第46話

 あの日はそこまで寒くなかったことは覚えている。雪が降っていなくて、つまり厚い雲に覆われていて、放射冷却現象が起きていなかったからだ。


「せりか。放課後空いてる? 天体観測しようよ」

「いいけどさ、今日も雪降るって」

「えー、そっか。じゃあ仕方ないから諦める。……でも、一緒には帰りたい」

「っ、うん」

「約束ね?」


 つむぎと私は、小指を絡めあった。

 今思い出すと、そのときのつむぎの表情は、どこかさみしげだったような、そんな気がする。



 その後、放課後は予報通り雪が降った。そこまで多くは降らなかったけれど、それはあくまで北海道の基準で、私たちが今住んでいる場所で同じ量降ったら、大ニュースになると思う。


「北海道は嫌だなあ。いっぱい雪が降って」

「うん。雪かき手伝わされるし。あ、でもつむぎの家は除雪機あるよね」

「それでも嫌だよ〜」

「……つむぎは冬の星座が見えないから、とか言うんでしょ」

「あはは、ばれてたー。ほんとに……冬は星が見える日が少なくて嫌になるよ。今日もそう」


 つむぎのうつむいた横顔はやっぱりどこかさみしげで、その場面もよく覚えている。私は何も知らないで「そんなに今日見たかったの?」とつむぎに言った。


「うん。今日じゃなきゃだめだったの」

「……そっか」

「でもいいや。せりかと一緒にこうやって帰れるし、それに」

「それに?」

「あっ、ううん。何でもない。


 つむぎはふるふると首を振った。


「ねえせりか。私ね――」


 つむぎは雪のかたまりをつま先で蹴飛ばした。


「なに? つむぎ」


 つむぎは私の問いかけに唇を結んだ。


「……つむぎ?」

「…………あーっ!」


 そこから少しの沈黙の後、つむぎは飽きるほど真っ白な雪を見て、瞳を輝かせた。


「せりか!」

「わっ。突然どうしたの」


 つむぎが距離をぐっと縮める。


「しにいこ! 天体観測!」

「え、ええっ? でも雪が」

「いいからいいから、いつもの天文台いこっ!」

「えっちょ、ちょっとつむぎ」


 私はつむぎに手を引っ張られて、近くにあった天文台へと連れられた。



「ねえ、せりか」


 ふわふわの雪が空からゆっくり降りてくる中で、つむぎは私の名前を呼ぶ。

 私たちがよく行っていた天文台は小高い丘のようなところところで、周りには特に目立ったものはなかった。

 ぐるっと見回しても一面真っ白で、似たような景色が延々と広がっていた。


「ほら、星がいっぱい見えるよ」


 つむぎは頬にえくぼを作りながら両手をいっぱいいっぱいに広げた。ナトリウムランプに当たる彼女の髪が鈍い金色に輝いていた。


 私はつむぎから視線を外して空を見上げた。夜空は厚い雲に覆われていて星一つ浮かんでいない。それもそのはずだった。


 雪が、降っているのだから。


「きれいだね」


 つむぎは天体観測をしに来たのに、星一つない雪の夜空に言った。


「つむぎ、星なんてどこにも見えないよ」

「よく見て? 上じゃなくて、下」

「下……? 下に星なんてあるの?」

「うん。いっぱい」


 私は天文台を背にして、つむぎに言われた通りに白いじゅうたん一面を見る。


「雪しかないよ〜、つむぎ」

「ぐーって見渡してみて! ぐーって」

「ぐーっ? ぐーっ」


 私は見る角度を変えたり、背伸びしたり屈んだりして、もう一度眼前に広がる景色を見た。


「……あっ!」


 雪原はぽつぽつと等間隔に並んだ街灯に照らされて、ぴかぴか光っている。見る角度によって光の反射する角度が違うから、見渡すと、また見えかたが変わる。


 まるで、夜空にまたたく星みたいだ。


「つむぎ、もしかして、これが星空?」

