第45話
「私が忘れた、約束……?」
「うん」
つむぎはこくりと頷いた。
約束。つむぎと私が交わした約束。
約束というワードで記憶に検索をかけても、私がつむぎに嘘を告白するとか、その嘘でつむぎは私から離れたりしないよっていう約束とか。昔なら今日一緒にオムライス食べに行こうのような、些細な約束しかヒットしない。
けれど、少なくてもあの日にした約束なんて、私の記憶にはない。
それを私が忘れるなんてこと、はたしてあるのだろうか。
「せりか?」
「はっ。ご、ごめん。考えごとしてた」
「そう? ねえ、私外でせりかと話したいな」
そう言うとつむぎはさっとダウンを羽織ってブーツを履いた。
「え、外で話すの?」
「そう。外で」
「久しぶりに天体観測しようよ」
「天体、観測」
「うん。天体観測」
つむぎは僅かに、えくぼができないくらい力なく笑った。
こうして、私たちの五年振りの天体観測が始まった。本当は五年振りではないけれど。
場所は前に私がつむぎと恋人だったという嘘を告白した、人気のない公園をつむぎは選んだ。相変わらず私たち以外誰もいなくて、どこまでも静かだ。
「ねえつむぎ」
「なに? せりか」
私がつむぎを呼ぶと、私より少し前を歩くつむぎが振り返った。
「どうして天体観測しようって言ったの?」
「うーんと、せりかと久しぶりにしたいって、思ったから。前ここでしたときは私、何も覚えていなかったから改めてーと思って」
つむぎは公園の中へと入る。薄く積もった雪をつむぎが踏むと、その足跡が黒く浮き出た。
「そう……なんだ。でもさ、つむぎ」
「雪降ってるよ?」
私は空を見上げる。夜空は厚い雲に覆われていて、星の粒一つ見えない。今日はふわふわの雪がゆっくり落ちてくるような、そんな夜だ。
ナトリウムランプがつむぎの金髪を照らしている。つむぎは落ちてくる雪を手のひらに乗せた。
つむぎのスカートが揺れる。
あの日の夢と、現実が重なっていく。
まるで、夢を見ているような、ここが現実の世界ではないような、不思議な感じがする。
「やっぱり、せりかは覚えてないんだね」
「覚えてないって、あの日のことだよね?」
「私とつむぎが最後に会って、天体観測をした日のこと」
「うん」
私はつむぎに言うと、つむぎはこくりと頷いた。
「せりかは私の記憶を思い出させてくれた。だから私も、せりかが忘れていることを伝えてあげたい」
「うん? うん」
釈然としない。
私が、忘れていること。私が忘れているらしい約束の話。それはつむぎの表情、声、そしてこのタイミングを考えてみれば大切な約束に間違いなかった。けれど、その内容とそれがこれからの「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」に、どのように関係してくるのか分からない。
なぜだか、私は寒さで震えるのとは違う、体の芯から震えるような感じがした。
「私、せりかと最後に天体観測をした日にはもう、記憶があんまりなかったの」
「そういえば、いつから記憶がなくなっていってるって分かったの?」
「明確な日はよく覚えてないけど、なんていうか、ある期間からある期間までの記憶がすっぽり抜け落ちているような、そんな感覚になったときがあって」
「え、」
同じだ。今の私と。
私はつむぎに突然いなくなられた日々を、自分がどんな風に過ごしていたのか全く思い出せなかった。最後につむぎと天体観測をした日、正確には天体観測が終わってから高校一年生のあるときまで、まるでそのとき自分が世界にいなかったような感じ。
心臓が痛みの音を立てる。
こうして考えてみると、確かに自然に忘れたにしては抜け落ちた記憶のその範囲は、あまりに広範すぎると思う。
もしかしたら私は。いや、私も――。
「それでね? せりか。……せりか?」
「え? あっ、う、うん」
「せりか、考えごと多いね?」
「ごめんごめん大丈夫。聞いてないわけじゃないから」
つむぎは「大丈夫ならいいんだけど。それでね」と、話の続きを話し始めた。
「せりかと天体観測したときから、私は星座のことも、星のことも、惑星のことももうあんまり覚えてなくて。ぼんやりしてた」
つむぎは私の手をきゅっと握る。手袋を履いているつむぎからは体温が伝わってこなかった。私はそれを強く握り返す。
「それなら、どうして? どうしてそんなに酷いことになってても、私に何も言ってくれなかったのっ」
分かっていても、抑えることができずに語尾が強くなる。
「なにかひとこと、ひとことでもよかったから私に相談してくれたってよかったじゃん」
「……知ってたから」
「え……?」
「私、せりかが私のこと好きだって、ずっと知ってたから」
「えっ、え?」
まるで今の景色みたいに、私の頭が一瞬真っ白になる。
つむぎは、私の気持ちに気づいていた。
