第29話
「うそ……?」
心臓がばくばくして、冷や汗が滑り落ちる。その感触が気持ち悪くて、慣れているはずの私の部屋が、居心地悪く感じる。
瀬梨香と私の間にある数十センチに、言い表せない緊張が見えない厚い壁として立ちはだかっているような感じがした。
「ほんとうはね、つむぎにいつか言わなくちゃいけないことだったんだ」
「……うん」
「ほんとうは私、つむぎの……」
「私の?」
「つむぎの……」
「の?」
「つ、む、ぎ、の~〜」
「私のっ!?」
瀬梨香は気まずそうに目を伏せた。私は身構える。
けれど、それから私の名前までは言うもののなかなか嘘のことを切り出さない。それだけ言いにくいことなのかな。
瀬梨香はまじめで、優しい。
だからきっと、瀬梨香が嘘をついたのには何かの事情があるはず。そうじゃなくてもその嘘はきっと、私のためを思ってくれているような優しい嘘だと思う。
けれど、瀬梨香がこれだけ切り出しにくそうにしている様子を初めて見る。
私に好きって、素直にいっぱい言ってくれる瀬梨香が。
だからもしかしたら瀬梨香は私に、かなり酷い嘘をついているのかもしれない。
瀬梨香がついた嘘の中身が、瀬梨香の心の中が、とても気になる。
「……ごめん、すぐそこまで出てきそうだけどやっぱりもう少し待ってほしい」
瀬梨香は小さく両手を合わせた。
「えっ。気になるよ、瀬梨香」
「そうだよね、つむぎと恋人になったことで舞い上がりすぎてその勢いのまま言いそうになったけど、まだ、少しだけ心の準備ができてなかった」
「臆病で、ごめん」
「でも気にな――」
瀬梨香は不意に私を手で引いて、私をそっと、ぎゅっと抱きしめる。
「せりか?」
「さっき、私のこと抱きしめてくれようとしたよね。ごめんね肩を押しちゃって」
「! ……それは、ぜんぜん気にしてない」
本当は、嫌われちゃったんじゃないかって、ちょっぴりドキッとした。
瀬梨香も私についたらしい嘘が、これぐらい些細なものだといいけれど。
瀬梨香の体温が徐々に伝わってくる。外でしたときよりも瀬梨香の肌の感触や、熱。やわらかいところと、かたいところ。瀬梨香の体の情報を直接感じる。
心臓がうるさい。
重なっていた二つの鼓動が徐々にずれて、瀬梨香の鼓動も聞こえてくる。
前に外で瀬梨香に抱きしめられたときは瀬梨香のにおいだけしたけれど、今は瀬梨香のにおいが少しで、自分の家のにおいがする。
「つむぎ」
瀬梨香は私のことをもっと強く抱きしめる。
落ち着く。でも落ち着かない。
瀬梨香が私についた、たった一つの嘘が私の頭の中に残り続けている。それほど気になって仕方がない。
瀬梨香の反応からして、かなり言い出しにくいような、私たちにとって相当重要な嘘だってことは分かった。けれど、瀬梨香が私に嘘をついたこと自体まだあまり信じることができないし、いつそれをついたのかも見当がつかない。
瀬梨香はいつ、どこで、どんなタイミングで。どんな嘘をついたのだろう。
もし、瀬梨香がその嘘を私に打ち明けたのなら、どうなってしまう嘘なんだろう。
気になってしまう。
「嘘のこと、私の熱が下がったら絶対つむぎに言うから、今は許してほしい」
「!」
瀬梨香は私の心の中を覗いたように、私の耳元でささやく。
耳たぶに触れる瀬梨香の吐息がくすぐったい。
全身が熱すぎて、溶けてしまいそう。
私は瀬梨香を抱き返す。
「……わたし、瀬梨香が私にどんなひどい嘘をついていても、きっと受け入れられるし、許せるよ」
「だって、私、瀬梨香のこと好きだから」
「つむぎ……」
瀬梨香は私のことをもっと強く抱きしめる。瀬梨香のいつもより高い体温が私を包んで、安心させてくれる。