「うん。すごいでしょ! さっき、せりかと歩きながら雪の塊を蹴ってたときにね、雪道が街灯に当たってぴかぴか光って見えたの!」


 つむぎは嬉しそうに両手をぱたぱたと振りながら、「白い星空だよ」だなんて、笑いながら言った。


「すごく素敵だね。雪が太陽光を乱反射して眩しいのと同じ原理だけど、太陽よりも眩しくないからきらきら光って見えるんだ」

「でしょ? 大きい雪の粒と小さい雪の粒がばらばらにあるから、ほんとうに本物の星みたいじゃない?」

「うん」


 私は後ろで手を組んだ。どっちの手も、少しかじかんでいる。


 本物の星空とは違って、この星空は白くて、見下ろして見るものだ。


「でも素敵って言ったのは、この白い星空にじゃないよ」


 私は不思議そうな顔をしているつむぎを見た。


「ここで見飽きた景色を、ありふれた雪景色を星空みたいって言っちゃうつむぎに、素敵って言った」

「っ!」

「つむぎはすごいよ。つむぎはいつも、ありふれた日常でも、私にとって特別なものにしてしまう」

「せりか……」

「ねえ、つむぎ」


 私は制服のスカートの端を掴んだ。


 私は――。


「せりか」


 私がつむぎに抱く特別な、二文字の気持ちを言おうとしたところで、つむぎは私の肩に両手を乗せた。


「せりかに聞いてほしいことがあるの」

「聞いて、ほしいこと?」

「うん」


 つむぎはくるりと私に背を向けて、息を吐いてから、また私の方を向いた。


「私ね、記憶がなくなってるの」

「え……?」


 私は反射的に一歩後ずさった。白い星空がざくっと音を立てて、沈んだ。


「最近、物忘れが激しくなっていて。それで、だんだん過去の記憶がなくなってることに気づいたの」

「え、」

「このままだと私」


 せりかのこと、忘れてしまうかもしれない。


「え……?」


 あまりの衝撃に、「え」しか発することができなかった。

 記憶を失いつつあるという言葉の意味は分かるけれど、その事実の意味が分からなかった。


「待ってよ、どうして」

「そんなっ、そんな」


 頭がズキズキして、痛かった。

 私は理解からは程遠く、つむぎの言っていることがよく分からなくなった。

 受け入れることが、できなかった。


「私はきっとこの白い星空が溶ける頃に、春になる頃には、せりかのことを忘れてしまうかもしれないんだって」

「い、いやだ……そんなのいやだっ。いやだ! ねえ、どうしたらいいの? それはどうしたら治るの?」


 私の声が、静かな夜に嫌なほど反響する。

 私はつむぎがしたみたいに肩に両手をおいて、つむぎを強く揺さぶった。つむぎは何も言わないまま、ゆっくりと首だけを横に振った。


「原因が分からないから、止められないんだって」

「う、嘘……嘘だよね? つむぎ」

「嘘じゃないよ」

「じゃ、じゃあ本当に、全部」


 記憶がなくなるの?


 私は涙が溢れた。つむぎと白い星空が曖昧に滲む。


「ごめん、この現実を……受け止めきれそうにない」


 つむぎの頬にも、涙が伝った。


「せりかも嫌だよね。辛いよね。わたしも嫌だし、つらい……」

「嫌だ。嫌すぎて、もう何も分からないよ、でもつむぎもっ……いや、つむぎの方が苦しいよね」

「うっ、せりか、せりかぁっ……」


 私たちはたくさん、たくさん泣いた。


 それから、つむぎは涙をごしごし拭って、私に小指を差し出した。


「せりか、約束しよう」

「やく、そく…………?」


 私が小指を出せないでいると、つむぎは強引に私の小指に自分の小指を絡めた。歪んだ視界は戻らない。


「この約束だって、今せりかと見たこの景色、白い星空のことだって、オムライスのお店のことだって、始業式初めて話したことだって。私は全部全部忘れる。覚えていられなくなるっ。思い、出せなくなっていく」

