第38話

 生きた心地がしない。


 私は持っていたシャーペンを転がしてテーブルに伏せる。

 今は23時52分。明日は一限からテストなのに、今日一日で進んだ勉強はたったのルーズリーフ一枚ぶんだった。それでも昨日や一昨日に比べたら進んだ方だ。


「つむぎ…………」


 私は心配の種となっている、彼女の名前をテーブルに向かってつぶやく。

 私の好きな声で「どうしたの? 瀬梨香」とか「なに?」は返ってこない。


 つむぎがエントランスで突然気を失って三日が経過していた。


 つむぎの意識は、いまだに戻っていない。


 私は携帯の自動ロックをオフにして、つむぎとのトーク画面を常に表示している。毎秒それが気になって仕方ない。けれど、そこにはまだ何の返信も来ない。それはつまり、つむぎの意識がまだ戻っていないことを私に示していた。


 つむぎが急に倒れた後、私が呼んだ救急車によって病院に搬送された。私もつむぎの事情――主としてつむぎの記憶に関することを説明するために救急車に同乗した。


 私が咄嗟につむぎを支えたおかげで外傷はなく、その意味では命に別条はなかった。


 けれど。


 つむぎの意識が戻るかどうかは分からないらしい。


 ――私のせいで万が一つむぎがパニックになったり、つむぎの身に何か重大な事が起きるの、絶対に嫌だ。


 私はつむぎに言った言葉を思い出す。


 私がずっと恐れていたことが起きた。起きてしまった。


 つむぎはおそらく私のそばにいすぎた。そして、私がつむぎのそばにいすぎた。

 その影響で記憶を急に取り戻し、その負荷に耐えきれず、意識を失ったのだと思う。つむぎの主治医の見解も同じようなものだった。


 バン、と、テーブルが強い音と一緒に軋んだ。おでこに強く鈍い痛みが残る。


 最低最悪だ。


 これまでに感じたことがないくらい最悪な気分になる。


 私のせいでつむぎは危ない状況にある。紛れもなく私のせいで。


 つむぎと会うのをもっと控えていれば。

 私があのときエントランスまでなんて言わなければ。

 つむぎに、恋人だったなんて嘘をつかなければ。

 つむぎのことを諦めきれていたのなら。


「……」


 私はもう一度おでこをテーブルに強くぶつける。鈍い痛みと頭がぐらりと揺れる感覚が、また私を襲った。


 全部結果論だ。


 それがなければ今頃つむぎと私は違う関係になっていた。

 それに、私がそんなことを考えていたって意味はない。

 今はとにかく、つむぎの意識が戻ったという連絡を待ち続けるしか私にできることはない。


 私はつむぎとの面会を拒絶されている。私のせいでこうなったし、また私がつむぎに何か悪い影響を及ぼしかねない。私はそれに納得している。死ぬほど面会したいけれど。

 それでも同時に、つむぎを助けたのも私だから意識が戻ったら連絡をくれると、つむぎの両親は私に言ってくれた。


 だから今の私にできることは、つむぎの意識が回復することをただただ願うだけ。


「つむぎ」


 お願い。また戻ってきて――。



「……ん」


 私はいつの間にか、テーブルに伏せたまま寝落ちしていたらしい。私が顔を起こそうとすると、差し込む太陽の光に頭が痛んだ。


 私は慌てて携帯を見る。6時30分だった。


 連絡は、来ていない。


「はあ……」


 私は息を吐く。

 つむぎのことで頭がいっぱいで丸二日眠れていなかったから、それによる反動でつむぎとの夢も見ないほどぐっすり眠ってしまっていた。


 私はふらふら洗面台へ向かう。昨夜の睡眠では二日ぶんの寝不足を賄うことは流石にできないらしい。


 くま、ひどいな……。


 私は鏡から視線を落とす。


 持ってきた携帯を鏡の前に置いて、冷たい水を手に溜める。


 連絡は来ていない。


「つむぎ……」


 水を顔にぶつける。冷たい。


 私は泡タイプの洗顔を五回プッシュして手に乗せる。携帯を見る。


 連絡は来ていない。


「はぁ……」


 泡を軽くつぶす。私はそれを顔につけようとするところで手を止め、携帯を見る。


 連絡は来ていない。


「はぁ、」


 顔を適当に洗って、また水を手に溜めて。泡を溶かすように流す。


 きっとさっき携帯を見てから十秒ぐらいしか経っていないけれど、私はつむぎのことですでに心がすぐにいっぱいになっている。


 フェイスタオルを雑に取って顔を拭く。携帯を見る。


 連絡は一件来ている。


「はあ……」


 私は溜息をつく。携帯は三日前から何も変わらず通知を――。


「あえっ!?!?」


 私は顔も拭き終わらないまま慌てて携帯を手に取った。

 一件の通知。送り主はつむぎだった。私は恐る恐るメッセージを開く。


〈瀬梨香ちゃん〉

〈つむぎが目を覚ましました〉

「えっ――」


 たぶんそれは、つむぎのお母さんからの返信だ。


「よ、」

「よかった…………」


 私は一気に力が抜けて、その場にへたりこんだ。

 つむぎが、意識を取り戻した。


 ありがとう。つむぎ。


 ありがとう。


〈わざわざ連絡ありがとうございます〉

〈よかったです〉


 私はうるうると波打つ視界で返信を送る。ぽたぽたと涙が画面に零れた。


〈面会、来てくれますか?〉

〈私でよければ〉

〈今日テストがあるので、その後に伺います〉

〈わかりました〉

「よかった〜……」


 私は涙を拭って立ち上がる。

 本当は今日のテストを全て捨てて今すぐにでも行きたいところだけれど、私はぐっとこらえてテストを受けに行く準備をし始める。


 つむぎが目を覚ましたのに、つむぎの元へ直行せずテストを受けに行くのは、努力を無駄にしないためでも、落単すると留年するかもしれないという理由でも、学費を無駄にしないためでもない。……まじめだからでもない。


 つむぎの方がどう考えても重体ではあるけれど、私が熱を出したとき、私が念を押してつむぎには大学に行ってもらった。だからここは対等でありたい。


「それに……つむぎが対等じゃないってむくれそうだから」


 こう考えるのも、私がまじめだからかもしれない。


 私は家を出る前に、念のためにつむぎのお母さんに確認のメッセージを送る。


〈そういえばつむぎその、記憶は大丈夫なんですか?〉

〈私がつむぎに会ってもいいんですか?〉


 既読はすぐについて、返信もすぐ返ってきた。私はそれを見て無意識に息が止まる。


〈面会はしても大丈夫みたい〉

〈つむぎ、記憶をほとんど思い出したみたいだから〉




思い出したこと おわり

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