星空が溶けてしまう前に

第43話

「…………ぅあ」


 変な声が出る。


 おなかがすいた。

 私は今、死にそうなくらいおなかがすいている。それに喉も乾いている。


 つむぎと別れてから三日。私はあれからずっとベッドにいて、生きるために必要な行動以外は天井を見つめ、つむぎのことを忘れようとしていた。


 そんなこと、当然できなかった。


 流石に何か食べないと本当に死んでしまう。私は重すぎる体を何とか起こそうとする。


「……」


 私は動きを止める。


 生きる必要なんて、今の私にあるのだろうか。


 つむぎと別れて、つむぎとはもう会うことはないのに。つむぎの、えくぼのある可愛い笑顔だって、ちょっと天然なところだって、メニューを決め切れないつむぎだってもう、見ることはないのに。


 つむぎのいない生活がこれから、当たり前になっていくのに。


「うっ、うぁ……」


 それを決めたのは私なのに、勝手にまた涙が出てくる。私は最後のティッシュを一枚取る。ゴミ箱を見ると、その中身は大量のティッシュでいっぱいいっぱいになっていた。


 つむぎ。つむぎ、つむぎ。


 嫌だ。辛い。苦しい。しんどい。


 私は拭いきれなかった涙はルームウェアで拭ってティッシュを丸め、ゴミ箱に無理やり突っ込む。


 生きていることに少なからず意味はある。またつむぎに会えるかもしれないから。

 だからせめて、カップラーメンくらいは食べよう。


 私は壊れて砕けた心のかけらを拾い集めて、冷たいフローリングに足をつけた。



「…………」


 何をしているんだ。


 気づいたら私は大学から一番近いスーパーに来ていた。つまり、つむぎの家の近くに来ている。


 私は大ばかだと思う。


 生きていたらまた会えるかもしれないからって、流石につむぎの家の近くに来るなんてどうかしている。


 つむぎに会ったって、顔を見たって、どうにかなるわけでもないのに。

 だって、「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」はもう――。


「あれ? 瀬梨香」

「あ……」


 がんがんする頭を抱えながらふらふら歩いていると、見覚えのある人が目に入った。


 相澤さんだ。


「おー奇遇だなー……ってはあ!?」


 相澤さんは私とは対照的に体いっぱいに驚いて見せた。大きい声が私の頭に響いて少し痛む。


 そういえば、家つむぎと同じだった。


「おまっどうしたその顔!?」

「顔? ああ、まあ、ちょっといろいろあって」


 私は適当に誤魔化そうとする。

 相澤さんがここまで声を荒げるほど、どうやら今の私はそれだけ酷い顔をしているらしい。


 それになんだか、久しぶりに声を出したような気がする。うまく、話せているだろうか。


「いろいろって、瀬梨香……まーいい! とにかくうちこい!」

「え、あー……」


 私は相澤さんに強く手を引かれて、家へと連れていかれた。


 その道の途中、つむぎとはすれ違わなかった。


「はー……。ありがとう。生き返りました」


 私はだしを飲み干してどんぶりを置く。

 相澤さんはいたって普通のうどんを出してくれた。けれど三日ぶりに食べたその普通のうどんは、確実に人生で一番おいしいうどんだった。


「ほんとにすげえ顔してたからな……。さ、うどん代のぶん、何があったか聞かせろよ」

「あー……。うん。いいよ」


 私は一瞬聞かれたくないと思ったけれど、すぐに考えを改める。

 もう終わったことだ。隠す意味も、必要もない。それに、相澤さんはもはや命の恩人だ。


「私、あのー……つむぎと付き合っててさ」

「知ってる」

「あ、知ってた? なら話は早いね――」

「え!?」


 私はテーブルを両手で叩く。すると、どんぶりとその上に置いた箸がぶつかりあって、小気味いい音を鳴らした。


「知ってるって、え?」


 はたして、いつから知っていたのだろう。


「え? て。二人のやり取り見てたら分かるだろ。まー好きな人がいるのは前々から知ってたけど、まさか男じゃないとはなー」

