青年は年老いていく

Tukisayuru

青年は年老いていく

 その日の私はホテルの鏡の前で自分の顔を覗くようにマジマジと見ていた。いつもの顔だ、見慣れた顔だ。しかしそれ以外に何かどこか、この顔には何か意味的なものがあるんじゃないかと思ってしまった。

 自分の顔なんて、物心が付いた頃から今日まで飽きるほど見て来た。朝起きて、重い体を起こし、洗面台へ向かう。その洗面台にある上半身がまるまると見える鏡で自分の顔は写し出される。一回、顔を見て、水で洗い、そうして、もう一回、自分の顔を確認する。おかしく変なものはない。しかし私は鏡に写っている自分と目と目を合わせ、「あぁ、今日も自分がいるんだな」と頭の中で無意識のうちに認識をする。たまに、体を左右に動かせたり、位置を変えたり、顔に手を当てて確認したりなど、そのような小さな遊戯的なもので時間を潰していたりする。つい不思議とその小さな遊戯で自分が満足感を得てしまっていることに気が付き、恥をかいてしまったことさえある。

 しかしその日はそんな遊戯さえも試みようとする頭がなかった。自分の顔に手を当てて頬を引っ張ったりして、変化を付与しても自分はあの満足感を得ることはなかった。その日は少し遠出のホテルに泊まっており、別にそのホテルが気に入らなかったという訳ではないのだが、どこか自分の中ではどこか居た堪れないものがあった。決してその日が充実してなかったという訳ではない。泊まったホテルの部屋には、如何にも文豪たちが好きそうな黄色系の光を照らすランタンや、壁掛けの電池式アナログ時計、一人用のベット、エアコン、テレビなどが用意されていた。周りも静かで一泊するには申し分のない良い部屋だ——。

 しかし鏡に写し出された私は、どこか息苦しそうな顔をしていた。よくある切り抜かれたような自画像で出て来るような真顔であったが、その表情は何かに蝕まれていたような苦しみがあった。

 寂しさというか退屈さというような辛さではなかった。だが、どこか痛々しさのある不満げな顔が写し出されていた。

 この男は何を伝えようとしているのだろう——。

 一体私に何を訴えかけているのだろう——。

 私はその男をジッと見て、見続けて、一分、二分と経った。以前、私は椅子に座り続けて、鏡と対面する。やがて、鏡写る人が自分に見えるが、どこか全くの別人なのではないのかと錯覚を起こし始めた。どこか、この人は私とは違った、所謂他人という立ち位置でこの人は自分と違った、人生や環境というものがあり、それぞれ想うようなことがあって、やがてこのホテルに至ったんだなと妄想を始めた。

 顔には自信がない方だが、どうやら童顔の部類に入るらしい。

 その顔はどこか子供っぽさが昔から滲み出ており、格好の良さよりも可愛さに割り振っている顔で女々しさのある人間でした。

 小学、中学では年齢関係なく、多くの人から「可愛いね」などと言われその度に、複雑な心情に駆られていたことを今でも覚えている。しかしだからと言って多くの人から好かれていたかと言えば、全くそんなことはない人であった。もう気軽に会話の出来る人は片手で数人程度でその数人の中に対してもどこか過剰なまでの気遣い、所謂精神的な配慮のようなものを起こしてしまうことが多くある。気遣い。人の気を遣うことは世間の中ではむしろ良い印象を受けることだが、私にはどこか苦々しさが付与されているような心地でした。

 私は人に合った時は決まって、その人によそよそしさを感じされないような範囲で所謂私也の気遣いを行い続けて来たが、上手くいったことは遂になかった。

 少し自分の過去について話したいと思う。

 小さい頃、身長もまだ低い頃で、遊びが大好きだった頃の自分は、何よりも輝いていたと思う。

 世間や社会という存在すら認知していなかったあの頃は、自分だけの世界のように好き勝手やっていて、常に笑顔を絶やさない無邪気で元気の有り余る小児でした。手に取れるものは全部、光が帯びているように見えており、何かを見つけては「これ、なに!?」と大声で人に言い、答えを聞いて、本当はわかってなくても「わかった!」などと大声で答えていました。見知らぬ初見の人にもお構いなしに、自分が話がさぞ好みだったのでしょう。相手のことも気も知らず、得意げになって、なんでもかんでも、ただ我武者羅に自分のことを語っていました。昼は遊びほろけ、夜は勝手に眠る。あの頃の自分は自分に対して自信というものを沢山持っていた。何に対しても興味を持ち、何に対しても活動的な人、動物的な生き物でした。

 一年、また一年と過ぎていく、その中で私は心と体が少しずつ成長していき、いつしか大人になっていました。

 大人——。

 子どもの頃から何回も聞いたことのある単語——。

 今まで自分の成長というのはテレビゲームのような自身のステータスがただ向上するものばかり、思っていました。

 しかし私はあの頃の自分と比較したらまるで成長したとは思いません。寧ろ、もう公園や地下の駅にいるような、小汚いものに落ちぶれたような感じに自分はなったんだと思えさえします。

 成長ではなく、老い。

 パズルのピースのように当てはまるようなそんな気がしてならないのです。

 大人になり、自分は実家から少し遠い地方で大学に通っています。その大学では勉学を除いた、遊びでの仲良くさせて頂いている友人とも呼べるべき人がおります。その人たちと、どっか出掛けたりしているのですが、あの頃の自分とは違って、もう一人にさせて欲しいと懇願してしまうような自分がいるのです。

 決して誤解を生まないようにするのだが、自分は彼らのことは嫌っていません。寧ろ、友人として尊敬している部分さえあります。

 ですが、一緒に時間を過ごしていると、一目散に自分の部屋に逃げ帰りたいと思ってしまう時があります。いつも会って愛想笑いばかりしてしまうのです。たまに自分の友人と一緒に遊んでいる様子を写真で見る機会がありますが、その時にいつも自分の顔は心の底から笑っているようなものではないように感じる不愛想な表情ばかりだと思ってしまいます。

 あの頃の自分だったら、あの頃の自分だったら、と頭に過ってしまい嘆いてしまうことがあります。鬱々としてただ外と傍観し、人と関わることを恐れながら今を生きています。

 子どもの頃は大人になったら文字通り、何でも出来る肩書きを得られると思っていました。何不自由のない生活を基盤として、小さい頃から出来た友人といつまでも変わらずの関係で餓鬼のように遊び、酒を酌み交わし、大金を大いに使って子どもでは想像の付かない遊戯に浸れるかもしれないという妄想を抱いていました。

 実際は人と関わることを恐れて、孤独と自身の老いに怯えながら、無気力に生きています。

 鏡よ、鏡——。

 目の前にいる、その男は紛れもない、現在の自分である。

 鏡に写し出されているその表情は現在の私という姿を哀れんでいるものだと思います。

 体力が落ちました。顔に皺が出来始めました。目の下に隈が出来ています。

 私は今月で21歳になります。あの頃と違って本と文学が好きになりました。

 今は細々と小説を書いております。

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