

 若葉ちゃんち、今は大変だもんね」


 若葉のうちも両親が共働きで事情は同じなのに、なぜうちだけ批判されているのかと言うと、それは母親の職業にある。


 あたしのママは弁護士で、若葉の母親はスーパーのパート社員だからだ。


 そういう僻みもあるし、うちのママは一匹狼気質で、近所の人達と上手く付き合うのが下手くそなのだ。


 あたしと若葉はお互いの存在を意識しながらも、それぞれの場所で黙々と草むしりをする。


 小学生の時って、そういうとこがあると思う。


 自分から話しかけるのが悔しいというか、恥ずかしいっていうか………。


 すると若葉の方から少しずつこちらに近付いて来て、声をかけてきた。


「あのー………おはよー………」


 2メートル程離れた場所から顔を覗き込んでくる若葉に、あたしはペコッと会釈を返す。


「相澤さん、だったよね?

 相澤って苗字、なんかカッコいいよね」


 若葉はいきなりそんな話題を振ってきた。


「え、そうかな………。

 藍川さんの苗字の方が、カッコいいと思うけど」


「えー、そう?

 あたしは相澤の方がいいな」


「へぇ………」


 そんなに盛り上がる話題でもないので、しばらく沈黙になる。


「………出席番号は、近くだね」


「うん、そうだね」


「相澤さんの下の名前、なんだっけ?」


「環(たまき)」


「ああ、そうだ。

 なんか、環って名前もカッコいいよね」


「そうかな………。

 藍川さんの名前は?」


「あたしは若葉。

 なんか好きじゃないんだよね、自分の名前。

 あたしもカッコいい名前が良かったなー」


 若葉の言う “カッコいい” 基準がよくわからなかったけど、とりあえず「へぇ」と頷いて返す。


「学校はもう慣れた?」


「まだ………。

 人見知りしちゃうんだよね、結構」


「そっか。

 まだ転校してきて一週間しか経ってないもんね」


「まあ………」


「じゃあさ………今度学校が終わったら一緒に遊ばない?」


 思いがけない誘いに内心驚きながらも、


「別にいいけど………」


 ぶっきらぼうに返してしまった。


 なんだか照れ臭かったのだ。


「今度の草むしり当番の時も出る?」


「うん、たぶん」


「良かったー。

 実は仲間が欲しかったんだよね。

 ほら、周りはおばちゃんばっかりだから、居心地悪くてさ」


 若葉は周りに聞こえないように小さな声で言って、ヒヒッと笑った。


「藍川さんも毎回やってるの?」


「毎回じゃないけど、9割はあたしがやってる。

 うちのお母さんがさ、朝からパートに入ってるから」


「ふーん、そうなんだ」


「あのさ、”藍川さん” じゃなくて、若葉でいいから」


「あ、うん………。

 じゃあ、あたしも環で………」


「うん。

 じゃあ、"たまきん"」


 あたしはブブッと吹き出して笑った。


「それ、前の学校の男子からも言われてたからやめてよ」


「ハハッ、やっぱりそうなんだ」


 若葉は割と綺麗な顔をしているのに、意外と面白い子で、ふざけて "たまきん~たまきん~♪ " と笑いながら歌っている。


 それが若葉とあたしの、友達関係の始まりだった。






 頭痛が治まった後、診察室で志水先生から苺美と何を話していたのかを聞かれ、若葉の事を話すと、志水先生は「そうか………」と言って息を吐いた。


「その話を聞いて、何か思い出したりしたの?」


 あたしは俯いて首を横に振った。


「何も………。

 若葉がそんな目に遭ったなんて信じられないし、死んだ事も実感が持てなくて、涙も出ないっていうか………」


「その若葉ちゃんは、君にとってどんな存在だったのかな」


「どんなって?」


「親友だったとか、単なる同級生だったとか。

 君にとって大切な友達だったのかどうか」


「ああ………」


 そういう事かと思い、少し考えてから答えた。


「正直………よくわかんない………」


「わかんない?」


「うん。

 好きか嫌いかって聞かれてもよくわからないし、大切か大切じゃないかって聞かれても、わからないっていうか………。

 仲良く遊んだ事もあるけど、何度も裏切られたりしたし………」


「裏切られたっていうのは?」


「まあ………色々………」


 志水先生は「ふむ」と呟き、ノートパソコンに向かってキーボードを叩いている。


「先生、何書いてるの?」


「うん?

 環ちゃんと話した内容をカルテに書いてるんだよ」


「カルテに?

 ………なんでそんな事書くの?」


 警戒すると、志水先生は椅子を回転させ、こちらを見て言った。


「精神科ではね、病気を治す為に患者の事をよく知っておく必要があるんだよ」


「病気って………その、逆行性ナントカの事?」


「逆行性健忘症。

 そっちは特に治療する事はないと思ってる。

 いずれ自然に思い出すだろうしね」


「じゃあ、あたしの病気って?

 やっぱりなんかの病気だったの?」


「うーん、病気というか。

 昨日も話したと思うけど、環ちゃんは睡眠障害がひどかったからね。

 それによって度々頭痛が起きたり情緒不安定になったり、何もやる気が起きなくなるようなうつ症状も出てたから」


「それもストレスからくるものだったの?」


「そうだね」


「ねえ………それってさ、もしかして………若葉の事と何か関係があったりするの?」


「………。

 どうしてそう思うの?」


「だって、若葉がそんな酷い目にあって自殺したなんて………。

 若葉とは色々あったけど、一番付き合いが長かったし、それがショックだったのかなって………」


 志水先生は「そうかもしれないね」と、曖昧な返事をする。


「環ちゃんがここに来てた時、あまり話してくれなかったんだよ」


「そうなの?」


「うん。

 だからこれもいい機会だから、その若葉ちゃんの事も含めて、環ちゃん自身の事を話してくれないかな。

 環ちゃんが今までどんな風に育って来たのか」


「どんな風って?」


「例えばどういう家庭環境で育ってきたのか、学校の友達とどういう風に付き合ってきたのかとかさ」


「どういうって………。

 そんな事話してどうするの?」


「環ちゃんがどういうストレスを抱えてそうなったのか知った上で、カウンセリングや薬物療法をしながら治療して行くんだよ」


「ふーん………。

 でもあたし、自分が睡眠障害になるようなストレスなんて、何も覚えてないし………」


「今はそうかもしれないけど、記憶が戻った時にまた同じような状態になるかもしれない。

 それにね、昨日は混乱してる状態だったからあえて言わなかったけど………交通事故に遭った時、君は自殺しようとしてたんだ」


「えっ………あたしが?」


 志水先生はあたしの目を見てこくりと頷く。


「周囲にいた人達の証言によると、君が突然赤信号の横断歩道に飛び出したらしいんだ」


「………」


「その時の事は覚えてないだろうけど、記憶が戻った時の事が心配だからね。

 今のうち、一緒に少しずつ心の整理をして行こう。

 話したくない事は無理に話さなくていいし、気軽な相談相手だと思って何でも話してくれていいから。

 もちろん、環ちゃんから聞いた事を誰かに話したりしないし。

 医者には守秘義務があるからね」


 自分が自殺を図ろうとしたなんて、それこそ信じられなかったけど………。


 いったい何があってそうなったのか不安になって、最初は志水先生の質問に答えながら、自分の生い立ちや若葉とのこれまでの事も話す事にした。






 2005年4月────


 都営団地に引っ越して来るまで、あたしとママとパパの三人家族は、パパ方のお婆ちゃんの家で同居していた。


 だけどママとお婆ちゃんの仲がものすごく悪くて、溜まりかねたママが別居すると言い出して、あたしが5年生に進級するタイミングで、都営団地に引っ越す事になったのだ。


 若葉と初めて話したその日の夜、ママはパパが作ってくれた夕食を食べながら尋ねてくる。


「そういえば環、今日の草むしり当番、ちゃんと行ってきてくれた?」


 あたしはリビングのソファーに転がっていて、テレビを見ながら「行ったよ」と返す。


「そう。

 ありがとねー、環」


 パパが食器を洗いながら尋ねてくる。


「なんの話だ?

