第42話
窓の外は雪が降っている。世界を白く染めていく雪は、あの日――せりかと最後に天体観測した日を思い出させる。
今日はせりかがお見舞いに来てくれる、最後の日だ。
卓上カレンダーには、明日の日付の欄に赤字で「つむぎ退院!!」とお母さんの字で書かれている。
「はあ」
気まずい。
せりかとの共通科目で、唯一テストのある刑法のテストは結局追試を受けることにした。
だから、せりかに「別れよう」と伝えた日からせりかとは一度も会っていない。
あれから、「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」の名前を変えるべきか、変えないまませりかとずっと一緒にいるべきか。私は答えを出せていなかった。
せりかはやっぱり後者を望んでいる。本当は私だって、せりかと同じ気持ちだ。
けれど。
私は気づいたときから、徐々に記憶を失うようになっていた。
過去のことを少しずつ、何かに蝕まれていくように。
過去のことが思い出せない。
今のことだってもやがかかったみたいにぼやけて見えて、はっきりしない。
自分のことが、分からない。
――好きな人のことだって、忘れていく。
焦りとか、恐怖とか、不安とか、絶望とか。もっともっと言葉では表現しきれないたくさんの負の感情が全てぐちゃぐちゃにうずまくような、そんな気持ちを思い出して、それに心が支配されていく。
前はせりかにそんな思いをさせたくなくて最後の日まで隠し続けていたから、私だけがその辛さを味わったけれど、今はもうせりかにまた記憶を失う可能性を言ってしまっている。せりかにも私と同じ気持ちにさせてしまう。
私はせりかに、好きな人に。自分のことを忘れられてしまうような悲しい思いをもう一度させたくない。
「それにせりかはきっと、五年前のあの日にした、約束のこと――」
「星空瀬梨香です」
「あっ」
「星波つむぎさんのお見舞いに来ました」
ノックの音と一緒に、せりかの声がくぐもって聞こえてきた。
「……どうぞ」
「つむぎ。元気にしてた?」
せりかがガラガラとドアを開けて中に入ってきた。外の、冬のにおいがする。そんなせりかの頭や肩の上には少しの水滴と雪がついていた。
そして、せりかの目の下にはまた、くまがある。前よりも酷い。
「私は……げんきだよ」
元気じゃない。そしてそれはせりかも同じだ。
「よかった。これ、いつものね」
せりかは同じ生まんじゅうをテーブルに置いた。今度は抹茶味だ。
「いつもありがとう」
「いいの。……明日で退院だね。おめでとう」
「うん。ありがとう」
それから少しだけ、沈黙が続いた。
「つむぎ、私のこと好き?」
「え……」
「言ってほしい、せりかのこと好きって。私も、私も言うから」
せりかは背が高い。前に聞いたら身長は162センチあると言っていた。私より7センチ高い。
今は7センチが感じられないほど、せりかが小さく見える。
「……せりか。好きだよ」
「私も好き。五年前から、今までずっと。そして、これからも好き」
「私も、好き」
その二文字を好きな人の声で聞いて、私も言うことで、胸が酷く痛んだ。
せりかのことは好き。
それだけにどうしたらいいか分からないし、辛い。どうしたってせりかのことを傷つけてしまう。
「ありがとう。その言葉だけで、十分、だよ……」
せりかの声が震える。せりかの頬に、透明な光が伝っていく。
「せりか……」
「ああ、嫌だ、嫌だ。嫌だなぁっ……」
せりかは涙を拭って、私と目を合わせる。
まるで、何か心に決めたように。
「せりか……?」
せりかは一度拭ったのに、またせりかの瞳から、優しさのかたまりが溢れてくる。
私が何も言えずにいると不意に、せりかが私を抱きしめた。
「私、昨日の夜ずーっとずーっとつむぎのことを考えた。それで気づいたんだ。私は何かとつむぎの望みを叶えられてなかったね。今も、昔も。私、わがままばかりでさ」
「……どうせ辛い思いをするなら、どうせつむぎが辛い思いをするのなら、せめてつむぎの希望通りにすべきだよね」
「え……」
違う。
私の言葉と気持ちが矛盾する。
「いいよ。『星波つむぎと星空瀬梨香の関係』は、今日で」
違う。違う。
本当は。
「終わりにしよう」
「えっ……」
終わり。
終わりという言葉が頭にいつまでも残る。すごく居心地が悪くて、気持ち悪い。
嫌だ。
「せりか、待って」
「つむぎ」
せりかの体温が離れていく。
「今日で、私たちはもう恋人じゃ、なくなったから」
「っ! …………」
私から望んだくせにせりかの口から一番聞きたくなかった言葉を聞いて、全てが壊れたように涙が溢れてくる。
「じゃあね。つむぎ」
「せりかっ! まって」
「…………今までありがとう」
「そして、ごめんね」
せりかは病室から逃げるように走って出ていった。
好きな人に突き放されて、心が砕けていく。
自分もしたくせに。それなのに。
「せりかっ」
違う。
「うっ、うぁ……ああっ」
違う。違くないのに違う。
私から望んだことなのに、こんなこと望んでいない。
せりかから離れると決めたのに、離れたくなかった。
せりかに辛い思いをさせたくないなんて思って、せりかを突き放したのに。
「うあっ、まって、せりか」
これがせりかの言う私の望み? これが私の望んだ未来?
これが本当に『星波つむぎと星空瀬梨香の関係』の、今あるべき形?
「違う。ちがうっ、ちがう。ちがう……」
「せりか…………」
星波つむぎと星空瀬梨香の関係 おわり
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