第26話

「つむぎっ、まって」


 つむぎが変だ。


 変というか、記憶が少し戻った影響なのか、これまで以上に前みたいな距離の詰めかたになってきている。それだけならいいのだけれど、前のつむぎとは違って、恋人がするようなことをしようと詰め寄ってくる。


 つむぎは私の向かいの席を立って私の隣に座った。つむぎのふわふわしたにおいが近くに感じる。


 心臓に悪いと思う。


「わたし、前に好きじゃないのに恋人がするようなことをするのって健全じゃないってつむぎに言った」


 それを言ったのはちょうどここ、つむぎの家でお寿司を食べたときと同じ日だ。


 私がつむぎにキスをしそうになった、あの日だ。


 私の考えは変わっていない。というより、変えてはいけない。


 つむぎは表情を変えずに私を見る。


「瀬梨香がそう言ったのは覚えてる」

「でも、私は瀬梨香のことを好きかどうか確かめたい」

「それはっ」


 私も確かめたいことではある。さっきからつむぎの行動は、私のことをまるで好きかのようなものばかりな気がするから。


「瀬梨香のためにも、瀬梨香に恋をしていた私のためにも」

「っ……」


 つむぎの声色は真剣そのものだった。

 私はあの日、「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」に名前をつけるのはつむぎがつむぎのためにしてほしいとも言った。

 つむぎは今、つむぎ自身のために私とキスをして、名前をつけようとしている。つむぎのしたいことと私の言葉との間に矛盾はない。


 つむぎが私とキスをしてはいけないなんて道理はもうどこにもなかった。今日はお寿司だって来ない。


 接近するつむぎを止める術なんて、私は持っていない。


 ただ、あるとするなら。


「瀬梨香はキスしたくない……?」

「そんなわけない、むしろ、ずっとしたいって思ってた。でもっ、心の準備が、それに」

「それに?」

「キスは、私からしたい」


 道理がないにしても、つむぎは私の嘘、つむぎと恋人だったという嘘に基づいた動機で私とキスをしてもいいと思っているはずで。それが私の中でやっぱり許すことができない。


 だから、つむぎを止められる方法があるとするなら、あの嘘をつむぎに告白することだけだ。


 けれど、けれど、嘘を告白する勇気とつむぎとキスをすることを心の天秤にかけたとき、傾くのがどちらの方なのか、答えは明白だった。

 それならせめて、つむぎのことを好きな私からすべきだと思う。


「……せりか」


 つむぎは私の髪をすくって、私の耳にかけた。くすぐったくて、つむぎの指先に特別が宿っているように錯覚してしまう。


 体温がこれまで感じたことないくらい高い。


 つむぎから目を逸らすと、私がつむぎに選んだピンクゴールドの腕時計が光に当たって、きらりと目に入った。


「……私の話きいてた? つむぎ」

「瀬梨香の顔、赤くなってる。可愛い」

「〜〜っ、いっぱい泣いたからね」

「今の瀬梨香、よわよわで可愛い」

「……誰のせい」


 つむぎは私との距離を近づける。つむぎの鼻先が、私の鼻先に当たりそうなくらい近い。

 心臓が体の外へ飛び出していきそうなくらい、鼓動がうるさい。


「まってつむぎっ」


 声が上擦る。私がつむぎの肩を軽く押すとつむぎの接近が止まった。つむぎの唇と私のそれが触れる寸前でお互いのおでこがこつんとぶつかる。


「つむぎは私と……キス、したいんだよね?」

「うん、したいよ」


 努めて冷静に話しているつもりなのに、動揺で勝手に喉が震える。

 つむぎは何の迷いもなく、まっすぐ私の目を見つめていた。


「キスって好きな人とするものだから、つむぎは私のこと好きってことじゃないの? それでもう確かめられてない?」


 私は最後の抵抗を試みる。つむぎは私の問いに「分からない」と溢した。


「分からないけど、瀬梨香とキスしたら何か分かりそうな気がする。それにこれまで名前のなかった、ただ特別なだけだった『星波つむぎと星空瀬梨香の関係』も変わりそうな気がする」

