第44話

 相澤さんの家を出たとき、相澤さんに「次会うときはダブルデートな」と背中を押された。絶対そんなことしたくないけれど。


 でも、相澤さんには感謝している。本当に感謝してもしきれないほどだ。うどんの件もそうだし、相澤さんとあのとき会っていなかったら私は、ひょっとしたらつむぎと話すことなくずっと廃人みたいな生活になっていたかもしれない。


 そう、廃人みたいな――。


「? あれ」


 つむぎの部屋の少し前で、歩くのを止める。

 ふと唐突に、私の脳内に一つの疑問が浮かぶ。


 五年前の私は、つむぎがいなくなってからどうやって過ごしていたのだろう。

 このことについてよく考えてみなかったけれど、この三日間のように廃人みたいな生活をしていた記憶がまるでない。


「うん……?」

「うーーん」


 いや、それよりも。


 私は携帯を見る。携帯は18時55分を指していた。私は二歩歩いてつむぎの玄関前に立った。


 携帯のロック画面で時刻を確認して、電源を落とす。


「はぁ」


 玄関のドアを見て息を吐く。チャイムを押そうとして、手を止める。


 人生で一番緊張している。


 高校受験の面接とか、大勢の前での発表とか、つむぎに好きの意味を伝えたときとか。過去に何度か緊張するような出来事は数えきれないほどあったけれど、今ほど緊張していることはこれまでになかった。

 滝のように汗が流れ出てくるし、息をするたび、喉のあたりに不安と恐れを混ぜたような、気持ち悪い感覚がまとわりつく。


 早く5分経ってほしい。でも、まだ5分経ってほしくない。


 ピコン。


「うわぁっ」


 心臓がどきりと跳ねて、変な声が出る。緊張のあまりいつもならなんとも思わない携帯の通知音だけで過度に驚いて、携帯を落としそうになった。

 私は通知を見る。送り主は。


「……つむぎ?」


〈前にいるよね〉

〈入っていいよ〉


「!」


 その〈入っていいよ〉というつむぎからの六文字に、心臓の音がとてつもなく速くなる。約束の19時よりは3分37秒早いけれど、ついにその時は訪れた。


 訪れて、しまった。


 私は携帯を握りしめる。


 つむぎとまた、やり直す。


 やり直すという表現はあまり正しくないのかもしれない。つむぎは私のことを好きでいてくれているし、私はつむぎのことが好きだ。そんな状況で別れたのだから、やり直しや復縁は今の私たちにぴったりな表現ではない気がした。


「私はつむぎとまた、恋人同士になりたい」


 廊下は声が反響するから、誰にも聞こえないようにそっとつぶやく。

 この三日間はあまりにもしんどかった。つむぎに別れを告げられたという事実も、つむぎの事情も知らないで「別れたくない」なんて自分勝手なこと言ってしまったことも、別れることを自分から受け入れたくせに受け入れられていないことも。病室で起こったこと全てが嫌になった。