「い、いや……。え、じゃあ三人で話してたとき、つむぎに好きな人をしつこく聞いてたのは?」

「あん? あれは瀬梨香の反応を見て楽しんでただけ」

「あー……。おうちデートってかまかけてきたのはそういう」

「そーいうことよ」


 女の勘、というやつなのだろうか。


「でも、相澤さんが私に好きな人がいるって気づいてたときからはつむぎと付き合ってなかったよ」


 私は負け惜しみに似た言葉を吐く。


「へー、そうなんか」

「そうそう」


 雑に背もたれに寄りかかって、相澤さんの家を見渡す。


 相澤さんの部屋の間取りは同じ物件なだけあってつむぎの部屋と全く同じだった。けれど、同じなのはあくまで間取りだけで、つむぎの部屋とは隅々まで全く異なる。

 なんというか、カラフルなものがたくさんあってごちゃごちゃしている。


 やっぱり、つむぎとは真逆の存在だ。


「で? 愛しのつむぎちゃんと何があったわけ?」

「それ聞いたらうどん代超えちゃうよ」

「お前の情報高けーな……じゃ、なんか他にもやるから答えろよ」

「嘘嘘。全部答えるよ。おかまいなく」

「は〜? やっぱマジメだな」

「……よく言われた」


 相澤さんは席を立つのを止めて、椅子にどかっと座りなおす。


「なんか私も私で何話してもいいって感じだから全部言うよ」

「そういうの、自暴自棄って言うんじゃねーの」

「……かもね」

「じゃあ、出会いから話しなよ」

「初めて会ったのは中学二年生」


 バタン。相澤さんは驚いて椅子から転げ落ちた。

 過去に私もこうなったことがあったけれど、はたから見るとこんなに滑稽なんだ。


「そっ、そんな前から関係があったのか……」

「まあね。……ていうか前につむぎが言ってたでしょ」

「え、あー! 言ってたわ! 五年だっけ?」


 相澤さんは大げさに声をあげた。意外とこの人も人の話を適当に聞いているのかもしれない。


「それで、今に至る過程は?」

「まーここはざっくりでいいよね。つむぎと大学で再会して、私が流れで告白したらつむぎからも告白してくれて、付き合って。三日前別れた」

「いや流石に大雑把すぎん? 中学から大学までの空きが気になるけどまあそれでいいや。分かれた原因は?」

「つむぎ、記憶喪失なんだけど」


 相澤さんはまた椅子から転げ落ちた。


 あまりにも綺麗に倒れるから、面白い。


 ……我ながら、流石に少しは心配した方がいいと思う。


 相澤さんは倒れ慣れているのか、特にどこか痛めた様子はなく、「ど?」と話を聞き返した。


「つむぎ、記憶が戻ったんだよね。私と再会してから。でも、また記憶を失うかもしれなくて、それで……」

「それはまたとんでもないな。それで?」

「それで、せりかに辛い思いさせたくないから別れてほしいって、切り出されちゃった」

「ふーん。それで瀬梨香はどうしたの?」


 私はテーブルの上で組んでいた両手をきつく結ぶ。その指先が赤くなったり白くなったりした。


「最初は猛反対したけど、後になってつむぎのこと何にも考えてなくて、自分のことばっかり考えてたって思った。だから」

「別れたんだ?」

「……うん」

「へえ〜。つむぎのこと好き?」

「好き。大好き。宇宙で一番好き」

「重っ……。つむぎは瀬梨香のことなんて?」

「最後に好きって、言ってくれた」


 相澤さんは足を組んで、わざとらしく長く、それでいて大きく溜息をついた。相澤さんの気合いの入っていない髪型が揺れて、言葉にできないシャンプーの香りが届いた。


「つむぎも瀬梨香のこと嫌いじゃないなら答えは出てんじゃん。なーんだ心配して損した。てっきり喧嘩別れとか冷められたのかと思ったわ」

「いや、違うけどさ」

「より、戻してこいよ」

「え? さっきの話聞いてた? だから私たちは――」

「両想いの時点で勝ちは決まってんじゃん」


 相澤さんは私の言葉を遮った。


「それに記憶を失うしれないだろ? 失わない可能性が少しでもあるなら二人とも一緒にいろよ」

「私もそう思う。でもつむぎはそれを望まなかったの」

