第24話

「星空さん?」

「はっ。ごめん、ぼーっとしてた」

「考えごとですか?」


 つむぎが私の顔を覗くと、心臓がきゅんと跳ねた。

 久しぶりに見たつむぎの顔は相変わらず整っていて、可愛い。


「ううん。ちょっと寝不足でさー……さむ」

「ねぶそく」

「そう、寝不足」


 大学の構内から出てつむぎと歩く。外はすっかり暗くて、どこまでも澄んだ空気が肌をみるみる冷していく。


 つむぎの家で一緒に課題をしてから――相澤さんとエントランスで話をしてから一週間。二人の用事がいろいろと重なって、私とつむぎはその間一度も会っていなかった。

 たった一週間。たった七日。それなのにとても長く感じて、つむぎと会うのはずいぶん久しぶりに感じる。


 五年に比べたら大した日数じゃないのに。


「ちょっと遅くまで考えごとしてて」

「何考えてたんですか?」

「ん? つむぎのこと」

「えっ」


 つむぎは目を見開いて、立ち止まった。暗くてあんまり分からないけれど、つむぎの顔が赤い気がする。


 実際嘘ではない。私はつむぎとの関係や付き合いかたを、このつむぎと会っていなかった一週間で考え続けていた。


「バレるときまでに相手を好きにさせんのよ。その嘘がどうでもよくなるくらいにね」


 相澤さんの最低で最悪な言葉が脳内で再生される。

 相澤さんは本当に最低なことをしている。とはいえ、もう嘘をついてしまった以上、私も相澤さんと同類だ。

 そうだとするなら、私はつむぎのことを好きにしなくてはならない。私が嫌われる可能性を限りなくゼロにするために。


 けれど、今よりも深く関わっていた五年前のときですら、恐らくつむぎは私のことを好きだと思っていなかった。だから、私にはつむぎのことを好きにさせる自信なんてない。

 好きにさせられなくて先につむぎの記憶が戻って嫌われるよりは、私から嘘だと告白した方が何倍もいい。


 結局嘘だったと言わないでおくか言うべきか、一週間で考え続けたものの、ぐるぐるして、結論を出せず、私は決断しきれていなかった。


「……正直、つむぎのこと考えてない時間なんてないよ。何しててもどこにいても、つむぎは今なにしてるのかなーって気になる。会いたくもなる」

「私もです」

「えっ、つむぎも?」


 私はびっくりして、反射的に声が出た。


「はい。私も星空さんが今何してるのかな、とか、お話したいなあって、考えます」

「え、え? うわっ」


 私は動揺を隠せずに足がもつれて、危うくつまずきそうになった。なんとか踏ん張って振り向き、つむぎを見る。


「大丈夫ですか!?」

「うん……。さっき言ってたの、ほんと?」

「? はい」


 つむぎが私のことを考えているなんて、正直願望とか妄想でしか思っていなかった。まさか本人の口から私のことを考えているなんて出てくるとは。私はつむぎのことを見ることができなくなった。


 勘違いしそうになる。


 つむぎはたまに私のことを特別と言ったり、思わせぶりな発言をする。

 私はそのたびに勝手にドキドキして、同時に自意識過剰な自分に嫌気が差していた。つむぎの知り合いは私の知る範囲で増えていなかったから、そういう意味で私以外で考える人がいないのだと思う。


