神の名において許したもう
犀川 よう
神の名において許したもうI
人の死に慣れてしまうと、死そのものよりも、それに付随しているものに先に意識を向けてしまう。今日の現場でいえば、古アパートの一室で、刺殺した自分の母親を眺めながら三角座りをしている、十歳前後の少女がそれになる。少女は瞳を揺らしならがら、ぶつぶつと何かを呟いている。わたしは外套を脱がぬまま土足で部屋に上がりこみ、少女のそばに寄って、何を言っているのかを聞いてみる。少女はささやかな祈りの詩を歌っていた。かつて自分の母親だった肉塊が、自分にした仕打ちの数々を、彼女独自の音程にのせて歌っているのだ。わたしは少女の両腕の紫と赤い痣を見てから、少女の前に屈んで問うた。「お母さん、まだ憎いかな?」と。少女は一瞬だけわたしを見ると、また躯に向かって歌い続けた。やかんの熱湯をかけられたこと。深夜に男が来ていたずらをされたこと。何日も食べ物がない環境で、店からパンを盗んで食べたこと。母親が酔って酒瓶で殴りつけてきたこと。憎しみも哀しみもない声と、愛されたいという気持ちを感じさせない音程で、少女はただ、歌っていた。
わたしは少女の座っている先にある、凶器と思われる包丁を見た。ステンレス製の家庭用包丁には、骨にあたって欠けたと思われる刃こぼれがあった。懐中電灯を少女に向けると、彼女の手にはたっぷりと血がついていて、飛び散った返り血が少女の顔面の一部を汚していた。わたしはどこを見ているのかわからない目をした少女の手を掴み、立ち上がらせる。少女は抗うこともなく、従った。
「もう、これを刺さなくていいの?」
わたしにそう問われると、少女は瞳に光を取り戻した。そして、もう一度包丁を握り締め、かつて母親だった左胸に躊躇することなく、何度も何度も刺した。わたしは、少女がようやく感情を見せたことを確認すると、少女の手から包丁を取り上げて、許しを与えることにした。
「もういいよ。これまでよく、頑張ったきたね。だから、もう、いいんだよ」
わたしは少女の目に自分の手をあてて、詠唱する。――願わくば、彼女には闇の未来ではなくて、温かい光を。そう祈りながら、祝福を贈ると、少女はほんの少しだけ笑顔になってから、意識を失った。
(続)
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