「自分がそう思ったのならそのエゴを通しな。つむぎも止めてほしくて言ってるかもしれないし」

「う、まあそうかもしれないけど」

「分かったら行ってこい」


 私は席を立とうとした相澤さんの名前を呼んで呼び止める。


「待ってよ。相澤さん今の彼氏とどうなの」


 相澤さんは目を丸くして、「カレシィ?」と言った。相澤には私の発言がそれほどおかしく聞こえたらしい。


「彼氏なんていないけど」

「えっ、もしかして別れたの? ほらマッチングアプリの人」

「あー。あれ彼女な」

「えっ」

「ええ!?」


 私は大声をあげて思わず立ち上がる。


「ごめっ、ちょっとうるさかった。え、彼女?」

「おん。……顔見せたことないか」


 私は座り直す。確かにあのやり取りの中で「彼氏」とは一言も言っていなかったように思える。完全に盲点だった。


「それなら私とかに男男言ってたのは? というか相澤さんは両方好きなの?」

「人口的に女が男を好きになる割合の方が高いから瀬梨香もそうかなって思って言ってただけ。まー別に男も嫌いじゃないけどあたしは」

「合コン行ってたのは?」

「ん? 合コンきっかけで連れが男とくっついて別れた後に、失恋効果使ってあたしがその子と仲良くなるっていう作戦な〜。ってなんだその目は」


 相澤さんに恋愛相談なんてする日が来るとは思ってもいなかったけれど、確かに相澤さんはこういう話をされ慣れている感じはしていた。その理由がはっきりする。


 それにしたって相澤さんは最低すぎると思う。私は呆れて天井を見た。

 

「だからつむぎにもう一回会って、話して、それでもダメだったらあたしが瀬梨香をもらってやるよ」

「彼女いるのに何言ってんの……。はあ、それに相澤さんは女の子が好きかもしれないけど、私が好きなのはつむぎだから」

「それに相澤さんは――」

「ん?」

「相澤さんは、友だちだし」

「! あー、はいはい」


 相澤さんは頭をかいて、キッチンへ向かった。

 相澤さんは冷蔵庫から水を取り出して、グラスに注いでそれを飲んだ。


「ほら、分かったら行きなよ」

「う、ん…………」


 そう言われるとなんだか気が進まない。


 つむぎと話さないといけないこと、話したいことはたくさんあるのに。


「なんだよその顔……。あっ! その前につむぎとどんなやり取りしてるか携帯見せてよ」


 相澤さんがグラスを適当に置いて、私の背後に立った。


「こういうのも見せるの嫌だけど、もういいや。はい」

「ん、ありがとう」

「……は?」


 私は不満の声を漏らして、椅子から立ち上がる。


「ちょっ、何して」


 相澤さんは携帯を自分の耳に当てている。それはつまり――。


「あーもしもしつむぎー? 久しぶり。元気にしてる?」

「今瀬梨香と一緒にいて、それでつむぎの声聞きたくなって電話した」


 相澤さんが言った通り、この人は電話をした。つむぎに。

 私は相澤さんにたくさんの言葉をぶつける。相澤さんはそれを全て無視してつむぎと会話している。


 相澤美央という女はいつもやりすぎだと思う。


 私の心の準備は全くと言っていいほどできていない。


 つむぎの声は聞こえない。代わりに相澤さんの声が大きく聞こえる。

 電話の相手の声を聞きたいけれど、聞きたくない。


「いやー出てくれないんじゃないかと思ったー。うん。うん。そうそう。それで今日暇?」

「ちょっと相澤さんっ」

「おっけー。じゃあ19時くらいに行くわ」

「瀬梨香だけが」

「ええ!?」


 つむぎの驚いた声が聞こえた。


 三日振りに聞いたもう二度と聞くことができないと思っていた声を聞いて胸が苦しくなる。泣きそうにもなる。


「……いや」


 今はそれどころではない。


「んじゃ」


 相澤さんは適当に電話を切って、携帯を私に押し付けるように渡す。


「ほら、行ってこいよ」


 相澤さんは私の肩を叩いた。

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