星波つむぎと星空瀬梨香の関係

第39話

 私はテストを全て終わらせて、駆け足で講義室を出る。

 私が退室可能になった瞬間に退室したから、教授が「見直しはするように」と嫌味っぽく学生に呼びかけていたけれど、そんなことはどうでもよかった。


 電車に乗り、つむぎが待つ病院へと急いで向かう。


〈つむぎ、記憶をほとんど思い出したみたいだから〉


 今朝つむぎのお母さんから送られてきたメッセージがよぎる。


 胸がざわつく。


 つむぎの記憶が戻ったということに、私はなんだか嫌な予感がして、手放しで喜ぶことができなかった。


 私はこれまでつむぎの記憶が戻ることで、私がついた嘘――つむぎと恋人だったという嘘がばれるということをずっと恐れ続けていた。……今考えても本当に酷いわがままで最低なことだと思う。

 けれどあの嘘はつむぎが本当のことにしてくれた。つむぎは私がついた愚かな嘘を笑ってくれた。


 それなのに。


 いや、きっとそれだからこそ胸のざわつきが止まない。


「っ――」


 レールの繋ぎ目を通過するときに鳴る、電車のたたん、たたんという音。それを速まる鼓動が追い越していく。


 今のつむぎが記憶を取り戻したのか、記憶を取り戻したことで前のつむぎに戻ったのか。これまでの記憶に関する話と、私の知識と、「ほとんど思い出した」という抽象的な言葉から判断することはできない。

 そして、もしも後者なら、私はまたつむぎに拒絶に近い行いをされる可能性が高い。


 前のつむぎは、私の前から突然姿を消したのだから。


 それに、私への気持ちを思い出した上で、嘘のことを許してくれるとも限らない。


「つむぎ……」


 揺れるつり革同士がぶつかる。


 に会うのが、怖い。


 私は睡眠不足をこの移動で補おうと思っていたのに寝付けなくて、流れていく白い景色をただただぼーっと眺めていた。



「はーー……」


 私は緊張と恐れを白い息と一緒に吐き出す。

 つむぎが入院している大学病院はまるでお城のように大きくて、勝手に背が伸びる。私はそんなお城の門の前から一歩踏み出せずにいた。


〈受付で星空瀬梨香と言ってくれれば案内してくれます〉

〈分かりました。ありがとうございます〉


 つむぎのお母さんからのメッセージをよくよく確認する。

 今思えば、つむぎが意識を取り戻したという連絡から数時間経過しているのに、つむぎ本人から連絡が来ていないのがあまりに気になる。絶対安静を強いられているのだろうか。


 さらに不安になる。


「は〜〜……」


 私はもう一度いろいろな感情を白い息と一緒に吐き出して、一歩踏み出した。



 私が案内された病室は、予想はしていたけれど完全個室の、まるでホテルみたいな部屋だった。病室前の無機質なフォントで印字された「星波つむぎ様」が余計に私の不安を煽る。