 草むしり当番って」


「この時期になると毎週やるんだって、団地内の草むしり。

 今日は朝から依頼人と裁判の打ち合わせがあったから、環に行ってきてもらったの」


「そういう事か。

 それはご苦労だったなぁ環」


「またおばちゃん達が嫌味言ってたよ。

 環ちゃんのママは立派なお仕事されてるものねって」


 ママはうっとおしい顔をして箸を払う。


「相手にしなくていいわよそんなの。

 まったく………ここに住んでる人達ってどうしてそうなんだろ。

 それぞれ都合があるって事がなんでわからないかなぁ~」


 パパが言う。


「都合があるのはよその家庭も一緒だろ?

 しょうがないじゃないか、公団ってのはみんなで協力しながらやってくところなんだから」


「だから環にうちの代表として行ってもらったんじゃない。

 それを何?

 まるで母親が必ず参加しなきゃならないような空気作っちゃってさ。

 別に環じゃなくてあなたが行ってくれても良かったのよ?」


「俺は接待ゴルフだったの。

 わかってるくせに言うなよ。

 こうやってちゃんと家事も分担してるし」


 そうなのだ。


 夫婦で働いてる以上、男だろうと女だろうと家事を分担するのは当然というのが、ママの考え方だった。


 そういう男勝りな性格が、昔ながらの考えを持つお婆ちゃんとの仲を険悪にした原因だ。


「あーあー………やっぱり公団じゃなくて、普通のマンションに引っ越せば良かったかなー」


「おまえが言ったんだろー?

 公団の方が家賃が安いからって」


「まあねぇ………。

 夢のマイホーム資金が貯まるまであともう少しだし、それまでの辛坊かな」


 あたしはママを睨んで言った。


「辛抱してるのはあたしの方なんですけど」


 ママは「環ぃ~」と言って眉を垂れ下げる。


「学校も転校する事になったし、草むしり当番までやらされちゃってさ。

 なんであたしがママの代わりにおばちゃん達から嫌味言われなきゃならないんだよ」


「そういう事言わないでよ~、ママは環だけが頼りなんだから」


 あたしはフンと鼻を鳴らしてテレビに目を向ける。


「マイホームを建てたら、環が昔から飼いたいって言ってた犬だって飼えるのよ?

 ダックスフンド、飼いたいって言ってたでしょ?」


「ダックスフンドじゃなくて、コーギー。

 全然違うじゃん」


「ああ、そうそう、コーギー。

 パパとママに協力してくれたら、ちゃんと飼わせてあげるから、ね?」


 パパも言ってくる。


「そうだぞ環。

 マイホームを建てたら自分達の好きなようにしていいんだぞ?

 おまえも家族の一員として協力してくれよ、な?」


「………。

 ブログの新しいスキンが欲しい」


「スキン? なんだそれ」


 パパはママに尋ねる。


「ブログのデザインでね、有料のものがあるんだって。

 可愛いやつは無料じゃないんだってさ」


「へー、そんなのがあるのか。

 別にそんなの、無料のやつでいいんじゃないか?

 日記をつけるだけなんだろ?」


「お友達に見せるものだから、可愛いブログデザインにして見せ合いっこしたいんですって」


「ふーん、まるで着せ替え人形みたいだなぁ」


「そっ。

 そのブログって自分にそっくりなアバターも作れるらしくて、アバターに着せる服も可愛いのはお金がかかったりするのよ。

 ね、環」


 あたしは頷く。


「なるほどねぇ。

 今時の子供達は着せ替え遊びもネットの中でやるんだなぁ。

 で、そのスキンってやつ、いくらぐらいするんだよ」


「350円」と、あたし。


「なんだ、350円か。

 だったら買ってやれば?」


 ママは軽く息を吐く。


「わかったわよ。

 環、携帯持って来なさい」


 身体を起こし、「やったね~」と言いながら自分の部屋に携帯を取りに向かった。


 あたしが携帯で勝手に課金しないように、ママが携帯決済のパスワードを入力して課金する事になっている。


 はい、と携帯を返されて、あたしは機嫌が良くなった。


「だけど環、前々から言ってる事だけど、変なサイトにアクセスしたりしちゃダメよ?

 今はクリック詐欺とか出会い系サイトとか、危ないものが多いんだから」


「わかってるよ」


 そう返して、自分の部屋に戻ってパソコンを立ち上げた。


 ママは弁護士をやっていて四六時中忙しいし、パパは普通のサラリーマンだけど営業という仕事柄、接待やなんやらで忙しいみたいで、二人とも帰りが遅い時は、あたしが自分でご飯を作ったりする事もある。


 だから寂しくさせないように、携帯やパソコンなんかは他の子より早く買ってくれたりした。



[新しいブログスキン買ってもらったー♪ ]



 さっそくブログのスキンを変えて日記を書く。


 するとしばらくして、友達からコメントが入った。



[えー、いいなー。

 あたしもそのスキン欲しかったんだよねー(>_<) ]



 コメントを寄越して来たのは、前の小学校の友達だった。


 ブログではなくチャットに切り替えて話をする。



>ミズキ

[新しい学校にはもう慣れた?]



>タマキ

[まだ全然慣れない。

 あ、でも、友達になれそうな子は出来たかも]



 若葉の事だ。



>ミズキ

[へー、良かったね。

 どんな感じの子?]



>タマキ

[まだあんまり喋ってないからわかんないけど、面白そうな子。

 しかも同じ団地に住んでる]



>ミズキ

[それなら学校とか一緒に帰れるじゃん。

 良かったね(^0^)/ ]



 ふっと笑みがこぼれた。


 まだ友達が出来てなかったから、そうなればいいなぁと、その時は考えていた。


 ところが翌日。


 教室の前で若葉を見付け、おはようと声をかけに行ったら、若葉はなぜか困った顔をして、目を逸らして素っ気なく「おはよう」と返し、そそくさと教室の中に入って行く。


 昨日とは全く違う態度を取られて、どうしたんだろうと考えながら教室に入ると、若葉はクラスの中心核となっている女子のグループに、明るく「おはよー」と声をかけている。


 今度一緒に遊ぼうと言ってきたくせに、あれはなんだったのか………。


 一気にシラけた気分になって自分の席へと向かい、ランドセルから教科書を取り出して机の中に入れようとすると、途中でつっかえたので、中を覗き込んだ。


 そこには新聞紙が丸めてつっ込まれていて、取り出して開いてみると、



[転校生だからって気取ってんなバーカ]



 と、赤いマジックで書かれてあった。


 すると女子のグループからハハハッと笑い声が上がる。


 振り返ると、女子達はあたしの方を見ないで言った。


「もー、ダメじゃーん、ひどい事しちゃあ」


「ねー、いったい誰があんな事やったんだろうねー」


 わかりやすい嫌がらせだった。


 転校してきた当初は色々話しかけて来たけど、いつの間にか寄り付かなくなった女子達で、あたしは愛想笑いをしたりするのが苦手だから、それが気取って見えたのかもしれない。


 そんな女子達の中で、若葉は後ろめたそうな顔をしながらも、一緒になって笑っている。


 ムカッときて、新聞紙をぐしゃぐしゃっと丸め、思いきり通路に叩き付けた。


 あたしはママに似て負けず嫌いな性格だった。


 それを見て女子達がピタッと笑うのをやめる。


「ちょっと、何してんの相澤さん」


 そう言って近付いて来たのは、グループのリーダー格である《久住麗奈》だ。


「そんなとこにゴミ捨てないでよ、ちゃんとゴミ箱に捨ててよね」


「………」


 ふいっと顔を背けて無視すると、新聞紙を拾いに来た女子がいた。


 若葉だ。


「ダメじゃんねぇ、まったく手がかかるよねぇ」


 おどけながらそう言って、若葉は新聞紙をゴミ箱の中に放り投げて、綺麗に入ったのを見て「ナイッシュー♪」と言った。


 それを見て何人かの女子が笑い、「えらーい、若葉ー」と褒め立てる。


「それよりさー、今日の算数の宿題なんだけど」


 若葉が話題を変えてグループの所へ戻ろうとすると、麗奈はゴミ箱の方へ向かって新聞紙を取り出し、あたしの頭に投げ付けてくる。


「なに他人に捨てさせてんの?

