思い出したこと

第35話

「よーし、始めよー」

「おー!」


 つむぎと私は拳を天井へ向けて突き上げる。


 大学の講義は全部終わって、私もつむぎもテスト期間に入った。そんなわけで、テスト勉強と期末レポートを片付けるために私たちはつむぎの家に集まった。


「それにしても、一週間って長いね」

「うん。長い」


 つむぎは頷いて、ノートパソコンを開いた。私のうるさい起動音とは違って、つむぎのものは電源をつけても静かだ。パソコンに詳しくないけれど、きっといいものなのだろう。

 

 それよりも。


 私はつむぎを見る。一週間ひさしぶりに見るつむぎに胸がぎゅっと締めつけられて、苦しい。


 二文字の気持ちを痛いほど感じる。

 それだけじゃない。つむぎに触れたくて、つむぎをぎゅーってしたくて、つむぎとキスをしたい。


「……」


 最低だ。


「せっかく瀬梨香と会える日なのに、テスト期間と被っちゃったね」

「……そうだね」


 私たちは恋人同士になったけれど、適度に距離を取っていた。


 つむぎの記憶のことがあるからだ。


 検査結果によると、つむぎが記憶を失う前につむぎと深く関わっていたから、私がつむぎの過去を思い出すきっかけになる可能性が高いらしい。一気に記憶を取り戻すとつむぎに負荷がかかるから、私たちは控えめに会うことに決めていた。


「つむぎはさみしかった?」

「さみしかったよ。瀬梨香が家に来るようになってから、この家がなんだか広く感じる」

「そっか。私もさみしかった。家は狭いけど」


 私が自嘲めいたことを言うと、つむぎは困ったように苦笑いした。


「私、瀬梨香ともっと一緒にいたいから、ほんとうはこっそり会ってもいいのかなって思ってる。だって瀬梨香といても私が記憶を全て思い出すかどうかなんて分からないし」


 私は頬杖をつく。自分の頬のやわらかさがなんだか気持ち悪い。


「半分は賛成。私もつむぎともっと一緒にいたい。それに、つむぎは私と再会するまでの五年間で何も思い出さなかったから、記憶を取り戻すのにはそれぐらいの時間がかかるってことだろうし。単純に五年間週に一回しか会えないのはちょっとしんどい」

「ね? それなら」

「で! も!」


 私がつむぎの表情が明るくなったのを見て、逆説の言葉を強く言った。それにつれてつむぎの姿勢がシャキッと伸びる。


「すごいお医者さんがそう言ったってことはそうすることが最善ってことなんでしょ? 私のせいで万が一つむぎがパニックになったり、つむぎの身に何か重大な事が起きるの、絶対に嫌だ。だから一応、念のため。会うのはこれくらいのペースがいい」


「そうだけど、」つむぎは頬を風船みたいにぷっくり膨らませた。


 その顔は可愛すぎるのでやめてほしい。

 私はあまりの可愛さに直視できなくなった。


 私は私の意志がつむぎによって簡単に揺らぐことを知っている。


「瀬梨香は我慢できるの?」

「できるよ」


 私は即答した。

 つむぎのことが好きでも、五年も会うことができなかったのだから。


「そっか……。瀬梨香はまじめだね」

「……よく言われる」

「そういうところも好き」

「なっ……」


 私は急に放たれたつむぎの「好き」に、胸を射止められた。私は顔をつむぎに見られたくなくて、パソコンの影に隠れる。


 やっぱりつむぎは流れ星みたいだと思う。


「と、とにかくっ。勉強しよ」

「ふふ、うん!」


 私は画面の端からつむぎを覗く。つむぎは意地悪な笑顔を浮かべていた。


「つむぎはテストとレポート、どれくらいあるの?」

「テストもレポートも五つだよ」


 つむぎは「五」と言って片手を開いて私に見せた。


「やっぱり法律学科のつむぎの方がテストが多いね。私はテストが三つで、レポートが五つ」

「あんまり変わらないよ」

「いやいや。つむぎの学科に比べたら大したことないよ。法学のテストって難しいし。刑法やってたら分かるけどさ」

「それなら刑法の勉強する? 私たちの共通の科目だし」

「そうだね。そうしよっか」


 私は十五回ぶんの刑法のレジュメをリュックから取り出す。十五回ぶんは流石に分厚くて、クリアファイルが苦しそうにその口を歪ませていた。



「瀬梨香、私休憩するね」

「分かった」


 私が学説の批判点を暗記していると、つむぎは席を立ってぐーっと伸びた。私はそんなつむぎの仕草すら可愛く見えて、慌てて部屋の時計に視線を逸らした。


 もうこんな時間か。


 窓も同時に目に入る。外はすっかり青黒くなっていた。


「私も休憩する。私たちだいぶ集中してたね」

「うん。私ソファ行く」

「私も」


 二人がけのソファに私たちは腰を下ろす。つむぎが左で私が右。それがいつの間にか定着していた。


「だいぶ勉強進んだ〜。一緒の科目を一緒にやったら早いね」

「うん。これなら少なくても刑法は大丈夫そうだね」


 つむぎはこくりと頷いて、シンプルなマグカップを手に取った。その中にはさっきつむぎが淹れてくれたレモンティーが入っている。私のは勉強中に飲み干してしまった。


 つむぎがマグカップを口につけて、レモンティーを静かに飲む。私はそんなつむぎの動作から目が離せない。


 つむぎの湿った薄い唇。上下する喉。レモンティーの甘くて苦いにおい。


 よくない気持ちが、拡散するコーヒーシュガーのようにじわっと広がっていく。


「私、瀬梨香と勉強すると集中できる」


 つむぎはマグカップを両手で大切そうに握る。


「普段瀬梨香のことばっかり考えてあんまり集中できないんだけど、瀬梨香が近くにいると安心してちゃんと勉強できるんだ」

「!」


 心臓が、痛む。


 嬉しい反面、心臓に悪すぎる。

 つむぎはどうしていつも、そんなことを突然言うのだろう。


「瀬梨香は?」

「え、私? 私は逆だよ。つむぎがそばにいるっていうことが、それはそれであんまり集中できない。……つむぎのこと、気になるから」

「そうなんだ?」

「そうだよ」


 つむぎはテーブルにマグカップを置いた。そのときに鳴る、こと、という音が聞こえるくらい、私はじっとつむぎの行動一つ一つを見ていた。


「やっぱり私、瀬梨香のこと好き」

「え!? きゅ、急になに」

「好き」

「うう、やめてよ」

「照れてるの? 可愛い」


 つむぎは私の頬を指先でつんつんする。そのときに感じるやわらかさは、あまり悪いものではない。


「私のこと気になって勉強に集中できないの、可愛い」

「そういうことね……。照れないわけないし、私は可愛くな――」


 つんつんしていたつむぎの手が頬にぺたりとくっつけられた。私は咄嗟に目を閉じる。


 砂糖の甘さと紅茶の香り、レモンの苦味が口先にふわりと触れた。

 レモンティーと、つむぎの温度が、微かに私の唇に残る。


「かわいい」

「っ…………」


 つむぎはどうしていつも、そんなことを突然するのだろう。


「つむぎ、ずるい」


 つくづく私はつむぎに振り回されてばかりだ。


 私はつむぎに仕返しできずに、つま先でつむぎの足を弱く蹴った。

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