第40話
私は思わず丸椅子から立ち上がった。
「わ、別れる…………?」
誰が、誰と?
つむぎが、私と?
私が、つむぎと?
どうして?
だんだんと理解が追いついてきて、顔の筋肉がこわばるのを感じる。
冗談であってほしい。
けれど、私が認識している範囲では、これまでつむぎが私に冗談を言ったり、嘘をついたりしたことは一度もなかった。それに、つむぎの目は冷たいほど真剣に私を見ている。
つむぎは本気だ。
つむぎが痛いほど本気なのはわかっている。そう分かっていても、冗談であってほしいと思わずにはいられない。
「どうして、どうしたのっ。つむぎ」
私はつむぎの言葉を受け入れられなくて、声が上擦る。つむぎは顔色ひとつ変えない。
つむぎはもしかして私の嘘のことを、受け入れることができなかったのかもしれない。
つむぎは口を開く。
「せりかがいなかったら、私は記憶を取り戻すどころかエントランスで誰にも助けてもらえずに……どうなっていたか分からない。今私が私でいられるのはせりかのおかげだよ」
「ううん。そう意味だけじゃなくて、せりかはやっぱり私にとって特別な人で、好きな人なの」
「それならどうして! どうして別れよなんて言ったの!」
「だからだよ、せりか」
「え……?」
つむぎは掛け布団を強く握った。真っ白なしわがつむぎの手を中心に広がる。
「……今はその理由は言えない。でも、受け止めて、ほしい」
「急にっ、急にそんなこと言われたってできない。できないよつむぎ……。どうして理由が言えないの?」
「私の……記憶に関わることだから」
「それは……」
私は言葉に詰まる。
私はもう一度腰を下ろす。というより、全身の力が入らなくて、勝手に席についてしまった。
「ううん、分かった」
私は察して、いったん引き下がることにした。私の言葉につむぎはこくりと頷いて、目を伏せた。
つむぎの記憶のことで、私にすら言えないこと。それは恐らく、何かお医者さんにとても重大なことを言われたのだと思う。きっと、今は親族以外の第三者に口外できないほど、つむぎにとって大切なことだ。
でも。
「だからって受け止めるなんてできない……。伝えてくれるまでいくらでも待つからせめて、せめて理由を教えてからにしてよ」
私は声を振り絞ってつむぎに伝えたけれど、理由を教えてくれたって無理だ。
私からつむぎを取ったら何も残らなくなる。それくらい星波つむぎという人は私にとって大きい存在で、今も私の心の中でその存在は大きくなっている。
そんな大切な人が、私のそばからまたいなくなられたら私は――。
「それは話すなって言われてる。お医者さんに」
「! ……やっぱりそうなんだ。もしかしてそれ、つむぎが五年前に私のそばからいなくなったことと関係してる?」
「…………うん」
「だったらなおさら受け入れられそうにない」
五年もつむぎのことを引きずり続けたのだから。
「せりか……」
「前に言ったよね。突然つむぎが私の前から姿を消したあのことを引きずり続けてるって。やめてよ。あんなこと、言わないでよ」
目に涙が集まって、強く強く握った手の甲に、冷たい感覚が一粒落ちた。
「私のそばからもう、離れようとしないでよ…………つむぎ」
私はつむぎの手を取る。私の涙がベッドに灰色のしみを作った。
「私がせりかから離れるよりも辛いことをまたせりかにしちゃうって言っても?」
「私にはその辛いことが何か分からない。でも、それでも、つむぎがそればにいてくれるのなら、私はそれだけでいい」
「それに、つむぎから好きって言ってくれたのに、つむぎから恋人になってくださいって言ったのに! つむぎからキスだってしてくれたのに! どうしてお別れの言葉もつむぎから言うの!」
「つむぎはずっと私のそばにいてくれるって……いっ、言ってたのに……」
つむぎがいない未来を嫌でも想像してしまう。
私の隣につむぎがいないということ。つむぎの笑顔を、えくぼをもう見ることはないということ。つむぎに特別だって、好きだよって言ってもらえないこと。つむぎの体温も、においも、やわらかさももう、感じることがないということ。
つむぎと、もうキスできないということ。
そんなの私にとって、あまりにも暗くて、苦しくて、痛くて、辛くて、悲しい。
「大切だって言うなら、わたしのこと好きなら、私のそばに、ほんとうにそばにいてくれるだけでいいから、そばに、そばにいてよつむぎ……」
私は本音をつむぎに切りつけるように言う。一粒一粒、冷たい感覚が落ちるのが速くなっていく。
つむぎは座り直して、私の手を握り返した。けれど、力も優しさも感じない。
まるで雪のようにつめたい。
「……自分勝手でごめん。とりあえず、理由を説明できるときまで待ってて」
「やだ。つむぎが別れるって言わないって約束してくれないとやだ」
「せりか……」
「答えは変わらない。変えないっ。……変えたくない」
「せりか」
「うるさい」
「せりかっ」
「やだ」
「せりかっ!」
私はつむぎの大きな声ではっとして、顔を上げる。ぐちゃぐちゃになった視界が、つむぎを捉える。
「どうして……?」
つむぎの頬に、涙が伝った。
どうして?
「どうしてあんなことを言ったつむぎが泣くの……?」
私は不意に、つむぎに抱きしめられた。つむぎのにおいよりも、病院服の色のないにおいの方が強く香った。
「わたしもくるしい。くるしいよせりかっ……」
「それなら、どうしてあんなこといったの」
つむぎは乱暴に私を拘束する。少しだけ、痛い。
「これしか、ないから」
つむぎは力なくつぶやいた。
「教えてよつむぎ。言っちゃいけないことを私に教えて怒られるなら、私も一緒に怒られるからさ?」
私が耳元でささやくと、つむぎは私の耳に唇をあてて、ささやいた。
「わたし……わたしまたっ、せりかのこと忘れるかもしれない」
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