 自分のゴミでしょ。

 ちゃんと自分で捨てなよ」


 麗奈はあたしを睨んでくる。


 あたしも負けじと睨み返した。


「………元々、あんた達が仕込んだゴミでしょ」


「はっ? 何それ。

 変な言いがかりつけないでよ」


「………」


「ねーみんなー、誰か相澤さんの席にゴミを入れた人知ってるー?」


 女子達は顔を見合わせてクスクス笑いながら、「知らなーい」「そんな事してないよねぇ」とシラを切る。


 麗奈は近くにいた若葉に尋ねた。


「まさか若葉じゃないよね?」


「えっ!?

 そんな………あたしなわけないじゃん………」


 若葉が唇を噛んで下を向くと、麗奈は肩に手を乗せて笑った。


「冗談だってー、何マジで凹んでんの?

 優しい若葉がそんな事するわけないじゃん」


 苦笑いを返す若葉。


「そういうわけだから、相澤さん、責任持って自分で捨ててよね。

 ほら」


 麗奈は新聞紙を拾って押し付けてくる。


 悔しかったけど、これ以上くだらないやり取りをするのが嫌で席を立ち、新聞紙をゴミ箱の中に投げつけて捨てた。


「うっわ、感じわる―………」


 従ったら従ったで、バカにするように笑われる。


 いたたまれなくて、あたしは教室を出た。


 それ以来、毎日クラスの女子から嫌がらせを受けるようになった。


 体育の時間でドッジボールをやった時は、全員から狙い撃ちにされ、上履きにがびょうを入れられ、机の上に “ブス” と落書きされる。


 トイレに入ると、「ねー、なんかここ臭くなーい? 超臭いんだけどー」と言って笑われる。


 悔しくて悔しくてたまらなかった。


 やり返してやりたくて仕方がない。


 だけど反抗すると余計に嫌がらせを受ける事になる。


 あたしの味方になってくれる人は一人もいない。


 悔しいけど、一対複数だと敵うわけがない………。


 そんなあたしを見て、若葉はずっと見て見ぬフリをしていた。


 教室の入口ですれ違おうとした時は、


「あっ、ゴメンゴメン」


 と、なぜか焦って謝って、わざわざ後方の入口に回って教室の中に入って行く。


 麗奈達と一緒になって攻撃してきたりはしないけど、あたしを極力避けようとしていた。


 それが腹立たしくて、あたしは二度と若葉に声をかけないようにした。


 ところが、女子トイレの掃除当番が回ってきたある日の事だった。


 “相澤” と “藍川” だから、あたしと若葉は出席番号順で同じ班だった。


 班の女子達が適当に切り上げて教室に引き返そうとした時、流し場のところで雑巾を洗っていた若葉は、


「もういいから戻ろうよー」


 と声をかけられて、


「ううん、もう少しやってくー」


 と返していた。


「こないだやり残して先生に怒られてた子がいたからさー。

 これだけ片付けてから戻るよ。

 見付かると面倒臭いし。

 あと少しだから先に戻ってて」


「真面目だなぁ若葉は。

 じゃあ戻ってるよ?」


 そう言って班の女子達が去って行くと、黙々と汚物入れのゴミを集めていたあたしに、若葉がそろそろと話しかけてくる。


「あー………結構溜まっちゃってるね………。

 前の班が残したやつかな」


 汚物入れは蓋が浮くほど使用済のナプキンが溜まっていた。


「あたしも手伝うよ。

 こっちの列はもうやった?」


 あたしがやってるのは入口から見て左側の列で、若葉が言ってるのは右側の列だ。


 新しいゴミ袋を汚物入れの中に入れながら、あたしはつっけんどんに返した。


「さっさと教室に戻れば?」


「え………いや、手伝うって。

 一人じゃ時間かかるじゃん、ねぇ?」


 誤魔化すように作り笑いを浮かべる若葉にムカついて、立ち上がって睨み付けた。


「罪滅ぼしのつもり?」


「え?」


「あんな奴らの言いなりになって、ヘラヘラ笑っちゃってさ」


「ああ………」


「あたし、あんたみたいなのが一番ムカつくんだよね。

 悪者にはなりたくないけど、巻き込まれるのはごめんみたいな?」


「………」


「いい子ぶんないでよ。

 あいつらと一緒に、くだらない事やってりゃいいじゃん!」


 あたしは口を縛った汚物袋を若葉に投げ付けた。


 若葉は「わっ!」と声を上げてそれを避ける。


「ちょっと………中身が出たら大変な事になっちゃうじゃん」


「………」


「あたしだって、別に麗ちゃん達の言いなりになりたいわけじゃないけど………見ててわかるでしょ?

 逆らったら怖いんだもん麗ちゃん………」


 言わんとしてる事はわかっていた。


 どこの学校にもスクールカーストは存在する。


 可愛くて、頭が良くて、気が強くて。


 そういう女子はクラスの中で女王となり、自然と周りの支持を集める事が出来る。


 麗奈はまさにそういう女子だった。


「麗ちゃんって他のクラスの女子にも人気があって、みんな麗ちゃんの肩を持とうとするし………」


「人気があるんじゃなくて、ただ怖くて逆らえないだけじゃん」


「そうかもしれないけど、麗ちゃん、仲がいい子には優しかったりするからさ………」


「だからって、気に入らない奴を集団で攻撃する事が許されんの?」


「そういうわけじゃないけど………」


「あんな奴、あたしだったら絶対願い下げだよ。

 いくら自分に優しくても、性格悪くて卑怯な奴は大っ嫌い!」


 そこでチャイムが鳴り、若葉は後ろ頭をかいて言った。


「そこまで責めないでよ………。

 とにかく、これ片付けよう?

