第23話
「お邪魔しました。また明日ね、つむぎ」
「うん。気をつけて帰ってね」
「うん。おやすみ」
つむぎの家のドアが閉まる。私は振っていた手を下ろす。
「……はあ」
私は溜息をついてエントランスへ向かう。
課題を終わらせて提出までしたはいいものの、どんなことを書いたか全く覚えていない。それほどつむぎの夢と記憶のことについて考えていた。
ほんの一部だけれど、つむぎの記憶が戻った。
これは明らかな事実で、これからもっと記憶を取り戻していく可能性だってある。
「つむぎ」
声が出ないほど小さくつぶやく。
だからこそ、私がつむぎについた嘘――恋人だったという嘘を隠し通し続けるわけにはいかなくなってきている。
確かにつむぎの、私に関する全ての記憶が戻るとも限らないし、そもそも嘘を重ねて「つむぎが忘れているだけだよ」と言ってしまえばいい。
けれど。
私はつむぎの笑顔を思い出す。
誰よりも明るくて、えくぼがあって、可愛い笑顔。
私は、あの嘘を嘘だと、つむぎに言う必要がある。
私とつむぎは、恋人じゃなかったことを。
私がもう一度息を吐くと、エントランスに近づいてきたからか息が白く色付いた。
冬は確実にそこまで来ている。
「あれ? 瀬梨香じゃん」
「げっ」
振り返らなくても誰かは分かる。この声は相澤さんだった。完全に忘れていた。
つむぎと相澤さんは同じマンションに住んでいたんだった。
「げってなんだよ」
「いや~奇遇だね、じゃ私はここで」
「待てよ」
相澤さんの低い声がエントランスに響く。私がさっさと帰ろうとすると私の手がつむぎよりも大きい手で掴まれた。
「な~んで瀬梨香がここにいんだよ? 説明してもらおうかあ?」
「怖いって」
相澤さんは私を引っ張る。つむぎとは違って甘い香水の、作り物っぽいにおいがする。
「友だちの家行ってた。友だちの家もここなんだ」
私は瞬時に嘘をついた。つむぎは友だちなんかじゃない。つむぎとはもっと大切で、もっと深い関係にある。
そしていくらつむぎが特別とはいえ、私は相澤さんには何も感じず、平気で嘘をつくことができてしまう。
つむぎにはたった一つの嘘をついただけで、こんなにも悩むのに。
「……」
最低だと思う。
「へえ、『友達』ねえ。男?」
「いや、普通に女の子の友だちだって」
また嘘をついたところで、相澤さんは掴んでいた手を緩めた。
「まあ嘘じゃないな」
「今日はあんまり疑わないんだ?」
「だってなんかあたしとも瀬梨香とも違う、ゆるふわ女子の匂いするし」
「ゆるっ……」
確かにつむぎの家――特につむぎの部屋は優しくて、ゆるゆるしていて、ふわふわしたにおいがする。
外にいると分からないけれど、私のにおいしかしない私の家に帰ると、つむぎのにおいはよく分かる。
確認したところ、アウターに一番においがついていることが判明している。
「……」
本当に最低だと思う。
「……それに彼氏できたら教えるってこの前ここで話したとき言ったじゃん」
この約束が果たされることは絶対にないけれど。
「ああ、それ忘れてたわ。だって瀬梨香、男できても絶対教えないし」
「教える教える」
「ほんとか~?」
「ほんと。あそうだ、相澤さん私と話してていいの? これからどこか行くんじゃないの」
合コンとか。
私は相澤さんを頭からつま先まで見る。
いつもよりしっかりしたヘアセット、メイク、ミニスカ、言わずと知れたハイブランドのバッグ、高いヒール。相澤さんは大学で会うときよりも気合いが入っているのは明白だった。
「ジト目で見んな。今日はデートよ」
「え、ついに?」
相澤さんはふふんと鼻を鳴らして、腰に手を当てた。
「そ。まあマチアプだから初めて会うんだけどね。あれいいわ」
マチアプ。初めて聞いた語彙だったけれど、相澤さんの口から言われるとマッチングアプリの略だということは一瞬で理解できた。
瀬梨香もやる? と言われて私は返事を即答した。
「じゃあ早く行かないとね。私もここで――」
「車でここまで迎え来てくれんの。だからもうちょい付き合ってや」
相澤さんはエントランスの扉の前で仁王立ちをした。
「へー、素敵な人じゃーん」
「心がこもってねえよ」
私は肩を落とす。
つむぎのにおいが外のにおいに上書きされるのが嫌だから早く帰りたいのに。
「てかその子のこと教えてよ、あたしのご近所さんなわけだし」
「まあ、確かに。その子星波つむぎって言うんだけど、私たちと同じ大学で、法律学科の二年生」