 大丈夫。つむぎならきっと大丈夫。


 こんっこんっこん。


「星空瀬梨香です。星波つむぎさんのお見舞いにきました」


 私が声の震えをなんとかおさえて言うと、小さく「どうぞ」という声が聞こえた。つむぎとお母さんの声はそっくりだから、どちらかはまだ判別がつかない。


 私はおそるおそるドアを開ける。


 病室のドアを開けきると、そこには病院服姿のつむぎだけがいた。


「つむぎっ…………」


 よかった。


 当たり前だけれど、確かにちゃんと、つむぎは生きている。

 走ってつむぎを抱きしめそうになったけれど、差し入れの袋の取っ手を握りしめて、ぐっとこらえる。


「せりか、久しぶりだね」

「うん、久しぶり」


 その久しぶりは、三日振りという意味なのか、五年振りという意味なのか、私には分からなかった。

 そして、今の一瞬の声、表情、目の動き、動作だけで分かる。


 明らかに記憶を失った後のつむぎとは違う。


 そんなことは、嘘がどうとか今はどうでもよくて、つむぎが無事に目を覚ましたという事実がただただ嬉しい。


「本当によかった。つむぎが無事で、よかった……」


 本音が漏れる。つむぎは苦笑いをした。


「心配かけてごめんね、せりか」

「ううん。そんなことない。……つむぎのお母さんは?」

「私たちに気を遣ってくれて、売店に飲み物買いに行った」

「そっか。何から何まで助かります……。あ、これつまらないものですが」


 私は差し入れを袋から取り出して、生まんじゅうを丸テーブルの上に置く。確か前につむぎのお母さんがまんじゅうを好きと言っていたような覚えがあったからこれにした。


「ありがとう。私はまだ食べられないから、お母さんに言っておくね。……せりか、お母さんの好きなもの覚えてたんだ?」

「うん。中学生のときに好きって話、してたからさ。つむぎは病院食なんだね。味はどう?」

「うん。意外と美味しいよ」


 全身から真夏日のときみたいな汗が噴き出る。病院内は確かに少し暑いけれど、この発汗量は暑いから、という理由だけではなかった。


 つむぎが少し口角を上げる。


「せりか、あの日はありがとう。あの場にせりかがいなかったら私、今頃どうなっていたか分からなかった」

「いやいや、私のせいで気を失ったようなものだし……。私がいなかったらつむぎは平気だったよ」

「それはないと思う」

「そう? つむぎにそう言ってくれると、嬉しい」

「ふふ、ねえ、せりか」

「なに? つむぎ」


 つむぎは「そこ座っていいよ」と、ベッドのそばにある丸い椅子に手を向けた。私はつむぎから目を少しも離さずにそこに腰を下ろす。


「きっとお母さんに聞いたと思うけど、あの日、エントランスからせりかと一緒に雪を見たときにいろいろ思い出した。せりかと仲がよかったこととか、他にも私の過去についてのこととか。本当にたくさん」

「それ、ほんと!?」

「私倒れちゃったけどね。えへへ」


 つむぎは笑った。笑いごとではないけれど笑った。つむぎの両頬に小さくくぼみができている。

 私はその笑顔を認めると、不安とそれがもたらす緊張が溶けていくような感じがした。


「せりかが私のことぎゅってしててほんとうによかった。それにせりかがいなかったら、私はこんなにたくさんの素敵な記憶を思い出せていなかったよ」

「そんな……本当に偶然だよ」

「そうだとしても、ありがとう。せりか」

「っ! ……うん」


 つむぎの言葉一つ一つが私の目頭に熱を灯す。


 つむぎは曖昧に笑って窓を見る。私もそれにつられて目をやると、ところどころに雪が残っているのが見えた。涙目でうまくみえないけれど。


「なんだか不思議な気持ち。私、ほんとうにせりかと仲が良かったんだ」

「そうだよ。……ほんとうに、ほんとにね。それは嘘じゃない」

「せりか覚えてる? あのオムライスのお店! そこで普通のオムライス頼んだのにさ、すごいおっきいオムライスきてさ」

「あー! あれね、それでつむぎが『大盛りにしてないです』って言ったら『うちじゃあこれが並だよ嬢ちゃん』って渋い声で言われたやつでしょ」


 つむぎの表情が明るくなる。


「そうそう! それでせりかと私で頑張って食べたよね」

「懐かしいな。私つむぎに言われなかったら思い出せなかったかも」

「確かに私たち、再会したのに思い出話なんて全然できなかったもんね?」


 つむぎは首を傾げて見せた。すごく可愛い。あまりの可愛さに頬が緩む。


「確かに」


 確かに、私たちは思い出話に花を咲かせることはできなかった。私がつむぎに言ってもつむぎは知らないし、つむぎが覚えている範囲は私にとって全て新しい情報だったから。

 そうつむぎに言われてみれば、私もうまく言葉にできない、不思議な気持ちになる。


「私も思い出話は嬉しい。けど、つむぎとまたこうして話せることそのものが嬉しくて、楽しくて、幸せだよ」

「! ……うん。そうだね」

「ねえ、つむぎ」


 私はベッドに手をつくと、ベッドがぎしりと沈んだ。もう片方の手で、つむぎのやわらかい頬を撫でる。


「えっ」


 私は驚いて、つむぎに近づくのをやめる。つむぎの頬を撫でていた手が、つむぎによって握られた。


 私のこれからすることを制止するように、強く。


「つむぎ……?」

「せりか、わがまま言ってもいいかな」

「な、なに?」


 つむぎは私から少しも目を離さない。

 完全に隠れていた嫌な予感が、私の心を覆い尽くしていく。


「私、『星波つむぎと星空瀬梨香の関係』についた名前を変えたい」

「え? 急に? というか、そ、それってどういう」


 私の嫌な予感は、別の形で当たってしまった。


「私と別れてほしい。せりか」

「は、え……えっ?」


 つむぎの放った言葉は、まるで流れ星みたいに一瞬で、一瞬だからこそ、私の心を強く焼いた。

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