第36話

「お邪魔しました。じゃあ、次会うのは三日後、刑法のテストでだね」

「うん……」


 私は玄関で靴を履き終えて、つま先で床を叩く。それでもつむぎはうつむいたまま動かなかった。


「つむぎ?」


 いつもなら私のために玄関の扉を開けてくれるのに。


 私はつむぎのことが気になりながらも自分で開けようと手を伸ばす。


「待って、瀬梨香」

「わっ」


 私は不意に、つむぎに後ろからぎゅうっと抱きしめられた。温かくて、つむぎの重みとやわらかい感覚を背中に感じる。


「もう少しだけ、一緒にいたい」

「うん。分かった」

「えっ」


 私はさっきの「できるよ」よりも食い気味に、即答した。つむぎもまさか即答されるとは思っていなかったらしくて、驚きの声を上げた。


 もっと一緒にいたいって思うのは、つむぎだけじゃないから。


 私はそんなつむぎの手をほどいて、振り返って、つむぎを抱きしめる。


「つむぎ、可愛い」

「うう〜……瀬梨香だって、可愛いよ」

「なっ……うるさい」

「……よし! ありがとう瀬梨香」


 私の腰に回されていた両手が離れる。私もそれに合わせてつむぎから手を離した。私は自由になる。


 けれど、つむぎのハグから解放されたはされたで、今度は私の心に名残惜しさが残る。


 つむぎのせいだ。


「勉強もしないといけないから早く帰らないとね」

「確かにそうだね。元気でね、つむぎ」

「瀬梨香もね」

「うん」

「……」

「……」


 私はそこから動かない。つむぎもつむぎで玄関のドアを開けようとしなかった。


「……やっぱりさ、つむぎ。エントランスまで送ってもらってもいい?」

「ふふ、うん!」


 つむぎは弾んだ足取りで右へ曲がって、ウォークインクローゼットの部屋へと入っていった。



「お邪魔しましたー」

「はーい」


 ダウンを着たつむぎが丁寧に玄関を開ける。私たちはエントランスへと向かった。


「あれ? 瀬梨香じゃん」


 二人でエントランスに向かっている途中、振り返らなくても分かる人物が私に話しかけてきた。


「げっ」

「あっ」

「だからげってなんだよ」


 相澤美央。

 私の知り合い以上友だち未満の人だ。

 つむぎの肩が相澤さんの声でびくりと揺れる。


 相澤さんは「奇遇じゃん」とか言いながら、恐らく悪気なく堂々と私たちの間に割って入った。つむぎとの距離が遠くなるからやめてほしい。私の隣に並んでほしい。


「え、てかあれ、もしかして……」

「あっ、えっと、ほ、星波つむぎです」

「あー! 前瀬梨香が言ってた! あたし相澤」


 つむぎは相澤さんに少しも目を合わせずに、ごもごもと自己紹介した。そんなつむぎを久しぶりに見たような気がして、ちょっとだけ懐かしい。そして、そんなつむぎもとても可愛い。