 じゃないと本当に先生に怒られるじゃん」


「………」


 若葉は困った顔をしながら、右の列の汚物を片付け始めた。


 それでも気が済まなかったあたしは、このまま若葉をトイレに残して教室に戻ろうかと思ったけど………。


 行くに行けなくて、黙って左側の列の汚物を片付けた。


 一つのゴミ袋にまとめてトイレを出たところで、担任の男の先生に見付かった。


「なんだ、まだ終わってなかったのか。

 他の奴はどうした」


「あ、あのっ………ついさっき戻りました………。

 後はこれだけなんで、行ってきます!」


 若葉はあたしが持っていたゴミ袋を掴んで「行こうっ」と言い、引っ張られるように一緒に焼却炉へ向かった。


 その翌日から、若葉はあたしを避けなくなった。


 顔を合わせると小さく「おはよ」と声をかけてくる。


 けれどそれ以上近付いてくる事はなく、すぐに麗奈達の方へ行ってしまう。


 気が小さい割には周りにいい顔をするのが得意で、面白い事をやって見せたりして麗奈達のご機嫌を取る若葉を、心の中で蔑んでいた。


 だけどあたしに対して罪悪感を感じていた事がわかって、心のどこかで許そうとしている自分がいる。


 それに若葉は、麗奈達の目を盗んでは、「昨日のドラマ見た?」とか「生理ってもう来た?」とか、わざわざ小声で話しかけてくる。


 時にはお笑い芸人の真似をして、壁に隠れて変なポーズをして見せたり。


 そういう事を何度もやられると、思わず吹き出して笑ってしまった。


 若葉のギャグに乗ってギャグを返すと、お互いお腹を抱えて笑った。


 若葉とは単純に笑いのツボが合うのかもしれない。


 教室の中でも、若葉は麗奈達に気付かれないようにサッとヘン顔を見せてくる。


 あたしも麗奈達に見付からないように笑いを堪える。


 そうやってコソコソとコンタクトを取る事が余計に笑いを誘って、いつの間にか楽しくなって来ていた。


 そうしているうちに影で仲良くなり、ある日若葉がこっそり手紙を渡して来た。


 学校から団地までの道のりで二番目にあるコンビニで待ち合せて、一緒に帰ろうという内容だった。


 そこまで行けば麗奈達に見付からないというわけだ。


 なるほどなと思いながらも、自分と仲良くしてるところを見られたくないという若葉の気持ちを考えると、複雑な気持ちにもなった。


 そうまでして自分の身を守りたいのかと、そんな風にも思ったけど………。


 結局、あたしはそのコンビニに向かい、若葉が来るのを待った。


 若葉は「おまたー♪」とおどけながら現れる。


 あたしは軽く睨み付けて「遅いっ」と文句を言った。


「また麗奈様に捕まったんだぷー♪」


 笑いで誤魔化そうとする若葉を見て、あたしは吹き出して笑った。


 そして一緒に帰りながら “麗奈様” に対する愚痴を言い合った。


 今日は鼻くそはみ出てるのに気付いてなかったねとか、それに気付いておきながら誰もつっ込めないのが可笑しかったねとか、ギャハギャハ笑いながら。


「あー笑えるー………。

 こういう事言える相手がいなかったから、なんかスッキリしたー」


 若葉は笑い涙を指で拭いながらそう言った。


「だったら我慢しなきゃいいのに………。

 別に麗奈がいなくたって生きて行けるじゃん。

 あたし味方になるよ?」


「うーん………でも………あたしには環みたいな勇気出せないよ。

 麗ちゃんに逆らって、クラスでやって行ける自信がないしさー………」


「そうやってみんなが怖気づくから、麗奈が付け上がるんじゃん」


「だって敵は麗ちゃんだけじゃないもん。

 他のクラスにも気が強い子がいて、その子達がこないだ話した麗ちゃんの友達なんだよ。

 ズバズバズバズバ言ってくるし、かなりの強敵だよ?

 先生を味方に付けるのも上手いし、頭がいいんだよ」


 だったら尚更そんな奴に負けたくないと思ったけど、麗奈みたいな奴に大勢でかかられたら、確かに強烈だなと思った。


「6年まで今のクラスのままで持ち上がるしさ、上手く付き合って行かないとやってられなくなるよ」


「そうかもしれないけど………」


「環もあんまり反抗しないで、上手くやった方がいいよ。

 じゃないとますますエスカレートするかも」


 そう言われても、あたしは素直に頷く事が出来なかった。


 こういうところも、ママに似ているのかもしれない………。


 その日の夜、ママが夕飯を作りながら尋ねてきた。


「そういえば環、学校の方はどう?

 少しは慣れた?」


「………別に、フツー」


 テレビを見ながらそう返す。


「何よ、フツーって。

 あっつっ!」


 ママは煮魚の落し蓋を拾おうとして指を耳に当てる。


「まあ、環はママの娘だから?

 いじめられたり仲間外しにされるような事はないと思うけどさ」


「………」


「一応心配してるわけよ。

 ママがお婆ちゃんと険悪になっちゃったから、環が前の学校の友達と離れ離れになっちゃったわけだし」


「………」


「それに、環には昔から我慢させてばっかりだったもんね。

 ママもパパも仕事が忙しいから寂しい思いさせてきたし、仕事より子供を優先しろってお婆ちゃんから責められた時も、環はママの事庇ってくれたもんね。

 "仕事してないママなんかママじゃない" って。

 あの時はすっごく嬉しかったなー」


「………」


「パパもママに合わせて家事を分担してくれてるけど、ママは環のおかげで仕事を頑張る事が出来るんだって思ってる。

 だからさ、環も何か悩みがあったらちゃんと相談してくるのよ?

 ママだって環の味方なんだから」


「………。

 別に、悩みなんてないし」


 麗奈達から嫌がらせを受けている事を、ママに話すつもりはなかった。


 だいたい "いじめられてる" なんて思ってないし。


 他の人にはそう見えても、あたし自身はそれを認めたくなかった。


 それに………。


「うーん、このぐらいの味付けでいいかなー。

 環、ちょっと味見してみて」


 身体を起こし、台所に行ってママから小皿を受け取る。


 そして煮魚の汁に口を付けた。


「………しょっぱい。

 パパの味付けの方が美味しい」


「もーっ、どうしてそういう言い方するかなぁ」


 唇を尖らせて、軽くあたしのお尻を叩くママ。


 ママはとても不器用で、要領が悪い人だ。


 家事は下手くそだし、人付き合いも下手だし、ちっとも女らしくない。


 だけど負けん気が強くて、正義感も強くて、高卒なのに独学で司法試験に合格するという、努力と根性の塊のようなママが、あたしは好きだった。


 本当は大手の法律事務所でバリバリ働きたかったらしいけど、学歴がない事で受け入れてもらえなかったみたいで、小さな法律事務所で働く事になった。


 だから弁護士をやってるからと言って、うちは特別金持ちというわけじゃない。


 でもママは、将来的には独立する事を目標に、成り上がり根性でどんな案件でも引き受けてコツコツと頑張ってる。


 いつか周りを見返してやるという野望を持って。


 そんなママを尊敬してるから、あたしはママの味方になって色んな事を我慢してきた。


 それに、ママみたいに強い人間になりたいから、自分の事は自分でなんとかするつもりでいる。


 ところが数日後。


 ちょっとした事件が起きた。


 給食当番でシチューが入った鍋を運んでいる時、手元が滑ってひっくり返してしまったのだ。


 しかも、それを近くにいた麗奈の右足に思い切り引っかけてしまった。


「あっつーい!!」


「あっ! ゴメン!」


 大丈夫?と言って近付こうとすると、麗奈のグループの女子達から「何やってんの!?」と突き飛ばされた。


 そして………その日の放課後。


 あたしは麗奈達グループに捕まって、無理やり体育館へと連れて行かれた。


「あんた、わざとやったんでしょ」


 腕を組んで睨んでくる麗奈に、あたしはかぶりを振って否定した。


「違う! そんな事するわけないじゃん!

 さっきは本当に手が滑って、」


 左右から両方の腕を掴まれて身動きが取れないあたしに、麗奈は思い切りバスケットボールをぶつけてきた。


 左の頬にジーンとしびれが走る。


「そういう態度がムカつくんだよ!

 少しは悪い事したと思わないわけ?」


「だからそれは………」


 負い目を感じて言い返せずにいると、周りにいた女子も「そーだよ、ふざけんな」と賛同し、容赦なくバスケットボールをぶつけてくる。


 お腹に当たったり、足に当たったり………急所の鼻に当たった時は、思わず声を上げて膝が崩れた。


 鼻血がボタボタッと床に垂れる。


 麗奈はその様子を黙って見ていた若葉に言った。


「若葉も一緒に仕返ししてよ」


「えっ、でも………」


 若葉は狼狽えながらこちらをチラッと見る。


「何ためらってんの?

 若葉はあたし達の仲間じゃないの?

