おまけ

私だけが知っていること

「ただいま〜……」

「おかえりなさい。せりか」

「んー……」


 せりかが帰ってきた。私は読んでいた夏の星座の本を閉じる。

 せりかはふらふら歩きながら、ウォークインクローゼットの部屋に消えていった。


 せりかと私の家で同棲を始めてから、一年が経った。あの公園でお話しした後、せりかと私の希望ですぐに同棲することが決まって、春休みに引っ越しを終わらせ、それからずっと一緒に住んでいる。


 2LDKは二人で住むのに特に不自由しないし、せりかとは前から金銭感覚以外は価値観の合わないところもなくて、本当に幸せな同棲生活を送っていた。……同じマンションだから、みおとすれ違うたびに「式いつ挙げんの?」ってからかわれることに、せりかは不満そうにしていたけれど。


 そんなせりかは、最近大学のゼミが忙しいらしくて夜遅くに帰ってくるようになった。それも誰が見ても分かるほどかなりくたくたになって。


「せりかー」

「んー……」

「ごはん食べた?」

「……ん」

「疲れてる?」

「……ん」

「プリンあるよ、食べる?」

「……ん」


 せりかはふにゃっと椅子に座って、突っ伏した。

 せりかは適当に返事をしているわけでは決してなくて、疲労でそれしか言えなくなっているだけだ。

 せりかは極度に疲れていると、「ただいま」と「いただきます」と「ごちそうさまでした」以外はこんな風に日本語を話せなくなって、「ん」しか語彙がなくなる。

 せりかがこうなったら私は、「ん」のイントネーションや言い方、首を振る動作でなんとかせりかの気持ちを汲み取る必要があった。


「せりかおいで?」

「……ん」


 私は自分のいるソファからせりかを呼ぶ。


 今の「ん」は、たぶん同意の「ん」だ。


 私の読み通り、せりかは立ち上がって、私の隣に座った。――と思ったら、そのまま私の方に倒れてきて、膝枕してきた。せりかの頭の重みがふとももに加わる。


 せりか語はとてつもなく可愛いけれど、疲れているのも分かるのだけれど、この重たい頭で頑張って日本語を話してほしいとも、ちょっとだけ思う。


「せりか、今日もお疲れさまだったね?」

「……ん」

「よしよし」


 せりかのつやつやの黒い髪を撫でる。さらさらすくように撫でていると、せりかの髪から金木犀のにおいがした。


 私と同じにおいが、せりかからする。


 一年も経っているのに、いまだにそれが慣れなくて、不思議な感じがする。


「せりか、今一緒にプリン食べる?」

「ん、」


 今の「ん」は、たぶん反対の「ん」だ。


「私に動いてほしくない?」

「……ん」

「そっか。せりかは今日も甘えん坊さんだね」

「ん、」

「ん、? 素直じゃないなぁ、せりかは」


 私にべったりくっついていて、膝枕されていて、その上なでなでされていて、それをやめてほしくないのに甘えん坊さんではないと主張するのは、言葉と行動が一致していないと思う。そういうところも可愛くて、私は顔が緩んだ。


 こんなせりかは、私だけが知っているせりかだ。


 疲れていたら「ん」しか言えなくなってしまうところも、あまあまになるところも。


 それだけじゃない。せりかは勉強中考えごとをしているときは白いシャーペンをずっといじる癖があるし、私と同じものを食べるときは私と同じ順番で食べる癖がある。


 そして――


 私はせりかの頬に手を滑らせて、せりかに近づく。せりかはこれから私のすることが分かったみたいで瞳を閉じた。これも私だけが知っている、せりかの癖だ。


「――せりか、好きだよ」

「ん……私も、つむぎのこと好き」


 キスをするとき、せりかは必ず瞳を閉じる。


 せりかはへにゃりと笑って、頬を赤く染めた。私もきっとせりかと同じくらい赤くなっていると思う。

 そして、せりかの笑顔はやっぱりすごく可愛い。


「あっ」


 そういえば、せりかはせりか語モードのときでも、好きという二文字は絶対に返してくれる。これもそうだ。


 私だけが知っていることで、私だけが知ることのできることだ。


「ん? どうしたの? つむぎ」

「なんでもないよ。ふふ。プリン食べよー?」

「……? うん、食べる」


 これからも私だけが知っているせりかが、たくさん増えていくといいな。

 そう思いながらプリンの待つ冷蔵庫へ向かった。

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