第20話

 午前中の講義が二つ終わって、昼休み。私と星空さんは合流して特訓が始まった。

 私は私の敬語を抜いて星空さんを瀬梨香と呼ぶ、星空さんは名前で呼ばれることに慣れる、そんな特訓。

 私は自分の頬を叩いた。


「気合い入れたの?」

「はい……!」

「よし。じゃあ、始めよっか。つむぎは今日何食べる?」

「うーん、そうだなあ……瀬梨香と同じのにしようかな?」

「ぐふっ……」

「あっ」


 私が星空さんの名前を呼ぶと、星空さんはダメージ? を負った。星空さんの姿勢が丸くなる。


「大丈夫ですか?」


 私は星空さんの肩に手を置く。

 かくいう私も恥ずかしさと違和感と、これまで敬語だったことへの若干の申し訳なさに押しつぶされそうだった。


 星空さんがダメージ? を受けてまで名前を呼ばれたい理由ってなんだろう?


「だ、だいじょうぶ……私うどんにする」

「分かりました……あっ分かった」


 私は学食に入る星空さんの背中についていく。

 私が星空さんの名前を呼ぶことで、私たちは初めて会ったときよりも会話が確実にたどたどしくなっている。

 敬語を止めることと名前で呼ぶことは星空さんが私にしてほしいことで、私も星空さんの気持ちに応えたいと思う。それに私が初めから敬語で話さなければよかったのだから、私に非がある。


 頑張らないと。


 私は敬語が出ないように、それでも無闇に瀬梨香と呼んでしまわないように、頭の中で自己暗示をした。



 私と星空さんは同じ食券を二枚、一緒に買ってカウンターのおばさんに渡すと、あっという間にうどんがでてきた。


「は、はやい」


 うどんはスピードメニューらしいけれどそれにしても速すぎる。どうやって茹でているのか気になって、私は受け取り口から中を覗いた。


「つむぎ?」

「うどん出てくるのが速くて。どうやって茹でてるのかなって」

「つむぎ、もしかして注文受けてから茹でてると思ってるの?」

「え、違うの?」

「あはは、可愛いなつむぎは」

「えっ」


 星空さんは楽しそうにくつくつと笑っている。


「どういうことですか? じゃなくて、どういうこと?」

「茹でてるんだとしたら流石に速すぎ。予め茹でてあると思うよ」

「そうなの?」

「うん。うどん屋さんと違って学食なんてそんなもんだよ」


 星空さんはうどんが乗ったお盆を持ち上げた。私もそれに続く。


 オイルサーディンとか、速く出てくるうどんの仕組み、そして、私の知らない私でさえも。星空さんはなんでも知っている。


 そんな星空さんとは違って、私はいつも星空さんにいろんなことを教えてもらってばかりで、星空さんのことだってまだよく知らない。


 星空さんは窓のそばに座った。私もお盆をそっと置き、星空さんの向かいの席に座って、星空さんを見る。


 私は星空さんのことをもっと知りたい。

 知りたい理由にまだ、答えは出せていないけれど。


「じゃあ食べよっかー」

「星空さん!」

「ん?」

「星空さんはどうして私に名前で呼んでほしいんですか?」


 星空さんは少し考えてから、お冷を手に取った。一限のときよりも高い日が、星空さんの黒い瞳と髪を透かしている。


「前に瀬梨香って呼んでもらってたっていうのももちろんあるけど、やっぱり私だけ名前で呼ぶのは少し嫌だなって思うんだよね。それに敬語も。私は常に対等でいたいから」


 星空さんはそこまで言って、お冷を飲んだ。

 

 対等。

 私が恋人になってほしいと星空さんに言ったときも「つむぎには私と同じ気持ちがないから」と断った。


「私の提案を断ったのって、対等じゃないから?」

「そうかも。深いところに対等でありたいと思う気持ちがあったからかもしれない」


 星空さんは力なく笑う。

 星空さんという人のことを、また少し知ることができて、嬉しい。


「あっ、でも相澤さんのことは相澤さんって呼んでま……呼んでるよね? 相澤さんは瀬梨香って呼んでるのに。それは対等なの?」

「いや実はさ、私相澤さんの下の名前知らないんだよね……!」

「えーっ!?」


 私の声が食堂全体に響く。私は咄嗟に口を押さえた。


「聞いたりしないの? 名前」

「うーん、なんか聞きそびれちゃって。相澤さんは相澤さんだしいいかなーって」

「ええ、気にならないの?」

「うん。そんなに」


 星空さんは「いただきます」と言って、割箸を割った。私もそれにならう。

 割箸は綺麗に半分に割れなくて、片方が尖った。


 星空さんは私にとても優しいし、しっかり付き合ってくれる。対照的に、浅い関係と星空さん自身が言っていたとはいえ、相澤さんとはかなり適当に関わりすぎているような気がする。


「それなら、相澤さんの名前を知ってたら下の名前で呼んだの?」

「いや、そんなことないよ」


 星空さんは水を飲んでグラスを置く。細かい氷同士がぶつかってじゃらっと鳴る。太陽の光に当たっている星空さんの瞳孔が小さくなった。


「相澤さんと違ってつむぎときっちり対等でありたいと思うのは、その……」

「私にとってつむぎは特別だから」

「っ! とくべつ……」


 星空さんの「特別」という言葉が私の胸を貫いた。


 冬なのに、体温がぐーっと熱くなっていく。


 星空さんも目を逸らしたから、私も逃げるように自分のうどんに目を向けた。


「好きってその人を特別だと思う気持ちのことで、つむぎは私にとって特別で、かけがえのない人なの」


 私の家でお話ししたときに、星空さんが言っていたことを思い出す。

 そんな風に星空さんに特別だって言われると、まるで好きと言われたみたいで、心が甘く、苦くなる。


 食堂の喧騒がよく聞こえてくる。

 私が今星空さん以外の声が雑音として聞こえているように、ここにいる人たちにとって星空さんの言った言葉は雑音にすぎないし、この特別の意味を好きという風に捉えることはできない。


 星空さんだけが私に伝えられる、二文字の気持ち。

 私だけが受け取ることのできる、星空さんの特別な気持ち。


「瀬梨香」

「ゔっ……な、なに?」


 私が見上げると、星空さんは心臓のあたりをおさえた。


「特別って、なんだか嬉しいね」

「……うん。嬉しいよ、特別は」

「私も、瀬梨香のこと特別だと思ってる。私たちの関係に名前がなくても、名前がないからこそ」

「ゔっ……うん」

「こうして瀬梨香と普通にお話しして、名前で呼んで。それだけでも私の中で瀬梨香がもっと特別な人になっていってる気がする」

「瀬梨香に特別って言われたからかな?」


 私は心の底から感じたことを言葉にして瀬梨香に伝えていく。そうすると、私は笑みが漏れた。


 瀬梨香といると、笑顔になることが多いなって思う。


「つむぎ、そろそろやめて、死ぬ」

「ちょっと、ずるすぎる……」


 瀬梨香は肌が白いから赤くなるとすぐに分かる。

 赤くなった瀬梨香は口を結んで、目を合わせなくなった。視線は窓に向いている。可愛い。

 敬語をやめて名前で呼んでほしいと瀬梨香に言われたのに、敬語をやめて名前を呼ぶと瀬梨香はやめてとか、ずるいって言う。それでも瀬梨香はまた、名前を呼んでほしがる。


「名前、呼んでもいいんだよね……?」

「も、もちろん。慣れるための特訓だからね」


 私は箸でうどんを掴もうとする。うどんは伸びきってしまっていて、掴むとちぎれてしまった。



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