 ほら!」


 強引にバスケットボールを押し付けられて、若葉はそれを手に取り、ごくりと生唾を飲む。


 目が合って、あたしは「やめてよ」と呟いて訴えた。


 だけど若葉はぎゅっと目をつぶり、両手でボールを持って思い切り投げ付けてきた。


 それは右目に当たって、あまりの痛みに腕を振りほどいて手で覆った。


 麗奈達は笑って拍手をする。


「アハハハハハッ、上手いじゃん若葉ー」


「本当、ナイスコントロール♪」


 あたしは武者震いをしながら、右手の拳をぎゅっと握った。


 若葉があたしを裏切った事が許せなかった………。


 立ち上がり、左右に立っていた女子を体当たりで突き飛ばし、近くに転がっていたバスケットボールを拾い上げ、思い切り、若葉の顔に投げ付けた。


 それは鼻に命中して、若葉は鼻を押さえてしゃがみ込む。


「ちょっと! 何すんの!?」


 麗奈が目をつり上げて睨んでくる。


 他の女子達が若葉に駆け寄って「大丈夫?」と声をかけている。


 何が "大丈夫?" だ………。


 麗奈がもう一度投げ付けてきたバスケットボールを咄嗟にキャッチして、それを麗奈の右足に投げ付けた。


「おまえら全員ふざけんな!!」


 そう怒鳴り付けて、あたしは体育館を飛び出した。


 そしてその日の夜。


 唇が切れていたり、右目に青たんを作ったあたしの顔を見て、ママが血相を変えて言ってきた。


「環! どうしたのよそれ!」


 問い詰められ、誤魔化しきれずに事情を話すと、ママは憤慨し、あたしを連れて若葉の家に向かった。


「本当に申し訳ありませんでした!」


 若葉の母親はうちのママから事情を聞くなり平謝りした。


 そして若葉を玄関に呼んで頭を下げさせる。


 若葉は泣きながら「ごめんなさい」と謝ってくる。


 ママは言った。


「娘から聞いた話だと、若葉ちゃんはグループの中で一番強い子に命令されて環に投げ付けたそうなんですけど………。

 若葉ちゃん、それって本当なの?」


 若葉はこくりと頷き、もう一度「ごめんなさい」と謝る。


 ママは腕を組んで「まったく」と息を吐く。


「とんだお山の大将がいたものね。

 いくら火傷させたからって、7~8人でかかってくるなんて………」


 若葉の母親が若葉を叱り付ける。


「若葉っ!

 どうしてそんな子達の仲間に入ったりしたの!」


 若葉は泣きじゃくりながら何も答えない。


 ママは若葉に言った。


「とにかく事情はわかったから。

 環も若葉ちゃんにやり返したみたいだし、ここはお互い様ね。

 環、あんたも若葉ちゃんに謝りなさい」


「………やだよ、なんであたしが謝らなきゃなんないわけ?

 裏切ったのは若葉なんだから」


 ママが「環っ」と怒鳴るのを見て、若葉の母親がたしなめてきた。


「相澤さん、環ちゃんの言う通りですから怒らないであげて下さい。

 うちの娘には、私からよく言っておきますので………。

 本当に申し訳ありませんでした」


 最後にもう一度深々と頭を下げる若葉の母親を見て、ママは一つ息を吐き、「それじゃあ、今日は失礼します」と言った。


 そして次に向かったのは麗奈の家。


 麗奈はこの界隈で一番大きな高級マンションに住んでいた。


 インターホンを鳴らすと、ドアを開けて出てきたのは麗奈の母親で、麗奈によく似ていて、綺麗な人だった。


 その綺麗な顔に警戒心を浮かばせ、うちのママに「なんでしょうか」と尋ねてくる。


「夜分遅くに申し訳ありません。

 わたくし、お宅のお嬢さんと同じクラスの相澤環の母親です」


「ああ………あなたが相澤さんですか」


「この度はうちの娘が麗奈ちゃんに火傷を負わせてしまったようで、本当に申し訳ありませんでした」


 頭を下げて謝罪するママに、麗奈の母親は不快感を露にし、腕を組んで首を撫でながら言った。


「まあ、幸い痕が残るような火傷じゃありませんでしたし………。

 でも今後は気を付けていただかないと困ります。

 同じ娘を持つ母親として、その辺の事はおわかりになりますよね?」


「ええ、おっしゃる通りです。

 わざとじゃなかったとは言え、本当に申し訳ありませんでした」


 麗奈の母親は語気を強めて「いいえ」と返す。


「用はそれだけですか。

 遅い時間ですので、どうぞお引き取り下さい」


 突き放すようにそう言って、ドアを閉めようとする麗奈の母親に、ママは毅然と「いいえ」と返し、ドアを掴んで阻止する。


「話はそれだけじゃないんです。

 ………環、こっちにいらっしゃい」


 ドアの影に隠れていたあたしは、ママの隣に並んだ。


 麗奈の母親はあたしの顔を見て息を呑む。


「それは………」


「この顔の怪我は、お宅の麗奈ちゃんからやられたものです。

 火傷を負わせられた腹いせに、他のお友達と一緒に」


「そんな、まさか………」


 麗奈の母親はあたしの目や頬に出来た痣を見て狼狽する。


「顔だけじゃありませんよ?

 お腹にも足にも沢山痣を作ってます。

 グループの女の子達から両腕を掴まれて、バスケットボールを何度も投げつけられたそうです。

 麗奈ちゃんをここに呼んでもらえますか?」


 麗奈の母親は狼狽えながら麗奈の名前を呼ぶ。


 するとこちらの話し声が聞こえていたのか、奥の部屋から罰の悪そうな顔をして麗奈がやって来た。


「………何?」


「何じゃないでしょ。

 麗奈………本当にあんたがこんな怪我をさせたの?」


 麗奈は顔を逸らして俯き、「あたしじゃないよ………」と嘘を吐く。


 するとママが一歩前に出て麗奈に言った。


「麗奈ちゃん、ちゃんとおばさんの目を見てやってないって言える?」


「………」


「その場に居合わせた若葉ちゃんにもさっき聞いてきたのよ?

 リーダーは麗奈ちゃんだったんでしょう?」


 麗奈はぎゅっと唇を噛みしめ、小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。


 麗奈の母親が「麗奈!」と声を上げた直後、ママは麗奈に向かって手を振り上げる。


 麗奈は身構えたが、ママはその手を振り下ろす事はなかった。


 麗奈の母親は麗奈を庇うように肩を掴んで言った。


「ちょっ………いきなり何するんですか!!」


 ママは淡々と「何もしてません」と返し、麗奈を見下ろす。


「何もしてないけど、麗奈ちゃん、今、"叩かれる!" と思って怖くなかった?」


「………」


 ママは膝に手を当てて腰を屈める。


「人間はね、たったこれだけでも恐怖を感じるものなの。

 麗奈ちゃんはそれに留まらず、ボールを環に投げ付けたのよ?」


 麗奈は身構えたまま涙を滲ませる。


「環が火傷をさせてしまった事は、おばさんからも謝るわ。

 本当にごめんなさい。

 でも、こういうやり方で仕返しするのは違うんじゃない?」


「………ごめんなさい」


「おばさんにじゃなくて、環に謝ってくれる?」


 麗奈は涙を流しながら、あたしを見て「ごめんなさい」と謝った。


「ほら、環も」


 ママに促されて、ここでは素直に謝る事にした。


「あたしの方こそ………ごめん………。

 でも本当に、わざとやったわけじゃないから………信じてよ………」


 麗奈は頷き、麗奈の母親もうちのママに頭を下げた。


「申し訳ありませんでした………。

 あの、環ちゃんの治療費はお支払いしますので………」


「いえ、それは結構です。

 麗奈ちゃん一人がやった事じゃありませんから。

 それより今日の事に限らず、以前から麗奈ちゃんを筆頭に環に嫌がらせをしてたようですから、その辺の事についてもよく注意しておいて下さい」


 麗奈の母親はさらに驚いた顔をして麗奈を見る。


「覚えておいて下さい。

 いじめも度を超すと、立派な "犯罪" ですよ?」


 釘を刺すようにそう言ったママに、麗奈の母親は小さくなって「わかりました」と言い、麗奈と一緒に頭を下げた。


 その帰り道に、ママが言ってきた。


「どうしていじめられてた事を隠してたの?

