第33話
「え……?」
つむぎの驚いた瞳に私が映っている。私はつむぎから言われる言葉が怖くて目を伏せた。
「驚くよね、こんな嘘」
「私、怖かった。私がずっと好きだったつむぎに、好きな人とか、恋人ができていたらすごく嫌で……。それだけじゃない。直感的に、私のことをまた忘れられるんじゃないかとも思った」
つむぎのこと、何も知らなかったくせに。
「だから恋人だったなんて嘘をついたの。……正直、つむぎが記憶を失った、私を忘れてしまったっていうショックで気が動転してたからこんな嘘をついたっていうのもあって……。これは全部言い訳ではあるんだけど」
私は不安で押し潰されそうでつむぎを見ることができない。つむぎのフレアスカートだけが目に入る。
それにつむぎは相槌一つ打たないし、頷いているのかも分からないから、今つむぎが私の嘘を聞いてどんな風に感じているか、私には分からなかった。
それでも、私は止めない。
「本当はずっと私の片想いで、私はつむぎのこと好きだったけれど、つむぎは私のこと、好きじゃなかったんだ」
「だからその、私は、つむぎの恋人じゃなかった」
「本当に最低で、最悪な嘘だよ……本当に、ごめん」
「瀬梨香」
私は不意に、つむぎに抱きしめられる。
「つ、つむぎ?」
「教えてくれてありがとう、瀬梨香。ふふ、確かにひどい嘘だね」
「ゔっ……」
私はつむぎの「ひどい嘘」という言葉にどきりとしたけれど、つむぎが笑い声混じりに言うから、私は不安が強まることはなかった。
「でも、瀬梨香は嘘なんかついてないよ」
「…………え?」
私はばっとつむぎの方を見る。抱きしめられているから、つむぎの耳と綺麗な髪しか見えないけれど、私は確かにつむぎを見た。
「私は瀬梨香と恋人だったってこと疑いもしなかったよ。確かにその嘘がなかったら私、私のこと好きとか、恋人になってくださいとか、キスしてもいい? なんて瀬梨香に聞かなかったと思う。それに、ひょっとしたら瀬梨香のことこんなに好きにならなかったかも」
「うっ、うん……ごめんなさい」
私はつむぎを抱きしめ返す。
温かくて、ふわふわした、つむぎの優しいにおいがする。
「謝らないで? 瀬梨香。嘘のことでいっぱい悩んだよね」
「…………うん。たくさん。なやんだ」
つむぎは私の頭を優しくそっと撫でて、続ける。
「でも、瀬梨香があのとき私に嘘をつかないで本当の関係を言っていたとしても、ちょっぴり今より遅かっただけで、いずれ私は瀬梨香のことを好きになっていたと思う。私のことをたくさん考えてくれる瀬梨香のまじめさとか、優しさみたいなものは、嘘か本当かなんて関係ない、瀬梨香の好きなところだから」
今度は私が相槌一つ打てずにつむぎの言葉をじっと聞く。つむぎの言葉はどれも私のことを包み込むように優しくて、苦しくて、温かい。
私はまた、目のあたりがじんとしてきた。
「それに私、人と関わることが苦手で、初めは瀬梨香ともうまくお話できなかった。けど、瀬梨香は初めから他の人とは違うところがあったの。瀬梨香とお話しても、不安とか、緊張感がなかった」
「そう、なの?」
「うん。それはたぶん前に一緒にいたからなんだって思ってたけどね? 後になってそれはたぶん、一緒にいたからってだけじゃないことに気づいた。きっと、記憶を失う前も、私にとって瀬梨香は特別な人だったんだよ」
つむぎはにまっと笑っている。
「それはっ……」
「だから瀬梨香は嘘なんてついてない」
「そんなっ、そんなの、分からないじゃん」
私は声が上擦る。
きっと、前のつむぎにとっても私が特別だったなんてことは、きっとない。つむぎは私に記憶のことを何も言わないまま、私に何も告げないまま、私の前から姿を消したのだから。