「この星空が春に溶けてしまうように、私の記憶もきっと、なくなって、しまうの」


 つむぎは顔をくしゃくしゃにしながら、声を上擦らせながら話した。


「私がせりかのこと、好きだったってことも」

「えっ?」

「せりかが私のこと、好きだったってことも」


 つむぎの言葉を理解するのには、あまりに感情が追いつかなかった。


「私がせりかのことを忘れてしまうように、せりかも私のこと忘れてよ。この、二文字の気持ちごと」

「そ、そんなの、いやだ」


 私はつむぎの言葉を飲み込めないまま、つむぎに言葉をぶつけた。


「できないっ! できるわけないよ!」

「お願い。忘れて、忘れてよせりか」

「――星空が溶けてしまう前に」


**


「それから、私はせりかに好きって気持ちを伝えた。それと一緒に、記憶のことも。それで、約束したんだ」

「星空が溶ける前に、私のことを忘れてって」

「そっか、そうだったんだ」


 私はしゃがんで、星空のひとかけらをそっと取った。優しい冷たさが、手の中でじわじわ溶けていく。本当の星は手を伸ばしても届かないくらい果てしなく遠くて、触れることができないほど熱いのだと思う。


「思い出した……? せりか」


 つむぎが私の顔を覗く。私はそれにうん、と頷いた。


「つむぎが話してくれる前……つむぎに抱きしめられたときから、まっさらな雪を見て思い出した。それで、今つむぎが話してくれた内容で私の記憶が確かなものになった」


 記憶はかなり強いショックでなくなることがある。

 つむぎのことを少しでも知りたくて、記憶について調べたときにそう本に載っていた。

 私はつむぎの記憶がなくなる、私のことを忘れてしまうという強いショックから、つむぎと天体観測をしたときの記憶をなくしてしまっていたのだと思う。


「忘れていたのは、私もだったんだ」


 私はつむぎによって繋がった記憶を繰り返し思い出す。


 私はつむぎが記憶をなくしてしまうという、目の前の現実から、つむぎから逃避した。


 思い出さない、忘れるという形で。


「つむぎ。ごめん。今までつむぎが悪いみたいな、酷いこと言い続けてっ……。そばにいることをしなかったのは、逃げたのは、つむぎじゃなくて私の方だったんだね」


 記憶も薄れていくものだし、夢だからきっとお互い脚色が入ってるんだね。


 つむぎが初めてあの日の夢を見たときに、私がつむぎに言った言葉を思い出す。

 つむぎの夢の内容も、私の夢の内容も間違っていなかった。


 記憶と噛み合わなかったのは、そもそもその記憶が失われていたからだった。


 そして。


 五年前、「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」の未来をあのとき拒絶したのは、つむぎではなくて私だった。


 私だったんだ。


「私、本当に最低で最悪だよ」

「ううん。違うよ。せりかは私との約束を守ってくれただけだから」

「違うよ。私はあの日のことを忘れただけで、つむぎのことを忘れられたわけじゃない。その約束だって守れてない、よ…………」


 そう、私は約束を守れていたようで、守れていなかったんだ。


「せ、せりか!?」


 つむぎが叫ぶ。私はつむぎが慌てているのをよそに、白い星空の上に大の字に倒れた。雪が押しつぶされるときに鳴る、ずずっという音がして、だんだん背中が冷たくなっていく。つむぎは不思議そうに私のそばにしゃがみ込んだ。


「私、本当にばかだね」

「せ、せりか……」


 ズキズキとこめかみのあたりが酷く痛む。なんとなく、頭に大きな負荷がかかっていそうな感じがした。


 けれど、ずっと心のどこかにあったしこりのようなものがなくなって、心は雪のようにふわふわと軽い。


 頭の中は、すっきりしている。


「はー……頭痛い」

「せ、せりかだいじょうぶ? 帰る?」

「ううん。大丈夫」


 私は目に雪が入らないように、目を細めてつむぎを見た。

 ずっとつむぎに突然姿を消されただなんて、つむぎは私のことを好きじゃないなんて勘違いをしていて、ずっと引きずって、悩んで、嫌になって。


 本当にばかみたいだ。


「つむぎ。私、もう決めたよ」


 私は上半身だけ起こして携帯の電源を入れる。 

 私はさっき携帯のメモに書いた、つむぎへの気持ちを全て削除した。

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