 ただそれだけ私は、つむぎがいないとだめになっていることを改めて知った。


 私は携帯のメモを開く。待ち合わせの時間までに書いた、今の私のつむぎへの気持ち。うまく言語化できなかった部分はあるけれど、とりあえず今の気持ちを書けるだけ書いた。


 あとはこれを、つむぎに伝えるだけ。


 つむぎにもう一度、一緒にいたいと、つむぎのそばに私をおいておいてほしい伝えるだけ。


 私はつむぎの玄関のドアノブをぎゅっと握って、捻った。


「あ……」


 私は玄関を開けると、目の前にはつむぎが立っていた。私はぐっと背筋が伸びる。


「つ、つむぎ……」

「せ、せりか……」

「どうしたのその顔!?」

「どうしたのその顔!?」

「あっ」

「あっ」


 私たちの声と言葉、タイミングがぴったり重なった。それに驚いた「あっ」までつむぎと被った。


 つむぎの顔は酷かった。

 つむぎはすっぴんでも恐ろしいくらい顔が可愛くて、肌が透き通っているのだけれど、それが余計につむぎの目の下のくまの存在感を引き立たせている。それに目も真っ赤だ。


「せりかっ。この前よりくま酷いし、目も赤いよ……?」

「い、いや私も全く同じこと思った。そう言うつむぎも酷いよ」

「ほんと? でも私は、その……」


 つむぎの目が右へ、それから下へと泳いだ。


「……だいじょうぶ、だから」

「だい、じょうぶ……?」


 つむぎが「大丈夫」と言うときの大抵は無理しているときか、大丈夫じゃないときだ。


 もしかして、つむぎも、この三日間、私と同じだったのなら。


「わっ」


 私はつむぎの手を取って、引っ張る。つむぎはふらっと、怖いぐらい簡単に私に引き寄せられた。


「私はこの三日間……いや、つむぎに『別れてほしい』って言われたときから全然大丈夫じゃなかった」

「つむぎも私とおんなじでその……だめ、だったんだよね?」

「え、」


 つむぎは小さく声を漏らすと、つむぎはぎゅっと目をつぶって、私の肩におでこをぶつけた。ぶつけただけで、つむぎはそのままでいて私を抱きしめてこない。私も抱き寄せなかった。


「うん。私もっ、だめだった」

「えっ」


 つむぎの声が上擦る。私は驚いてつむぎの顔を見ると、つむぎの瞳から光の粒が零れ落ちた。


「だめだった。私、せりかがいないとだめだった。そんなこと分かってたのにっ。でも」

「つむぎ……」

「わたしっ。どうしたらっ、いいか……わからなくて」

「!」


 つむぎは子供みたいに泣きじゃくり始めた。拭っても拭っても、つむぎの涙はとめどなく溢れてくる。


「つむぎ」


 私はつむぎの気持ちが、やっと分かったような、そんな気がした。


 過去のつむぎも、私に辛い思いをさせたくなくて、それでもどうしたらいいか分からなくて、私から離れることを決めたんだ。


 私はつむぎの涙を遮るように、涙を拭っていたつむぎの手を取ってつむぎを抱き寄せる。


「せり――」


 私はなかば強引に、つむぎの言葉を消すように、つむぎの唇を私の唇で塞ぐ。


 ……しょっぱい。


「せり、か……?」

「ごめん。我慢できなかった」


「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」はもう、恋人同士ではないのに。


「……ううん」

「つむぎ。今日会いに来たのは、その話をしにきたの」

「そのはなし……?」

「うん。今のつむぎの言葉と、これまでのつむぎのことを振り返ってみてやっと分かった」

「つむぎは、どうしたらいいか分からなかったんだよね? だからあんなこと言ったんだよね?」

「! ……うん」


 つむぎは目を見開いて、ゆっくり頷いた。


「私もつむぎに別れるって言われて、つむぎのこと何も見えなかった。見てあげられなかった」

「せりか……。それは、私のせいだよ。私があんなひどいことをせりかに言ったから」


「つむぎのせいじゃない」と、私は強く否定する。


「記憶を、好きなわたしのこと忘れてしまいますだなんて突然言われて、平気な人なんていないよ。だから自分を責めないで」

「……うん」

「つむぎ、これからどうするか私と話し合ってほしい。一人じゃどうすればいいか分からないことだって、一緒なら何か解決策が思いつくかもしれない」

「私はつむぎと過去の話じゃなくて、これからの話がしたい」

「『星波つむぎと星空瀬梨香の関係』のこれからを、つむぎと一緒に考えたいっ」


 私は一息で言い切って、息が切れた。そんな私を、つむぎはもっと強く抱きしめる。


「せりかはやっぱり優しすぎるよ。いつも優しくて、まじめに私のことを考えてくれる。あんなに、酷く突き放したのに」

「そんなの当たり前じゃん。だってつむぎは私の」


 恋人なんだから。


 と、言おうとしたところをつむぎは恐らく悪気なく遮った。


「でも、これからの話だけだと足りない」

「足り、ない?」

「うん。私も、せりかと一緒に考えたいせりかがそう言ってくれるのは嬉しいけど、私は過去の話もせりかにしなくちゃいけない」

「過去の話?」

「うん」


 つむぎは私の方を見る。涙を浮かべたつむぎの瞳が、きらきらと輝いている。


「せりかがきっと忘れてること」

「――あの日、私たちがした約束の話」

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