 それでももし、万が一。


 私の勘違いでも妄想でもなかったら。


 私はあまりの嬉しさに卒倒する自信がある。この前みたいに動揺して頭をぶつけるのは間違いない。


 つむぎが私のことを好きだったら、私は恋人だったのは嘘だったと、はっきり言えてしまうのだろうか。


「足元、暗いから気をつけてくださいっ」

「うん。気をつけるね、ありがとう」


 つむぎこそ優しいと思う。


「今の心配に、つむぎが私のことを本当に考えてくれてるのが伝わってきた。すごい嬉しい。それに、つむぎも私と話したいんだなーって思うと安心する」

「そうですか? なんだか私も星空さんにそう言ってくれて嬉しいです」


 つむぎが笑う。街灯に照らされて、つむぎのえくぼに影がくっきりとできていた。


「――ところでつむぎさん」

「あ……そろそろ言われるころだと思ってました」

「でしょ?」

「敬語なしと、瀬梨香は?」

「あぅ……」


 つむぎは困ったみたいで、視線が泳いだ。

 つむぎが名前を呼んでくれない理由は単純だった。


「まあ、一週間会ってなかったからね」

「うん……。そうなんで……そうなんだよね。久しぶりだと硬くなっちゃう。ごめんね」

「そんなそんな。全然無理しなくていいよ。私こそ意地悪なこと言ってごめん」


 頭を下げたつむぎの肩に手を置く。つむぎは顔をゆっくり上げた。


「それで、検査はどうだった?」


 つむぎは頷いて歩き出す。私もそれに続く。

 この一週間、つむぎが記憶の一部を思い出したことに伴って、つむぎは病院で記憶に関する検査を受けていた。名門大学の大学病院での検査らしく、かなり慎重に行われると一週間前つむぎは言っていた。


「記憶とか精神とか、内面に関する病気を検査をすることはやっぱり難しいみたいです。私がパニックになったりしてないかどうかを面談で確かめて、脳に異常がないかCTを撮ったりしました。結果的に、特に異常はなかったです」

「そうなんだ。……はあ、よかった」


 私は胸を撫で下ろす。

 これまでと同じように、つむぎは自分の記憶に関することを淡々と私に説明する。五年前から定期的に病院に行っている影響からか、つむぎは専門用語を当たり前に話す。それに普段とのギャップを感じた。