 ちゃんと相談してきなさいって言ったでしょ」


「別にいじめられてたわけじゃないし。

 単に嫌がらせされてただけ」


 ツンとして返すと、ママは苦笑して言った。


「本当にそういうとこ、あたしにそっくりなんだから。

 だけど負けず嫌いもほどほどにしないと、お嫁に行けない顔になるわよ」


「ママが結婚出来てるから大丈夫だよ」


 ママはふざけてあたしの首に腕を回してくる。


 あたしはギャーと叫びながら、笑いながらママと一緒に夜道を歩いた。


 そして、その翌日。


 麗奈達グループは担任の先生に呼び出されていた。


 学校でも注意してもらうように、ママが担任の先生に電話を入れたのだ。


 その間の自習時間に、あたしは若葉のところへ向かった。


「若葉。

 その………昨日は、ごめん………」


 謝ろうかどうか迷ってたけど、一応謝っておく事にした。


 若葉は自習のプリントから顔を上げる。


「ううん、あたしも悪かったし………」


 あたし "も" じゃないだろと、内心引っかかったけど、若葉が泣き腫らした目でシュンとするので、仕方なく「もういいよ」と言って許す事にした。


 麗奈が怖くて逆らえなかったんだろうし………。


 自分の席に戻ると、麗奈達が教室に戻って来て、真っ直ぐあたしのところへやって来る。


「相澤さん………今までごめんね?」


 麗奈に続いて、他の女子もそれぞれ「ごめん」と謝ってくる。


 大勢で謝られると気が引けて、あたしは首を横に振って見せた。


 麗奈達は暗い顔をしたまま自分達の席へ戻って行く。


 担任の先生は怒ると怖い人だから、たっぷり絞られたのかもしれない。


 ところがその翌日から、今度は若葉が麗奈達から無視されるようになった。


 若葉が教室の中で一人ポツンと取り残されているのを見て、声をかけに向かう。


「若葉………大丈夫?」


 若葉は目に涙を溜め込んで、机に突っ伏してシクシクと泣いていた。


 その日の放課後。


 あたしは麗奈のマンションに先回りして向かい、玄関の前で待ち伏せた。


 麗奈はあたしに気付くと、ランドセルのベルトを掴んで身構える。


「………何?

 まだ何か用?」


「ねえ、どうして今度は若葉を仲間外しにするの?

 そんな事して何が楽しいの?」


「別に楽しくてやってるわけじゃないよ」


 麗奈は唇を尖らせて顔を逸らす。


「じゃあなんで若葉を無視するわけ?

 みんなで寄ってたかってさ、まだ懲りないの?」


 一歩前に出て凄むと、麗奈は一歩後退って言った。


「別に、いじめるつもりでやってるわけじゃないよ。

 みんな若葉が許せないだけだよ」


「許せない?」


 麗奈はあたしの目を見て言った。


「だってそうでしょ?

 なんで昨日、あたし達だけ呼び出されて若葉は呼び出されなかったの?

 若葉だってあたし達と一緒に相澤さんの事いじめてたのに」


「それは………若葉は麗奈が怖かったからじゃん」


「は?

 何それ、それもあたしのせい?」


 麗奈は本気で心外な顔をする。


「あたしは別に若葉を脅したわけじゃないでしょ?

 あの体育館の時だって、"仲間じゃないの?" って言っただけじゃん。

 相澤さんだってそれ見てたでしょ?」


「そうだけど………」


「それなのにあたしが怖かったとか、そんなの言い訳にならないじゃん。

 仲間なら、あたし達と一緒に相澤さんに謝るべきじゃないの?」


 若葉が麗奈を恐れていたのは事実だけど、麗奈の言い分は正しかった。


「そんな裏切り方されて、みんなが怒らないわけないじゃん。

 嫌いになって当然でしょ?」


 何も言い返せずにいると、麗奈が言った。


「誰を嫌いになるかは自由でしょ?

 それにあたし達、若葉と話をしたくないだけで、相澤さんの時みたいに嫌がらせしてるわけじゃないし。

 そうでしょ?」


 今度は麗奈が一歩前に出てくる。


「卑怯なのは若葉の方だよ。

 先生に言いたければ言えば?

 あたし間違った事なんか言ってないから!」


 そう言って、麗奈はマンションの中へと入って行った。


 その翌日も、若葉は教室の中で一人で過ごしていた。


 麗奈達に無視されるのが怖いのか、自ら話しかけに行く事もなく………。


 だけど昨日話を聞いた通り、麗奈達は若葉に何か嫌がらせをする事はなかった。


 ただ口をきかないだけ。


 聞こえるように悪口を言ったりするも事なく、自分達のグループ内で楽しく話をしている。


 あたしは若葉に声をかけに向かった。


「若葉、トランプでもやらない?

 スピード勝負でもしようよ」


 若葉は暗い表情で首を横に振り、宿題で出された算数のプリントに取りかかっている。


「あのさ、若葉、もう………麗奈達の事は気にしなくていいんじゃん?」


「………」


「麗奈の顔色を窺ったりするの、本当は嫌だったんでしょ?

 逆らうのが怖いって言ってたけど、もう特に何かしてくるわけじゃないんだし」


「………」


「もし何かされたらさ、あたしが若葉の味方になってあげる。

 だから元気出してよ、ね ?」


 すると若葉はシャープペンを置いて、両手で顔を覆った。


「え、何?………どうしたの?

 若葉?」


 若葉は頭を抱え、小さな声で言った。


「お願いだから………もうあたしに近付いて来ないで………」


「え?」


 思わぬ言葉が返って来て、言葉を失ってしまった。


 沈黙になり、若葉はグスグスと鼻を啜って泣き始める。


「………ねえ、それってどういう意味?」


「………」


「もしかして………麗奈達に無視されてるの、あたしのせいだって思ってる?」


「………。

 そうじゃないけど………」


 一瞬間が空いた事に引っかかって、強めに「けど?」と聞き返すと、若葉は信じられない事を口にした。


「あたしは………麗ちゃんのグループにずっと居たかったから………」


「はあっ!?

 何それ………前に言ってた事と全然違うじゃん………」


「………」


 怒りが込み上げてきて、呼吸を整えながら言った。


「麗奈達から嫌われたのは、若葉があたしにも麗奈達にもいい顔するからじゃん。

 しかもいざとなったら、自分は被害者みたいな顔して………。

 あたし昨日、麗奈のところに抗議しに行ったんだよ?

 なんで若葉を無視するんだって」


「………」


「………バッカみたい。

 味方になろうとしたあたしがバカだった。

 若葉こそ………もう二度とあたしに近付いて来ないで!」


 そう言って、あたしは自分の席に戻った。


 その後、若葉があたしに近付いて来る事はなく、謝ってくる事をどっかで期待してたけど、それもなかった。


 麗奈達に無視されたまま、若葉は大人しそうな女子のグループに入れてもらい、ひっそりと過ごしている。


 一方あたしは、席替えで麗奈達グループの一人と近くになり、少しずつ打ち解けて話をするようになった。


 そのうち他の女子も近付いて来て、体育で野球をやった時、見事盗塁を決めて活躍する事が出来たあたしは、同じチームだった麗奈とも手を叩き合わせて喜び、自然と仲良くなっていった。






 ────そこまで話すと、志水先生は「なるほどね」と言って、キーボードを叩く手を休めた。


「その後、若葉ちゃんと仲直りはしなかったの?」


「んー………ちゃんとした仲直りはしてないけど………6年生に上がってからは、なんとなく話すようにはなった。

 しこりは残ってるんだけど、同じ団地に住んでたし、お互い遊び相手がいなくて、公園で一緒にテニスとかしたり………」


「へえ、その頃からテニスやってたんだ」


 志水先生はひょいっと眉山を上げる。


「テニスって言っても、その頃はほら、あれだよ。

 ボールにゴムがくっついてるやつ」


「ああ、練習用のやつか」


「そう。

 だけどそうやって遊んでわだかまりが解けても、結局裏切られるんだよね」


「と言うと?」


「中学に上がっても、女子ってなんかの拍子ですぐ仲間外れにされたりするわけ。

 そういう時、あたしが若葉を助ける事があっても、若葉は絶対あたしを助けたりしないの。

 すぐ自分の保身に走るっていうか、人の事平気で裏切って強い子の仲間になろうとするんだよね。

 だから若葉の事はハッキリ言って全然信用出来ない」


「そうか………」


 志水先生は再びキーボードを叩く。


「それでも環ちゃんは、若葉ちゃんを助けてあげたりしたんだね。

 それはどうして?」


「まあ………仲間外しとかいじめとか、そういうの嫌いだから………」


「正義感が強いんだ」


「別にそこまでいい奴じゃないよ。

 あたしだって若葉にムカついた時はシカトしてたし、仲間内で悪口言う事ぐらいはあったよ」


 先生は頬を緩めて苦笑する。


「高校生に上がってからの事は、何一つ覚えてない?」


「うん、覚えてない。

 若葉と同じ高校に行ったらしいんだけど、それも信じられない。

 若葉は勉強頑張ってたから」


 志水先生は頷きながら話題を変える。


「一つ質問してもいいかな。

 お父さんとお母さんとの仲はどうだったの?」


「え?