「あー、なら履修あんま被ってないし一回も会ってないかも。どんな子?」
「相澤さんとは水と油の関係にある感じ。相澤さんが言った通りゆるふわで、ちょっと天然っぽい」
「ふーん」
面倒くさいことになりそうだから私がつむぎと面識があったこととか、記憶のこととか、片想い中の相手だということは省略した。端折った説明は嘘とは言わない。真実とも言わないけれど。
「ノリ悪い瀬梨香が家行くなんて珍しいじゃん。その子と仲良いんだ」
「うん。なんというか放っておけないっていうか、そんな感じでさー」
相澤さんは興味があるのかないのか分からないような態度で私の話を聞いている。
そんなことより、つむぎのことを話しているとついさっきまで一緒にいたのにもうつむぎと会いたくなってくる。
あとでつむぎに電話して、またつむぎの部屋に入れてもらおうかな。
「んで、その子は彼氏い」
「いない!」
「うおっ」
私は食い気味に否定する。私の声がエントランスに大きく反響した。相澤さんは一歩後ろに下がる。
「友だちも私しかいないような子だから。会っても男の子紹介するとかやめてね。超純粋できっと困っちゃうから」
「いや、まずどんな顔かも分かんねーよ……過保護だな」
「うるさい」
相澤さんは私を見て、溜息をついた。
「まあいいわ。付き合ってくれてありがとな。気をつけて帰んなよ」
相澤さんは扉に寄りかかるのを止めて、携帯を取り出した。
「ねえ、相澤さん」
「ん」
「好きな人に嘘ってついたことある?」
「はあ? 急だな」
相澤さんは携帯から視線を外して私を見る。カラコンが入っているからか、いつもよりも黒目が大きく見える。
「んなもんないわけないだろ。細かいことからあたしの身長、経歴まで嘘ばっかよ」
「ええ……」
相澤さんはあっさりとそう言い切った。
対して私は、私が覚えている限りではつむぎに嘘をついたことはこれまでたった一度もなかった。
――恋人だったんだ。つむぎの。
あの嘘以外は。
「え、ということはもしかしてこれから会う人にも?」
「おん。とーぜんよ。身長は2センチ盛ってるし声はいつもより高く出してるし趣味も向こうに合わせてる。おいドン引きするな」
相澤さんは何が面白いのか、「あっはっは」と高らかに笑った。
「するでしょ……。なんでそんな嘘つくの」
「嫌われるのが怖いからだよ。そうやって少しでも相手にとってプラスな自分を見せておく。そうすれば少なくても好感度は下がらない」
「ばれたらどうするのさ」
「バレるときまでに相手を好きにさせんのよ。その嘘がどうでもよくなるくらいにね」
「! ……」
私は相澤さんと違って、嫌われるのが怖いという理由で私はつむぎに嘘をついたわけではない。
ただ、つむぎのことがなにも分からなかっただけだ。
もしかしたらつむぎに好きな人とか恋人がいたかもしれなかったし、また私の前からいなくなってしまう可能性だってあった。また私のことを忘れてしまうかもしれないとも思った。それがどうしようもなく嫌で、不安で、怖かった。
だから私は嘘をついたんだ。
記憶を失う前の「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」に恋人という特別な名前をつけて、今のつむぎが私の元から離れてしまわないように。
「あ、向こうもうそろここ着くって。じゃ、またな」
相澤さんは私に背を向ける。
「相澤さん!」
「あん?」
「相澤さんの名前! なんて言うの」
「は!? 知らなかったん!?」
「うん。連絡先の名前も『相澤』だし」
驚いた相澤さんの肩から、ハイブランドのバッグがずり落ちた。
「あれ、そういやあたしも言ってなかったか……」
「一回も聞いたことない」
「美央。じゃあな」
相澤さんは手をひらひら振ってエントランスを開け、夜に消えていった。
「みお、か。どんな漢字書くんだろう」
思ったより可愛い名前だな。
私は携帯を開いてつむぎからメッセージが来ていないか確認する。通知はゼロ件だった。
好きな人に平気で何個も嘘をつく相澤さんは最低だ。だから人となかなか付き合えないのだと思う。
「嘘がばれるころには、それがどうでもよくなるくらい好きにさせてしまえばいい、か」
私の独り言がエントランスに響く。
やっぱり相澤さんは最低だ。
けれど、私も相澤さんと同類だ。
私は携帯を握りしめて、エントランスの重たい扉を開け放った。
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