「……」


 ……じゃなくて。


 最悪だ。


 相澤さんみたいな人とのめんどくさい会話を適当に受け流すことは慣れているし、正直得意まである方だ。けれど、今日はそうもいかない。


 隣には私の恋人本人、星波つむぎがいる。


 恋人事情に何かとうるさい相澤さんを、恋人の前でうまくやり過ごすことが私にできるだろうか。

 私は静かにリュックを背負い直した。


「今日もおうちデートだったん?」

「あーそうそう。ね? つむぎ」

「え、お、おうちデート……? 勉強で、その」

「そう。私たち勉強してたの。テスト期間そろそろだし」


 やりにくい。


 私もそう感じているし、つむぎも言葉や表情からもそんな感じが読み取ることができる。たぶん私は表情には出ていないと思うけれど。


「へ〜。それにしても瀬梨香の言う通り可愛いね、えーと、つむぎでいい?」

「ひっ……あ、は、はいっ」

「ひって……あたしそんな怖いか?」

「怖い」

「瀬梨香に聞いてねえよ……」


 つむぎと相澤さんの関係を水と油と前に表現したことがある。私は心配になりながらもあまりに的確な表現すぎて我ながら感心する。


 この二人は混ぜても混ざらないし、大変なことになる。


「それで。相澤さんはこれからどこ行くの? 私は帰る」

「ん、買い物」

「そうなんだ」


 相澤さんはマイバッグを掲げた。スウェットとダウンに、最低限のメイク。確かに嘘ではなさそう。


「帰んなら途中まで一緒にいかん?」

「えーもう少しエントランスでつむぎと話そうかなって思ってたんだよね」

「ならあたしも混ざろうかな。二人がどんな話してるのか気になるし」

「いやいやつむぎ困っちゃうし。相澤さんすぐ男男言うからさ?」


 つむぎの方をさりげなく見る。つむぎは気まずそうに目を伏せた。


「失礼な。まあでも確かに男慣れしてなさそう」

「言いかた……」

「私、相澤さんみたいに男の人とお話ししたこと、全然ないです」

「いや、あたしもそんなにない」

「嘘つき」


 私が相澤さんを睨むと、相澤さんはとぼけるように火災報知器のあたりを目だけで見た。


「それに私、」

「うん」

「え」と、私は勝手に声が漏れた。


 つむぎの目の色が変わる。


 とてつもなく嫌な予感がする。


「好きな人が……いるので」

「おお!?」

「えー!?」


 相澤さんがつむぎに体を向けて、両手をつむぎの小さな肩におく。私の大切なつむぎに触れないでほしいけれど、今はそれどころじゃない。


 つむぎは相澤さんに言ってはいけないことを言ってしまった。恋人に関することなんて、相澤さんの一番の大好物だから。そしてかなりまずい。


 その好きな人は、私だ。


「どんな人!? 顔ある?」

「流石に顔はついてますよ……?」

「いや、写真のことね」

「あっ、写真ですか? ええ、ええっと〜……」


 つむぎはつむぎの好きな人の方を見る。私はつむぎが助けを求めているのが分かって、頭をフル回転させた。


「初対面の人に好きな人なんて教えないでしょ。相澤さん、つむぎも困ってるしあんまり詮索するのやめたら」


 我ながら自然に、それでいてつむぎへの深堀りを止められそうなことを言えた気がする。相澤さんは私の言葉に不満そうに「はぁ?」と声を上げた。


「瀬梨香は気になんねーのかよ」

「うん」


 だって私だし。


「どんな人?」

「私の話聞いてた? 相澤さ――」

「同じ大学の同じ学部で、背が少し高くて、まじめで、優しい人です」

「えっ」

「うわー、法学部はあんま詳しくないな。誠実系か、確かに好きそうだな」


 つむぎは私の予想に反して私の特徴を話し始めた。


 私はとんでもない勘違いをしていたかもしれない。


 つむぎのあの視線の意味は助けを求めていたのではなくて、もしかすると相澤さんに「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」を教えてもいいかのアイコンタクトだったかもしれない。


 つむぎは相澤さんと私の会話を聞いていたことがある。だから私が相澤さんに恋人のことをかなり聞かれていることをつむぎは知っている。

 つむぎは優しい。きっと、私が相澤さんに恋人のことを聞かれないようにするために「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」を、相澤さんに教えようとしているに違いない。


 私が面倒ごとに巻き込まれないように。


 つむぎのことを優しいと思う反面、それはあまりにめんどくさいことになるからやめてほしいと切に願う。


 それに私は相澤さんに「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」を教えたくない。この関係の名前を知っているのはつむぎと私だけで十分だ。


「みんな恋してるんだね~。あ、相澤さんそういえばこの前のデートどうなったの?」


 私は話を私の話から逸らそうとする。私はあえてつむぎを見ない。


「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」を相澤さんに教えたいつむぎと、それを教えたくない私。二人のよく分からない戦いが始まってしまった。

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