「ごめん、病院のことを思い出しながら話してたら敬語になっちゃった」

「ううん。でも、そういうのにも影響されるんだ?」

「うぅ、そうみたい」


 つむぎは顔を赤くしてうつむく。


 すごく可愛いと思う。


「つむぎ可愛い」

「え!?」

「聞こえなかった? 可愛いよ、つむぎ」


 つむぎは潤んだ瞳で驚いたように私を見てから、頬をもっと赤らめて、小さく「やめて」と言った。


「……え?」


 そんなつむぎの反応が照れているにしては、ちょっと熱っぽい。


 気のせい、か。


「……異常はなかったんだけどね」

「! うん」


 つむぎはうつむいたまま続ける。私はつむぎの放った雲行きの怪しい前置きに身構えた。


「瀬梨香は過去に深く関わっていた人だから、瀬梨香がトリガーになって、一気にいろいろ思い出して、錯乱したりするかもしれないみたいです」

「それは過去の症例からだよね。私も少し調べた」

「うん。私は今のところそんなことないけど、やっぱりそうなる人は過去にいたみたいですね」

「……ということは」

「うん。……ちょっとだけ、距離を置くことになるかも」

「そっか。そうだよね」


 ぎゅうっと胸がきつく締めつけられるような感じがする。


 つむぎと会う時間が減る。それは私にとってかなりきついし、嫌だ。


 けれど、最近つむぎは積極的に私と関わってくれていて、私は贅沢者だった。だからつむぎのためにもこれぐらいは受け入れなくてはならない。


 それに、つむぎにはやっぱり元気でいてほしい。


「ごめんね。記憶は少しずつ思い出した方がいいから……。もうこれ以上何も思い出さないかもしれないし」

「謝らないでよ。でもとりあえずつむぎ自身になんともなくて本当によかった。すごく安心した」

「うん。私もほっとした」


 私がつむぎの笑みを見て足元に視線を落とすと、つむぎはまた立ち止まった。私も一歩ぶん遅れて立ち止まる。


「瀬梨香はさ、私に会う機会が減ってさみしい?」

「そんなの、当たり前じゃん」

「私もおんなじ。私も瀬梨香に会えないのはさみしいし、この一週間もさみしかったよ」

「っ……」


 つむぎは自分の胸に手を当てた。自分の心音が冬の澄んだ空気に反響しているように錯覚するほど、はっきり聞こえる。


 やっぱり、つむぎが変だ。


 私の勘違いでも妄想でもなかったら。


 つむぎは、私に――。


「ありがとう。瀬梨香」

「……なんで? 私は何もしてないよ」

「ううん。瀬梨香は私にいろんなことをしてくれた」


 つむぎは私に一歩近づく。つむぎの金木犀のにおいがふんわり香って、余計に私の音を速めた。


「聞いて? 私ね、瀬梨香といっぱいお話したおかげで、苦手だったお医者さんの診察がちょっぴり嫌じゃなくなってきたの」

「そうなの? でもそれは、私のおかげじゃなくて、頑張ってるつむぎ自身のおかげだと思う」

「ううん。そうかもしれないけど、それだけじゃない」


 つむぎはもっと私に近づいて、私の手をそっと取った。


「検査してるときの不安な気持ちも、瀬梨香にまた会えるって思うと楽になった」

「瀬梨香のおかげで私、一人じゃないって思えたよ」

「っ!」


 つむぎが、にっこりと笑った。つむぎの言葉の一つ一つが、私の頭の中でこだまする。


「……そっか」


 五年前、私がつむぎにあげることのできなかったもの。

 そして、つむぎから記憶の話を聞かされたときから、ずっと私が欲しかったもの。


 自分の好きな人に自分が必要だって思ってくれるような、好きって気持ちが伝わるような、温かい気持ち。


 私は心が温かくなっていく。冬の寒さが気にならないほどじんとして、優しくて、ぽかぽかする。


「せ、瀬梨香!?」

「うん? どうしたの? つむぎ」


 何故か勝手に声が震える。つむぎはあわあわ慌てながら私の手をほどいて、私の両肩に手を置いた。


「どうして泣いてるの……?」

「え……?」


 私が瞬きをすると、生温かい雫が頬を伝った。


「あ、あれ? ほんとだ。言われるまで気づかなかった」

「せ、せりか」

「あ、ごめん、困るよね、だいじょうぶ」


 私は震える人差し指で涙を拭う。


「悲しいんじゃなくて、嬉しいの。ありがとうつむぎ。私のこと必要としてくれて……あれ?」


 嬉しいと思えば思うほど、幸せだと思えば思うほど、拭っても拭っても涙は溢れて、私の頬を温かく、そしてだんだん冷たく濡らしていく。


「どうしてだろ、なみだっ、とまらない」


 涙と一緒に溢れてくる二文字の気持ちが鼓動を速めて、視界が、世界がつむぎだけになった。

 つむぎ以外に映る景色と好き以外の感情はぐちゃぐちゃで、もうよく分からない。


「せりか」

「つむぎ……?」


 溢れ出る涙に、そっとつむぎが触れる。私は反射的に目を閉じると、つむぎの人差し指が私の涙で濡れた。街灯でつむぎの指がしっとりと光っている。


「瀬梨香のこと、必要だって、大切だって思うのは当たり前だよ」

「だって、私にとって瀬梨香は特別だから」

「!」


 特別。


 ――好きって、ある一人にしか抱かない特別な気持ちのことだと思うから。


 それは、私がつむぎに伝えた言葉だった。


「つむぎ」

「瀬梨――わっ」

「ありがとうっ、こんなわたしのそばにいてくれてっ。離れないでいてくれて」


 私は両肩に置いてあった両手の間を進んでつむぎの右肩にあごを乗せる。つむぎが私からもう離れられないほど、両手で強くつむぎを抱く。


 息をするたびに当たるつむぎの髪がくすぐったい。

 つむぎのにおいがすぐそばで香って、胸いっぱいにつむぎを感じる。


 涙みたいに勝手に、私の気持ちがとめどなく溢れて、止まらなくなる。


「好きだよ、つむぎ」

「大好き」


 心臓の音がうるさくて、熱い。この聞こえてくる心臓の音は私のものだけじゃないでほしいと思う。

 肩に乗っていたつむぎの腕が後ろに回された。


「せりか……」

「ねえつむぎ。私、つむぎから直接答えをもらってなかったことがある」

「こ、答え?」

「うん。もう一度聞くから教えてほしい」


 私はもっとつむぎを強く抱きしめる。


 つむぎの家でお寿司を食べた日、私が聞いた、あの質問。その日つむぎはそれに首を縦に振ることも、横に振ることもしなかった。


 もし、万が一、私の勘違いでも、願望でも妄想でもなかったら。


「つむぎは、私のこと好き?」

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