「……つむぎとキスしたらたぶん、『星波つむぎと星空瀬梨香の関係』も、私自身も全部変わっちゃう」


 その確信は私の中で確かにあった。

 つむぎの肩を押さえていた手がつむぎによって取られて、指が絡められる。私はその手に一瞬視線をやるとつむぎはいっそう近くに来ていた。額に汗が滲む。


「私はそれでもいいよ」

「ううん、それがいい」

「瀬梨香は?」


「っ……」


 ほんの、数センチ。


 つむぎが私のことを好きになるということ。

 つむぎが私を必要としてくれること。

 つむぎが、私とキスをしてくれること。

 私が望んでいた全てが、あと数センチで手に入ってしまう。


 けれど。


 手を繋ぐとか、抱きしめるとか、キス未遂ならまだしも、つむぎとキスをしたらもう後戻りできなくなる気がしていた。きっとつむぎもそれを感じている。

 もし私が嘘をついていなければこんなことにはなっていないはずだった。もし嘘がなければとっくに私はつむぎにキスをしている。


 ただあの嘘だけが私に最後のブレーキをかけていて、あの嘘を告白することがつむぎにブレーキをかける方法だと、私は心の奥底で分かっている。


 私はつむぎから逃げるようにテーブルに伏せた。


「! せりか?」

「つむぎからはキスは、やっぱりだめ。でも、キスはしたいから、私からする心の準備をする」


 本当は嘘を告白してしまうかどうかを決心するための心の準備も、兼ねているけれど。


「瀬梨香は私とキスしたこと、ないの?」

「……ない」


 恋人じゃないから、あるはずがない。キスどころかハグをしたのだってさっきが初めてだ。


「そうなんだ。それでそんなにためらってるんだね。ふふ、瀬梨香可愛い」

「さっきからつむぎ、なんか変だよ。それに私は可愛くない。つむぎの方が可愛い」


 あまりにも積極的すぎると思う。やっぱりつむぎは変だ。


「私にも分からない。瀬梨香が私のことで泣いてくれてから、ううん、もっと前から。瀬梨香のことしか考えられなくて、瀬梨香のこと、すごく愛おしく思う」

「……うん」

「瀬梨香は私のために泣いてくれる優しい人だよ」

「……そんなことない」


 私は伏せた顔が熱すぎて、眉間に皺を寄せた。少し、くらくらする。


「私が瀬梨香の気持ちに応えたいと思うのも、瀬梨香のことを愛おしく思うのも。私のことをこんなに大切に考えてくれる人がこの世界に瀬梨香しかいないって、気づかせてくれたから」

「つむぎの家族もそうだよ」

「でも、私のためにたくさん泣いてくれる人は、瀬梨香しかいないから」

「……うん」

「私のことをこんなに好きでいてくれる人も、瀬梨香しかいないから」

「……うん」

「私のことを二回も好きにしてくれるのだって、瀬梨香しかいないから」

「…………うんっ」

「だから、瀬梨香。顔上げて?」


 堰を切ったように、涙が溢れてくる。


 五年振りにつむぎと再会した、初回の講義を思い出す。


 つむぎにまた会えて、でもつむぎは記憶をなくしていて。それでも私とまた仲良くしてくれて、そして、こんな風に言ってくれて。


 本当に奇跡みたいで、嬉しいことだと思う。


 私はそのまま起き上がって、うるんだ視界でつむぎを見る。


「あ――」


 そっか。

 つむぎの言う通りだった。


 私は夢、または記憶を思い出す。あの夢――雪の降る外で、つむぎと見えない天体を観測する夢。


 あの夢でつむぎの顔がよく見えなかったのは、本当に泣いてたんだ。私。


「今日の瀬梨香は泣き虫だね」


 涙がそっと拭われて、頭がわしわしと撫でられる。


「……だれのせ――」


 つむぎの手が前髪からそのまま降りてきて、私の頬を滑る。


 つむぎのにおいがふわりと香る。

 私はつむぎが近づくことを許して、瞳を閉じる。


 唇に、つむぎのやわらかな体温が触れる。 


 心の中のブレーキも、つむぎを止める唯一の嘘も、肌に触れた雪みたいにつむぎの体温で溶けて消えてしまった。


 唇から体温が離れてから、私たちの間に少しの沈黙と、これまで聞いたことがないくらい速くて、うるさい心臓の音が下りる。

 それを破ったのはつむぎだった。


「…………しょっぱい」


 つむぎの顔が涙でよく見えない。けれど、つむぎはきっと、私を見ていた。熱を持った雫が一滴、私の手に落ちる。それが酷く冷たく感じて、自分がどれだけ熱くなっているか嫌でも思い知った。


「さっきの答えだけど」


「私、瀬梨香のことが好き」




夢と記憶、そして嘘 おわり

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る