第28話

「ただいま」


 私は家に着いてすぐ、コートも脱がずに私の部屋へ向かう。


「瀬梨香、開けるよ」


 私がドアに手をかけると、ぎしっとベッドが軋んだ音がした。


「おかえりつむぎ。でもだめ、開けないで」

「……どうして?」

「移すの、嫌だから」


 瀬梨香の声はドア一枚隔たれているけれど、朝よりは少し元気な声になっていると思う。


 それだけで安心する。


「分かった、ここから話しかけるね。瀬梨香、お話しても辛くない?」


 瀬梨香は小さく大丈夫と言って、ベッドが沈む音が聞こえた。


「熱はまだある?」

「少し? でも、夜よりも朝よりも下がってると思う」

「よかった、鼻水とかはない?」

「うん。熱と、だるさだけ」

「それなら最近流行ってる風邪ではなさそうかな。あ、そうだ、お水とプリン買ってきたから食べよ?」

「買ってきてくれたの? ありがとう」

「朝ごはん以外に何か食べた?」

「……食べてない、ずっと寝てた」


 私がドアノブに手をかけて少し開けると、瀬梨香は「だめ」と少し声を大きくした。


「でも、何か食べないと」

「そこに置いておいて」

「運ぶよ。私、風邪引きにくいし」

「知ってる。でも風邪引く可能性はゼロじゃないからだめ」

「ここ、私の部屋」

「うっ……」


 私も引き下がらない。一番瀬梨香が断れない言葉を瀬梨香に言うと、瀬梨香は黙ってしまった。


 今日の講義は全て、瀬梨香のことが心配で、全く頭に入らなかった。

 声は確かに元気になってはいそうだけれど、やっぱり直接瀬梨香を見てどんな感じなのかを確認しないと不安は残る。


 それに、瀬梨香のそばにいたいし、いてあげたい。


「ごめん、ちょっとずるかった……本当に瀬梨香の顔、見たいだけ」

「風邪移したくない」

「瀬梨香……」

「けど」


 瀬梨香が寝返ったのか、また、ベッドが軋む音がした。


「移ったら今度は私が看病する」

「うん! お願いするね」


 私は私の部屋のドアを開ける。瀬梨香は昨日貸した私の寝巻き姿で、だるそうにしているのがすぐに目に入った。そんな瀬梨香の頭から、ねぐせがぴょこんと横から出ている。可愛い。


 昨日とか今朝よりは具合は悪くなさそうで安心した。それと同時に、いつもの私の部屋とは違って、瀬梨香のにおいが鼻をくすぐった。


 瀬梨香の、石鹸のいいにおい。


 このにおいを嗅ぐと、瀬梨香とキスをした昨日のことを思い出す。


「……」


 思い出して、胸が苦しくなる。私は瀬梨香のことを見ていられなくなった。


「……」

「……?」


 瀬梨香の方をちらっと見ると、瀬梨香も窓の方を向いていて、目が合わない。


 気まずい空気が漂う。基本的に瀬梨香といて沈黙が気まずいと感じたり落ち着かない、いずい感じはしない。でも今はすごく微妙な空気感で、心臓がぞわぞわする。


 きっと、キスをしたことを瀬梨香も意識しているからだと思う。


 瀬梨香はあの後すぐに寝てしまったとはいえ、キスをしたことを覚えているはずだった。


 ……瀬梨香も、初めてキスをしたから。


「あ、せ、瀬梨香、これお水ね」

「あ! ありが……とう」


 瀬梨香がペットボトルを受け取る。

 また沈黙が訪れる。


「……」

「……」


 気まずい。

 そんな沈黙を破ったのは瀬梨香だった。


「つむぎ、ずるい」

「え?」


 瀬梨香はペットボトルをぎゅっと握る。柔らかい素材だからか、ペットボトルはペコッとへこんだ。


「ずるいって……何が?」

「…………私から、私からするって言ったのに」

「あ、え、えっと、ごめんなさい!」


 瀬梨香の顔は真っ赤になっている。思った通り、瀬梨香も昨日のことを意識していたみたいだ。

 瀬梨香が言っているのは、瀬梨香からするって言ったキスを私からしてしまったことで間違いなさそう。


 私が瀬梨香のことを愛おしく思いすぎて、私からキスをしてしまったことは私も反省はしている。


 それでも。


「……責めてるわけじゃないから謝らないで。私、気が動転しすぎて、寝ちゃったから何が何だかあんまり覚えてないけど、すっごく嬉しかった」

「……うん」


 私は後悔はしていなかった。私からキスをしたことで、瀬梨香に抱いていた、霧がかかっていた自分の感情を知ることができた。「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」にも、きっとまた前と同じ名前をつけることができるのだと思う。


 それに、キスをしたいと思ったことも、泣いている瀬梨香を抱きしめたくなったのも、苦しく高鳴る心臓も、今瀬梨香を見て安心するのも。その全てが瀬梨香のことを好きなんだって教えてくれて、それがとてもしっくりくる。


 この「好き」は私が思い出した感情じゃなくて、私が瀬梨香に新しく抱いた感情であってほしい。


「私も、瀬梨香とその……キスしたことで」

「わーっ!」


 瀬梨香は私の言葉を遮るように叫んだ。


「わっ。瀬梨香?」

「私は言わないようにしてたのに!」


 瀬梨香は布団の中に潜って、隠れてしまった。


「え、ええ? せ、せりかー……出てきてー?」


 瀬梨香は布団の中でもぞもぞ動いている。すごく可愛い。


「その単語、なるべく言わないで。心臓が爆発する」


 瀬梨香は布団から頭だけを出して、静かな口調で私に言った。それでも半目の瀬梨香と目が合わない。

 