 あたしとって事?」


「そう。

 さっきの話だと、環ちゃんはお母さんの為に色々我慢してたって事だったけど」


「ああ、まあ………。

 ママは弁護士の仕事を頑張ってたから、家事の手伝いはよくやってた。

 でもパパもママと交代で家事をやってたから、三人で協力してたって感じかな」


「じゃあ、家族仲は良かったわけだね」


「まあ、フツーに」


「そっか。

 じゃあ、環ちゃんが本当に我慢してたのはなんだったのかな」


「え?」


 目をしばたたいて志水先生を見た。


「お父さんもお母さんも仕事が忙しかったんなら、その分家にいる時間が短かったんじゃない?」


「まあ………」


「環ちゃんが我慢してたのは、お父さんとお母さんがいない間の寂しい気持ちなんじゃないかな?」


「え?」


「もっと言うと、そういう寂しい気持ちを口に出す事を我慢してたんじゃないかな」


 ズバリ言い当てられて返答に困ってしまった。


「環ちゃんはお父さんとお母さんにとって、比較的聞き分けのいい子だったんじゃないかと思うんだけど、その辺について、環ちゃん自身はどう思う?」


「どう思うって………」


 そんな事、考えた事もなかった。


 だけど心の中では、常に自分が我慢しているという意識があった………。


「………うちのママは、昔からパパ方のお婆ちゃんと仲が悪くて」


「うん」


「いっつも険悪な感じだったの。

 仕事ばっかりやって、あたしが可哀想だってお婆ちゃんが言うから………」


「うん」


「だから………あたしの事でママを責めないで欲しかったから、平気なフリをするしかなかったっていうか………」


 志水先生は目を細め、優しい顔で微笑んだ。


「よく我慢してきたね。

 偉いな、環ちゃんは」


 そうやって言われると気持ちが緩んで、少しだけ目頭が熱くなった。


 そんな事、他人から言われたのは初めてだ………。


「寂しくしてる時は、どうやって気を紛らしてたの?」


「ゲームで遊んだり漫画を読んだり………。

 割と大きくなってからは、ほとんどネットで遊んでた」


「さっき話してたブログとか?」


「そう。

 ブログを書いたり友達とチャットで話したり」


「それは実際の友達と?」


「うーん、最初はそうだったけど、だんだんネットで知り合った友達と話す事が多くなったかも」


「ネットで知り合った友達と?」


 あたしは鼻を啜って頷いた。


「実際の友達より、ネットの友達の方がなんでも話せるから。

 それに実際の友達はあんまり信用出来ないっていうか」


「それは、若葉ちゃんの事?」


「若葉もそうだけど、他の子もあんまり信用出来なかった。

 仲がいいフリして、みんな陰で悪口言ったり、ネットに書き込んだりするから」


「ネットに?」


「そう。

 学校の裏サイトってのがあって、そこに悪口書かれてるのを見付けた事があるんだ」


「なんて書かれてたの?」


「………まあ、"消えろ" とか "ウザい" とか?」


「えー、そんな事書かれるのかあ」


 志水先生はしかめっ面になる。


「でも別にそういうのって、特別な子だけが書かれるわけじゃないんだよね。

 小5の時以来いじめって程の事はされてないし。

 だけどちょっと気に入らない事があるとすぐシカトしたり、そうやってネットに悪口書かれるもんなんだよ。

 みんな表向きは思ってる事言わないからさ」


「うーん………」


「だからあたしには、現実よりネットの中の方がリアルっていうか。

 ネットには本音が出るじゃん?

 ネットだったら、わざわざ嫌いな子と話したりしないし」


「………。

 じゃあ、今日来てた女の子とも、そんなに仲がいいってわけじゃなかったの?」


「苺美?

 まあ………苺美とは同じテニス部だったし、フツーに仲良かったけど。

 でも苺美も一時期、他の子と一緒にあたしの事無視してた事あったし、口が軽かったりするんだよね」


「じゃあ、苺美ちゃんともちゃんと仲直りしたわけじゃないって事?」


「うん。

 苺美もなんとなーくなあなあな感じで、お互いその時の事には触れないみたいな。

 結構みんなそんな感じだよ?」


「それじゃあ、環ちゃんには親友って呼べるような友達はいないって事?」


「まあ………そうかな………。

 若葉と最初に会った頃は、笑いのツボも合うし気が合うし………なんだかんだ言って近付いて来てくれたのも嬉しかったし?

 なんでも話せそうだなーって思ってた時期もあったけど………。

 何度も何度も裏切られて来たから、友達を信用するとかそういうの、あんまり考えなくなった」


「………そっか」


 志水先生は再び手を動かして、キーボードを叩いていた。






 その翌日。


 ママが携帯を新しいものに交換して持ってきてくれたんだけど………。


「え、何これ」


 それは薄くて平べったくて、見た事のない携帯電話だった。


「スマートフォンよ。

 最近ではそれを使ってたから」


「スマートフォン?

 でもこれ、テンキーとか付いてないけど、どうやって操作すんの?」


 電源を入れ、ママから操作の方法を教わっていると、看護師の宗方さんが病室に入って来た。


「失礼します。

 検温させてもらっていいですか?」


 宗方さんはそう言って、あたしの手元に目を止める。


「………。

 携帯電話の使用はダメだと注意したはずですが」


「あっ、どうもすいません」


 ママは焦って頭を下げ、あたしは口を尖らせた。


「使ってないよ。

 ちょっと電源入れて触ってただけじゃん」


「こらっ、環」


 ママに軽く睨まれ、フンと鼻を鳴らし、宗方さんから体温計を引ったくって脇の間に挟む。


 検温が済んで宗方さんが出て行くと、あたしはママに言った。


「超感じ悪くない? あの人。

 いっつも真面目で堅そうな顔してて、ニコリともしないの」


「だからって横着な態度取ったりしないの」


「だってさー………なんかムカつくんだもんあの人」


「とにかく、携帯は外に出て触るようにしなさい。

 それじゃあ、そろそろ行くわね」


「うん。

 あ、そうだ、ママ」


「ん?」


「パパはどうしてるの?」


「え………」


「一度も顔を見に来てくれないから」


「ああ………」


「まあ、忙しいんなら別にいいんだけどさ」


 ママは少し肩を落として言った。


「パパは………北海道に転勤になったから………」


「えっ、そうなの?」


「ええ、向こうで単身赴任してる。

 だからそうそう帰って来れないのよ」


「そうなんだ………。

 せっかく念願のマイホーム建てたのにね」


「………。

 じゃあ、仕事行くわね」


「あ、うん………」


 ママは静かに病室を出て行く。


 ………やっぱり、ママは昨日からテンションが低い。


 と言うより、なんだか元気がなかった。


 いつもの明るさと覇気が全く感じられない………。


 一つ息を吐いて、携帯の電話帳を開いて見た。


 もうわかってるけど、友達の電話番号は一つも入ってないし、メールの受信履歴も何も残ってない。


 空っぽになった携帯を見て、まるで友達との繋がりを全て失ってしまったような気がして、孤独な気持ちになった………。






 それから数日後。


 志水先生から退院の許可が降りた。


「とりあえず今のところ落ち着いてるようですし、退院して大丈夫ですよ。

 腕の骨折は整形外科に通うようにして下さい。

 あとそれから、しばらくは様子を見たいので、整形外科に来たついでで構いませんから、こちらにも顔を出すようにしてもらえますか」


 ママは不安気な表情で「はい」と頷き、あたしはベッドから身体を起こして尋ねた。


「精神科にも通わなきゃならないって事?」


「そういう事。

 気が進まない?」


「だって精神科ってなんか怖いんだもん………」


 ちなみに、あたしが今入院しているのは外科病棟だった。


「心配しなくても大丈夫だよ、別に全然普通だから。

 それに去年はうちに通ってたんだよ?」


「だから、それは覚えてないんだってば」


 志水先生はにこやかに微笑みながらママを見る。


「それじゃあ、明日迎えに来ていただけますか」


「はい、わかりました………」


 志水先生が病室を出て行くと、浮かない表情でため息を吐くママに声をかけた。


「ママ、どうしたの?」


「え?