確かに私はつむぎの前では感情を抑えることが下手で、喜怒哀楽の全てをつむぎの前に出してしまうけれど。
でも、気づいていたのなら。
「それならなおさら――」
「病室でもっ。……病室でも言った通りだよ」
つむぎは握りこぶしを作って、ぐっとうつむく。
「私が、せりかにとって好きな人がせりかのことを忘れてしまうなんて、そんな辛い思いさせたくなかった。もちろん迷惑がかかったり気を遣わせちゃうとも思ったから」
つむぎは私の手をまた握り返した。
「でも、それでも、そうだとしても。私にとってはいきなりいなくなる方が辛かった。そのこと、つむぎとまた出会うまでの五年間ずっと、ううん、今も引きずり続けてる。つむぎにとって私は頼られもしない小さな存在だったんだって。見えないくらい小さな星粒だったのかなって。これは、そばからいなくなることも、私の記憶がなくなったことだって。その両方を経験した私だから言える」
「そう、だよね。ごめん」
私にとってつむぎは太陽みたいで、流れ星みたいな、いつまでも私の心に残り続けてしまうような、そんな人だった。それはもちろん今でも変わっていない。
けれど、つむぎにとって私はそうではなくて、つむぎの世界からは観測できないほど小さな星なのかなって、強く思った。勝手にものすごく凹んだ。
記憶がなくて私のことを何一つ覚えてないっていうのも辛いことではあったけれど、つむぎが私のことをそばにおいてくれることを許してくれるのなら、つむぎがそばにいてくれるのなら、そっちの方が断然よかった。
「……そうだよね、私、せりかの心に酷い傷を負わせたもんね」
「それなのに、何も考えなしにまた同じようなこと言って、ごめんなさい」
「それはもういいの。だって、つむぎは記憶がなくなるかもしれないって言われてどうしたらいいのか分からなくなってたんだからさ」
「……優しいね。せりかは」
「そんなこと、ない」
つむぎは首をもたれた。私は強く握った手を緩める。つむぎはそのままゆっくりと話し始めた。
「もちろんせりかのこともあったけど、でも、本当は私の利己的な気持ちもあって……それも話してもいい?」
つむぎは上目遣いで私を見る。私はつむぎから一瞬も目を離さないで頷いた。
「もちろんいいよ。私はどんな些細なことでも、つむぎのことを知りたい」
「ありがとう。話すね?」
つむぎは完全に姿勢を直して、私を見つめてきた。そんなつむぎは相変わらずすごく可愛くて、こんな大事な話をしているときでも二文字の気持ちが私の胸を締めつけた。
そんなつむぎの髪に、ぺたぺたと透明に近い白い雪がくっつき始めている。
「私はせりかの、好きな人のそばにいたまま好きな人のことを忘れていくなんて、好きな人を好きって気持ちを思い出せなくなるなんて、辛くて、申し訳なくて、苦しくて、耐えられなかった。だから私は、せりかの前から、せりかといることから……逃げた」
好きな人?
今の話は当時の、つまり五年前の、記憶を失う前のつむぎの話だ。つむぎがもしそのときに私のことを好きだったなんて事実はなかったはずだった。
――恋人だったんだ。あなたの。
あるのはこのつむぎの推定で、私の完全に消えていた希望的観測で、私がついた最低で最悪な嘘だった。
そんな、つむぎと私をしばらく繋ぎとめてくれていた言葉は、本当に嘘ではなかったということになる。
「そ、それって、私の酷い嘘は、つむぎが本当にしてくれた嘘は、ほんとうに」
私は動揺してうまく回らない口で念のためつむぎに聞き返す。つむぎはゆっくり頷いた。少しだけ、つむぎのほっぺたが赤い。
「ごめんね。思い出した日から、伝えることができなくて」
「私も、せりかのこと好きだったよ。五年前から」
「!」
心臓が早鐘を打つ。
その言葉は確かに嬉しい。嬉しいはずなのに、どこかモヤモヤする。
私は不意に、つむぎに抱きしめられた。また、つむぎの優しいにおいと、金木犀が私の胸いっぱいに香る。
私の視界からつむぎが消えると、公園一面を白く染めた雪がナトリウムランプに当たってきらきらと輝いているのが見えた。
大小さまざまな結晶が乱反射して、星のように瞬いているように見える。
まるで満天の星空を見下ろしているみたい。
白い、星空を。
「あ――」
今の景色――この白い星空と、つむぎの好きという言葉が、あの日の記憶の、私の頭から離れていた部分を呼び起こしていく。
「それにね、さっきせりかは私の記憶のこと、ひとことでも言ってくれたらって言ってたよね? 私、せりかに伝えてたよ」
「せりかに教えるね、あの日の、せりかの覚えてないところも、全部」
つむぎは自分の記憶のひとひらを私の記憶と重ね合わせるように、ぽつりぽつりと話し始めた。
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