「私も本当はつむぎなら許してくれるって思ってる。つむぎは私なんかよりもずっと優しいから。でも、これは自分の勇気の問題なんだ」
「うん。分かった。瀬梨香の好きなタイミングで言って? 私、待ってるから」
「……ありがとう」
「私もつむぎのこと、好きだよ」
瀬梨香が震える声で私にささやく。同時に、瀬梨香の両手が私の背中から離れる。それに合わせて私も瀬梨香の腰から手を離すと、瀬梨香に髪を触られた。
瀬梨香の指先がつめたい。
それはきっと、私が熱いから。
「せ――」
私が好きな人の名前を口にしようとしたところで、それが瀬梨香によって阻止された。
「さっきも言ったけど風邪、移したら私が看病するから」
私の唇にやわらかい感触が触れる。
瀬梨香と私の赤色が混ざって、離れる。
瀬梨香が私に何をしたのか、私が瀬梨香に何をされたのか、それを理解した瞬間に血が沸騰しそうなほど顔がもっともっと熱くなっていく。
私は瀬梨香と、二回目のキスを交わした。
「嘘もつむぎに伝える。看病もする。約束ね」
「やくそく……」
「うん、約束」
瀬梨香は私の手を取って、小指を私の小指に絡めた。
「……」
「……」
「わーーっ!」
瀬梨香は叫んで、布団の中へ潜ってしまった。
「わーーっ!」
私も叫んで、瀬梨香が潜った布団の上から覆い被さる。
瀬梨香に奪われた唇を硬く結ぶ。
自分からキスをするのとは全然違う。
好きな人にキスをされるのって、こんなに苦しくて、ドキドキして、幸せな気持ちになるんだ。
私は顔を深く深く埋めると、瀬梨香の背中の感触が布団越しに伝わってくる。温かい。
瀬梨香と私はときどき叫びながら、しばらくそのままだった。
「改めてありがとうつむぎ。この前は二泊もさせてくれて」
「ううん。むしろ、お薬とか用意できなくてごめんね」
「いやいや。一人じゃないだけ、つむぎがいてくれただけですごい助かった」
「瀬梨香……ありがとう。そう言ってくれると嬉しい」
瀬梨香は照れくさそうにへにゃりと笑った。
夜、今日全部の講義が終わって、大学の構内を瀬梨香と歩く。
あれから、瀬梨香が嘘をついたことを告白してから、三日が経っていた。瀬梨香はあの日の翌日には熱は下がっていたけれど、その間私たちは一度も会わなかった。
念のため風邪を移さないようにするというのと、私の記憶のことで少しだけ瀬梨香と距離を置く必要があるという理由から、会うことを控えていた。
「それにしても今日は寒いね。雲もないし」
「放射冷却? って言うんだっけ。北海道に比べたらこっちは暖かいと思うんだけど、寒いの?」
瀬梨香は夜に白い息をほうっと浮かべた。大学の白い街灯に照らされて、瀬梨香の輪郭がくっきりと見える。
瀬梨香は、そんな普通のことが絵になってしまうような、綺麗な人だと改めて思う。
「なんか、こっちに慣れちゃって全然寒く感じるかな。引っ越してきたときはすごく暖かく感じたけどね。あ、でも病み上がりっていうのもあるかも」
瀬梨香は突然歩くのをやめて、上を向いた。
「あ、見て、つむぎ。今日は星がよく見えるよ」
「あ、ほんとうだ」
瀬梨香に言われて夜空を見上げると、星くずがいくつか散らばっている中に、オリオン座が集まって輝いているのが空の下の方に見えた。
私は今、天体や星座は好きでも嫌いでもない。
私が天体を好きだった気持ちを取り戻したとき、私は今と同じ空を見上げてもまるで違うように見えるのかな。
瀬梨香のことも、違う風に見えてしまうのだろうか。
私は私が好きだった星を見るのをやめて、瀬梨香の方を見る。瀬梨香はまだ、その瞳に星を映していた。
私だけ見ていてほしい。
……なんて、なんとなく言えなかった。
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