「でも瀬梨香は記憶を失う前の私に、好きじゃないって、嫌いだって言われてないんだよね?」
「言われてない、けど……」
「疑わしきは被告人の利益にだと思う」
「なっ……」
疑わしきは被告人の利益に。
有罪か無罪か分からないときは被告人の利益を尊重して、無罪とする原則のことだ。
つむぎの言ったそれは、刑法の講義の何回目かで習ったものだ。
前のつむぎが私のことを好きかそうじゃないか分からないのなら、好きだったことにする、だなんて、あまりにも私にとって都合が良すぎると思う。
けれど、私はそんな都合が良すぎることを望んで嘘をついたのだから、つむぎの理論を否定はできなかった。
「私は記憶を失う前からきっと、瀬梨香のこと好きだったよ」
「つむぎ、やめてっ。これ以上言われたら私」
ああ、やっぱりだめだ。
私はつむぎの言葉に、いつもいつも信じられないほど弱い。
いったん引っ込んだ涙がまた熱くなってきて、視界が水面の中で目を開けたときみたいにぼやけていく。
「やめない。瀬梨香が泣いてるところ好きだもん。震える声、綺麗な涙、瀬梨香の表情。全部全部可愛い」
「私はみせたくないっ、可愛く、ないし」
「可愛いよ、瀬梨香は」
「っ〜〜……」
「続けるね? だからきっと、私はずっと前から」
つむぎの手が緩んで、つむぎは少し体を引いた。心臓が強く、音が聞こえるほど強く跳ねる。
私はつむぎのしたいこと、これから私たちがすることが分かって、瞳から星の光を遮断した。そのとき、堪えようとしていたものが溢れて、零れた。
そして。
冬に冷やされた私の唇に、つむぎの体温がそっと灯る。
「恋人だったんだ。あなたの」
「っ! それは――」
私がつむぎについた、たった一つの嘘。
「うん」
つむぎは頬を赤らめて、私に笑いかけた。えくぼがつむぎの頬に影を作る。
つむぎはいつも、怖いくらい私に私の欲しい言葉をくれる。
つむぎは私の嘘でさえも、真実に変えてしまう。
涙をぼろぼろ零しながら、私も目いっぱいつむぎに笑って見せる。
すると、私は壊れたように笑顔を止めることもできなければ、涙を止めることだってできなくなった。つむぎに泣いてるところが好きって、言われたからかもしれない。もうよく分からなくなってきた。
「つむぎのばか」
「えっ」
「付き合ってなんてなかったのに、つむぎはわたしのまえからいなくなったのにっ、そんなわけ、ないじゃん」
「そう思うなら今は私だけを見て? 記憶を失う前の私じゃなくて今の、今の瀬梨香のことをちゃんと好きな私を」
「つむぎ、」
恋人だったんだ。あなたの。
つむぎが私に返した、嘘から本当に変わった言葉が頭の中に巡る。この言葉はまた嘘と捉えることだってできる。
本当のことはつむぎが全てを思い出さない限り、分からないのだから。
でも、そんなことが私にできるはずなかった。
「うん。私、見るよ。つむぎのこといつまでも、ずっと」
まるで、何万年前から変わらず輝き続ける、あの星を観測するみたいに。
「うん。そうしてくれたら私も嬉しい」
「つむぎ」
私はつむぎに近づいて、両手でつむぎの柔らかなほっぺたに触れる。温かくも、冷たくもない。
私はつむぎがくれた温もりを返すように、二文字の気持ちをつむぎに伝えるように。そっと唇を重ねた。
「……お返し」
つむぎの顔がもっと赤くなる。
「うう、瀬梨香ずるい」
「それはお互いさま。可愛いよ、つむぎ」
「うう〜……。瀬梨香とキスすると、いつもしょっぱい」
「……誰のせい」
私たちはどちらからともなく笑う。笑うと、冷たい風で乾いた涙がぱりっとした。
今なら名前も知らない、けれど五年前から変わらず輝き続けているあの一等星に、手が届くような気がした。
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