「う、うん。分かった」


 瀬梨香は私に言われるとダメージ? を受ける単語が何個かある。最近はもう違うけれど、瀬梨香は「瀬梨香」と私に名前を呼ばれるだけでかなり……ダメージを受けていた。

 かくいう私も、自分の頭でキスを思い浮かべるだけで胸が締めつけられるから、瀬梨香にキスって言われたら瀬梨香がダメージを受けたときと同じ反応をすると思う。


 瀬梨香はまだ目を合わせないまま、ゆっくり口を開いた。


「つむぎ、つむぎはさ、その〜、ことで、何か変わった? 私はいろいろ変わった。つむぎのことがもっと好きになったし、つむぎともっと一緒にいたいって思った」

「そう、なんだ」


 瀬梨香の言葉で、胸がとくと鳴った。


 私を必要としてくれていると分かる言葉を、さらに瀬梨香が言うことで一つ一つが心地よくて、幸せな気持ちにしてくれる。

 胸が温かくて、優しくて、勝手に口角が緩む。


 この気持ちは、私も瀬梨香に伝えないと。


「……変わったよ。初めは瀬梨香に好きって言われてドキドキしたけど、その二文字の気持ちの受け取りかたが分からなくて瀬梨香の気持ちに応えることばかり考えてた」


 私は布団に手を差し込んで、瀬梨香の手を握る。熱くて、手のひらが溶けてしまいそう。


「でも、正確には瀬梨香とキスをするから前なんだけど、キスをしてからいっそう、瀬梨香の気持ちに応えたいと思う気持ちだけじゃなくて、私が瀬梨香のことを求めたくて、瀬梨香に私のことをもっと求めてほしいって、自分のわがままも抱くようになった」

「その気持ちの名前が、キスをした後ではっきりしたの。これが瀬梨香と同じ気持ちなんだって」

「…………また言ったつむぎ」

「あっ」


 瀬梨香は手を握り返した。黒くて綺麗な瞳はまだ、私を映さない。


「つむぎ、さっきからまるで、その……。いやというかあのとき」

「うん?」


 瀬梨香はごにょごにょと何かまとまらない様子だった。


「つむぎ、その、うっすらと覚えてるけどさ、後さ……」

「あ、うん。私の変わったところ、改めて短く伝えるね」

「ま、待って。心の準備がまだ」

「私、瀬梨香のことが好き」

「~~~~っ!」


 その、たった二文字を言うだけで、心臓の拍動がうるさくて、苦しい。瀬梨香に言われることの方が多かった私は、その二文字を瀬梨香に言う方がもっとドキドキすることを実感した。

 それが余計に、私が瀬梨香のことを好きなんだってはっきり教えていた。


 瀬梨香の顔ももっともっと真っ赤になっていく。瀬梨香は驚いたように目をいっぱいいっぱい開いて、その夜空みたいな黒に一瞬だけ、ようやく私を映した。


「だから――」

「待ってつむぎっ、わたし」

「待たない。瀬梨香、こっち見て?」


 私は両手を瀬梨香の温かい顔にそっと触れる。瀬梨香とやっとしっかり目が合った。そんな瀬梨香の小さな夜空には、ぼやけた星みたいな光がちりばめられていた。


「瀬梨香、前に言ってたよね」

「私のためじゃなくて、つむぎが私のことを好きになって、『星波つむぎと星空瀬梨香の関係』に名前をつけたくなったときに言ってって」

「……うん、言った。言ったけど、待って、ほしい」

「瀬梨香、お願いがあるの。……一回目は断られちゃったけど」

「つむぎっ、だめ」


 瀬梨香と私の視線が私たちですらほどけないほど絡みあう。


 瀬梨香の瞳に隠れた夜空が、うるうると輝いた。


「私の恋人になってください」


 私は笑顔で、瀬梨香に伝える。


 瀬梨香の瞳から流れ星が一筋零れて、頬を伝って流れ落ちていった。


「そんなの、そんなのっ、わたし、またことわれるわけないじゃん」


 瀬梨香はまた、顔を大粒の涙でぐしゃぐしゃになった。


 私はおかしいかもしれない。


 瀬梨香の泣き顔がすごく可愛くて、とても愛おしい。


 好き。


「瀬梨――」


 私が瀬梨香を抱きしめようとしたところで、瀬梨香は私の肩を押した。


「でも、まって」


 瀬梨香は涙を流しながら、声を震わせながら続けた。


「私はつむぎが記憶をなくして、私のことを覚えていなかったとき、すごくショックだった。でも、それでも、それに向き合おうと思えたのはつむぎが私のことを拒絶しなかったから」

「つむぎのそばに今こうして私がいるのは、つむぎが私のことを拒まなかったから」

「つむぎが私にキスをしてくれて、好きって言ってくれるのも、つむぎがこんな私のことと、私のつむぎへの気持ちと向き合って、受け入れてくれたから」

「あれもこれも全部、五年前につむぎが私の恋人で、私がつむぎの恋人だったからだと思うの」

「そ、それってどういうこと?」

「だから私、つむぎに言わなくちゃいけないことがある」


 瀬梨香は涙を拭った。寝巻きの襟元をくしゃりと掴んで、苦しそうに息を吐く。

 私はそんな瀬梨香すら綺麗に見えて、うるさい心臓の音がもっと大きくなるのを感じた。


「言わなくちゃ、いけないこと……?」

「うん」

「私がつむぎについた、たった一つの嘘のこと」

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