ある雨の夜に

@tatsunoyosei

ある雨の夜に

僕が知っている隣人さんの情報は朝八時と夜の八時にベランダに出てきてたばこを吸うということだけだった。毎朝起きて寝ぼけている時間と、食後にベッドでダラダラしている時間に枕元付近の通風孔から香ばしい空気が流れ込んでくるのだ。その香りだけを頼りに、僕の頭の中での隣人さんは黒髪ロングのサバサバ系お姉さんという設定になっていた。

 ある日曜の午後、予定を済ませて帰宅しベッドでスマホを眺めていたら、いつのまにか眠ってしまっていたようで窓を打つ雨音で目を覚ました。「うわ、やったわ」と悪態をつきながらゆっくりと起き上がる。ベランダには明日使うバイトの制服が干してあった。一人暮らしの大学生の部屋の洗濯機に乾燥機能なんてご立派なものはついていない。この時間からでは部屋干しでは怪しいだろうと思いコインランドリーに行くことにした。

 乾燥機に洗濯物を入れ、端の方の棚に積んであった週刊少年ジャンプをパラパラとめくった。知っている漫画はワンピースだけになっていた。ストーリーのつながりのわからない漫画を流し読みしながら時間をつぶす。誰もいないコインランドリーはとても静かで窓を打つ雨のリズムと乾燥機の周期的なうなり声だけしか存在しなかった。

 雨音を聞きながら落ち着いた時間を過ごしていると一人の男性客がコインランドリーへと入ってきた。その男性客は上下グレーのスウェットで無精ひげを生やしたいかにもさえない男性といったいで立ちだった。

「すみません、そこのカートをとってもらってもいいですか」

男性は僕の後ろにある網状のカートを指さして言った。

「すみません、これですか」といいながら男性の方へとカートを差し出した。

「ありがとうございます」

男性はそういいながらカートを受け取り、その上に洗濯物を広げ始めた。

 その後十分ほどして乾燥機は停止し、アラームを鳴らした。

 乾いた洗濯物をカバンに詰め、男性に軽く会釈して横を通るとどこか鍵なれた香りがした。一瞬なんの香りか判別がつかなかったが何度か嗅ぐうちに日常のベッドの上での記憶が立ち上がり、たばこの香りであることに気づいた。その瞬間、隣人さんのイメージが黒髪ロングの女性から少し小太りの無精ひげを生やしたさえないおっさんへと急速に塗り替えられていった。

 帰り道にコンビニによってビールを買った。いつもなら発泡酒か第三のビールにするところだが、今日はビールぐらい買わないとやっていられない気がした。

 家に帰るとベッドに座り込みビールを開けた。

「あんな真実知りたくなかったわ」

 そう呟きながら、ゆっくりと缶を口へと運んだ。その時嗅ぎなれた香ばしいにおいが通風孔から侵入してきた。いつもは隣人の存在を感じさせてくれた香りの時報も今はうっとうしさしか感じない。

「くそが」と言葉を吐き残っていたビールをあおり、布団をかぶった。ビールの苦みだけが口の中に残っていた。

 次の日、目を覚ますと、またもや忌々しいたばこの香りがした。今日からまた、いつも通り一週間が始まっていくのだろう。黒髪ロングの隣人さんはもういない。

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