第41話

 せりかはあの後、お母さんと何事もなかったかのように少し世間話をして、そのまま一緒に帰ってしまった。

 けれど、あれだけ普段感情を隠すのが上手なせりかが、お母さんに心配されるほど取り乱していた。目も真っ赤だった。


 私の言葉がせりかにとってどれだけ重たくて、どれだけせりかを傷つけてしまうか、分かっていたようで分かっていなかった。


 でも。


「…………せりか」


 せりかは可愛い。


 私は丸三日眠ってしまっていたらしいから、久しぶりに会った感覚はあまりなかったけれど、久しぶりに見たせりかは相変わらず綺麗で、可愛くて、素敵な人だった。


 そしてやっぱり私はせりかのことが好きだなってとても実感した。


 それだけに、私は酷い言葉をせりかに投げつけたことが私の心を痛めていく。


「せっかく思い出したのに、すぐにお伝えするのはあまりに酷ですが、つむぎさんの記憶はもしかすると、また――」


 お医者さんの言葉が勝手に再生される。


 私の記憶喪失は原因が不明だった。だからいつ、何がきっかけで記憶がなくなるのか分からない。考えてみれば、当たり前に可能性のある話だった。


 記憶や脳、心について分かっていることは今の医療でも多くない。だからその確証はないとはいえ、原因不明である以上は私が記憶をまた失うかもしれない。


 それは分かっているはずで、覚悟だってできているはずだった。


 せりかと再会するまでは。


 その可能性を聞かされたとき、お父さんやお母さん、これからの生活のことよりも、真っ先にせりかのことが頭に浮かんだ。


 また私が記憶を失ったらせりかをきっと酷い目にあわせてしまう。

 また、辛い思いをさせる。


「忘れて、しまったんだ」


 私はせりかと五年振りに再会した、刑法初回の講義のことを思い出す。


 せりかの、震えた声。

 せりかの、今にも泣き出しそうな、悲しい表情。


 せりかにあんな思いはもう、させたくない。

 それに、私もせりかのことを忘れたくない。せりかの笑顔は可愛いことだって、考えごとをしているときに白のシャーペンで遊ぶところだって。どんな些細なことだってずっと、いつまでも覚えていたい。


 せりかのためにも。そして、私のためにも。


 でも、でも、でも。


 もしまた私が記憶を失えば、せりかも私も辛い思いをしてしまう。


 私たちは一緒にいたってせりかに辛い思いをさせてしまうし、離れたってせりかに辛い思いをさせてしまう。


 どうしたってせりかを傷つけてしまう。


 もう、どうしたらいいか分からない。


「私はどうしたらいいの……? せりかっ……」


 ピコン。


「え……?」


 携帯がメッセージが届いたことを振動と共に知らせる。

 今の私の場合、送り主は家族かせりかのどちらかだ。


 もしせりかからのメッセージなら嬉しいけれど、嫌だとも思う。


 私は携帯を開く。


〈つむぎ〉

〈さっきはごめん〉

〈調子はどう?〉

「っ……」


 送り主はせりかだった。

 私の胸が甘くて、苦しくなる。


 どうして?


 せりかは私に謝って、しかも私の心配をしてくれている。

 今日の夕方、私はせりかに酷いことを言って突き放そうとしたのに。


 せりかはどうして、どうしてこんなに優しいのだろう。


〈私のほうこそ、ごめんなさい〉

〈つむぎは謝らないでよ〉

〈体調は、大丈夫。退院はできないけど、テストは受けに行くよ〉

〈よかった〉

〈安心した、ありがとう〉

〈つむぎ、今電話できる?〉


 私は静かな病室を見渡す。窓の外も暗くて、携帯の四角い明かりと読書灯だけが灯っている。


〈個室なんだけど、消灯時間過ぎてるからできないの〉

〈ごめんね〉

〈あ、そっか〉

〈じゃあ、もう少しだけこうやって話せる?〉

〈いいよ〉

〈私も話したい〉

〈ありがとう〉


 そこから少しだけ時間が経ってから、せりかからメッセージがきた。


〈つむぎが別れてほしいって言った理由、教えてくれてありがとう〉

〈言っちゃだめって、言われてたのに〉

〈それを無理に聞き出して、ごめん。つむぎが苦しそうで、〉

〈泣いていたから聞かずにはいられなくなっちゃった〉

〈いいの〉

「……はっ」


 無意識に〈せりかはもう、私にとって家族み〉まで打って、手が止まる。


「……」


 一度携帯の電源を落として、画面を裏返しにして置く。


 深く息を吐いてもう一度画面を開くと、せりかからの返信が通知の欄にあった。


〈それに、わがままばかり言った。一番辛いのはつむぎなのに〉

〈私、あの時間でつむぎのことなにも考えてあげられてなかった〉

〈ごめんなさい〉


 私は電源を入れる。さっきの返信を消して、新しい返信を指先で綴っていく。


〈私も、せりかにとって辛いこと急に言って、ごめんなさい〉

〈せりかが来る少し前に、記憶のことをお医者さんに言われて〉


 いつもすぐに返信するせりかのメッセージが少しだけ、止まった。


〈そっか〉

〈でも私、つむぎの事情を聞いたって私の気持ちは変えないよ〉

〈つむぎと別れるなんて絶対に嫌だ〉

「せりか……」


 私は震える指でせりかへのメッセージをつづる。


〈せりかは、いいの〉

〈私がせりかの記憶をまた、失ったとしても〉

〈うん〉

「!」


 すぐに返事がきた。

 まるで、私がどんな返信をするか分かっていたかのように。


〈さっきも言ったけど、つむぎさえそばにいてくれたら、私はそれで十分だから〉

〈それに、記憶を失わない可能性だってある〉

「せりか……」

〈だから私と一緒にいてよ。つむぎ〉


 せりかの言葉は優しくて、温かい。


 けれど、その言葉の受け取りかたが、今の私には分からない。もっと、もっともっと分からなくなっていく。


「私は、どうしたらいいの…………?」


 顔をベッドに埋める。病室の、よく消毒されたにおいで胸がいっぱいになって、気持ちが悪くなる。


 せりかのにおいがいい。

 そう思いながら、瞳を閉じた。

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