 ううん、なんでもない………」


「なんでもなくないじゃん。

 こないだからずっと元気ないし」


「それは………今後の事が心配なだけよ」


「今後の事って?」


「だから………記憶が戻らないまま元の生活に戻って大丈夫なのかなとか………」


「ああ………」


 そういう事かと思い、ふと、この前志水先生から聞いた事を思い出した。


 あたしが自殺を図ろうとした事、当然ママも聞かされてるはずだよね………。


「………。

 別に大丈夫じゃん?

 記憶が戻ってなくてもあたし落ち着いてるし、それにこんなに元気だし」


 明るく振る舞って見せても、ママの表情は晴れない。


「もう少し………志水先生に話を聞いてくるわね、今後の事について………。

 環はここで待ってて」


「あ、うん………」


 ママは病室を出て志水先生のところへ向かう。


(あたし………どうして自殺なんかしようとしたのかな………)


 そんな自分が全く想像つかない。


 しばらく考えているとトイレに行きたくなって、病室を出てそちらへ向かう。


 そしてトイレを済ませた後、スタッフステーションの近くで、志水先生とママが話しているのが見えた。


 ママはこちらに背を向けていて、志水先生はママを見て深刻そうな顔をしている。


 何を話しているのか気になって、二人に気付かれないように近付き、廊下の角のところに身を隠して話を聞いた。


 ママは手で口元を押さえながら泣いていて、ズキンと胸が痛んだ。


(え………なんで泣いてるの………?)


「………相澤さん、しっかりして下さい。

 何度も言いますが、環ちゃんの記憶を戻らないようにする事なんて出来ないんです」


(───……。

 何それ………何を話してるの?)


 胸騒ぎを感じながら、二人の話を聞く。


「じゃあ………あたしはいつ環の記憶が戻るのか、怯えながら生きていかなきゃならないんですか?」


「………」


「どうして二度も苦しまなきゃならないんですか。

 環の記憶が戻ったらまた最初からやり直しなんですよ!?

 今までどんな思いで過ごして来たのか………」


 ママはその場に泣き崩れ、志水先生はしゃがんでママに声をかけた。


「相澤さん、苦しい気持ちはお察しします。

 だけどそれでも、現実から逃げるわけにはいかないんですよ」


(………)


「環ちゃんは子供の頃からずっとあなたの味方をしてきてくれたんですよね?

 その事はあなた自身が一番よくわかってるはずです」


(………)


「今度はお母さんが環ちゃんの味方になってあげないと………。

 環ちゃんの事は今後も診ていくつもりでいます。

 一緒に環ちゃんを支えていきましょう」


 ママは周りの人目も憚らず、その場で声を上げて泣き始める。


 見ていられなくなって、あたしは病室に引き返した。


 そしてその日、ママが病室に戻ってくる事はなかった………。






 翌日。


 ママは改めてあたしを迎えに来る。


「昨日はあのまま帰ってごめんね。

 裁判所に行かなきゃならない用事を思い出して」


 ママは平然を装いながらそう言ったけど、それが嘘だという事はわかっていた。


 だけど昨日の事を切り出す勇気がなくて「ううん、いいよ」と返す。


 あたしの記憶が戻る事を嫌がってるママを見て、自分が自殺を図ろうとした理由を知るのが怖かった………。


 タクシーで家に帰ると、なんだかとても懐かしい気持ちになった。


 あたしが中2の時、パパとママが建てた念願のマイホーム。


 家の中に入ると、鼻に馴染んだ匂いがした。


 けれどリビングの中に入ると、室内の変化にすぐ気付いた。


「あれっ………ねえママ、あのカーテン変えちゃったの?」


 無地で濃いブラウンのカーテンを見て、あたしは言った。


 以前はママの趣味で、モダンクラシックな花柄のカーテンがかかっていた。


「ああ、まあね………」


「すごく気に入ってたみたいだったのに………。

 あ、ラグも変わってる」


 ソファーの前にあるローテーブルの下に敷いてあったラグも、ママの趣味で敷いてあったものだ。


「………飽きちゃったのよ」


 冷めた口調で言って、ママはダイニングテーブルの上に鍵を置き、冷蔵庫を開けに向かう。


 その近くにあるゴミ箱には、コンビニ弁当の箱が溢れ返っている。


 あたしの視線に気付いて、ママは悪びれたように言った。


「ああ、ごめんね。

 パパがいないと………どうしてもさぼっちゃって」


 リビングの床には髪の毛や綿埃も転がっていて、しばらく掃除をしていない様子がうかがえる。


「………テレビの横にあったモンステラもないね」


 それはパパが可愛いがっていた観葉植物だった。


「あれは………《りんご》がいたずらするから退けたのよ」


 言われて思い出した。


「そういえば、りんごは?」


《りんご》というのは、この家を建てた時、約束通り飼い始めたコーギーの事だ。


「ああ………りんごは、途中で面倒を見られなくなって、パパのおばあちゃんに引き取ってもらったのよ」


「えっ!」


「それも覚えてない?」


「そんな………嘘だよ………。

 あたしちゃんとりんごの面倒見てたじゃん。

 毎日散歩だってしてたし」


 ママは眉間に皺を寄せて目をつぶる。


「そうだけど、あんたが体調を崩してからは面倒見れなくなったのよ」


「だったら、なんでパパとママが代わりに面倒見てくれなかったの?

 ママ達だってりんごが好きだったじゃん」


 ママはダイニングテーブルの席に座り、ミネラルウォーターのペットボトルにそのまま口をつける。


「言ったでしょ?

 パパは北海道に転勤になっちゃったし、ママだって仕事が忙しかったし」


「だからって………嫌だよりんごがいないなんて………」


 りんごは一人っ子のあたしにとって、大事な弟のような存在だった。


「ねえ、おばあちゃんから返してもらってよ。

 もう元気になったし、これからもちゃんと面倒見るから」


「無理よ………おばあちゃんだってもうりんごの事は気に入ってるし………」


「りんごはあたしの犬だよ!

 大事な大事な兄弟なんだよ!」


 ママはぐしゃぐしゃと髪の毛をかき上げ、突然テーブルをバンッと叩いて大声を上げた。


「全部あんたのせいでしょ!!」


 ビクッとして、あたしは口を閉ざした。


「カーテンも絨毯も観葉植物も………全部あんたがぐちゃぐちゃにしたんじゃない!」


「………あたしが?」


「りんごだって、あんたが勝手にこの家を出て行ったからおばあちゃんに預けたんじゃないの!

 それなのに………勝手な事ばっかり言わないでよ!!」


 ママは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らして泣き出す。


「ママ………。

 ねえ………あたしいったい何したの?

 勝手に家を出たって、何?」


「全部あんたのせいじゃない………パパが転勤になったのも、ママが事務所を辞める事になったのも………」


「え………」


「今まで頑張って積み重ねてきたものを、あんたが全部壊したのよ!

 自分で思い出しなさいよ!!」


 ヒステリックな声を上げて、ママは泣きながらあたしを見て怒鳴り付けて来る。


 わけがわからなくなり、何も返せずにいると、ママはハッと我に返ったような顔になり、テーブルの上に突っ伏した。


「ごめんなさい………ごめんなさい環………。

 だけどママ………もう耐えられない………」


 いったいどうしてママが謝るのか、そして泣いているのかがわからず、この場にいるのが耐えられなくなり、家を飛び出した。


 空白になってしまった四年間に何があったのか、この時はまだ何も思い出す事が出来なかった………。











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